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若草色

作者: もみ

分かりにくいようなので補足

「優弥」は女性です。

 段ボール箱の蓋を静かに閉めて、私は息を吐いた。とりあえず、これで一段落だ。がらんどうの部屋の中には、同じ様に梱包された段ボール箱が三つ並んでいる。思っていたよりずっと少なくて済んだ。思い切り伸びをして部屋に寝転がり、窓の外を見る。澄み渡る様な新緑である。吊してある風鈴が風に揺られ、新緑に良く似合う涼やかな音が目の奥を洗うような感覚と共に響く。あとはあれだけ、か。触るのが憚られる様で、どうにも段ボール箱には詰めたくなかったのだけれど。

 もう一度、風鈴が鳴る。私は目を閉じた。たちまち周りには窓の外と同じ色をした若草が生え、虫の飛ぶ音が僅かに耳を掠め始める。

 濡れた草の香りが漂ってきた。


 幼い指が空中にたどたどしい模様を描く。僅かに震えながら精いっぱい伸ばした指はそれでも、ただ風を切るだけだ。

「ユウちゃん、触るんじゃないよ。」

優弥は大人しく手を下ろし、声のした方を振り返る。

「だって鳴らないの。」

「それはね、自分で鳴らすものじゃあないの。」

「聞きたいんだもん。」

まだ何やら不満げに、窓辺に掛かった風鈴をにらむ優弥に、彼の祖母はただ穏やかに微笑した。

「風が吹くまで、じぃっと見てたらいい。」

「吹かないよ、風なんて……」

「ずぅっと吹かない訳じゃあないでしょうに。」

些か呆れの色を含んだ声を漏らすと、彼女は口を噤んでまた窓辺の方を向く。外は全く穏やかな天気である。雲一つない青空に萌える若芽は、静止して動かない。まるで絵みたいな景色だ、とぼんやりと思う。成る程、だから風が吹かないんだ。


若草色が辺りを包む。風が吹けば風鈴の音が聞こえるような気がした。

「絵みたい?」

「うん、綺麗だなぁって。」

私は思い切り深呼吸した。六月、雨上がりの爽やかに湿った香りが鼻をつく。山の頂上から見渡す景色は、涼しげな風を受けながらそれでも暖かいものだった。柔らかい緑が体の中まで染めていくようだ。

彼はそのまま口を閉じ、静かに遙か遠くを見つめていた。私も同じ方向を向く。

「綺麗、だよね。」

沈黙を掻き消すように、もう一度口をついて出た言葉に、暫しの間を置いて返事が返ってくる。

「絵じゃないよ。」

一度言葉を飲み込んで、今度は強くハッキリと言う。

「今俺達が見てるのは、絵じゃないよな。」

何時になく語調の強い彼の言葉に気圧されて、私はおずおずと頷いた。

「そうだけど……。」

「絵を見たら、本物みたいだって言うのにな。」

そう言って、彼は笑った。

「おかしいよな。」

そう言われたらその通りだ。胸一杯に心地よい風を味わいながら、私も微笑んだ。


風鈴が鳴る。

目の前に広がる絵がざわめくなり優弥はぱっと顔を綻ばせた。囁くような音の名残を惜しんで目を閉じる。

「いい音だねえ。」

「そうだねえ。」

祖母から返事が返ってきたのがどうにも嬉しくて、思わず頬が弛む。

「もう一回鳴らないかなあ。」

「待っていたら鳴るでしょうね。」

「そっかあ。」

じゃあ待っていようと目を開けて、見逃してなるものかと風鈴を睨みつける。風鈴はまた静まり返ってしまう。優弥は何度か瞬きをした。

「お祖母ちゃんが小さいとき、風鈴あった?」

祖母はちらと目線を上にやり、目を細めてみせる。

「あったねえ。」

「いい音はした?」

「しましたよ。」

優弥は祖母の視線の先を追い、そこに何もないことを知ると、彼女を真似て目を細める。それでも矢張り見えるものは天井ばかりである。彼女はそれでも、彼女からすればずっと大昔に、今と同じ様に鳴った涼やかな音に思いを馳せた。

