何故、余命半年の王子を愛したか
離宮は王都の北に位置する、静謐な場所だった。
白壁の建物は優美な曲線を描き、周囲を囲む庭園には四季折々の花が植えられている。
王族の保養地として使われるこの場所は、普段は閑散としているが、今日は特別な用件でエリーゼが呼ばれていた。
何のことかは、大体わかっていた。
ここ数週間、殿下はこちらに連絡を寄越さなかった。
手紙を送っても簡潔な返事しかなく、面会の約束は二度も延期された。
そのうえ、殿下付きの侍従が先日そっと漏らした。
「……殿下は、少しお疲れが重なっておいでで」
エリーゼの胸は、初めて離宮へ向かう時よりも重苦しかった。
馬車が止まり、扉が開けられる。
まだ午前だというのに、離宮の前庭にはほとんど人影がない。
本来なら、王族の婚約者が訪れる際、侍従や侍女が並び立つものだが 今日は老従者が一人、静かに頭を下げただけだった。
「エリーゼ様……殿下は、奥の応接室にてお待ちです」
従者に言われるがまま部屋を案内された。
応接室の扉が開けると、窓から差し込む午後の光が室内を優しく照らしていた。
けれど、その光とは裏腹に、部屋の空気は重く沈んでいた。
殿下——第二王子エドワード殿下は、窓際の椅子に座りこちらに背を向けたまま立ち尽くしていた。
いつもなら穏やかに微笑んで迎えてくれる方だったのに、今日の殿下からは、言葉にならない緊張が漂っていた。
彼女は胸の奥で不安を感じながらも、静かに一礼した。
「お呼びでしょうか、殿下」
殿下はゆっくりと振り返った。
その表情には、彼女が見たことのないほどの疲労や苦痛さが混ざり合っていた。
「……婚約を、破棄したい」
その場にそぐわないほど静かな声で、殿下はそう告げた。
「……理由を、伺ってもよろしいでしょうか」
声が震えないように、慎重に言葉を選んだ。
殿下は伏せていた視線をゆっくり上げ、どこか覚悟の決まった瞳で言った。
「余命が……半年なのだそうだ」
胸の奥が一瞬にして冷えた。呼吸が止まり、視界が揺れるようなそんな衝撃を受けた。
「君を、巻き込みたくない。私のせいで未来を閉ざしてほしくないんだ」
殿下は気丈に笑おうとする。
その笑顔が、どれほど痛々しく見えたことか。
その言葉は、エドワードにとってもエリーゼにとっても残酷そのものだった。
「殿下。私の未来を、殿下が決めないでください」
殿下の表情が動揺で揺れる。目が見開かれ、唇がわずかに震えた。
「半年しかないのなら……私はその半年を殿下と生きます。婚約破棄は受け入れません」
エドワードは、しばらく言葉を失っていた。
エリーゼの強い声が、彼の胸に深く突き刺さったのだろう。
目を伏せ、震えを抑えるよう呼吸を整えてから、かすれた声を絞り出した。
「……エリーゼ。君は……自分が何を言っているのかわかっているのか?私は……残り半年と医師に告げられたのだ。衰弱していき、まともに歩くことも、言葉を交わすことも難しくなる未来だ。そんな私のそばにいて……君が幸せになれるはずがない」
エリーゼは静かに首を横に振った。
エドワードは、しばらく俯いたまま沈黙していた。そして、何か決意したかのようにゆっくりと顔を上げた。
「……エリーゼ。君はどうして、そこまで私に固執する?」
その声はいつもの殿下とは違っていた。それはまるで、彼女を突き放すかのような言い方だった。
エリーゼは言葉を返せず、ただ殿下の瞳を見つめる。
エドワードは、彼女の視線から逃げなかった。
逃げる必要がない、とでも言うように。
そして、はっきりと告げた。
「最初から、君のどこにも惹かれたことはない。優秀な令嬢であろうが、気丈であろうが……私には関係がない」
その言葉は、エリーゼの胸を打ち抜いた。しかし、それが本音ではない事は分かっていた。
ーーどうかそんな事は言わないで
「婚約者であっても、特別な感情などひとかけらも持っていない。むしろ……君と共にいることに、私は疲れている」
ーーどうかそんな顔をしないで
「私は君が……!」
エリーゼは唇を噛んだあと、震えながらも声を絞り出した。
