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psycho〜親愛なる君へ〜  作者: 山居中次
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イエスタデイ

「サーちゃんをウチは救いたい。美雪先生みたいにウチも嫌われちゃうかも、だけど、ウチはサーちゃんを救いたい」


 みのりんが、強い意思のある眼で、そう言った。


 それに答える様に、教授が言った。


「人は人に認められる事で、人として生きられる。僕はそう思う」


 みのりんが教授の言葉に頷いた。


 教授が時計を見る。


「そろそろ、定刻だ。今日の活動はこれぐらいにしておこう」


 時計は、もう6時を回っていた。


 部活見学のはずが、結局サイコについて3人で話しただけだった。


「あの、今日は、ここまでですか?俺、まだ、この部活がどんな活動をする部活なのか、よくわからなかったから」


 俺がそう言うと、教授は「あー」と言って。

「そう言えば、まだちゃんとした説明はまだだったね」と言った。

 

「今のも、活動の一つだよ」


「サイコについて話した事がですか?」


「うん。今日は、たまたま議題が藤村さんについてだったけど」


  そう言ってから、教授はこう説明してくれた。


  風土風俗研究部は、その土地や地域に伝わる伝説や民話、祭りなどの風習を研究する部活だが、あまり、それにはとらわれず、最近流行っている都市伝説や、噂話、メディアに流通する物語や事件などを議論するのが活動だと言う事だった。


 つまり、サブカルチャーの探求と言う所だ。


 教授が言う。


「今回の場合、マダラナーダの物語を紐解き、議論する事で、藤村彩子と言う作家の心理に話しが進み、そこから、彼女の生きている、今と言う時代を議論すると言う結果になった」


「そう、今回はサーちゃんだった。まあ、いつもは、マンガ読んだりしてるだけだから気楽な部活だよ」


 みのりんが明るく言う。


「それって、サボってるって事じゃないの?」


  俺がツッコむと、みのりんが「あははは」と怪しい笑い方をする。


  「いや、高山さんはちゃんと活動しているよ。一生懸命マンガを読んで、そこから得た“何か”を秋の文化祭までに、レポートにまとめてくれるんだよね?」


 教授の言葉に、みのりんが「えっ」と言って固まった。


「これがこの部活の活動でもあるんだ。で、高山さん順調に進んでる?」


  固まったみのりんに教授が追い打ちを掛けた。彼は全て見抜いている。


「嫌だな〜教授。順調ですよ〜」


  みのりんの目は、完全に泳いでいた。


 そして、チラリと俺を見る。そして、また、泳ぐ。


「レポートって何枚ですか?」


  みのりんが目を泳がしている横で、俺も少々あせっていた。レポートと言う言葉は、聴くだけで憂鬱になる。


「15枚。いや、もっと書いてもいいよ」


「入部、お断りします。俺、文才無いし」


  サイコもここから逃げているし、そもそも、俺がいる意味がない。


  みのりんが泣きそうな顔でこっちを見て言った。


「別に、1人15枚じゃ無くてもいいんだよ。共同研究にすれば、2人で分散出来るし」


 この娘は、遠回しに、手伝えと言っている。


「そうだよ、せっかく君はいい感性を持っているんだし、レポートを理由に入らないのは、もったいないよ。高山さんは“順調”に進んでるって言ってるし」


  教授もそう言って、入部を拒否しる俺を説得し始めた。その説得以上に、みのりんの視線は強く俺に向けられていた。


  必死な顔である。


「じゃあ、入ります。どうせ、暇だし」


「そうか、じゃあ、よろしく」


  教授が嬉しそうに、握手を求めたので、俺はそれに応じた。


  必死な顔のみのりんが可愛そうに思えて、俺は、風土風俗研究部に、入部をしてしまった。


  昨日と同じ、駅への帰り道。今日は、隣に『サイコ』こと、藤村彩子ではなく、『みのりん』こと、高山実たかやまみのる、がいる。


「あー今日もよく学んだ。そして疲れた」


  カバンを肩から下げて、背中を丸め、だらしなく口を開け、意味もなく空を見上げながら、高山実はそうぼやく。


  嘘つけ、午後はほとんど寝ていたクセにと、自分も、1日適当に授業を聞き流していた事を棚に上げて、思う俺がいる。


「いや〜本当に助かったよ。木村君が入ってくれて、さすがに、部員1人じゃまずいからさ。後はサーちゃんだけだ」


  みのりんは嬉しそうに、そう言うが、俺は学校を辞める気でいた。部活に入ったからと言って、学校を、続けなければならない道理はない。風研部のレポートとやらを、適当に書いて、後は、オサラバすればいいのだ。


