第1章《祈りは、呪いを越えて》第三話《記録されない者》
――魂が変われば、観測される。
けれど、変われなければ──ただ、置き去りにされるだけ。
第三話では、現代の少年・橘遥斗の視点から、
「観測されない者」としての痛みと孤独を描きます。
痛みを抱えても、誰にも見えない。
魂波形は0.0%──何も“起きていない”と判定される現実。
それでも、確かに存在する感情。
見えなくても、聞こえなくても、胸の奥で確かに疼く痛み。
これは、“記録されない痛み”の物語。
ソムニアにもObserverにも届かない、
けれど確かに“生きている痛み”に触れていただけたら幸いです。
朝のダイニング。
まだ眠気の残る空気のなかで、録画番組の音声だけが、淡々と室内を満たしていた。
──昨夜放送された特別報道番組《真相レポート24》。
橘家ではその録画を、朝食のBGM代わりに再生していた。
画面に映るのは、魂と痛みに関する国家報道。
そして、十傑No.6《シグマ》によるインタビュー。
魂波形とObserver、痛みによる変化。
理解は追いつかなくても、ただの“他人事”として流すには重すぎる話題だった。
美月がそっとリモコンを手に取り、番組を一時停止する。
「……やっぱり朝から重いわね。CM、飛ばさずに観ようか」
冗談めかしたその一言と共に、画面が切り替わる。
──♪《NEW!魂波形スキャナー付きブレスレット「リヴェリア」》♪
ホログラムに浮かび上がる、金属の光沢を帯びたブレスレット。
それを身につけたモデルたちが笑顔で手をかざし、空中に数値が踊る。
> 「あなたの魂、いま何%?」
「パーセプション時代の新常識──魂波形を見える化!」
「……あ、このCM。昨日も見た」
美月がコーヒーを口にしながら、ぽつりと呟く。
「これ欲しい! 父さん、買って~!」
ひまりが身を乗り出し、テレビを指差す。
「ひとつ三万円。はい却下」
即答する母。
「そ、そうだな……使い道もないしな」
新聞をたたみながら、父・将志が曖昧に相槌を打つ。
「全人類にPerception Systemが入ってるっていっても、
ほとんどは“波形ゼロ”のままなんだろ?
……うちだって、みんなゼロパーセント」
「私は……一%って出たわよ」
ぽつりと、美月が言った。
「えっ、母さんが一%!?」
将志が目をむく。
「それって、成人男性並の筋力ってやつじゃ……」
「父さん、ケンカしたら負けるね、確実に」
ひまりが笑いながら茶化す。
「最近、買い物が楽になったのよ。
荷物、軽く感じるの。不思議と」
コーヒーの表面を見つめながら、美月はぽつりと続けた。
「力を“生活”に活かすなんて、母さんらしいでしょ?」
小さな笑いが、朝の光の中にほどけていく。
──ただ一人、テーブルの端でパンをかじる少年だけが、黙していた。
橘 遥斗。十四歳、中学二年。
テレビも、会話も見ず、彼の目はどこか遠くを見ていた。
そのとき、誰にも届かぬ深淵──
彼の《魂の領域》に、ひとつの数値が浮かび上がる。
> 《魂波形値:0.0%》
誰にも見えない。知ることもない。
家族でさえ、それに気づく術はなかった。
──やっぱり、自分には何も起きないんだ。
刻まれた沈黙の数値が、
世界と彼との間に、目に見えない線を引いていた。
ただひとり、自分だけが──
何かの「外」にいるような気がしてならなかった。
◆
──五限目、直前の教室。
昼休みの終わりを告げるチャイムが、遠くで鳴っていた。
淡く差し込む午後の陽光が、雲の切れ間から教室を照らす。
生徒たちの雑談と足音が交錯するなか、ひとり、飼育箱を見つめる少年がいた。
橘 遥斗。
箱の中で、亀がのろのろと動いていた。
鳴かず、語らず、ただそこに“ある”存在。
──まるで、自分自身のようだった。
「見て、また亀の世話してる」
少女の声。A子。
「ほんと、毎日飽きないんだね」
B子の笑い。遥斗は反応しない。
「地味すぎ。なんか気持ち悪くない?」
「勉強より真剣かもね」
「ちょっと、イタズラしよっか」
「……え?」
「烈火に言ってやるの。“遥斗が亀いじめてた”って」
「それ……」
「冗談だよ。ただの“罰”。空気も読めない雑魚に」
A子に逆らえば、自分が次の標的になる。
それを口にする者はいない。ただ、視線を逸らすだけ。
「ねえ聞いた? あいつ、さっき甲羅叩いてたよ」
「マジ……最低じゃん」
──その言葉が、届いたのだろう。
カツ、カツ、カツ──
廊下から響く重い足音。
教室のドアが、バン、と荒々しく開いた。
黒崎 烈火が、教室に入ってくる。
「……おい、橘」
その声が、教室の空気を揺らす。
遥斗が顔を上げるより早く、拳が振り下ろされた。
──鈍い音が響いた。
遥斗の頬をかすめた拳が、彼の体を横に吹き飛ばす。
机が揺れ、ノートが床に散らばった。
「……すげー吹っ飛んだ」
「烈火、魂波形“1%”あるし」
「担任と同じだもんね。そりゃ強いよ」
烈火は肩で息をしながら、倒れた遥斗を見下ろす。
「──亀、いじめてたんだってな」
「……え?」
「動物いじめるやつとか、マジ無理。
お前さ、そういうとこあるよな」
「ちょ、違──」
「違くねーよ。みんな見てたって言ってたし」
拳を鳴らし、ニヤリと笑う。
「正義の鉄槌っつーの? わかる?」
「“やっていい奴”は、やられる覚悟、あるよな?」
──その“正義”の名を借りた暴力が、
教室の空気に、音もなく浸透していく。
A子もB子も、笑っていない。
