異世界の日常
異世界に来てから、数日が経った。
朝の日課として、ヒメカはあばら家の近くにある井戸で顔を洗っている。
煉瓦で組まれた井戸は年季が入っており、日本人であるヒメカからするといつ崩れてしまうか毎回ひやひやしていた。
地下水は冷たく、顔に触れた瞬間に眠気をどこかへやってしまう。
桶に汲んだ水を見つめる。
そこに映るのは、以前の自分とは似ても似つかない姿だった。
やや勝気そうな目に小さい鼻、形の良い唇がバランスよく配置され、美少女と呼ばれても納得できるものだ。
つややかな黒髪は、肩甲骨あたりまで伸び、やや赤みを帯びていた。
また肌の張りから若いと思ってはいたが、十代半ばほどに見えた。
これが自分の姿とはまだ実感がない――が、数日の生活でいやというほど違いを叩きつけられた。
(……中身、三十五歳のおっさんだぜ?)
ため息が井戸の底に消えていった。
頭をガシガシと掻き、アルフレッドに教えてもらったことを思い出した。
この場所は、魔物に支配された大陸を取り戻すために建造された、最前線の防衛都市だそうだ。
名前をイリガルド。
街の中は六つの区画に整備され、それぞれ特色があるらしい。
巨大な市壁に囲まれた様子は要塞を思わせ、実際に遠巻きに見てみるとその威容は日本から出たことのないヒメカを圧倒し、息を呑む。
(西洋の都市って、こういう感じなのか……)
心の中でつぶやくが、現実感は半信半疑だ。
アルフレッドたちはこのイリガルドの中でも最も身分が低く、最も危険な区域に住んでいるのだ。
天まで伸びていると錯覚してしまうほど大きな市壁の外。
そこから広がる穀倉地帯。
それが行き場のない難民たちの、最後の受け皿として機能していた。
さらにその奥には、外界との境界である城壁がうっすらと見える。
さしずめ万里の長城ってやつか。
その城壁が突破されたら、真っ先に魔物の脅威にさらされるのが彼らだ。
都市の食糧を生産している彼らは、なくてはならない存在だが、心無いものは一定数居るもので、農奴と蔑まれることがあるらしい。
しかし、アルフレッドはその現状を受け入れ、できる限り支えている。
ヒメカは彼らを何とかしてあげたいと考えた。
ただの善意で手を差し伸べてくれるアルフレッドと、見知らぬ土地に来て混乱していた頭を和ませてくれる天真爛漫なクロエの存在に心を打たれていた。
少し物思いにふけっていると、クロエの元気な声が風に乗ってヒメカの耳に届く。
「ヒメカ―。こっちー」
ブンブンと手を振り、弾けんばかりの笑みで呼んでいる。
「今行くよー」
彼女の行動に自然と相好を崩す。
これからアルフレッドの下へ行き、大麦と思わしき穀物の収穫作業を手伝うのだ。
あれから何かできないかと考えたとき、農作業の手伝いが思い浮かんだ。というかそれしかできることがなかったとも言える。
働かざる者食うべからず、だ。
いざやってみるとこれが想像以上に大変だった。
日本時代に鍛えた手先の器用さはあまり役に立たず、求められるのはひたすら体力と根気だった。
こんなことならば、高校生までやっていた剣道を続けておけばよかった。
……待てよ。身体が変わっているから、もしかして関係ないかもしれないな。
アルフレッドの指示のもと、本日は目に映る範囲をできるだけ刈り取るらしい。
(――明日も筋肉痛だ。いやー若さを感じるね)
ぴょこぴょこ動くクロエ。
その横でのこぎり鎌を使い、一心不乱に大麦を地面から分離していく。
ざくっ、ざくっ――小気味よい音が響く。
(今日も相棒がいい切れ味だぜ)
まだ二回目のため、根が抜けてしまい、切る位置も一定ではない。そのたびにクロエに笑われる。
「ヒメカ、また抜けてるー!」
クロエが両手を腰に当て、くすくす笑いながら指摘する。
「初心者だから勘弁してくれ!」
ヒメカも笑顔で応戦する。
次こそはきれいに刈り取ろうと、ヒメカは気合を入れ直す。
初夏の風がじっとりと汗ばんだ身体を駆け抜ける。
見上げると雲一つなく、燦燦と照り付ける太陽。
後ろを見ると、不格好ではあるが大麦が刈り取られている。
ふわりと胸をすくような大地の香り。
程よい疲労感に解放感。
日本で働いていた時は一日が目まぐるしく、工場では親方からの罵声や怒声が飛び交い、息が詰まることも多かった。
こうして風と土に包まれると、都会の人が自然を求めて田舎に移住する気持ちが、少し理解できた。
(こりゃー、気持ちいいわ)
現代日本に夢も希望もなかったわけではないが、将来への焦りとか、ずっと現状維持でいいのかとか――ただ漠然とした不安は常に付きまとっていた。
この景色はそういったものを洗い流してくれる。
長閑な時間は、ここが異世界であることを忘れさせるようだ。
こんな穏やかであれば異世界も悪くはないな。
すると遠くで人が活発に往来しているのが目に飛び込んできた。
馬車が曳かれ、何やら忙しない。
転生初日に見た悪夢がよみがえる。
……血の匂いと白濁した眼。
段々と近づいてくる姿に身構えていると、低く安心感のある声が鼓膜を震わせた。
「あれは……冒険者たちだ」
麦藁帽を被ったアルフレッドが後ろにいた。
こっちにおいでとクロエを引き寄せ、彼らが遠ざかるのを待つ。
「フレッドさん。冒険者たちがあんなにいるのはいつものことなんですか?」
気になり、馬車を見つめるアルフレッドに問いかけた。
「……いや。こんなお昼近くにあそこまで集まるのは珍しいね――何かあったのかもしれない」
場の空気が数度下がった気がした。
大麦を揺らす風のざわめきがやけに耳についた。
不穏な空気を感じ取ったヒメカは、アルフレッドの後ろに隠されているクロエの頭を撫でる。
何かあっても、この太陽のような少女は守らなければならない。
それが――彼女にできる恩返しだった。
やや険しい目つきのアルフレッドは二人に対し、今日は早めに作業を終わらせようと言った。
クロエは状況を理解しているのか、騒がずこくりと頷く。
その後、太陽が傾く前には作業を終わらせて、愛しのあばら家へと帰還した。
アルフレッドは少し出てくると言い残して、クロエの面倒をヒメカに託し、結局クロエが寝付くまで帰らなかった。




