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ある日、私は懐かしい夢を見ました。
もう二度と会うことの出来ない、大切な人たちの優しい笑顔。嬉しくて、とても嬉しくて心が熱くなりました。私の名前は松木カヨ。もうお婆ちゃんです。主人と息子たちは私より先に他界してしまい、孫夫婦の家で残りの人生を送っています。
その日も、窓の外から今年初めてのセミの声を聞いた以外は、普段と変わらないありふれた一日でした。いつものように夜9時には布団に入っていてました。なかなか寝付くことが出来なかったので、リビングからこぼれてくる、楽しそうな家族の笑い声を覚えています。この家で私が家族の輪に入ることはありませんでした。
それと、その日は私の80歳の誕生日でした。家の者はお婆ちゃんの生まれた日などに興味はありません。私にとって誕生日でさえ、ありふれた一日のひとつなのです。楽しみもなく、ただ家の者に迷惑をかけないようにと日々を重ねていくだけでした。ここでは怒ることも、……笑うこともありません。私を包むのはいつも一人ぼっちの寂しさだけ。
不自由なく暮らせることは有り難いことだと思っています。
でも、これが幸せだとは思っていませんでした。
その後、しばらくして私は寝むってしまいました。
今思えば、寝付けなかった私は、これまでの長い道のりを振り返っていたような気がします。そんな私のずっと忘れていた遠い昔の風景が、その日の夢の中には映し出されていました。
第二次世界大戦が始まるずっと前の私がまだ幼かった頃の夢でした。
私の家族は貧しく、日々の生活が精一杯でした。それでも辛くなどありませんでした。なぜなら小さな幸せは、たくさんあったからです。
その幸せを、私はもらってばかり……『あの人』から。
『あの人』は、いつも私を守ってくれました。自分のことより私のことばかり心配してくれました。『あの人』がいてくれたから、私は今日までがんばって生きてこれました。
この日見た夢も、『あの人』からの誕生日プレゼントのような気がします。
ああ……、もう一度あの頃に帰りたい。もう一度『あの人』に会いたい。
せめて、この夢の中だけでも……。
私の忘れかけていたその思い出に、また明かりが灯されていきました。
夢の中……。
赤く染まる富士の山に夕日はゆっくりと隠れていく。見渡す限りに田畑が広がり、都会から離れた村では自給自足の日々が続いていた。ただ何もない、とても貧しい時代だった。
川沿いの道を二人の男の子が、家路へと帰っていた。
ひとりは麻の服に長ズボン。もうひとりはいがぐり頭でランニングシャツに半ズボン。二人とも小学生くらいの田舎の少年だった。
二人の背中を追いかける足音。
その時……、
「きゃっ!」
と、幼い女の子の叫び声と共に視界が真っ黒になった。
「カヨちゃん!大丈夫か?」
と、振り向いた竹彦は転んだカヨのもとへ慌てて走り寄って来た。
6歳のカヨは、地面にうつ伏せのまま唸るような泣き声を上げた。
竹彦の後ろから声がした。
「カヨ、そのくらいで泣くな!早く立て!」
いがぐり頭の太一が叫んだ。
太一の声に掻き立てられ、カヨは横たわる自分の身体をがんばって起こした。
涙をふき取り、
「お兄ちゃん、待って……」
と、また早足で歩き出した。
竹彦も、カヨの後を付いて行った。
真夜中。お婆ちゃんのカヨは途中で夢から覚める。
天井を見上げながら思いを馳せる。
あれから、どのくらいの月日が過ぎたのだろう。
積み重なった長い時間は、貧しかった過去の記憶を少しずつ消していった。
真っ暗なカヨの部屋に沈黙が流れていく。布団の中でカヨは顔を動かして、部屋の隅にある仏壇を眺めた。年老いた男性の写真が飾ってある。5年前に亡くなった夫の笑顔にロウソクの炎が揺れる。その横には息子夫婦の写真も並んでいた。
「私は、一人ぼっちになったんだね」
と、写真に語りかける。亡き夫の笑顔を見て、カヨの唇が震え出す。まぶたから涙がこぼれ、枕まで静かに流れ落ちた。
押し殺した小さな声で、カヨはささやいた。
「私の幸せは……貧しくても大好きな人たちとずっと一緒にいられることなんです」
それから数日が過ぎた土曜日。筑後市の空は雲ひとつなく澄んでいた。あれ以来、カヨは幼き頃の夢を見ることはなかった。
昼食を済ませたカヨは、窓際で編み物をしていた。
しかし、手は止まっている。丸まったカヨの体が前後に揺れる。
