ひとつの約束
居住まいを正し、ヒメカは現在までの経緯を二人に話す。
「なるほど。……これで合点がいった」
アルフレッドは顎に手をやり、深く頷いた。
「ヒメカが倒れた後、ギルドの連中が君を連れて行った理由が、それで分かった。……〈稀人〉か」
アルフレッドは腕を組み、唸るように言った。
アルフレッドが考え込む中、クロエは相変わらずヒメカの腰にしがみついたままだった。
「それで……その、ギルドはオレを手元に置いておきたいみたいで、街の中に住む権利をくれたんです」
ヒメカは視線を泳がせ、言葉を探すように小さく息を吐いた。
その言葉に真っ先に反応したのはクロエだった。
ガバッ、と顔を上げ、ヒメカを見上げる。
止まりかけていた涙がまたあふれ出てくる。
「……ヒメカ、ここに居ないの?」
クロエの絞り出した声に、ヒメカは返す言葉を失った。
何か言おうとして口を開くが、声が出なかった。
ただただ胸が締め付けられ、潤んだ瞳にたじたじになる。
結局、ヒメカは小さく息を吐き、視線を落とすことしかできなかった。
「……クロエ。これは仕方のないことだ」
アルフレッドの視線が地面に落とされ、静かに喉を震わせる。
どうしようのない現実を飲み込んだ渋い横顔が映る。
「ヒメカはギルドにとって特別な存在なんだ。我々がどうこうできる問題ではない」
アルフレッドの表情は少し寂し気で、優しく諭すような言葉がクロエに届く。
それでも、クロエの肩は震えており、受け入れたくないという気持ちが全身から伝わってくる。
何かを言おうとして、でも言えなくて。
小さな口がパクパクと開いては閉じる。
悶々とした感情は行き場をなくし――
――そして。
「~~~~っ。ヒメカのバカ!」
クロエはヒメカを押しのけ、家の外へと勢いよく飛び出してしまった。
「クロエッ!」
ヒメカは咄嗟に手を伸ばすが、あと一歩のところで空を切った。
追わなきゃ――そう思うのに、足が鉛のように重い。
何を言おうとか、どうすれば泣き止んでくれるのかとか、いろんな考えが浮かんでは消える。
――ええい、ままよ。
ヒメカは重い脚を上げ、クロエの後を追って外に出る。
外に出た瞬間、外気が火照った身体の熱を奪う。
月明りで照らされた麦穂が風にあおられている。
家の前でクロエが膝を抱えたまま、肩を震わせて静かに嗚咽を漏らしていた。
ヒメカはその様子に胸が詰まり、無言でそっと隣へ腰を下ろした。
背中を撫でようと伸ばした手を、止めて戻す。
空はもうすっかりと暗くなっており、夜風が二人の沈黙を運ぶ。
「……あのとき」
ぽつりと漏らしたクロエの声が、風に拾われる。
「……あのとき、ヒメカが傷ついていくのを見て――すごくこわかった」
顔を伏せながら、押し殺した声でクロエは話し出す。
「それで、ヒメカがいなくなっちゃうと思った」
「……」
一言、また一言と堰を切ったように流れ出す。
「――そう思ったら、胸にぽっかりと穴が開いたみたいに何も感じなくなって、今起こっていることが遠くの景色みたいに映ったの」
「……うん」
「ヒメカは魔物を倒してくれて……でもその後、倒れたのを見て、いやだと思って必死で叫んだの」
「……そうなんだ」
「……そんなの、いやだよ……ヒメカ、いなくなっちゃうのはいやだ……!」
しんと静まり返る。
クロエはゆっくりと顔を上げてヒメカを見た。
その顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっており、ヒメカの心を揺さぶった。
「……ずっとそばにいてよ」
しばらく、二人の間には音が消えた。
クロエの悲痛な叫びはヒメカの胸に響き、その思いを真正面から受け止める覚悟を決めた。
夜の冷たい空気を肺の中に満たし、身体の中で温められた熱を決意と共に吐き出す。
「――ごめん。今はまだそばに居られない」
その言葉にクロエは顔をさらに歪める。
ヒメカは深く息を吸い、吐き出す。
ふと、あの日の胸の痛みが蘇った。
見るもの、感じるもの――すべてが未知であり、まるで世界から目隠しされたあの瞬間。――クロエの天真爛漫さが救いだった。
それは日本で灰色の日々を送っていた自分にとって、とても眩しく、とても温かかった。