「みのりん。悪いけど、俺、学校1学期でやめるわ」


  みのりんが立ち止まり、「何で?」と聞き返す。


「じゃあ、部活はどうするのさ」


「辞めるまではいるよ。レポートも手伝うし」


「何で?」


  みのりんがまた、聞き返した。


  俺も、少しムッとして答える。


「別に、みのりんには関係無いだろ。高校なんて、義務教育じゃないんだし」


「何で?高校生になれて、木村君は嬉しくないの?」


  不思議そうな顔でそう言って、彼女は俺を見つめた。


「学園なんて出たって、どうせたいした事ないだろ」


「君もそう思うんだ。どんな学校出たかで、人生が決まるとか、思うんだ」


  みのりんが、悲しい顔で、強くそう言って、怒り出す。彼女がどう思おうが、世間は間違いなくそう見るだろう。「所詮学園か」と。


「所詮学園とか、みんな言うけど、高校生には変わりないよ。だから、ウチは高校生になれたのが嬉しい」


「みのりんは真面目だな」


「木村君は嬉しく無かった?高校受験が通った時」


「俺は別に、中卒でもよかったけど、みんなが受験してたから、その流れでしただけだし、それに学園しか入れる所が無かっただけだから、思い入れは無い」


「ウチもだよ。ウチも学園しか入れなかった。だけど、だから、がんばった。中学の時、塾の先生に、所詮学園レベルとか言われて馬鹿にされたけど、それだって、ウチが必死になって勝ち取った結果だから悔いは無いもん」


「何で、そんなに前向きなんだ?」


「学園は、美雪先生の母校だったから」


  レベルがどうこう以前に、恩師と同じ学校に通えたのが、みのりんには嬉かった。


「それにウチは、始め、学園すら落ちるって言われてたほど馬鹿だったから」


  みのりんの言葉に、俺は何も言い返せなかった。


 非行といじめによって堕ちた俺と、落ちこぼれから、必死になって這い上がったみのりんがここにいる。


  そんな高山実が俺には輝いて見えた。


「俺はみのりんみたいには、なれないよ」


  俺がそうぼやくと、みのりんは、今度は真剣な顔で俺を見つめて、「ウチも、サーちゃんに会わなかったら。わからなかったよ」と言った。


「サイコが何がしたの」


  そう言えば、みのりんは、やたらとサイコの事を気にしていた。さっきも風研部で、何か言おうとしていたし。


「ウチ、中学の時、塾の冬期講習でサーちゃんと会ってるんだ」


「サイコと?」


  みのりんが頷く。


「ウチはサーちゃんに救われたんだ」


  そう言って、再び歩き出しながら、高山実は語り始めた。


 1年前の冬


「ま、お前にしては、がんばったな。どうせ、ここ程度しか行けないもんな」


  冬期講習の塾の講師、吉野は、高山実に対して、小馬鹿にした態度でそう言った。


  冬期講習の後半、塾での話題は、進路を何処にするかの話題で、溢れていた。講義の終わった教室で、高山実は吉野に呼び止められて、他の塾生と同じように、進路を聞かれたのだ。


「あはは、でも、行ける所があってよかったよ。ウチ、このまま何処にも行けなかったら、高校生になれないもん」


  吉野の言葉に明るくそう言い返すが、内心、実はおこっていた。高校なんて何処でもいいと、いい加減な思いで進路を決めたのでは無く、真剣な気持ちで望んだ進路だったから、凄く腹が立つ。


  実が進路として決定打を出した学園はどちらかと言えば底辺高校だが、それ以上に彼女が小学生の頃の恩師、真鍋美雪の母校でもあった。だから、実は学園に決めた。


  底辺高校は、学園以外にもいくつかあって、彼女の実力では、その内のどれかに決める事になっていた中で、実は、迷わず学園を選んだ。しかも、そこ一本で、第二志望校は決めていない。


