柘榴
暑い暑い、夏の日だった。
青と白を八対二で混ぜたような快晴の空に、命をつなぐための蝉の大合唱が吸い込まれていく。
藤澤一静は滴る汗を手の甲で拭きながら、容赦なく照りつける太陽で熱せられたアスファルトの道を歩いていた。右手に揺れるビニール袋。夏定番の氷菓子は、きっともう溶けはじめている。
夏は嫌いではない。だがこの夏は異常だった。日中の気温は連日三十五度を超え、外に出ればじりじりと脳が溶かされていくようだった。
「あっつ……」
大学進学とともに上京して十年。この土地の異様な暑さにはすっかり慣れたと思っていたのに、駅からコンビニ、そして目的地への十五分でもうくたくただ。早く涼しい室内に入りたい。目深にかぶったキャップのつばをほんの少し押し上げて、藤澤は憎らしいぐらい鮮やかな青い空を見上げた。
「つっ」
こめかみから伝った汗が目に入ったらしい。ぎゅっと目を閉じてつんとした痛みを逃す。
左手を横に伸ばし、ブロック塀までの距離を確かめる。よろけるように左に体を傾けて、この暑さのなかでもひんやりとしたままのブロックに触れた。そのまま数秒、うつむいた姿勢で目の違和感が通り過ぎるのを待つ。
立ち止まったその瞬間から、蝉の鳴き声が全身に降り注ぐ。ジワジワと耳の奥底へ浸透していく不快な音が、藤澤の意識を溶かしていく。どろり。眼窩から自分を形成する何かがこぼれ出そうだ。
「あっつ……」
強制的に意識を現実に引き戻す。そうしなければ、この異常なまでの暑さに体と思考を奪われてしまう気がした。
ふうっと息を吐こうとしたのを見計らったかのように、頭上で「カァ」と鳴き声がした。ハッとして顔を上に向けると、手をついたままのブロック塀から無造作に伸びる枝葉が視界に入った。その上にカラスが一羽、じいっと藤澤を見つめていた。黒い瞳はうすい水の膜を張ったように濡れている。そのすぐ先にある、真夏の太陽を浴びる嘴もまた、てらてらと光る何かで濡れていた。
あごを伝った汗がぽたりと地面に落ちた。
カラスが鳴く。
藤澤はその声に誘導されるように、ゆっくりと視線を左上に向けた。そこにあったのは、
「ザクロ……?」
早づきの実がひとつ、顔を出していた。まるまるとした果実の三分の一ほどが無惨にえぐられ、なかから鮮やかな赤に彩られた種子がどろりとあふれ出ていた。小さなハエが止まっている。ほのかにあまずっぱい香りが鼻をかすめる。きっとあのカラスがつついたのだろう。
なかを好き勝手にほじくられ、あとは朽ちていくのを待つだけのはずなのに、太陽を浴びてつやつや輝く種子はやけに生々しい。体内を見せつけるかのように佇む真っ赤な柘榴から、なぜか目が離せなかった。
——藤澤は髪も目も真っ黒だな。カラスみてえ。きれいだな。
そんな声が聞こえた気がした。あれは誰が言ったのだろう。遠い昔の記憶のような気もするし、つい最近あったことのようにも思う。もしくはこの暑さが作り上げた、ただの幻だろうか。
「カァッ」カラスが嘲るように笑い、そして羽ばたいた。夢から覚めたような感覚で藤澤は再び歩き出す。目的の場所はすぐそこにあった。
古くからの家屋がひっそりと息づく住宅街の一画にその家はあった。ぐるりと囲むように植えられた垣根と、その切れ間にちょこんと存在する小さな門柱。そこを通り抜けると真正面に母屋の玄関が、左手にはよく手入れされた庭が広がっている。だが藤澤はなかに足を進めることはなく、慣れた様子で母屋を通り過ぎ反対側に回る。
青々とした垣根が続く。そしてそれが途切れるところ、ちょうど母屋の庭と正反対の北側に、もうひとつ入り口が現れた。なんの迷いもなしに門扉を開け、藤澤は敷地内へ入る。母屋の裏には一棟、離れが建っているのだ。藤澤の目的地はこの離れだった。
北向きの玄関はいつ来てもうす暗い。だがこの時期は太陽光を遮ってくれてありがたかった。古びた音のするチャイムを鳴らし、家主を待つ。数秒して、ガチャリと玄関が開いた。
「いらっしゃい」
「よう」
太陽光の当たらない玄関に顔を出したのは、藤澤の大学時代の同級生である島田葵だった。
「暑かっただろ。なかは冷房が効いてるから涼しいぞ」
