プロローグ
――一閃。
鋭く放たれた刀の通った後が、赤い線となってその体に刻まれる。
「ギャギャギャッ~~⁉」
緑色の小さな体躯。
俗にいう小鬼と呼ばれる魔物は、驚きと痛みを混ぜた断末魔をあげて倒れ込む。
背後に迫っていたもう一体の小鬼を振り返る一瞬で斬り捨てる。
そいつは首を落とされ、声をあげる間もなく絶命。
苦悶に満ちた首が転がり、足元に血だまりを作っていく。
ヒメカはしばらく残心を解かずに周囲を警戒する。
ここは〈シルト大森林〉。
名前の通り深い樹海であり、人の手があまり及んでいないためか、巨木が立ち並ぶ。
そこら中に動物の鳴き声や、草木を踏みしめる音、虫の羽音が響いている。――そして時折聞こえる魔物の声。
小鬼の流れ出た血が足に触れる瞬間に、彼女は残心を解いた。
やや赤みを帯びた黒髪は一つ結び――所謂ポニーテールというやつだ――にしてあり、頭を動かすたびに踊っている。
意志の強そうな勝気な顔は、油断なく周囲を睨みつけている。
何より特徴的なのがピンと尖がった長い耳だろう。
音を探るたびにピクピクと動くそれは、エルフを思わせる。
彼女の名前はヒメカ。
刀を勢い良く振ることで、付着した血と油を落とす。
そして、流れるような動作で刀を鞘に納めた。
そこでようやく、ふぅ、と短く息を吐いた。
(結構奥まで来たのに小鬼しかいないな)
拍子抜けといった感想を抱いた彼女は、討伐した小鬼の剥ぎ取りをしようと腰に装備した小型のナイフの柄を握る。
――ガサッ。
遠くに何か聞こえた。
瞬時に刀をいつでも抜けるように反応したヒメカは、音のした方へ視線を向けた。
段々、バキバキと木をなぎ倒す音や地響きかと思う低い唸り声が聞こえてきた。
やがて、巨影が姿を見せる。
――〈棘茨熊〉。
この魔物は、初心者を脱したところでぶつかる壁として君臨している。――この魔物を倒せるか否かで今後の進退が決まると言っても過言ではない。
大きく手を広げて威嚇するソレは、ヒグマの手足に凶悪な茨が巻きついており、見るからに殺意が高い。
「はッ! 上等だ。これぐらいじゃなきゃ上は目指せないんでな。オレの踏み台になれ!」
刀をぬらりと抜き放ち、歯を剥き出しにして笑う。
それに合わせるかのように〈棘茨熊〉は咆哮する。
両者は睨み合い、間合いを図る。
じりじりと近づき、ヒメカの足が木の枝を踏んだ。
――パキリと乾いた音が響く。
その音を合図にヒメカは一気にトップスピードへ。
ヒメカは〈棘茨熊〉の身体の半分にも満たない自身の身体を前傾にすることで、奴の視界から消える。
急に獲物が見えなくなったことで、〈棘茨熊〉は一瞬硬直した。
その隙を逃さず、ヒメカの白刃が煌めく。
後ろ脚を狙った一撃は茨に阻まれ、傷をつくることは叶わなかった。
「~~~~堅ってぇな!」
それでもヒメカの顔は笑みを崩さない。
突如感じた鈍い衝撃に〈棘茨熊〉は激高し、ヒメカの身体を押しつぶす様に転がった。
ヒメカは大地を蹴って、素早く距離をとることでこれを回避。
鉄を殴ったかのような感触に、手がびりびりと痺れる。
「そうこなくちゃ」
痺れる手をブンブンと振り、吐き捨てるように呟く。
先ほどの小鬼とは比べ物にならない魔物に闘志は燃える。
〈棘茨熊〉は立ち上がり、ヒメカをぎらついた眼で睨んでいる。
今度は熊の魔物が先に動いた。
手に巻き付いている茨をヒメカに向かって飛ばす。
迫りくる茨を見切り、寸でのところで躱す。
鞭のように大きくしならせた茨は、風切り音を伴ってヒメカの真横を通り過ぎ、地面をえぐり飛ばした。
その威力に内心ビビりながらも、ヒメカは前へ出る。
近づかせまいと、〈棘茨熊〉は両手の茨を縦横無尽に振り回し、周囲を破壊していく。
それはまるで茨の結界。
触れるものを容赦なく細切れにしていくソレを、ヒメカはすべて難なく回避する。
「これぐらいのことができなくちゃ、冒険者なんてやっていけないんだよ!」
元おっさん、ヒメカの魂の叫び。
嵐のような茨を抜け、懐に入る。
「ガアアアア⁉」
焦ったように叫ぶがもう遅い。
横一文字。
深く、臓腑を裂く一撃。
斬られた箇所からどす黒い血があふれ出し、ヒメカを染めていく。
と、そこへ剛腕が振り下ろされる。
さすがは〈棘茨熊〉だ。
痛みを押しのけ、即座に反撃に移るあたり、低ランクの魔物とは一線を画している。
風圧でひらひらと舞う蝶のようにその攻撃を回避したヒメカは、手を向け、ある言葉を呟く。
「――爆ぜろ〈火球〉」
不可視の力がヒメカの目の前に火を熾し、球体を形成する。
それは小さな太陽のような輝きを放ち、熱波が顔を炙る。
そして――射出。
空気を焦がしながら進む火球に〈棘茨熊〉は避けようとするが、斬られた箇所が痛むのかうまく動けない。
激突。
――爆発。
爆風が熊の身体を焼く。
ヒメカは爆発の瞬間に熊の背後にまわっており、火球の爆発をうまくやり過ごす。
爆風をモロに受けた〈棘茨熊〉は白目を剥き、毛皮を燻らせながら、前に傾き始める。
前傾になり昇りやすくなった背中を駆け上がるヒメカ。
「これでしまいだ!」
肩に足を乗せ仁王立ちになったヒメカは、手に持った刀を〈棘茨熊〉の脳天に突き刺した。
ずぶりと沈んでいく刀身。
地面を大きく揺らして、魔物はその体を投げ出した。
動かないことを確認したヒメカは、刀を引き抜く。
刀を濡らした血が滴り、地面に赤い染みをつくる。
懐から布を出して、刀身を拭う。
魔物の死骸の上で細く長い息を吐く。
咽かえるような血の匂いに、ヒメカは顔を顰めると同時に乾いた喉を潤すため、腰に括り付けた水筒を取り外し、中身を口に含む。
清涼な水が、身体の内側の熱を流してくれる。
――これが現実。
今ヒメカがいるこの場所、この瞬間が紛れもない現実だった。
鼻腔をくすぐる鉄の匂いも、濃密な草木の香りも、足蹴にしている魔物と呼ばれる化物も。
すべてが、そこにあって、ヒメカの常識を塗り替えてしまった。
再度溜息を吐きながら、刀を仕舞う。
脳裏に浮かぶのは今では記憶の片隅に追いやられた、現代日本の生活。
ヒメカは周囲を警戒しつつも、あの日の、あの温かい光景を思い返していた。
そう、訳も分からず放り出された異世界にヒメカ――いや、姫川勇仁の人生は大きく変わってしまったのだ。
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