「高校生ね。学園生なんて、高校生と呼べるのかね?入っても直ぐ辞めちまう様な連中の掃き溜めみたいな所なんて、最早、学校ですらないよな」


 吉野が笑いながら、そう言って、彼女を馬鹿にした。


 なんで、こんな事言われ無くてはならないんだろう?と、そう思うと泣きたくなった。自分は何も悪くないのに。


「それに比べて、藤村彩子は偉いな。あいつは韮校にも、日大にも行ける成績だぞ、お前と違って、ちゃんと俺の授業を聞いている証拠だ」


  嘘つけ、何にも教えてくれなかったくせに。


 頭のいい子ばかりエゴひいきする癖に。


  吉野の講義は早くて解りにくかった。頭のいい子向けに、かなり省略しているから、その省略部分がいまいち解らない実にとっては、何にも身につかない。それではいけないと、恥を忍んで、解らない所を聞いてみたが、「お前、そんな事も解らないの?小学生の算数からやり直したら?」と、適当にあしらわれたのがトラウマになって、それから、もう、吉野には質問をしなくなった。その代りに、塾での解らなかった所を、家庭教師の大学生に聞いて、補った。吉野に突き放された分の努力をして彼女は、何とか高校に行けるレベルまで成績を上げた。


 実のそんな努力を、吉野は鼻で笑っていた。


 こいつには、解らない。何も解らない。


「いいんです。ウチは学園で。学園はウチの恩師の母校だから」


 言ってやった。吉野に学園だからと馬鹿にされる筋合いは無いと言わんばかりに言ってやった。底辺高校の出身でも、お前みたいな最低と違って、素晴らしい先生になった人がいる。そんな思いを込めて言ってやった。


「なるぼどね。そんな奴に教わったから、お前みたいな馬鹿が出来たんだ」


 さすがに、これにはカチンと来た。


「なんで、そんな事を言うんですか?」

 

  声を張り上げてそう言うが、吉野はまったく動じず、相手にしないと言った態度で、こう言った。


「だって、お前が馬鹿じゃん。生徒が馬鹿って事は、教師が無能って事だろ?」


「無能って、吉野先生は本当の先生じゃないじゃないですか」


「本当の先生ってなんだ?学校の教師が、本物で、塾の講師が偽物か?いいか?学校の教師が無能だから、お前みたいな落ちこぼれが生まれるんじゃ無いのか?」


  違うと言えなかった。


  本当は違う。美雪先生が、悪い訳じゃない。でも、自分の頭が悪いのは事実で、その事で、吉野が美雪先生の事を悪く言っている現実は変えられなかった。


「まあ、高山にしては頑張ったから、後は学園程度に落ちない様に頑張るんだな」


  吉野はそう言うと、実を置いて、教室を出て行った。


  悲しみが、込み上げて来た。


  自分を馬鹿にされただけでなく、大好きだった美雪先生まで馬鹿にされて、それを上手く言い返せない自分がいて、それが悔しくて、彼女はその場に立ち尽くしたまま、ヒクヒクと泣き出した。