「助かる。今日の暑さは相当だな。暑すぎて誰も外を歩いてなかったわ」
「そんなクソ暑いなかわざわざありがとう」
「ちょうどいい暇つぶしになったよ。夏季休暇といってもすることなかったし」
「藤澤は寂しい男だねえ」
「うるせえ」
外の暑さとは無縁の軽やかさをまとう島田の笑い声に先頭され、藤澤は長い年月を経て深い茶色になった廊下を抜けて家の奥へと進んでいく。母屋の裏にあっても少し横にずれて建てられているため、南に向いた茶の間と縁側は案外と明るい。
「あー涼しい」
キャップを脱ぎ、冷たい風を熱を集めた頭部に当てる。藤澤の短くそろえられた黒髪をやわらかく揺らしながら、エアコンは静かに稼働を続けている。
「天国だなここは」
「おおげさな。まあでも、この炎天下のなかを歩いてきたらそう思うか」
島田の言葉に藤澤が反応した。「あそうだ」と左手にぶら下げたままだったビニール袋を島田に渡す。
「アイス買ってきたんだ。かなり溶けてそうだけど」
「悪いな、ありがとう。冷凍庫に入れときゃまた固まるだろ。あとで食べようぜ」
茶の間と続きになっている台所は、築年数のわりにきれいだ。島田が入居するにあたり大家が内装をリフォームしたらしく、ついでに新しいシステムキッチンを入れてくれたらしい。飴色に磨かれた床板に最新式のステンレス製キッチンは、そう悪くない組み合わせに見える。
「かなり溶けてるぞこれ」と笑いながら、島田はアイスをしまう。それから冷蔵庫を開け、何かを取り出したりしている。窓が閉め切られた部屋にも蝉の声は届いてくるが、もう体内へ無理やり侵入してくるような不快感はなかった。
「腹へってる?」
「そんなに。葵は?」
そんな問いと一緒に振り返ると、ちょうど目の前に島田が何かを置くところだった。ちゃぶ台と呼ぶのが相応しい茶色い木のテーブルの上には、赤い液体で満たされたグラスが涼しげに佇んでいた。
藤澤の視線に気づいたのか、島田は「ザクロジュース」と言った。しゅわしゅわと細かい泡が下から上へ浮かんでは消えていく。
「大家さんが知り合いに貰ったものを、昨日一緒にジュースにした。ここら辺て水捌けがいいみたいで、けっこう育ててる家は多いんだってさ」
「へえ」
ふいにここへ来るときに見た柘榴の実を思い出した。どろりとした中身を見せつけるようにさらす、あの赤い果実を。濡れたように光る黒々とした瞳と嘴を。そしてあの——カラスみたい、と言った誰かの言葉を。
「炭酸で割ってるから飲みやすいよ」
島田はおいしそうにグラスを傾ける。血のような赤が彼の口内に吸い込まれていく。カランと氷の音がして、藤澤は炎天下が見せた蜃気楼のような柘榴の光景から意識を引き剥がした。
「もしかしてザクロ苦手?」
手を付けようとしない藤澤の顔を、島田が覗き込む。無造作に伸ばされた指がテーブルの上で触れる。熱い。
「いやそんなことはない。いただきます」
すでに汗をかきはじめているグラスをつかみ、赤い液体をのどに流し込む。爽やかな酸味とそれを包み込むようなあまい味がして、炭酸のパチパチと弾ける泡が心地よかった。
「うまいな」
「ならよかった。民家の庭で育つやつは酸味が強くて加工しないと食べられないんだ。だからジュースとかジャムにするって大家さんが言ってた」
微笑む島田はいつもと変わらない。昔からずっとそうしてきたように、藤澤を見ながらへらりと笑っている。
「相変わらず大家さんと仲良くやってるんだな」
「まあな。俺からしたら大家さんはこんないい家に住まわせてくれる恩人だし、大家さんからしたら俺はいざというときに頼れる若者だし、ギブアンドテイクってやつだな」
島田は五年前からここに住んでいる。軽度の熱中症で道端にうずくまっていた大家を、たまたま通りかかった島田が助けたことから結ばれた縁で、こうして若いながら都内の一軒家に住めるようになったのだから、人生何が起こるのかわからない。
一人暮らしの大家は島田を孫のようにかわいがり、そして島田も、恩を返すように大家にあまえている。時が止まったような静かなこの場所で、老人と若者はひっそりと暮らしているのだ。