「殿下!!」
一歩、近づく。
「どうか嘘を……つかないでください!殿下が……そんな人ではないことを、私は知っています!」
殿下が自分を守るために、自身を傷つけていることが——たまらなく苦しかった。
「嘘ではない。私は君を……」
「嫌いだと……そんな言葉で私を突き放せるほど、殿下は冷たい方ではありません!」
エドワードは歯を食いしばり、表情を崩すまいとしている。
「……やめろ。もうこれ以上……」
「殿下が私に嘘をつく理由は、ただひとつ。
——私を守りたいからです」
エドワードの表情が崩れかける。
エリーゼはそっと、彼の目の前まで歩み寄った。
「殿下。私を突き放すために、嫌いだなんて言わないでください。もう、何年もいるのですよ……?そんな嘘、私は絶対に受け入れません」
エドワードは息をのみ、唇を震わせた。
嘘を続けるべきか、崩れるべきか。その境界に立たされた男の、最後の抵抗だった。
結局の所、婚約破棄は彼女の必死の抵抗によって成立せずに終わった。その事について、後悔はしていなかった。いや、後悔などできるはずがなかった。例え、余命が僅かでも。
エドワードは窓辺に座り、静かに息を吐いた。
庭には風が吹き、白い花弁が数枚ひらひらと舞い落ちている。
その穏やかな景色の中で、彼はゆっくりと目を閉じた。
エリーゼが離宮を後にしたあと、エドワードは深く息を吸い込んだ。
胸の奥が苦しくなるたび、医師の言葉が嫌でも脳裏に浮かぶ。
——残された時間は半年ほど。
医師は表情を変えずにそう告げたが、あの瞬間の重みは忘れがたい。死を宣告された人間を慰める言葉など、この世のどこにもないのだと悟った。
「殿下……本当に、婚約破棄の件は……」
側近のライナスが言い淀む。
幼い頃から仕えてきた青年で、エドワードの変化を誰より近くで見ていた。
エドワードはゆっくりと首を振った。
「……もう、彼女には嘘をつけない。エリーゼは……私よりも強かった」
ライナスは驚いたように眉を上げた。
「殿下を前に……あのように言い切るとは。普通の方なら泣き崩れるでしょうね」
「ああ、私は……彼女に負けたのだ」
その言葉には苦笑が混じっていた。
悔しいはずなのに、胸の奥が妙に温かかった。
◇
数日後、離宮では医師を呼び、改めて診察を受けることになった。
白髪混じりの老医師アーノルドは、長年王家の診療を担ってきた人物だ。
脈を取り、胸の音に耳を当て、しばらく呼吸の深さを確かめ、やがて重い息を吐いて告げた。
「……殿下のお身体は、力が日に日に落ちておられます」
エドワードは視線をそらさずに問う。
「あと……どれほど、動けるのだ?」
医師は口をつぐんだ。
慎重に言葉を選ぶようにして、ようやく答える。
「体の調子が良い日で半日ほど。悪い日には……床から起き上がることも難しくなるでしょう」
側仕えのライナスは、その言葉だけで顔を強張らせた。
アーノルドは続ける。
「熱も毒気も見られませぬ。ただ……臓腑が弱り、気が細るばかり。薬草で痛みや息苦しさは和らぎましょうが……戻る力ではございません」
沈黙が落ちる。医師は、殿下の手をそっと握る。
「殿下……今年の季節がもうひと巡りするまで、お身体が保つかどうか……」
エドワードは静かに目を閉じた。
「……わかった」
その声に、アーノルドは深く頭を垂れた。
「殿下は……まだお若い。悔いの残らぬよう、お過ごしくだされ」
そういい、アーノルドは医療用具を持ち、その場を後にした。
その扉が閉まるより早く、ほとんど入れ替わるように、ノックも短く開く音がした。
「失礼する」
レオンハルトが入ってきた。
ライナスが慌てて頭を下げる。
エドワードはわずかに姿勢を正し、兄を迎えた。
「兄上……来ていたのですか」
「医師の診察が済むのを待っていた。お前の顔を見るためにな」
レオンハルトは室内を一瞥し、
重く沈んだ空気の理由を一瞬で理解したようだった。
「……聞かせてもらった。あまり良くはなかったようだな」
エドワードは目を伏せる。