  悔しい。悔しい。悔しい。悔しい。悔しい。悔しい。悔しい。悔しい。悔しい。悔しい。悔しい。悔しい。悔しい。悔しい。悔しい。悔しい。悔しい。悔しい。


  教室の出入り口で、泣いている彼女に、友達でもない連中は誰1人として、声をかけなかった。みんな無視する様に通り過ぎていく。


「みのるちゃんの笑顔先生好きだな。ずっと見ていたいな」


  美雪先生の言葉と笑顔が頭に浮かんだ。


  真鍋美雪先生は、実が小学4年生の時に彼女の学校に赴任して来て、実の担任になった先生だ。そして、運がいい事に、実が5年生、6年生の時も彼女の担任だった。


  勉強が出来なくて、学校が嫌いで、しょっちゅう休んでいた彼女を、美雪先生は毎朝家まで迎えに来てくれた。


  毎朝、笑顔で家の玄関まで迎えに来ては、怒る事もなく、「今日は来られそう?」と優しくたずねるのだった。


「みのるちゃん。先生の事嫌い?」


  ある朝、美雪先生は実にそうたずねた。


  実は首を横に振って「嫌いじゃない」と言った。


「そう。先生もみのるちゃんの事嫌いじゃないよ。みのるちゃんの笑顔先生好きだな」


  そう言われて、実の心は少しほぐれた。


  ほんの少しだけ、実自身気付かないほどに、笑みがこぼれていた。


「ねえ、一緒に学校に行こうよ」


  そう言って、彼女は、実に手を差し伸べた。差し出されたその暖かそうな手を、実は握りたいと思った。


「でも、ウチは勉強出来ないから、学校行っても意味ない」


「みんな出来ないから、学校行くんだよ」


「でも、ウチは本当に馬鹿だよ。算数の計算もお弾きで考えると、頭の中お弾きでいっぱいになって何も解らなくなるし、国語だって、音読すると棒読みになるし」


  自分の馬鹿さをそんな風に美雪先生にまくし立てる様に、訴える様に、実は説明した。すると、美雪先生はニコニコと笑顔で頷いていた。それは馬鹿にした笑いではなくて、実の事を認めて、受け入れてくれる優しい微笑みだった。


「みのるちゃんは馬鹿じゃないよ。お弾きで頭がいっぱいになるって事は、数字をちゃんと物の数に置きかえて考えようとしている証拠だよ。暗算ってただ、式と答えを覚えただけのものでしょ。でもそれって、テストの答えを埋めるのでは便利だけど、数の本当の意味を考えてるかって言うと、先生は違う気がするんだ。だから、みのるちゃんは馬鹿なんかじゃないよ」


 光が見えた。

 