だがそれももうじき終わりだ。高齢の大家を心配した息子夫婦が、なるべく近くにいたほうが安心だからと、来年の春からこの離れに住むことになった。だから最後の思い出作りに、夏季休暇中に遊びに来ないかと島田に誘われたのだ。
「で? 次の住居の予定は?」
「まだ決めてない。ここみたいな静かな場所、ほかにあるかねえ」
ごくり。ザクロジュースを飲んだ島田ののどが上下する。舌先でぺろりと舐めたくちびるはやけに赤かった。ふいにまた、あの柘榴が頭に浮かんだ。
今、この時間から切り離されたような空間に島田と二人きりでいる。何度も訪れた場所なのに、誰にも気づかれることのない場所に漂う空気は、あの柘榴のようにやけに生々しい。
一瞬くらりと眩暈がした。
遠くで雷が鳴っている。
「夕立があるって予報で言ってたから、少しは涼しくなるかな」
蝉の声に混じって島田の声がする。
また眩暈がした。
「ああそれで昼飯なんだけど、俺もまだ腹へってないから先に浴衣を見ちゃおうぜ」
そのひと言で、ふわふわと床から数センチほど浮いていた思考が現実に引き戻される。俺は何を考えていたんだ。藤澤は一度だけ頭を振った。
「大丈夫か? 仕事のしすぎて疲れてんじゃねえの」
島田がテーブル越しに藤澤の顔を覗き込む。今度はしっかりと腕に手が触れた。目が合う。島田の色素のうすい瞳は、穏やかな湖面のように透きとおっていた。
「……大丈夫。浴衣、だよな」
「そう。二階にあるから」
部屋は冷えてるからと言う島田の背中を追い、藤澤は階段を上っていく。二階には島田が寝起きする八畳と、誰も使っていない六畳の和室、それからウォークインクローゼットに改造された納戸がある。クローゼットの換気のためだろう、廊下の突き当たりの窓は開け放たれていて、生ぬるい空気が漂っていた。
「先に部屋入ってて。窓閉めてから行く」
「わかった」
階段を上がって右側、茶の間の上に島田の部屋はある。母屋は平屋のため、二階にあるこの部屋は遮るものが何もない。レースのカーテン越しに真夏の太陽が部屋を照らしていた。窓の向こう、物干し台には洗濯物が風になびいている。この空間だけ切り取れば、美しい夏のひとときだ。
本当に夕立はくるのだろうか。
雷の音は遠い。
「おまたせ」
島田が入ってくる。彼の腕には衣紋掛けに通されたままの浴衣が二着かけられていた。長押に浴衣を吊るし、島田は「さて」とベテランスタイリストのようにあごに手を置いた。
「やりますか。藤澤のはこっちな」
浴衣は生成と濃いグレーの二色あり、そのうちの明るい方が藤澤用だと指差した。
二人が着る浴衣は大家の亡夫が着ていたものだそうだ。思い出の品ではあるが、自分もいつお迎えが来るかわからないからそろそろ整理はしたい。だが処分する前に最後に誰かに袖を通してもらいたい。ということで島田に白羽の矢が立った。大家直々に浴衣を持ち込みぜひ着て見せてほしいと頼んできたのだ。お世話になっている大家の頼みならと島田は二つ返事で了承し、どうせならと藤沢に声をかけた。
藤澤は今はこの世にいない人の何かを譲り受けることに抵抗がない性格だし、浴衣を着て夏祭りに行くというイベントも、仕事ばかりの日々のいい息抜きになると思った。だから島田から連絡があったときは迷うことなく了承した。そしてこの家までやってきた。
「てかさ、俺の身長でも着られんの?」
学生時代バスケットボールに打ち込んでいた藤澤は、同年代のなかでも高身長だ。祖父母世代の男性は今の世代に比べたら小柄だし、そんな時代に作られた浴衣であれば185センチの藤澤には寸足らずになりそうなものだ。
「昔の人にしてはかなり大柄だったみたいよ、旦那さん。たぶん藤澤とそんなに変わらない」
「へえ。それはそれでめずらしい」
「うん。それに浴衣なんて普段着だからさ、ちょっと丈が短くてもいいんだよ。おまえは見た目がいいから雰囲気でカバーできるし」
「ほめてんの?」
「べた褒めしてる」
島田は「おれも藤澤ぐらいの身長があればよかったのに」と、冗談とも本気ともつかない口調で笑った。
「おまえだって低くはないだろ」
「まあね。でも藤澤と並ぶと小さく見える。大学時代は理想の身長差って言われてたし」
「ああ、あったな」
——キスがしやすいのは十二センチ差。