「隠し立てしても、兄上には分かるでしょう。長くは……持たないそうです」
「だろうな。アーノルドの表情がすべて物語っていた」
レオンハルトは弟の前に歩み寄る。
「エリーゼ嬢が来たと聞いた」
エドワードは小さく息を吐く。
「ええ。婚約を白紙にする事には失敗してしまいましたが」
「止められると思う方が無理だ」
レオンハルトはわずかに口元を緩めた。
「お前は昔からそうだった。好いた相手ほど遠ざけようとする」
「……兄上」
「それにだ。お前達は長年の付き合いだろう。それを反故にできないなんてのは、分かっていた事だろう」
エドワードは返す言葉を見つけられなかった。
レオンハルトは静かに続ける。
「彼女の未来を奪うと言うがな……未来をどう使うか決めるのは彼女だ。お前じゃない」
エドワードの指先がわずかに震えた。
「エドワード。残りの季節を誰と過ごすのか……
それは、選ばれた側ではなく、選んだ側の意思だ」
レオンハルトはそう言って、弟の肩に軽く手を置いた。
「独りで死ぬ覚悟なんぞ、美談にはならん。最後くらい、誰かに寄りかかれ」
レオンハルトは「また来るぞ」と言い、背を向けて静かに部屋を出ていった。
◇
離宮から戻ったその日、エリーゼが馬車を降りると、自分の屋敷の空気がいつもと違うことにすぐ気づいた。
玄関ホールでは侍女たちが固く口を結び、
普段は落ち着いている執事までもが落ち着かない様子で立っている。
誰もが——彼女の顔色を伺っていた。
「……ただいま戻りました」
エリーゼがそう言うと、
侍女の一人が小さく頷き、しかし声を震わせながら言った。
「お嬢様……旦那様が、書斎でお待ちです」
覚悟していた事だ。逃げるつもりもなかった。
エリーゼは深く息を吸い、
ゆっくりと書斎の扉を叩いた。
「入れ」
低く、父の声が返ってきた。
扉を開くと、重厚な木の香りが漂う部屋の中央で、公爵が静かに立っていた。
机の上には既に紅茶が淹れられており、父なりの気遣いが伝わる。
だが、その表情は深刻だった。
「エリーゼ。……殿下のことは、聞いた」
エリーゼは小さく頷く。
「余命半年——だというのは、本当なのだな?」
「はい。殿下は……そうおっしゃいました」
長く息を吐く。その表情には、貴族としてではなく、一人の父としての苦悩が滲んでいる。
「……お前は、あの方と婚約を続ければ、いずれ深く傷つくことになる。それは避けられん」
「わかっています」
「家としても……破談を選んでも構わぬ。誰もお前を責めはしない。むしろ、当然だと考えるだろう」
エリーゼはまっすぐ父を見る。
その瞳は、迷いの欠片もなかった。
「それでも、私は……殿下のそばにいたいのです。半年でも、一ヶ月でも、一日でも。殿下が……お一人で苦しむことだけは、耐えられません」
公爵は娘のその声に、しばし何も言わずに目を閉じた。
それは、父としての葛藤だった。娘の未来を守りたい。しかし、娘が心から選ぶ相手を否定したくもない。
長い沈黙の末、公爵は静かにエリーゼの肩へ手を置いた。
「……ならば、父として言えることはひとつだけだ」
エリーゼはゆっくりと顔を上げる。
「お前が選んだ道ならば、私はそれを支える。どれほど短くとも……お前が悔いを残さぬように」
その言葉に、エリーゼの胸が熱くなる。
「……ありがとうございます」
声が震えたのは、父の優しさのせいだった。
公爵は微笑みもせず、ただ静かに娘に言う。
「覚悟を持て。そして……最後まで、その覚悟を貫け」
エリーゼは深く頷く。
「はい。必ず」
その日は、父と娘が向き合って話した。
いつもより言葉は少なかったが、多くを語り合った気がした。
◇
離宮へ戻る馬車の中で、エリーゼはそっと窓の外に手を伸ばした。
揺れる光が指先に触れる。
今日から——殿下の住むこの離宮で暮らす。
そう決めたのは、一日でも長く彼のそばにいたかったからだ。
父は、長く悩んだ末にうなずいてくれた。
王家からの許可も、驚くほど静かに下りた。
王太子レオンハルトの一言が大きかったのだろう。
「弟をひとりにしないでやってほしい」
