長谷川愛美
翌日、僕は漫画研究部の部室にいた。時刻は午前十時。外の気温は昨日と変わらずだが、室内には窓から少し風が入ってくる。僕は昨日読んでいたつまらない青春漫画の続きを読んでいた。
まず最初の挨拶を変えようと思う。今日で僕は地味を卒業するんだ。昨日との違いを見せつけ長谷川学美は、きっと僕に好印象を持つに違いない。そしたら一緒に帰るという提案をしよう。そして、彼女と一緒に帰宅することになったら帰りは本屋に寄るんだ。そこでおススメの本を教えあう。うん、簡単だ。
「……あ、先輩。おはようございます」
間もなくして目当ての女子が姿を見せる。相変わらずの二つのおさげに、太い縁が黒い眼鏡。声は消え入りそうで、まるで夏の暑さに溶けてしまったかのようであった。
「おはよう!」
手を上げ笑顔で挨拶をする。我ながら完璧だった。まるで少年漫画の主人公の様だ。
「……っ。はい……おはようございます」
だが、長谷川学美は一瞬後ずさりし。そのまま目を合わせずにいつもの席に座った。思った反応と違う。僕の予定では、長谷川学美は僕に微笑みかけなければならないんだ。
けど、まだ終わっていない。これからが本番だ。僕は今日、彼女に一緒に帰ろうと誘わなければならない。これが僕の青春への第一歩だ。これを絶対に成功させなければ。
「……」
長谷川学美は漫画に没頭する。もう、この部屋に僕がいることをなかったことにするかのようだった。ここで、僕も変わらず漫画を読み始めるといつもと同じ。互いに干渉しあわない隔離された悲しい空間になる。
タイミングを見計ろう。緊張する。こういう話しかけるタイミングというのは授業で教えてくれない。数学の関数を解くよりも、異性に話しかける方法を教えた方が、少子化問題で悩む日本の為になるのではないかと思った。
大丈夫だ……と、自分に言い聞かせる。相手はあの長谷川学美。多少でも強引にいけば、気の弱そうな彼女は、僕の提案にハイと言わざる得ないだろう。僕に足りないのはきっと経験で、ちゃんと経験を積めば乗り遅れた青春列車にも途中から乗車できる筈だ。
「……。あの……なんでしょうか?」
僕の視線に気が付いたのか、彼女は自ら僕に話しかけてきた。これは好都合だった。
「あ、えっと。その長谷川さん、あのさ」
脳内のシミュレーションで、何度も繰り返した言葉が出てこない。呼吸が止まったかのように口から吐き出せず。心臓がバグを起こしたかのように過剰に働きだす。僕は今、戦ってるんだ。これを乗り越えたら僕は……。
「きょ、今日さ。一緒に帰らない? ちょっと本屋で漫画を見ようと思うんだけど」
言った。後半声のトーンが下がっているのが自分でもわかったが言い切った。人生では初めて女子を誘った。自分自身に大いなる称賛を与えたい気分だった。
「……」
長谷川学美は視線を外す。それから困ったように眉を動かし。もう一度僕を見た。
「……いえ、大丈夫です」
それから彼女は本に戻る。佇まいから、もう話しかけてくるなという雰囲気だった。
失敗した。どうして? ただ一緒に帰るだけじゃないか。どうしてダメなんだ。
「……そっか。わかったよ。うん」
彼女からもう返事はない。まるで、僕がもう存在しないものとしているようだ。
気まずい雰囲気が場に流れている。そう思っているのは僕だけかもしれないが、とてもじゃないが同じ空間で漫画を読むような状態ではない。とはいえ、ここで平常を装わないと、僕が動揺しているのを悟られたら、次のチャンスはもう永久に訪れないだろう。
僕は漫画を手に取る。昨日読んだ青春漫画の続きをいつものように読み始める。さっきの誘いを断られたことに対して、僕は「そうか仕方ないね。じゃあ次の機会に誘うよ」という、ナチュラルな感じだと自分にひたすらに言い聞かせた。
心が挫けそうだった。けれど辛うじて折れていないのは、僕は長谷川学美を本当に誘いたいわけではなく、あくまで練習として彼女を選んだだけだという事実だ。この場には僕と彼女しかいないし、失敗しても恥をかくことはない。万が一に彼女に嫌われたとしてもそれはそれで良い練習にはなるだろう。