大学時代、仲間の誰かが言っていた。藤澤と島田を交互に指差して、まるで天啓を得たかのように、満面の笑みで。
あの日も蝉が鳴いていた。
「でも今になって思えば、これぐらいの身長でよかった」
「なんで」
「なんででしょう」
島田が一歩踏み出した。部屋の中心に立つ藤澤との距離が縮まる。首を軽く傾けて、島田はゆっくりと腕を上げた。藤澤の額の生え際に指をそっと這わせた。「暑い?」
遠くで雷が鳴っている。
あの日、軽い調子で身長差のことを言われたとき、島田はどんな表情をしていたのだろう。
「藤澤?」
「……ん? 悪い、ちょっと意識飛んでたかも」
「大丈夫かよ。もう少し休んどく?」
「いや、仕事のこと思い出してただけだから」
ならいいけど、と島田は衣紋掛けからグレーの浴衣を外した。
「試しに着るだけだから、服の上からでいいよな。暑くない?」
「ちょうどいいぐらい」
「ん。じゃあここで立って」
島田に指示されたとおりに部屋の真ん中に立つ。背後に回った島田が肩に浴衣をかけた。軽やかな重みが加わり、馴染みのない質感が首に触れた。腕を通すと素肌に当たる部分はひんやりと感じる。
「やっぱりこの色は藤澤に似合う。ひと目見てこれは絶対に藤澤だって思ったんだよな」
「葵が選んだわけ?」
「そうだよ。何着かあるから好きなの選べって言われて、めちゃくちゃ吟味したけど最後は自分の直感に従うことにした」
すぐうしろに立つ島田の声が、無防備な藤澤のうなじをくすぐる。
「これいい浴衣だよな。麻が入ってるからシャリ感もあるし、しかも家で洗えるらしい」
「へえ。クリーニング限定かと思ってた」
「夏の普段着だから手入れが楽なんだって大家さんに熱弁された」
背後から聞こえる島田の声は、こころなしかいつもより抑えめで、低音がゆるやかに耳を打ってはなでていくようだった。
「両手、少し広げて」
島田の両手が、藤澤のだらりと下がった左右の手に添えられた。そのまま掬うようにゆっくりと持ち上げていく。背中に島田の体が触れている。エアコンで体は冷えているはずなのに、布越しに感じるのは熱だ。藤澤の体がわずかに硬直する。
「そう、そのまま」
耳元で低い声がする。
三十度ほど持ち上げたところで、島田の手と体が離れた。背中に集まっていた熱が一気に霧散した。
「うん。丈はちょうどいいな。わりと細身の人だったらしいけど、身幅も問題ないだろうな。でも一応見ておくか」
島田の気配が背中から前へ移動する。藤澤の目の前に立った彼は、涼しげな顔をしていた。長めの前髪がさらりと揺れる。
いつの間にか首から下げられていた布紐が目に入る。顔を伏せているため表情は見えない。今彼は、どんな顔をしているのだろう。
「ザクロがさ」
左右の衿の部分を持ち上げた島田がつぶやいた。
「ザクロ?」
突然の言葉に藤澤の指先がぴくりと震えた。
「母屋の庭のすみに木が植えてあって、秋になると実がなるんだよ。大家さんは観賞用でしか育ててないから、実は採らないで鳥にあげるんだけど」
島田が一歩近づく。シャワーを浴びたあとなのだろうか。ふわりとせっけんの香りがした。藤澤は何もできず、ただされるがまま、島田のなめらかに動く腕と指を見ている。
「酸っぱすぎるのかほとんど来ない」
下前をそろりと左の脇腹へ持っていく。それと同じ速度で、島田がすうっと視線を持ち上げた。その先にいる藤澤の表情を確かめるかのように目を細めると、わずかに口角を上げた。
右手を藤澤の脇腹に添え、また一歩、島田が近づく。
せっけんの香りが濃くなる。
雷が鳴っている。先ほどよりも近いところで。
藤澤は何も言えないまま、島田を見つめ続けている。
「でもカラスだけは見る。割れたザクロの中身をえぐって、どろっとあふれてくる中身をうまそうに食べてる。酸っぱいはずなのに、きっとカラスにだけはあまいごちそうなんだろうな」
室内が暗くなる。いつの間にか湧いた黒い雲に太陽が遮られた。エアコンの冷たい風が藤澤の頬をなでる。
雷の音が近い。
気づけば背中にじっとりと汗をかいていた。
「葵……」
「ん? なに」
浴衣の反対側を右脇腹へ持っていく島田は、やわらかい声で藤澤に発言を促す。