その言葉だけで十分だった。
離宮の門が見えてくると、胸の奥がそっと熱くなる。
ここは、本来なら王族の静養のためだけに使われる場所だ。なのに今は、ここが“帰る場所”になる。
馬車が止まり、侍女が扉を開いた。
エリーゼが玄関を進むと、
側仕えのライナスが深く頭を下げた。
「エリーゼ様……殿下は、お待ちです」
わずかに緊張の残る声だった。
案内されながら、彼女は小さく息を吐いた。
胸の奥がきゅっと締め付けられている。
ライナスが足を止め、扉を叩く。
「殿下。エリーゼ様をお連れしました」
「……入ってくれ」
扉が開くと、柔らかな光の中にエドワードがいた。
窓辺に座り、日差しを受けて少し細くなった横顔が浮かび上がる。
エドワードはゆっくりと振り返り、
彼女を見ると、ほっとしたように微笑んだ。
「……来てくれたのか」
「今日から、よろしくお願いします。殿下」
その一言だけで、部屋の空気がやわらかく変わった。
エドワードは立ち上がろうとしたが、わずかに身体が揺れる。
エリーゼがすぐに駆け寄り支えた。
「大丈夫だ。少しふらついただけだよ」
「無理をなさらないでください」
二人の距離は近く、触れた手が小さく震えていた。
エドワードはその手を見下ろし、ひどく静かな声で言った。
「……君が来てくれるだけで、私は救われる」
エリーゼは、ただそっと微笑んだ。
「私は、殿下の隣で生きたいだけです」
そうして余命半年の二人の生活は始まったのだった。
◇
離宮の朝は静かだった。
鳥のさえずりが窓から聞こえ、カーテンの隙間から柔らかな光が差し込む。
エリーゼが目を覚ますと、隣の部屋から物音が聞こえた。
殿下が起きている——それだけで、今日が良い日だとわかった。
扉を開けると、殿下はすでに身支度を整え、窓辺に立っていた。
背筋を伸ばし、外の景色を眺めるその姿は、まるで病など無縁のように見えた。
「おはようございます、殿下」
「ああ、エリーゼ。今日は……調子が良いんだ」
その声には、希望が混じっていた。
良い日の殿下は、庭を歩いた。
花の香り、光の揺れ、風の音。そのすべてをゆっくり味わうように、一歩ずつ足を進める。
エリーゼはそっと腕を添え、支えるように寄り添った。
庭の小道は石畳で整えられ、両脇には色とりどりの花が咲いている。
殿下は白いバラの前で立ち止まり、深く息を吸い込んだ。
「こんな朝をまだ拝めるとはな……」
「そんな事を言わないで下さい。いつでも歩きましょう」
殿下は照れたように笑う。
その笑顔を見るたび、エリーゼの胸は救われた。
池のほとりで、二人は腰を下ろした。
水面には空が映り、鯉がゆったりと泳いでいる。
「この景色、好きだ」
殿下がぽつりと言った。
「私も好きです」
「……君がいるから、好きになれたのかもしれない」
「どうしたんですか……急に。いつになく元気がないですね」
「いや……そういう訳じゃないんだ。きっと、いつかそんな事すら言えなくなる日が来るんじゃないかと思って……その分まで言っておかないとってな」
その言葉に、エリーゼは静かに微笑んだ。
修道院に行っては、そこにある本を二人で読み、エリーゼが淹れた茶を飲みながら静かに時間を過ごす。
殿下の好きな紅茶は、ダージリンにわずかな蜂蜜を加えたものだった。
「君のお茶は、本当に落ち着く」
「殿下が好きだと言ってくださるからです」
殿下は本のページをめくりながら、時折笑みを浮かべた。
その横顔を見るだけで、エリーゼは幸せだった。
午後になると、二人で音楽を聴いた。
古い蓄音機から流れる穏やかな旋律が、部屋を満たす。
「この曲、母上が好きだったんだ」
殿下が目を閉じて言った。
「素敵な曲ですね」
「……母上に会わせたかったな、君を」
エリーゼは何も言わず、ただ殿下の隣に座っていた。
そんな小さな幸福の日々が積み重なった。朝の散歩、午後の読書、夕暮れの静寂。何気ない時間が、二人にとってかけがえのないものだった。
しかし同時に、悪い日もあった。
ある朝、エリーゼが部屋を訪ねると、殿下は寝台から起き上がれずにいた。