ヒメカはしっかりと目を見据え、言葉を口にした。
「でも、必ず迎えに来る。――約束だ」
声はもう震えていなかった。
腰に付けたポーチから小袋を取り出す。
中を開くと素朴な木製の櫛が静かに、けれど力強くそこにあった。
油で仕上げてあるのか、つるりとした手触りが指に伝わる。
ヒメカはクロエの手を寄せて、握らせた。
「まだ、これだけしか渡せない。――けど、いつかもっと沢山のものを一緒に選びに行こう」
クロエはその手の中にある櫛をじっと見つめる。
それは、芯まで凍えてしまった心を溶かしていくような――温もりを感じた。
その瞬間、クロエは思った。
――この人は約束を違えないと。
真剣に、真摯に私に向き合っているのだと。
ならば答えなければいけない。
いつまでも小さな女の子ではいられない。
顔にへばりつく涙と鼻水を、服の袖でゴシゴシと拭いた。
そして、まっすぐヒメカを見つめる。
「――わかった。待ってる。わたしはもう子供じゃないから」
クロエの今までとは違った眼差しに、ヒメカはようやく安堵する。
それと同時に、彼女の強さに驚いた。
幼いながらも、この過酷な世界を生きているだけある。
生きることに対しての価値観がまるで違う。
それは平和な日本で生まれ育ったヒメカにはないものだ。
その時、布袋からポロリと落ちた物があった。
露店商からおまけでもらった赤い髪紐だ。
そういえばと、ヒメカは思い出して拾い上げる。手ではたき汚れを落とした。
「これ、貰ったんだけど――クロエ、着ける?」
手に載せて問う。
クロエは少し考えるそぶりを見せた。
ややあってクロエは赤い髪紐を受け取り、ヒメカの背後にまわる。
「ヒメカに着けてあげる。何度も鬱陶しそうにしてたでしょ」
クロエの優しい声音に、ヒメカは無言で頷き、髪を結びやすいように頭を差し出す。
櫛が、髪を通る。
櫛の歯が地肌をやさしく掻く。
髪の毛の一本一本がまっすぐになっていく。くすぐったくも、気持ちの良い、心地よさがヒメカの瞼を下ろさせた。
さわさわと夜風が髪を撫でる。
壊れ物に触れるような優しい手つきにしばらく身を任せていると、少し髪が引っ張られる感覚があり、紐の軋む音が耳朶を打つ。
「――できた。うん。ばっちり」
目を開け、髪を触ると一本結びでまとめてあった。
頭をぶんぶんと振る。髪の毛が顔を叩かない。
これならば、ヒメカでも簡単にでき、なおかつ煩わしくない。
「クロエ、ありがとう。大事にするよ」
若干照れ臭く、頬を掻きながら感謝の気持ちを伝える。
「どういたしまして。……ヒメカも櫛をありがとう。宝物にする!」
クロエは満面の笑みでヒメカにお礼を言う。
調子が戻ってきた様子のクロエに、ヒメカもつられて笑みをこぼす。
「へっくち」
クロエのくしゃみが響く。
初夏とはいえ夜はまだ寒く、身体を冷やしてしまったようだ。
「家の中に戻ろう」
ヒメカの言葉にクロエは、ずびっと鼻をすすりながら頷いて手をつなぐ。
つないだ手は冷たかったが、不思議とさみしくなかった。
この小さな手の温もりを忘れない。
扉の向こう、灯りの中にアルフレッドの微笑みがあった。
手の中の温もりを確かめながら、ヒメカは一歩、光の方へ踏み出した。
色々と感情が動いて疲れたのだろう。クロエはヒメカの膝の上に頭を載せて寝てしまっていた。その手には大事そうに櫛が握られていた。
その小さな寝顔を、ヒメカは静かに撫でた。
アルフレッドもそんな二人の様子に頬が緩んでいる。
心が休まる空間。
お互いがお互いを信用し、信頼し、信愛している。
ヒメカはこの場所を守りたいと思う。
しかし、この難民街ではそれがいつまでも保たれる保証はない。
いつまた、前のように魔物が襲ってくるかわからない。
少しでもその危険を遠ざけるためには、彼らを比較的安全な市壁内に連れてこなければ。
異邦の自分を受け入れてくれた、この二人の恩に報いたい。
たとえそれがお節介でも、自己満足だとしても、構わない。
これが今の自分にできる精一杯なのだから。
覚悟は、できた。
この異世界で、どう生きるか。
ヒメカは静かにアルフレッドに言った。
「アルフレッドさん。――お話があります」