誰も止めない。誰も肯定しない。けれど──誰も逆らおうとしない。
烈火はしばらく遥斗を見下ろし、それから鼻で笑って背を向けた。
「ったく……気分悪ィ」
──その背に、冷たい足音が重なる。
扉の前に立つのは、黒髪ロングの少女。鋭い眼差し。制服の乱れもない。
2年A組、生徒会長──北條 美琴。
「……うるさいわよ、黒崎」
静かな声が、教室の空気を凍らせた。
烈火が鼻で笑う。
「おや、生徒会長さま。正義のつもり?」
「あなたの魂波形値、1%よね。
でも──私は、4%」
左手首の《リヴェリア》が、静かに光を放つ。
一瞬で、力関係が塗り替えられた。
「……成人男性が複数相手でも制圧可能な数値。
まあ、理屈の話だけど」
烈火は口を閉ざし、一拍おいて──
「……うぜぇな」
と吐き捨てて去っていった。
静寂が、教室を満たす。
美琴は無言のまま自席に戻り、ノートを開く。
ペンを手に取り、いつものように問題集の続きを解き始める。
だが──書き込む手の裏側で、思考は別の方向へと流れていた。
(……たったの4%。教室では通じても、社会じゃただの暴力)
(強さって、そういうことじゃない)
(本当に強いのは、こっち)
(知識、論理、計画──“正しさ”は、言葉で証明できるものだけ)
> 美琴は信じている。
「強さ」とは、魂の数値ではない。
どんなに殴りかかってくる相手にも──
言葉で、論理で、現実で勝つこと。
ふと視線を上げると、倒れた遥斗がゆっくりと起き上がるのが見えた。
視線が交錯する。一瞬だけ、目が合った。
整った顔立ち。凛とした瞳。そして、わずかに香る甘い匂い。
──けれど、すぐに視線は切られる。
まるで「見ていた」のではなく、「確認した」だけ。
(やっぱり……俺のこと、軽蔑してるんだ)
殴られても、黙ってた。何も言えなかった自分。
「ありがとう」すら、喉が詰まって出てこなかった。
(こんな自分が、助けられて、何を言える)
遥斗は、ただその背中を見つめていた。
──でも。
正しさで守られても、痛みは消えない。
黒崎の拳は、痛かった。
それに“1%”の魂波形が加わると──骨の芯まで、響いてくる。
遥斗は自分の席に戻り、散らばったノートを拾い集める。
ふと指先に触れた紙の端が、ひどく冷たく感じられた。
──誰もが「波形」を語り始めた。
テレビも、家庭も、教室も。
魂の数値が、見えない格差のように、人の「価値」を可視化していく。
そして──自分は「0.0%」。
(この世界で、自分はどこまで行けるんだろう)
誰も、答えてくれない。
ソムニアも、Perception Systemも。
──いまの彼には、何の声も発してくれなかった。
けれど──
遥斗の胸の奥には、痛みが残っていた。
頬の腫れた部分ではない。
言えなかった「ありがとう」の代わりに、
胸の奥でうずくような、確かな痛み。
> それは、誰にも記録されない。
> 魂波形にも、Perception Systemにも。何ひとつ、残らない。
けれど──彼は知っていた。
この痛みだけは、たしかに「自分のもの」だと。
「……俺にも、いつか力が宿るって信じてた。
“魂波形”さえあれば──烈火にだって、抗えるって」
(彼の胸の奥で、キィィン……と微かな電子音が鳴る)
> 《Perception System 起動──共鳴波形:反応なし》
遥斗(目を見開く)
「……え?」
(視界がかすかに揺らぎ、教室の空間が淡く変質する。
誰にも見えない、小さな波のようなエフェクト)
遥斗
(祈るように)
「これって……もしかして……来るのか?
今度こそ──魂波形が……!」
(立ち上がりかけたその瞬間──)
> 《記録対象外の魂活動を検出──ログ残存率:0.01%》
《観測対象候補:再スキャン待機中》
遥斗
(高鳴る期待)
「上がれ……! お願いだ……
何でもいい、もう“ゼロ”じゃないって、証明させてくれ──!」
> 《現在の魂波形値:0.0%》
《未知の観測誤差が検出されました、誤差は修正されました》
(沈黙。全てがなかったかのように消えていく)
遥斗
(喉の奥から言葉が漏れそうになるが──)
「……なにも、起きなかった」
(彼の目の前で、**《0.0%》**の数字だけが冷たく浮かび続ける)
《ソムニア》には、観測されなかった。
魂が、何も“変化”しなかったから。
殴られても、黙っても。
何ひとつ、意味がなかった。
──ソムニアなんて、いらない。
消えてしまえばいいのに。
遥斗は、そう願った。
けれど──
それすらも、《魂波形値:0.0%》の彼には、
“記録される痛み”にすらなれなかった。
(→第四話へつづく。)
第三話《記録されない者》をお読みいただき、ありがとうございました。
今回描いたのは、“観測されない”者の現実です。
Observerに選ばれない。
魂波形が0.0%のまま、痛みも変化も記録されず、ただ“見過ごされる”。
それは、遥斗に限った話ではありません。
現代の社会のどこかにも──
痛みを抱えたまま、「見えない存在」として生きている誰かがきっといます。
それでも遥斗は、その痛みを「自分のもの」として感じていました。
「記録されない」と切り捨てられても、
その感情が確かに“そこにあった”ことを、彼自身だけは知っていた。
誰にも見られない痛みでも、意味はある。
第四話では、彼の“魂の境界”が、初めて揺らぎます。
それが変化か、破滅か──
どうかその過程を、静かに見守っていただければ嬉しいです。