決意と不穏
日の出とともに目を覚ますと、板の隙間から差し込む光が、部屋をやわらかく照らしていた。
すでにアルフレッドが起きており、ヒメカに片手をあげておはようと微笑んだ。
クロエは昨日の緊張のせいかなかなか寝付けず、少し夜更かしをしてしまった。そのため、まだぐっすりと眠っている。
ヒメカは横で眠るクロエを起こさないように、そっと身を起こす。
「フレッドさん、おはようございます」
やや声を落として、挨拶を返した。
ヒメカのその気遣いにアルフレッドの目尻が温かく緩む。
「外に出よう」
アルフレッドはヒメカを連れ、あばら家の扉を開く。
外に出ると、今日も晴天だった。
まだ少しひんやりとする空気は、眠気をゆっくりと払い、ヒメカはアルフレッドの言葉を待った。
「ヒメカ、君も気になっているだろう。……昨日の冒険者の件だ」
予想はついていた。
あの後、彼は難民たちの寄り合いに顔を出していたのだろう。
そこで情報収集をしてきたに違いない。
「何があったんです?」
「どうやら、城壁のすぐ外に灰牙狼の群れが現れたそうだ。その対処に冒険者が駆り出されているとのことだ」
ヒメカの表情が引き締まる。
身近に迫る危険はヒメカに、これが異世界という現実を否が応でも叩きつけてくる。
灰牙狼は、城壁の向こうに広がるシルト大森林という場所に生息しているらしい。
基本は群れで行動し、森を出ることは稀だという。
それが森を超えて、城壁に沿って走っていた。アルフレッドは、寄り合いで冒険者の一人と親しい人物から直接聞いたと話した。
脳裏に焼き付いた、あの小鬼の眼――。
(まじか……あんなのが動いて向かってきたら、ちびる自信があるぞ)
足元から恐怖が這い上がってくる。
身震いしているとアルフレッドはこう続けた。
「だが、安心してくれ。今日には討伐が終わるとのことだ。私たちが直接危険に晒されることはないよ」
アルフレットはよほど冒険者たちを信頼しているのだろう。
(旗が立ちそうなことを言うじゃないか……!)
別の意味で身震いするヒメカ。
と、そこへあばら家の扉が開いた。
クロエだ。
まだ眠い目を擦りながら、二人を探しに来たのだ。
「ああ、心配をかけたね。もう大丈夫だ。悪い魔物は冒険者たちが追い払ってくれる」
アルフレッドがなだめるように優しく声を掛ける。
「……うん」
頼れる祖父に抱き着きながら、クロエは小さく呟く。
その手は震えていた。
ヒメカはこんな幼子が日常的に命の危険に晒されている事実に、胸が締め付けられた。
ヒメカの生まれ育った日本という環境はまず安全だった。よほどのことがない限りは、命を落とすようなことは起きない。
文明レベルの差というのもあるが、それ以上に人を襲う魔物の存在が大きい。
人が一致団結しなければならないほどの脅威。これを排除しない限りは子供が安心して暮らせる日など来ないと断言できる。
静かに大きく息を吸い込む。
朝の清涼な空気が肺を満たしていく。
――日本に帰りたいかと、自問してきた。
確かに親しい人や仕事、見たいアニメやしたいゲームもまだまだある。
しかし、それ以上にこの家族を見ていると、何か自分にできることはないかと思ってしまうのだ。
見て見ぬふりをして、自分だけ安全な世界に戻る。
それは違うと、三十五年間生きてきたヒメカ自身が否定する。
何より恩義がある。
帰る手段なんて、あるかどうかもわからない。
問いの答えはまだわからない。
(――でも今は、目の前の女の子を泣かせない方が大事だ)
静かな決意が、心の底に沈んだ。
◇
城壁の外に魔物が出たからといって、収穫作業を止めるわけにはいかない。
アルフレッドは二人を連れて、昨日の続きを行う。
朝は晴天だったが、厚い雲が出てきて、しばらくすると空に蓋をしてしまった。
まだ遠くで人が活発に動いているのが見える。
その姿を見る目は知らず知らずのうちに鋭くなり、ヒメカの警戒心が高まっていく。
ざくっ、ざくっと大麦を刈る音が響く。
いつもならクロエが元気いっぱいにヒメカの先を行くが、今日は随分と大人しい。
ヒメカが見える位置でゆっくりと作業している。
口数が少なく、わずかな音でも反応する様子は不安に満ちており、ヒメカは安心させるように明るく声を掛ける。
「見てよこれ、うまく刈り取れたんじゃないか!」
「……」
クロエは俯いたまま鎌を振るっている。
ヒメカはぎこちない笑顔を向けて、めげずに声を掛ける。
「昨日よりも、抜けずに刈れてるぜ!」
少し手を止めたクロエはちらりと見たが、すぐに目線は手元へ行き無言で作業を続ける。
その様子にヒメカは小さく肩を落とす。
(うまくいかないなぁ……無理もないか)
そんなことを考えていたら、手元が狂ってしまった。
根の部分を持っていた左手の小指を、少し切ってしまう。
「いてっ」
血が滴り、地面にぼたぼたと数滴分の染みを作った。
「あちゃー。やっちった」
ずきずきと痛む小指をどう対処しようかと考えていたら、視線を感じた。
クロエが泣きそうな顔で傷を見つめている。
「あー、大丈夫! 大した傷じゃないから、心配しないで!」
慌てて優しく声を掛けたヒメカ。
しかしそれは、逆効果だった。
泣くのを必死で堪えていたクロエの涙腺は決壊し、大粒の涙が頬を伝い地面に落ちていく。
(――まずった、どうすればいい⁉ 言葉はもう届かないぞ)
クロエにどう声を掛けてよいかわからず、ヒメカはおろおろと狼狽えていた。
唐突に抱きしめた。
それはヒメカの無意識の行動だった。
ヒメカの温もりと、ゆったりとした心音が、クロエの強張った心をじんわりと溶かしていく。
とんとんと、リズムよく背中を叩く。
しばらくそうしているとクロエの嗚咽は次第に小さくなった。
ヒメカは腕の力をそっと緩める。
クロエの泣き腫らした顔がヒメカを覗く。
ヒメカは笑顔を作る。それは自然にできた。
その笑顔にようやく安心できたのか、クロエは笑顔を返した。
「不安にさせちゃってごめんな。この傷も唾つけとけば治るさ」
ヒメカの軽い冗談に、クロエは少しだけ肩の力が抜け、頬を膨らませる。
「……薬塗らなきゃダメ。取ってくるから、ちょっと待ってて」
涙でぬれた顔を袖でゴシゴシ拭いたクロエは、よしと、小さく気合を入れる。
その表情には、さっきまでの不安の影はもう消えていた。
クロエは、作業小屋に置いてある救急箱を取りに走り出す。
その時だった――。
近くで土埃が舞い上がり、視界の端に動く影が映る。
冒険者の魔物を載せた荷馬車が、すぐそこまで迫ってきていた。
高評価とブクマありがとうございます!
とてもモチベベが上がります!