敗因を考えようと思う。どうせ漫画は頭に入らないんだ。僕は漫画を読むふりをしながら、なぜ長谷川学美が僕の誘いを断ったのかを考えてみることにした。
まず最初に思い付いた敗因は、いきなり過ぎたのではないだろうかということだった。僕たちは今までお互いを干渉せず、漫画研究部の活動と名ばかりで、ただ各々が時間まで漫画を読むのが日常になっていた。それを突然、何の脈絡も無しに崩してしまっても彼女は動揺するだけだろう。彼女が僕に好意があるとは思えない。なぜなら、それは僕も同じだから、そもそもお互い多少なりでも好意を持っていたとしたら、こんな状態にならず少なくとも雑談程度はしている筈だから。
それと二つ目、これが一番の原因であり僕が一番改善しなければならない点。断られたのは僕に魅力がないからに違いない。
だって考えても見ろ、僕に誘われて一緒に下校するなんてどうなんだ。例えば僕が女子だとして、僕と一緒に歩くなんて恥ずかしくてできない。きっと、長谷川学美もそう思ったに違いない。悔しいけど、同じ地味キャラとはいえ、彼女は女子だ。薄れていても存在そのものはまだ輝かしい。濁った宝石だとはいえ女子高生は宝石なのだ。
一方僕は石ころで。輝かしくもなければ、だれも見向きもしない。よくアイドルをダイヤの原石なんかに例えるのを見るが。一般人は石ころなんだろうか。だとしたら、僕は研ぎ澄まされてもいない退屈な石だ。子供にすら拾ってもらえない。魅力のない石である。
まずは、せめて彼女より魅力的になろう。あんな地味な眼鏡の女子に負けてたまるか。
「僕、今日はもう帰るね」
そうと決まれば、早速行動だ。僕は立ち上がりそれだけ言うと。長谷川学美の返事も聞かずに漫画研究部の部室から飛び出す。
彼女を倒すに装備が足りない。チュートリアルのボスとはいえ。武器も持たずに勝てるものか。そんなことを考えながら、僕は自宅へと急いだ。今日中にやりたことがある。
例えば、母親を「ママ」から「お母さん」に変えるとか。例えば、一人称が「僕」から「俺」に変えようと思い始めるとか。そういったものに近いんじゃないだろうか。学校では教えてくれないが、自分が意識的に変化するタイミング。そういえば、僕はいつから母親を母さんと呼び始めたんだったか。
そして、僕はいつまで経っても一人称は僕のまま。思ってみると僕は、人より変化に乏しいのかもしれない。認めたくはないが事実として、僕は同年代の人達よりも、自分を変化させてこなかった。鏡を見る。長め髪が鬱陶しい。意識してみると、僕はこんな髪で学校に行き、ましては今日、こんな髪で長谷川学美を誘い出そうとしたのか。
自分の容姿は、自分より他人の方が見る時間がきっと長い。今初めて気が付いた。
「まずは髪の毛。そもそも夏っぽくない。そして眉。これも全然ダメだ」
これはきっと変化のタイミングだ。人より遅いけど、初めて変化を意識した。そういった意味では長谷川学美に感謝しなければならないだろう。心の中でありがとうと感謝の気持ちを呟く。そして息を吸う。そうだ、これは僕の第一歩だ。これから、オシャレの世界に飛び出す。未知の世界に足を踏み出すんだ。まるで冒険の様な高揚感と、そして不安が入り混じる。「僕なんか」なんて言葉は頭の奥に押さえつけるんだ。だってお前はみんなと同じように青春をしたいんだろう?
自室に戻る。僕は棚の一番上に置いてある陶器製の貯金箱を手に取った。ニンテンドーの携帯ゲーム機を買うために貯めた貯金だったが、それを惜しみなく床に叩き壊す。
散らばった破片の掃除が大変だろうと頭によぎったが、それより爽快感が強かった。僕はいまからこのお金で青春への切符を買うんだ。
散らばったお金の多くは小銭だったが、三枚ほど千円札が無理やりに折りたたんでねじ込まれていたらしい。僕自身、どのタイミングでそれを入れたか覚えていないが、これは良い意味で予想以上の金額だった。
千円札三枚を財布に入れる。ひとまず財布の中身は五千五百円也、今から向かう目的地にはギリギリだが行ける。これがもし足りなかったらゲームを売るところだった。
「よしっ!」
意気込みを声に出し家を出る。緊張と不安と期待と、あらゆる感情が沸きあがる。きっと僕はいま人生で一番輝いてるだろう。