顔は青白く、額には冷たい汗が浮かんでいる。
「殿下……」
「すまない……今日は、少し……」
立つこともできず、呼吸が浅く、痛みで声を押し殺す日。
エリーゼはすぐに医師を呼び、殿下のそばに座った。
医師は診察を終えると、静かに首を振った。
「今日は安静にしてください。無理をしてはいけません」
殿下は力なく頷いた。医師が去ったあと、部屋には重い沈黙が流れた。
そんな日は決まって、エリーゼがそばに座り、手を握り続けた。
「……すまない、エリーゼ」
「謝らないでください。私はここにいたいだけです」
殿下は弱く笑い、時には涙を溢しながら小さく呟いた。
「……君の前で情けない姿ばかりだな」
「いいえ。殿下は、ずっと強い方です」
エリーゼは冷たい布で殿下の額を拭い、水を含ませた。
殿下は少しずつ水を飲み、疲れ切った表情で目を閉じた。
「痛いですか?」
「……少し」
その言葉が、どれほど抑えられたものか、エリーゼにはわかった。
殿下は決して弱音を吐かなかった。
けれど、その沈黙が何よりも雄弁に苦しみを物語っていた。
そんなある夜、耐えきれず殿下がひっそり泣いたことがあった。
エリーゼは殿下の泣く姿を見たのは初めてだった。
殿下は声も出せず、震える肩を隠すように顔を伏せた。
エリーゼはそっと抱き締め、ただ耳元で囁いた。
「私は、殿下のすべてを受け止めます。生きたいと思う気持ちも、苦しい気持ちも……全部」
その瞬間、殿下の腕が弱々しく彼女の背に回った。
「……生きたいんだ。もっと、君と」
涙が二人の肩を濡らした。
窓の外では風が木々を揺らし、遠くで夜鳥が鳴いた。
世界は静かに回り続け、時間は容赦なく過ぎていく。
けれど、この瞬間だけは、二人の時間が、確かにそこにあった。
エリーゼは殿下を抱きしめたまま、目を閉じた。
殿下の鼓動が弱く、けれど確かに響いている。
「私は、ずっとそばにいます」
殿下は何も言わず、ただ静かに頷いた。その夜、二人は言葉を交わさなかった。
ただ寄り添い、互いの温もりを感じ合うだけで十分だった。
朝が来ると、殿下は少しだけ元気を取り戻していた。
エリーゼが朝食を運ぶと、殿下は弱く笑った。
「……ありがとう」
「いいえ。私こそ、殿下と一緒にいられて幸せです」
殿下は目を細め、窓の外を見た。
「今日も……生きているな」
その言葉が、どれほど重く、そして尊いものか。エリーゼは深く胸に刻んだ。
離宮での日々は、こうして続いていった。
良い日も、悪い日も、すべてが二人の物語だった。
◇
秋が深まり、木々が赤や黄色に染まる頃。殿下はわずかな力で庭を歩き、湖のほとりで立ち止まった。
エリーゼが車椅子を押し、殿下はゆっくりと景色を眺める。
湖面には秋空が映り、風が水面を揺らしていた。
「昔、兄上とここで遊んだんだ。……まさか、最後に君と来るとは思わなかった」
殿下の声には、懐かしさと切なさが混ざっていた。
エリーゼは伏し目がちに微笑んだ。
「最後だと思わないでください」
「……そうだな。思いたくない」
殿下は車椅子から立ち上がり、彼女の肩に手を置いた。その力は弱いのに、想いだけがまっすぐ強く伝わる。
湖のほとりには古い木製のベンチがあった。
二人はそこに座り、しばらく沈黙の中で景色を眺めた。
「あの頃は、まさか自分が病になるなんて思わなかった」
殿下がぽつりと言った。
「兄上は活発で、私はいつも追いかけていた。あの人は王太子として生まれ、私は……ただの第二王子だった」
エリーゼは静かに耳を傾けた。
「でも、それで良かったんだ。兄上のようにはなれないけれど、自分なりに生きられると思っていた」
殿下は目を細め、遠くを見つめた。
「……君と出会えたのも、そのおかげかもしれない」
ペンを握る力も弱く、文字は歪んでいる。
それでも、殿下は一文字一文字、丁寧に綴っていた。
部屋の扉が開き、エリーゼが入ってきた。
「殿下、何をされているのですか?」
「……少し、書き物を」
殿下は慌てて紙を隠した。
「無理をしないでください。お体に障ります」
