灰牙狼との激闘
ガラガラと車輪の回る音がヒメカに届く。
咄嗟にヒメカは声を張る。
「クロエ、危ない!」
焦りを含んだヒメカの声のおかげで、クロエは急停止に成功。
どうやら道に出る手前で止まれたようだ。
クロエはヒメカの大声にびっくりした顔で固まっていた。
止まれたことにヒメカは安堵するが、胸騒ぎが消えなかった。
固まっているクロエの目の前を荷馬車が横切る。
荷馬車が地面の大きな窪みに乗り上げ、衝撃がヒメカの身体まで伝わる。
――むくり、と何かが起きた。
荷馬車の上から大きな影が落ちた。
冒険者の悲鳴と、飛び散る赤い液体。
むせかえるような血の匂い。
鈍く重い音が地面を打つ。
スローモーションのように、すべてが目の前でゆっくりと進行していく。
クロエが小さく震え、ヒメカも身動きが取れない。
――次の瞬間、化物が二人をその目に映した。
心臓は早鐘を打ち、鼓膜を破りそうなほどの鼓動が響く。
恐怖が血となって全身に駆け巡った。
何秒か、何十秒か。
呼吸は止まり、身体は激しく震える。
――咆哮。
それは見えない手が心臓を鷲掴みにするような、獰猛な声だった。
狼の形をした化物は、一番近くにいる獲物に狙いを定める。
(クロエッ⁉)
考えるよりも先に身体が動いた。
狼の化物が血の滴る口を開け、クロエに襲い掛かる。
ヒメカはクロエまでの数メートルを駆け抜ける。
凶悪な牙が突き立てられる寸でのところで、ヒメカはクロエに飛びつき抱きかかえながら転がった。
土埃が舞い、服に砂が入り込み、肌がひりつく。
何回も視界がくるくると回り、三半規管が悲鳴を上げる。
全身に打ち身と擦り傷を作るが、クロエは無事だ。
しかし、クロエの身体は恐怖で震えており、目は焦点が合わず、歯がカチカチと鳴っている。
とても動けるようには見えなかった。
――灰牙狼。
ヒメカの知っている狼よりも二回りは体が大きく、全身が灰色の毛で覆われていた。
だが、その灰色の巨躯は所々ピンクの肉が見えるほど裂けており、流れ出る血は止まる様子を見せない。
口から覗く牙はナイフのように鋭く、何かの鉱物であるような鈍色を放っていた。
前脚をわずかに踏み込み、体を低く構える。
尾はピンと天を突き、耳を前方に立てて唸る。
地面を踏む度に振動が伝わり、息は荒く、熱気と悪臭が漂った。
それはすぐにでも飛びかかってきそうな気配だった。
灰牙狼を視界から外さないように、何かないかと片手を使い、手探りで周囲を探る。
(……こわい、こわい、怖い‼)
汗が噴き出し、視界は震え、口の中は干上がっている。
正直逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。
誰だって自分の命は惜しい。
あまりの恐怖に、意識を投げ出せば楽になれるのかなと迷走する。
灰牙狼の眼がヒメカを射抜く。
憎悪と憤怒の入り混じった眼は、命尽きるまで動くものすべてを殺すと言っているようだった。
一陣の風が灰牙狼とヒメカの間を吹き抜ける。
風が全身の熱を少し奪った。その瞬間、恐怖の熱も少しだけ引いた。
ふと、温かさを感じる。
小さな身体から伝わる温もりは、ヒメカの恐怖を別のものに変えていく。
――それは、勇気。
そして、硬いものが手に触れた。
剣だった。
剣の重みを腕で感じると、不思議と心臓の鼓動が少しずつ落ち着いていく。
絶望に押しつぶされそうな心が支えられ、立ち向かう力が湧いてくる。
「……クロエ、離れてな」
腕を震わせながら小さく、耳打ちする。
クロエは、何も言わずよろよろと数歩ヒメカの後ろに下がる。
立ち上がったヒメカは、灰牙狼に向かって剣を構えた。
クロエが下がったのを気配で感じ取ると、ヒメカは灰牙狼に不敵な笑みを浮かべる。
「よう……死にぞこない」
目をしっかり合わせる。
切っ先を向け、力強く宣言する。
「――ここから先は絶対に通さない!」
ひりつく喉から出された音は、風に乗って灰牙狼に届いた。
それに応えるように灰牙狼の全身の筋肉が膨張し、吼えた。
――クロエだけは傷つけさせない。
◇
「ああああああ‼」
自分を奮い立たせるために、ヒメカは叫びながら駆けだした。
(少しでもクロエから遠ざけないと!)
真っ直ぐ、傷ついた灰牙狼へと向かう。
馬鹿正直に突っ込んでくる獲物に、灰牙狼はその口を醜く歪ませて走り出した。
交差するまでの刹那の瞬間、ヒメカは左足を前に出して直角に曲がった。
まだ刈り取られていない麦穂が次々になぎ倒されていく。
ヒメカが急に方向転換したことに驚きつつも、灰牙狼は並外れた体躯を活かして、ぴったりと後ろに迫る。
ついてきていることに、内心ガッツポーズをする。
しかし、同時にどうしようもない焦燥感がヒメカを襲う。
このまま走っていてもいずれ追いつかれてしまう。
獣と人の脚力では勝負にならないことは重々承知だった。
それでも、ここで走ることをやめたら、小さな女の子はどうなる?