カヨは、いつの間にか居眠りをしていた。夢の中に太一の笑顔が浮んでくる。
「カヨ……」
語りかけてくる太一の懐かしい声……。
突然、掃除機の音が部屋中に響く。
「ゴオオオ……」
ビクッとさせながら、カヨが目を覚ます。
「お婆ちゃん、こんなところで寝ないでください!」
と、掃除機を持った孫嫁の和歌子が、けむたそうにカヨに詰め寄って来た。
カヨは、その部屋を何も言わずにそっと出て行った。
「ったく。毎日何もしないでいいご身分だこと。こっちの苦労も知らないで、羨ましいわ」
和歌子は口が開けば愚痴ばかりだった。
玄関のドアが開く、
「ただいまー」
と、高三の保奈美が急いで帰って来る。階段を駆け上がり自分の部屋へと向かった。
母、和歌子が階段の下から覗き込んで叫んだ。
「保奈美、買い物に行って来てよ!」
下から聞こえる母の声に、保奈美は制服を着替えながら、
「イヤよ。これから誠治と会うんだから」
と、面倒臭そうに返事をして、まったく聞き入れる気がない。誠治とは、付き合って1年になる彼氏だ。彼氏が待っている女子高生にお使いを頼んでも無駄なことだった。
「夕食はどうすんの?」
「いらない」
流行の服を着た保奈美が、バックを持って階段を下りて来る。母親の横を目も合わせずに早足で通り過ぎ、玄関に腰を下ろしてスニーカーを履く。
「明日の夜には帰って来るから心配しないで。じゃあね」
と言って、保奈美はドアを開け出て行ってしまった。
「明日の夜?」
頭にきた和歌子が後を追いかけ、家を飛び出した。
「保奈美、男の家に泊まりに行くなんて許しませんよ!」
と、近所に聞こえるくらいの大声で怒鳴ったが、保奈美は自転車に乗って行ってしまった。
近所の住人が裸足の和歌子を覗いている。和歌子は脂汗をかきながら苦笑いをして、家の中へと戻った。
カヨは仏壇の前に座り、年老いた夫の写真を見ていた。
「あんたぁ、早よう会いたいよ……」
夫が亡くなった1年後、交通事故で息子夫婦も他界してしまった。親より先に亡くなるほどの親不孝はない。
孫夫婦が保険金で購入したこの家になんの愛着もなかった。
それに和歌子はカヨを施設に入れたいらしい。夜中、カヨがトイレに行く時に孫夫婦の部屋から施設の話しがこぼれてきた。
家のどこにいても和歌子に邪魔者扱いされるよりは、施設の方がよっぽどマシのような気がしていた。
ただ、カヨにはその前に行ってみたい場所があった。孫たちに相談すれば絶対反対される。そう思うと見つからないように遠出の準備を始めた。
それは、『遠い昔の約束』だった。
その日の夕食。仕事から帰って来た孫の邦夫がテーブルで焼酎を飲んでいる。
「おい、保奈美はどうした?」
と、邦夫は向かいに座っている和歌子に話しかけた。
「彼氏の家にお泊りよ」
和歌子は食べながら面倒臭そうに言った。
「またか!相手の男は高校中退して働きもせずに遊んでいるんだろ?」
「門限決めても守らないし、勉強より彼氏ばっかりだし、あの子の将来が心配だわ」
「まあ、世間体だけ守ってくれたらそれでいい。何かあったらここに住めなくなるからな」
「そんなのんきなこと言ってるから保奈美が好き勝手しちゃうんでしょ!あの子の性格なら働いても気に入らなければすぐ辞めちゃうわよ。あなたから世の中の我慢を教えてくださいよ」
「どうやって?」
と、ほろ酔い気分の邦夫はまた焼酎を飲んだ。
「あなたって、ほんと子育てに関して無責任ですね」
同じテーブルにはカヨも食事をしていた。気まずそうに席を立つ。
「ごちそうさま……」
カヨの言葉に対して孫夫婦の返事などない。
「ねぇあなた、明日の日曜日は暇なんでしょ。天神に連れて行ってよ」
「何しに?」
「あら、明日も家の掃除をしろって言うの?たまには買い物だってしたいわよ」
「……分かった、分かった」
と、邦夫も面倒臭そうに言って、また焼酎を飲んだ。
家族の会話を背に、カヨは部屋へと戻って行った。
次の日の午前10時、カヨが目を覚ますと家には誰もいなかった。昨日言っていた買い物にでも出かけたのだろう。
「……よし!」
カヨは、計画していた家出を今日実行しようと思った。
電話でタクシーを呼び、急いで準備をする。
警察沙汰になると困るので、
「二、三日、旅行に行ってきます おばあちゃんより」
と、テーブルに手紙を残した。手紙がなくても心配はされない気はしていた。
外でタクシーのクラクションの音がすると、カヨは荷物を持って家を出た。