藤澤の体をくすぐるように、島田の右手が左の脇腹から離れていく。腰あたりに鈍い痺れが生まれるが、藤澤はそれを受け入れるしかできない。
ごくり。藤澤ののどが鳴る。
「汗、かいて、たぶん汗くさいから……ちょっと」
十センチにも満たない距離で二人は向かい合っていた。島田のせっけんの香りがするように、藤澤のにおいもきっと届いている。不快なにおいを振り撒くのは、とくに島田に嗅がれるのは、嫌だった。
藤澤の決死の告白も、島田は意に介さない。「ここ押さえてて」と藤澤の右手を軽く握り、浴衣の端を押さえている自分の手へと誘導する。
「身幅も問題なし。腰紐だけ締めさせて」
しゅるりと首から紐を引っ張って、島田はそれを両手で持った。一度離れた体がまた接近する。藤澤の胸にとんっと軽い衝撃が走る。島田が藤澤に抱きつくようにして、腰骨に沿って当てられた布紐をうしろに回そうとしていた。
「あ、葵」
今さらながら、心臓がうるさいほどに鳴っていることに気づく。だが藤澤は何もできない。
「俺さあ、好きだよ。藤澤のにおい」
耳に直接吹き込まれる低い声。島田が両手を背中にぐるりと回す。二人の体がさらに密着する。せっけんの香りに混じって島田のにおいがした。
「藤澤のにおいが好きだ。くらっとして、頭がおかしくなりそうで、どんな香水よりもいいにおいがする」
島田がしゃべるたび、彼の髪が藤澤の頬をくすぐる。そのやわらかい茂みに顔を埋め、思いきりせっけんの香りを吸い込みたい衝動が腹のなかを渦巻くが、藤澤はただ呆然と島田を受け入れるしかできなかった。
「右手、離していいぞ」
島田の声がする。暗示にかけられたように、浴衣を押さえていた藤澤の右手が所在なさげに宙を彷さまよう。左手はだらりと下げられたままだが、指先はとまどいがちに動こうとしていた。
部屋がまた暗くなる。
「ザクロの身をつつくカラスが真っ黒できれいで」
また柘榴だ。
ゴロゴロと低く唸る雷鳴のなかから島田の声がする。
てらてらと濡れたように光る柘榴が浮かぶ。
「藤澤みたいだなって思った」
——藤澤は髪も目も真っ黒だな。カラスみてえ。きれいだ。
声がした。低くて、落ち着きがあって、でもいたずら心を秘めたような声。そうだ、あれは、
「葵……」
衣擦れの音がして、島田の両手が前にゆっくりと回される。生き物のように腰を這う指先は、藤澤の脳にじくじくとした甘美な痺れを植え付ける。
眩暈がする。
雷が鳴っている。
「なあ藤澤」
ぱかりと島田の口がひらく。熟れた柘榴のように真っ赤な口内に、藤澤の意識は吸い込まれていく。
「差し出されたザクロは、食べたらいけないんだ。元の世界に帰れなくなるから」
藤澤が飲んだジュースもそう。
島田の声がぐわんぐわんと反響する。ギリシャ神話の、たしか、冥界の王がペルセポネにザクロを食べさせて……。
「夕立がくる」
曖昧な思考を断ち切るように島田の声がする。
夕立がくる。
雷が近い。
またひとつ、部屋に影が落ちた。黒い雲が空を覆い、出口を塞いでいく。
「葵……」
「なに」
不機嫌に唸る雷の音に混じり、とろりと滴るような島田の声がする。あの柘榴のように、カラスにだけは魅力的に映る真っ赤な身をさらして、藤澤を待っている。
「夕立がきたら……」
「うん」
「……閉じ込められる、な」
「そうだな」
島田が両手を開く。結ばれることのなかった布紐がはらりと落ちていく。浴衣がはだける。開いた胸元から、藤澤のにおいが立ち上る。島田のたれ目が、弧を描くように細められた。
どうする? 島田の色素のうすい瞳が問いかけてくる。そろそろこの関係を終わらせるときがきただろう? 友人よりも少しだけ踏み込んでいて、でも恋人ではないこの曖昧な関係を。
藤澤は考える。閉じ込められたなら、元の世界にはもう戻れないなら——
「カラスになるのも悪くないかもしれない」
目の前にある柘榴を、カラスだけはあまく感じる生々しい柘榴の中身を、この手ですくいとって自分だけのものにしてしまうのも、いいのかもしれない。
藤澤の両手が動いた。
島田の背中にやわらかく着地する。
島田が口を開く。
「もう、帰れないな」
「それでいい」
目を奪って離さない甘美な柘榴に、藤澤はゆっくりと喰らいついた。