  認められた事によって、光が見えた気がした。


「そうなんですか?この子は馬鹿じゃないんですか?」


  実の見えた光は母にも見えていた。


「私はそう思います。実さんは決して落ちこぼれなんかじゃないと思います」


  美雪先生が自信を持った声でそう言ってくれた事で、実の心にも自信が湧いて来た。


「先生。ウチ学校行く。今日行く。だから、ちょっと待ってて」


  そう言うと、実は、大急ぎで、身じたくを済ませて、再び玄関に行くと美雪先生に手を引かれれて、学校へ 向って行った。


  この日から、彼女は学校に行ける様になった。勉強は相変わらず出来なかったが、友達も出来たし、クラスのムードメーカーのポジションもつかむ事が出来た。


  運動会でも、毎年リレーのアンカーに選ばれる様にもなった。


  馬鹿は直らなかったけど、その代わりに大切な物が沢山手に入った。


  そのきっかけを作ってくれた美雪先生を馬鹿にされたのは本当に悔しいかった。


「いつまで泣いてるの」


  泣いて俯いている所で、不意にそう声を掛けられて、顔を上げると、吉野のエゴひいきの1人、藤村彩子が立っていた。


  綺麗な娘だと思った。


  キリリとした、つり上がった眼と、すっと通った鼻筋が印象的だった。


「藤村さん」


「あんな奴の言う事気にして泣く事ないよ」


 エゴひいきのはずの藤村彩子がそう言うのが意外で、少し混乱した。


「藤村さんは吉野先生のお気に入りじゃないの?」


  実がそう聞くと、彩子はニヤリと顔を引きつらせる様に笑って、「私もあいつは嫌いだよ」と言った。


  味方がいる。ふと、実はこの時そう思った。


「もう、泣くのはおよしよ」


  彩子は冷たい瞳でそう言った。


 偽善のまったくない冷めた瞳。氷の様な、冷たさの中に、実は本当の純粋を見た。


「ウチの気持ちが解るの?」


  実の問いに彩子は無表情でこう言った。


「私はあなたじゃないから解らない。ただ、無能な人間ほど、自分の価値を信じようとする。価値ある人間なんか、どこにもいない」


 自分の事を言われてるのか。それとも、今嫌いだと言った吉野の事か。一瞬判断が付かなかった。


「自分の姿の醜さに気付かない奴はおろかだ。それに比べて、例え、その醜い姿がどんな怪物だったとしても、それを受け入れた者は自分を裏切らない」


  自分を信じよ。そう言われている様な気がした。


「ウチは、ウチでいいよね」


  彩子は、実を見つめて、そして、また言った。


「あなたは、自分の姿が見えている」


  彩子はそれだけを言うと、スっと、実の前らか消える様に立ち去ると、教室を出た。


  教室を出てすぐの階段の所で、吉野が塾生達を見送っていた。


  彩子が吉野の前に行くと、彼はご機嫌に声をかける。


「よお、藤村頑張れよ。お前が合格すれば、俺の自慢になるからな」


  明るい笑顔。期待のこもった声で、吉野は彩子に声を掛けた。


  彩子もそれに答える様に、笑顔で頷いている。


  やっぱり、お気に入りなんだ。


  そのやり取りを見ていた実は、やっぱり、自分と藤村彩子は違うと思った。彼女は大人から、社会から必要とされる人間になる。けれども自分は、その社会を必要とし、しがみつくしかない弱い人間でしかない。


 そう思った時だった。


「吉野先生。今まで大変お世話なりました」


  彩子は吉野にそう言った次の瞬間、事もあろうに、彼の事を階段から突き飛ばした。


  突然の出来事に塾生達の悲鳴が飛び交い、人だかりが出来る。


  階段の踊り場で、吉野が、腰を打って唸っていた。


「藤村さん逃げよう。早く!」


  人だかりがをかき分けて、実は彩子の袖をつかむとそう言って、彼女を一刻も早くこの場から引き離そうとした。このままでは、彩子が捕まる。彩子が犯罪者になってしまう。


  無我夢中だった。


  そんな実の手を、彩子は振り払って言った。


「1人で逃げれば?」


「でも、このままじゃ藤村さんが」


「あなたには関係ない」


「でも」


  冷たい純粋な眼で彩子がもう一度言う。


「あなたには関係ない」


「藤村アアアアア〜〜」


  踊り場でひっくり返っている吉野が口に泡をためて吠えていた。


「早く行きなよ」


  彩子はそう言って実を促すと、切れ長の眼を見開いて、その瞳から実の瞳へと、見えない何かを飛ばした。


  その瞬間、音が消えた。


  確かにそう感じた。


 世界が静寂に包まれて、目に映るもの全てが現実感を放棄して、ただそこに佇んでいた。階段の人だかりも、踊り場でひっくり返って吠える吉野も作り物の様に見える。


  恐怖とか、罪悪感とかも今の実の中では、時と共に停止していた。


  実は作り物になった全てを無視して階段を駆け下り、ひっくり返っている吉野を飛び越えて、彩子の言う通りにその場を離れた。


  新幹線の線路沿いにある学習塾のビルを飛び出して、近くの本屋に逃げ込んでしばらくしてから、遠くから、パトカーか、救急車が解らないが、サイレンがやって来るのが解った。


  世界が再び現実感を取り戻した。


  現実感が戻った途端にそれまで実の中で停止していた感情が急速に動き始めた。


  怖くなった。


 怖くなって、どうしていいのか解らなくなった。


  彩子が、捕まる。自分のせいで捕まる。


  そう思った。


  彩子が自分の代わりに吉野に仕返しをしてくれたのだ。そう思った。


  もう一度、現場に戻ってみたかった。まだ、間に合う、ちゃんと事情を話せば、彩子が捕まる事も無くなる。頭ではそう思っているのに体が動かない。とにかく怖くて、この時の実には何も出来なかった。


  誰かに、話を聞いてもらいたかった。


  実はそう思うと、本屋の入り口を出て直ぐの所にある公衆電話にテレカ(テレホンカード)を突っ込んでいた。この当時はまだ、今ほど学生の間に携帯は普及していない。


 美雪先生。


  小学校を卒業してからの1年後に同窓会をやった時、実は美雪先生から彼女の携帯の番号を貰っていた。


「何か、困った事が起きたら、いつでも電話して。必ず相談に乗るから」


 美雪先生はあの時そう言ってくれた。


  数回の呼び出し音の後から、「はい」とあの懐かしい声が聞こえると、実は安堵感から突然泣き出した。

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