とげ
怒号と物が壁に当たる音が、キッチンまで聞こえてくる。引きこもり、部屋から出ない長男裕和と、夫の敏宏が、今日も衝突している。ちょうど大学の音楽サークルから帰ってきた隆史に、眼で訴えると、隆史は軽くため息をついて、兄の部屋に入っていった。瞳孔が開き、肩で息をする敏宏が部屋から出てくると、そのまま矛先は明美に向いた。
「お前がちゃんと育てんから悪いんや!」
会社では部下に慕われる敏宏だが、興奮すると手がつけられない。何を言っても無駄だとわかっている。
「あなたが声を荒げるから、裕和も余計に意固地になってるのではないですか」
「なんだと!」
手のひらをテーブルに叩きつけた拍子に、サボテンの小さな鉢がビクンと跳ねた。
「もう遅いんですから、声を落としてください」
「お前じゃ!お前が悪いんじゃ!」
「はい、はい、私が悪いんです」
「くそ!」
敏宏は、乱暴に音を立て書斎に戻った。隆史も、役目を終えると、両親の喧嘩には関与せず自室に入る。隆史とは時々買い物にも一緒に行き、なんでも話ができる。長男の裕和にも同じように接してきたつもりなのだが、どこで間違ったのだろうか。わたしが悪いのだ。中学のころの反抗期という意味では、隆史のほうが、激しかった。裕和は、大人しい子どもだったが、ときどき突拍子もないことを言い出し、そうなると自分の考えを譲らない、頑固な面を見せた。その性格が今敏宏と衝突している原因のひとつだ。明美は、ふとテーブルのサボテンを見る。裕和が高校生のとき、バイト代でプレゼントしてくれたものだ。そっと、トゲに触れる。
結婚したとき、寿退社はしなかった。楽しい職場で、昇進の話も出ていた。そして、妊娠が発覚した。親や同僚たちからの祝福に、笑顔を返しながらも、心のどこかで、もう少し働きたかったのに、と思ってしまった。「のに」という小さな残念な気持ちが、明美の心に刺さった。裕和が生まれ、家で可愛い寝顔を見ながらも、妊娠したときに沸き起こった微かな負の感情を思い出し、申し訳なくなることがあった。二人目の隆史が生まれたときは、親の入院が重なり、ただ毎日が必死で、何も考えられなかった。二人の息子が大きくなっても、トゲは刺さったままだった。私が悪いのだ。
トゲに触れた指先に少し力を入れたとき、扉が静かに空き、和博が出てきた。一瞬眼が合ったが、目を伏し、逃げるようにトイレに向かった。痛みはあるが、血は流れなかった。
オットセイ主人曰く:魚の骨がノドに刺さると厄介です。