「そうね……。お祖母ちゃんが小さい頃は、この辺りにも狐さんとか、お馬さんがいたね。」

「お馬さん?」

ほとんど独り言のような声に、優弥が振り向いて問い返した瞬間、風鈴が鳴った。

ああー、と残念そうに声を上げ、肩を落とす。

「見てるときに鳴ってくれないの、なんでかなあ?」

「いつ鳴るのかなんて、誰にも分からないからねえ。」

不満げに唸って、彼女は風鈴を見つめながらぽつりと呟いた。

「馬がいたの?」

「ええ、近くに大きな農場があってね。」

「ふうん……」

「良く鳴き声だとか、足音だとかが聞こえたものだった。」

優弥は返事を返さずに、ぼんやりと風鈴を眺めていた。風に揺れてはいるが、なかなか音は鳴らない。優弥は一つ、欠伸をした。


馬がすぐ傍を駆けていく。

私は目を瞑っていた。怖いとは思わない。かつ、かつ、かつと近寄ってくる足音と振動を共に感じる。

目を開けると、そこには何もない。このまま落ちてしまいそうな青空。草が目の隣で揺れている。学校で嫌なことがある度にここに来た。草原に寝転ぶのが好きだったのだ。風が吹く度に濡れた目の周りがすぅっと冷やされる。こんな気持ちになったのはそのときが初めてのことだった。

確か、中学二年生の時だっただろうか。

握り締めた手紙をそのままくしゃくしゃにしてポケットに突っ込んで、ただ踵を返すことしか出来なかった。自分の置き場所が一気に分からなくなった。ポケットを無理矢理にひっくり返すと、紙切れが草に受け止められて柔らかく落ちる。

山村くんへ。

しばらくそれを見つめてから、私は背を向けるように寝返りを打った。草が頬を切る。背後から蹄の音が近づいてくる。決して振り返ることの出来ないような緊張感に身動きを止める。なのに、胸中はやけに落ち着いていた。すぐ近くまで来た彼の体温を肌に感じた瞬間、遠くで風鈴の音がして、私は勢いよく振り返った。

そこには矢張り、誰もいない。


優弥は突然立ち上がった。

「今、聞こえたよね。」

祖母は怪訝そうに首を傾げる。

「鳴っていないよ。」

「違う、風鈴じゃなくて。」

優弥は首をぶんぶんと横に振り、窓の外、遠くに目をやった。

「馬が今、そこを走っていった気がするの。」

目を丸くして、祖母はあくまで優しく微笑んだ。

「ユウちゃんにしか聞こえなかったのでしょうね。」

「そうかなあ……」

風鈴が鳴る。


私が地面に寝転ぶと、彼もそれを真似た。目を閉じた彼の顔を隣で見ていると、何やら可笑しくて、自ずと笑みがこぼれてしまう。

「なかなか気持ちいいでしょ。何かあるといつもこうやってたんだ。」

「わざわざここまで?優弥が住んでたの、もっと遠くでしょ。」

「うん、うちの近くに山があったの。小さな山だけどね。もう無くなっちゃったから。」

私も目を閉じる。目の前にはすぐに、深い青空が広がる。頬のすぐ傍で草が舞う。

「行ってみたかったな。」

彼が言う。目蓋の裏、彼がいないあの草原で、彼の声だけが響く。体の左側に暖かさを感じる。目を開けるとそこは似てはいても違う場所だ。左を見る。そこには横たわった彼がいる。

私は笑う。



チャイムが鳴った。私は目を開け、起き上がる。柔らかい草原はたちまちフローリングに戻る。

「開いてるよ。」

座ったまま呼びかけると、ドアが開いて彼が入ってくる。

「準備終わった?」

「うん、あとはあれだけ。」

視線で風鈴を指す。彼はちら、とそれを見て、近寄っていく。

「あ、触ったら駄目だよ。風が吹くまで待つの。」

「そんなこと言ったって、片づけなくちゃ……」

「もう一回だけ。」

彼は呆れたように笑って、風鈴から手を離した。

「あぁ、お祖母さんから手紙が来てたよ。」

「お祝い?」

「そうじゃない?」

受け取った封筒には、山村優弥様、とある。私は一度それを裏返し、横に置いた。もう一度床に寝て、目を閉じる。辺りはしんと静まり返る。隣で何やら音がして、自分のものでない体温を感じる。彼が隣に寝転んだのだろう。

「幸せ。自分のことじゃないみたい。」

「優弥のことだから幸せなんだろ?」

「うん、そう。」

再び音がなくなる。

草の香りと柔らかい感触。蹄の音が遙か遠くに聞こえた気がして、私は目を開けた。そこは予想通り、閑散としてしまったアパートの一室だった。

風が吹く。草のそよぐ音と共に、風鈴が鳴る。窓の外、広がる新緑の向こう側で、馬がいなないた。

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