「大丈夫だ。これだけは……書いておきたいんだ」
エリーゼは何も言わず、そっと部屋を出た。
殿下が何を書いているのか、聞かなかった。
それは、殿下の最後の自由だと思ったから。
一方エリーゼも、彼のために不器用な刺繍の入った小袋を作っていた。
針を持つ手は慣れておらず、何度も指を刺した。
それでも、丁寧に一針一針、想いを込めて縫い進めた。
布には小さな花の模様が刺繍され、殿下の好きな青い糸で縁取られている。
ある日の午後、エリーゼはその小袋を殿下に差し出した。
「これは……?」
殿下が不思議そうに袋を手に取った。
「殿下が痛い日に、温めた薬草を入れてください」
エドワードは、子どものように目を見開いた。
「こんな……君は、本当に……」
言葉にならず、ただ袋を胸に抱きしめた。
「ありがとう……本当に、ありがとう」
殿下の目には涙が浮かんでいた。
「こんなに優しくされたのは……久しぶりかもしれない」
エリーゼは首を振った。
「殿下はいつも、優しくしてくださいました」
「いや……君の優しさには、敵わない」
殿下はその袋をずっと手放さなかった。寝る時も、枕元に置いて眠った。
だが、穏やかな日々は長くは続かなかった。
ある夜、月が高く昇る頃。
エリーゼが部屋で本を読んでいると、隣の部屋から物音が聞こえた。
「殿下……?」
返事がない。
嫌な予感がして、エリーゼは急いで部屋へ向かった。扉を開けると、殿下が床に倒れていた。
「殿下……! 殿下!!」
駆け寄ると、殿下の顔は青白く、呼吸が浅い。
「誰か! 誰か来てください!!」
エリーゼの叫びに、使用人たちが駆けつけた。
侍医が駆け込み、エリーゼはひたすら手を握り、呼びかけた。
「殿下……しっかりしてください……!」
医師が診察を始め、指示を出す。部屋は慌ただしく動き、薬が運ばれてきた。
エリーゼは殿下の手を握ったまま、祈るように呼びかけ続けた。
「大丈夫……私は、まだここにいる……」
殿下は微かに目を開いた。
「……君が……いる……よかった」
それだけを言い、再び眠りに落ちた。
医師は深刻な表情で言った。
「今夜が峠です。もし朝を迎えられたら……」
その先は、誰も言わなかった。エリーゼは一晩中、殿下のそばにいた。手を握り、額を拭い、ただ祈った。
「お願いです……まだ、行かないでください」
涙が頬を伝い、殿下の手に落ちた。
夜が明ける頃、殿下はゆっくりと目を開けた。
「……エリーゼ……?」
「殿下……!」
エリーゼは安堵と喜びで声を詰まらせた。
「良かった……本当に良かった……」
殿下は弱く笑った。
「まだ……私は……生きている……から……心配するな……」
しかし、その体は確実に終わりへ近づいていた。
医師は静かに告げた。
「もう……長くはありません」
エリーゼは頷いた。覚悟は、とうにできていた。
それでも、殿下がまだそばにいる。
それだけで、十分だった。
◇
殿下が倒れた夜から、数日が過ぎた。
意識を取り戻すことはあったが、
以前のように会話を続けられるほどの力は、
もう殿下の身体には残っていなかった。
それでも、エリーゼは片時も離れなかった。
寝台のそばで、本を読む日もあれば、殿下の呼吸に合わせて手を握りしめるだけの日もあった。
言葉はもう、ほとんど交わせなかった。
だが、殿下が目を向けるたび、
そこには確かな光があった。
「……エリーゼ……」
最後に聞いた声は、
それだけだった。
呼ぶだけで精いっぱいの、かすかな声。
その名前を呼んだ直後、
殿下は穏やかに目を閉じ、
静かに息を吐いた。
そして——それ以上、息が戻ることはなかった。
エリーゼは泣かなかった。
殿下の手に触れたまま、そこに残る微かなぬくもりを確かめるようにした。
泣けば、胸が壊れてしまう気がした。
泣けば、殿下を苦しめてしまう気がした。
ただ静かに、愛しい人の最期を受け止めた。
◇
葬儀が終わり、人が引いた離宮は、冬の空気の中でひっそりと沈んでいた。
雪が静かに降り積もり、庭も建物も白く覆われている。