容易に想像できてしまうそれを、振り払うかのように頭を振る。
絶対に、それだけはさせない。
背中に生温かい息がかかる。
――すぐ後ろにいる。
冷や汗が噴出する。
頭では逃げろと叫んでいるのに、脚は鉛のように重かった。
灰牙狼はその顎を大きく開け、ヒメカに飛びかかった。
絶体絶命。
頭が真っ白になる。
一瞬、呼吸が止まり、膝が砕けた。
恐怖に身体が屈する。
ヒメカは派手に転んでしまった。
だがそのおかげで、死神の鎌を回避することができた。
土の味が口の中に広がる。
視界がチカチカと光り、世界が傾いて見える。
碌に受け身をとれなかった所為か、あちこちが鈍痛を訴えている。
九死に一生を得たヒメカは、ぞっとした。
心臓が口から飛び出そうなほど、激しいビートを刻んでいる。
身体にたまった熱を逃がそうと荒く息を繰り返す。
相当勢いがあったのか、灰牙狼が少し遠くに見える。
想像した手ごたえがなかった灰牙狼は、いら立ちを隠せない様子で全身の毛を逆立てていた。
(めっちゃ怒ってるー⁉)
クロエの必死な呼びかけが遠くに聞こえる。
決死の特攻のおかげで、十分な距離を稼ぐことができた。
膝が笑う。かちかちと歯が鳴った。
(……ヘイト管理もばっちりってな)
思わず笑みが漏れた。
生きている事実と、このひりひりとする極限の状況に不思議と高揚感があった。
(まだ……まだやれる!)
何があっても放さなかった剣を強く握る。
灰牙狼を見る目は闘志に燃えていた。
短く息を吐き、恐怖で竦む身体を無理やり動かす。
そこへ灰牙狼が一瞬で駆け抜けてきた。
「――ッ⁉」
ヒメカの眼はしっかりと灰牙狼を捉えていた。
その挙動を逃すまいと、瞬きすらすることを忘れていたのにもかかわらず、気が付いたら目の前にその巨躯が居た。
まるで瞬間移動。
刹那。
神経が擦り切れるほどの集中力がヒメカを救った。
わずかに身をそらせた。
その狂爪は頬の皮一枚を削ぎ取り、髪が数本宙を舞った。
――ここで退いたら、死ぬ。
ヒメカは生存本能に従い前に出る。
剣が、勝手に進む。
ずぶり、と肉を絶つ嫌な感覚が手に伝わる。
鈍色の光は灰牙狼の左肩から腋を通り、腹まで斬り裂いた。
血がドバっと出てヒメカを頭から染める。
その直後、灰牙狼は激しく身を暴れさせた。
後ろ脚の爪がヒメカを襲う。
まるで車にはねられたかのような鈍い衝撃が走り、ヒメカの身体は吹き飛ばされた。
麦穂を無残に倒しながら横滑りしていく。
肺から空気が押し出され、咳き込む。
右の脇腹に、赤熱した鉄を押し付けられたような激痛が走る。
見ると、血が噴き出て、肉がわずかに抉られていた。
「~~~~~ッ⁉」
痛い、痛い、痛い――息がまともにできない。
それは簡単に戦意を折ろうとしてくる。
逃げたい、倒れたい、終わらせたい。
……どうして、こんなボロボロになってまで戦おうとしているのか。
痛みは思考を鈍らせ、心の弱い部分が顔を覗かせる。
ボーとする頭は、何もかもを投げ出したくなる衝動をちらつかせた。
霧がかかったように意識が薄れていく。
不意に声が聞こえた。
それは泣いていてよく聞き取れないが、自分を慕ってくれた幼い少女のもの。
――ここで折れたらすべてが台無しになる。
剣を地面に突き立て、杖代わりにして立ち上がる。
口まで昇ってきた血を吐き出す。
同じように痛みでもがく灰牙狼を睨みつけた。
お前は――絶対に倒す。
お腹を押さえ、剣はだらりと下がる。
ゆっくりと歩き出す。
一歩。
土を引っ掻く。
さらに一歩。
剣先が石を切る。
徐々に速度が上がり、大地は悲鳴を上げる。
それは言葉にならない。声にならない魂の叫び。
ヒメカは灰牙狼へと迫る。
灰牙狼は血を失いすぎたのか、動きに精細さを欠き、うつろな瞳はそれでも敵を映していた。
力無い咆哮。
両者とも命を燃やし、これが最後になるであろう一撃を交わした。
――ヒメカは愚直に剣を前に突き出した。
――灰牙狼はその名の象徴たる牙で迎え撃った。
結果は――灰牙狼の口腔内を突き破った剣が脳天を貫いた。
しかし、代償は小さくなかった。
ヒメカの額が牙に触れ、ぱっくり割れて血が顔を濡らしていた。
灰牙狼の瞳が光を失い、その体から力が抜け大きな音と共に地面に倒れ伏す。
血で赤く染まった瞳に、何か温かい光のようなものが見え、自分の身体に吸い込まれていく。
肩で息をしているヒメカは、もはや何も考えられず、少し時間をおいて同じように倒れた。
薄れゆく意識の中でクロエの呼ぶ声がする。
遅れてアルフレッドの低く安心する声も聞こえてきた。
――ああ、やっと終わった。
そこで完全に暗黒に包まれた。




