異世界へようこそ
――目を疑った。姫川勇仁は魂の抜けたように立ち尽くしていた。
生まれも育ちも都心であるため、黄金に揺れる麦の穂は海外特集のテレビ番組でしか見た覚えがない。また、遠くに見える西洋風の城壁も映画やゲーム、アニメの中でしか見たことがない。
遠くには人がおり蒼天の下、汗を垂らしながら農作業をしている様子が見えた。
朗らかな風が頬を撫でる。
(あれ? 俺は家の中にいたはずだよな?)
明らかに外である。
久しく嗅いだことのない草木の青々とした匂い。
その香りは田舎の祖父母の家に帰省した時以来である。もう何年も前だ。
郷愁に浸るのも、現実逃避の一種なのだろう。
まずは冷静に。
深呼吸だ。
うん、空気がうまい。
とてもいい空気清浄機を置いているのだろう。
さて、今に至るまでを思い出すんだ。
姫川勇仁。三十五歳男性。
都内の下町工場で働いており、安月給のため、築四十年のボロアパートで独身貴族。
今日は月数回のうちの貴重な休日。
仕事の日は割と重労働のため、趣味に費やす時間があまりない。溜まりに溜まったアニメやゲーム、漫画などを一気に消化してしまおうと、気合を入れるためエナジードリンクをキメに冷蔵庫のある台所の扉を開いたところだ。
そこから自分はおかしくなってしまった。
(何が起こっているの? 怖い。ナンデ⁉)
平静を装おうとしているが、体は正直に震えており、端から見れば挙動不審な変人である。
そんな変人に声が掛けられた。
「そこのお嬢ちゃん、道のど真ん中に立っているとあぶないよ」
聞きなれない言葉が聞こえた。
お嬢ちゃん。
はて、周りに女の子なんているのかと、姫川はあたりを見渡す。
先ほどの声の主は、中世のいかにも農夫といった格好をした初老の男性だ。
そのほかに人影はなく、頭に疑問符を浮かべていると農夫の男性が指をさす。
「あんただよ、あんた。呆けて、どこの子だい?」
指の先を辿る。
それは姫川をしっかりと捉えていた。
左右に身体を揺らす。
すると、その指は獲物をロックオンしたまま離れなかった。
「へ? 俺?」
思わず漏れた声。
その声はまるで女の子のように高く、鈴を転がしたような音をしていた。
喉を触る。
太く大きな喉仏がない。
自慢の低音ボイス(当社比)がもう出せないことに絶望するのも、つかの間。
それも大事だが、もっと大事なことがある。
男性としての象徴。アイデンティティ。
……存在が確認できなかった。
三十五年間男として、様々な経験をしてきた彼(?)にとって、それは別の場所に瞬間移動したことよりも大事であった。
顔を蒼白にし、よろよろと後ずさりをする。
「俺、女の子になってる⁉」
驚きのあまり、大きな声で叫んでしまった。周りに可憐な声が響き渡る。
農夫は怪訝な表情を浮かべた。
「何変なことを言っているんだ? どこか頭でも打ったのかい?」
思いっきり不審人物である姫川に対し、農夫は心配そうに声を掛ける。
姫川はそんな農夫に内心、めっちゃいい人! と思った――違うそうではない。とても冷静になんてなれそうにもなかった。
「あば、あばばばば」
農夫の心配をよそに姫川の頭は現状を処理しきれず、壊れた玩具のように言葉にならない音を繰り返すのみだった。
そんな姫川に遠くから怒声が届く。
「道を開けろぉ! 轢いちまうぞ‼」
反射的に身をすくめ、言われるがままにふらつきながらも道の脇にどいた。
その瞬間であった。
一台の荷馬車が眼前を通過した。
――光を失った、血の色の瞳と目が合った。
それは現実世界においてゲームやアニメといった、サブカルチャーでしか存在しないモノ。
背丈は子供ほどで、緑色の肌をしていた。斬られたのか裂傷が所々見え、そこからまだ血がしたたり落ちていた。
だらりと力の失った首は頭を支えられず、馬車の振動に合わせてガクガク揺れる。
小鬼。
唐突にそんな言葉が頭に浮かんだ。
姫川は息をすることを忘れ、視線はソレにくぎ付けになる。
そう魔物と呼ばれるフィクションに――出会ってしまった。
「マジか……え、ゴブリン⁉」
あまりにも衝撃的な出来事が立て続けに起こったことで、姫川の脳細胞はショートし、自己防衛システムが緊急出動。
そう、ありていに言えば。
失神したのである。