かつて殿下と歩いた小道も、二人で眺めた池も、すべてが真っ白に包まれていた。
エリーゼが殿下の私室で整理をしていると、控えめなノックが響いた。
「……入ってもよいだろうか」
その声音で、誰かはすぐに分かった。王太子レオンハルト。
エリーゼは姿勢を正し、迎え入れた。
「どうぞ」
扉が開き、王太子が静かに室内へ入ってきた。
黒い喪服に身を包み、その表情には疲労と哀しみが滲んでいた。
レオンハルトは部屋の中をゆっくりと見回した。
弟が使っていた寝台、読んでいた本、肩掛け。
窓辺に置かれた茶器、机の上の羽ペン。
どれもそのままであった。
「……変わらないな」
レオンハルトが小さく呟いた。
「はい。生前か使われていたものは触らないようにしていました」
「そうか」
しばらく沈黙が続いた。
レオンハルトは窓の外を見つめ、深く息を吐いた。
「弟は……ここが好きだったのだろうな」
レオンハルトは懐から細い封筒を取り出し、言葉少なに差し出した。
「……弟に預かったものだ。最期の前に、私に託された」
エリーゼの指先がわずかに震える。
「殿下が……」
レオンハルトは小さく頷いた。
「君に渡してほしいと。どうしても……と」
エリーゼは両手で封筒を受け取った。
封筒は軽く、けれどその重みは計り知れなかった。
レオンハルトが視線を落とし、静かに言葉を続ける。
「——ありがとう。あれの最期に寄り添ってくれて」
エリーゼはゆっくり首を振った。
「私は……ただ、殿下のおそばにいただけです。それ以外は何も……」
「それで十分だ」
レオンハルトは淡々とした声で言った。
「弟は……最後の月日を、穏やかに過ごしていた。君がいたからだ。そのことに、兄として礼を言う」
エリーゼは言葉を失った。
胸の奥が熱くなり、涙が込み上げてくる。
「……殿下は、素晴らしい方でした」
「ああ」
レオンハルトは目を伏せた。
「……私は、弟に何もしてやれなかった」
「そんなことは……」
「いや。私は王太子として、国のことばかり見ていた。弟の苦しみに気づいてやれなかった」
その声には、後悔が滲んでいた。
「けれど、君がいてくれた。君が弟の最期を照らしてくれた」
エリーゼは首を振った。
「殿下こそ、私を照らしてくださいました」
レオンハルトは静かに微笑んだ。
「……弟が君を選んだ理由が、わかる気がする」
それ以上、言葉はなかった。
エリーゼが深く頭を下げると、レオンハルトはほんの少しだけ表情を緩めた。
「……辛い時は、王宮を頼れ。弟の婚約者であった者として——ではなく、私の家族に近い者として」
そう言い残し、レオンハルトは部屋を去った。
扉が静かに閉まる。
エリーゼは手の中の封筒を見つめる。
机のそばの椅子に腰を下ろし、深く息を吸う。
震える指先で封を切ると、中から厚みのない一枚の紙が現れた。
広げた瞬間——
殿下の筆跡が、エリーゼの胸を刺した。
あの、少し癖のある細い文字。
何度見たかわからない筆跡なのに、
今はひどく脆く、儚く見えた。
『エリーゼへ』
最初の一行だけで、視界が揺れる。
『もう長く書けそうにない。それでも、伝えたい。
君と過ごした日々は、私の人生でいちばん素晴らしい時間だった。
痛む日も、苦しい日も、君がそばにいるだけで救われた。
本当は、君の淹れる茶を、もう一度飲みたかった。君と庭を歩きたかった。春を迎えたかった。
叶わぬ願いになってしまったが、悔いはない。
どうか、君の未来が温かいものであるように。
君が笑って生きていけるように。
最後にひとつだけ。私は、君を愛している』
エドワード
読み終えた瞬間、エリーゼの指が震え、
静かに涙が落ちて紙面を濡らした。
泣くまいと思っていた。けれど、この言葉だけは、堪えきれなかった。
「……私も、殿下を……」
声にならない声が零れる。
温かな涙が頬を伝い、手紙の端に静かに落ち続けた。
エリーゼは手紙を胸に抱きしめ、静かに目を閉じた。
離宮の窓の外では、まだ冬が深く続いていた。
けれど、その雪の下には、かすかに春の気配があったのだった。




