故郷へ錦を飾るとは
疲れた。つぅかぁれぇたぁ~。
安田記念での死闘の翌々日。郷田厩舎の自分の馬房に戻ってきている私だったが、まだまだ抜けないレースの疲労のせいで、私は馬房の中でくたばったように寝っ転がっていた。
とはいえ疲労困憊で動く気力はないものの、私の身体はほとんど怪我のない健康体である。
安田記念の後、転倒の影響を調べる為全身くまなく検査された私だったが、診断結果は問題なしだった。
転んだ拍子にお腹を擦りむいてしまい、そこは今でもちょっとひりひりしているが、その位である。
私の検査を担当した医者は『あんなに派手に転んでかすり傷一つで済むなんて、奇跡としか言いようがない』と目を丸くしていた。
ちなみに東條の方も大事はなかった。あいつは空の彼方に飛んで行った後、落下の衝撃であばら骨に一本ヒビが入ってしまっていたそうだが、その程度で済んだらしい。
『あの速度、あの高さから落下して無事だなんて、東條騎手は受け身の達人か何かなんですか?』とは、東條を検査した医者の言葉だそうである。
東條はあばら骨のひびのせいで、胸を逸らすような動作をすると痛みが走るそうだが、それも我慢できる程度。
何週間か激しい運動を控えれば、骨のヒビもくっつくのだそうだ。
自分達のことながら、人馬揃って本当に運のいいことある。
ただ、私にも東條にも大きな怪我がなかったのは良かったが、レース疲れについてはなかったことにはならなかった。
私の疲労は、現在主に食欲減衰という形で表れている。
喉は渇いているしお腹も減っているのだが、疲れ過ぎていてご飯と水が喉を通らないのだ。
それでも無理に何かを食べようとすると、オエっとしてしまう。
それもこれもヴィクトリアマイルと安田記念が大変過ぎたせいだ。オエッ。
郷田先生曰く、私は2連戦までなら無茶が利く馬であるらしい。
桜花賞の後のNHKマイルとか、今回のヴィクトリアマイルの後の安田記念だとかが良い例だ。
1戦目でどれだけ疲労したとしても、その疲労をある程度無視して2戦目に挑める。それが私の競走馬としての強みの一つなんだそうだ。
ただし、2戦目走り終えた後は、2戦分の疲労が一気に襲ってきてダウンしてしまう。
つまり、今の私がまさにその状態だ。
郷田先生め。あの人は私がそういう体質であることを見抜いた上で、ヴィクトリアマイルと安田記念の、2連続消耗戦なんていう無茶なレースプランを組んだらしい。
テクノスホエールに勝つ為には仕方ないことだったとはいえ、鬼畜の所業である。
なにせ、私がレース後にこんなにへばると分かっていて、敢えてそれをやったということなのだから。
おのれ、優しい人だとずっと信じていたのに、勝負の鬼か何かかあの人は。
今の私は安田記念の疲れと、回復させたつもりでしっかり蓄積していたヴィクトリアマイルの疲れに同時に襲われており、過去最大級に絶不調だ。
なんなら脚の骨を折った時だってこんなには疲れてなかった。
今の私に必要なのは休息だ。とにもかくにも寝ることだけが私を救う。
という訳で、ちょっとでも疲労を抜くため空いた時間で昼寝に勤しもうとしていると、いつものように厩務員の小野がやって来た。
私の餌桶を見て、それが減っていないのを確認し、残念そうな顔をする。
うっとおしい。小野は本当に態度がいちいちうっとおしい。
いいから私の部屋の掃除だけしてとっとと出て行けと思っていると、小野はカットしたリンゴを用意し、それを私の口元に差し出してきた。
いらねえ。そして小野、やっぱりお前は何にも分かっていない。
今の私の状態は、甘い果物なら食べられるかもとか、そういうのじゃないのだ。
体が食べたり飲んだりを受け付けてくれないのである。食べ物も飲み物も、喉を通らない状態なのである。
お腹は空いているのだ。喉も乾いているのだ。なのに身体が疲れ過ぎていて、食べれないし飲めないのだ。
そんな私の前に、これ見よがしに美味しそうなリンゴを持ってくるなんて、お前それは一体何の拷問のつもりなんだ。
リンゴの匂いが鼻をついて、お腹が減る。リンゴが果汁でキラキラと輝いて、思わず喉を鳴らした。
でも食べれない。体が食べ物を受け付けてくれない。オエッ。
頼むからそのリンゴを私の側に持ってくるなと、抗議の意味を込めて小野の手に鼻息を吹きかける。
すると小野は分かってくれたのか、私にリンゴを差し出すのをやめ、引っ込めくれた。そしてリンゴを持って私の馬房を立ち去っていく。
おお、珍しく小野が私の気持ちを分かってくれた。あいつも厩務員としてちょっとは成長しているということだろうか。
安心していると、少ししてからまた小野が私の房に戻ってきてしまった。食べやすいよう細かく千切りにしたリンゴを皿に乗せて。
違う。そうじゃない。なんでお前はそうなんだ小野。なんでお前はいつもいつも私の気持ちを分かってくれないんだ。
小野が笑顔で私の顔の前に千切りリンゴを差し出してくる。
千切りにされたリンゴは、空気に触れる果肉の面積が増えた分、先ほどよりも強い匂いを発していた。
おえっ。その匂いがより強く私の食欲を刺激する。でも私の喉はやっぱり食事を受け付けてくれない。オエッ。
くそぉ、これじゃ本当にただの嫌がらせじゃないか。一体小野は何の恨みがあって私にこんな酷いことをするのか。
小野、お前はいつになったら郷田先生や東條のような、私のことを分かってくれる人間になるんだ。
私の関係者でこんなに空気が読めない奴、お前しかいないんだぞ本当に。
でも前世の頃の記憶だと、こういう小野みたいなタイプの人間は、何年経ってもずっと空気が読めないままだった気がする。
なんて最悪なんだ。そんな小野に絡まれ続けるこれからの私の生活を考えると、絶望しか感じない。
テクノスホエールに挑んだ時より絶望を強く感じるってどういうことだ小野。
ほ、放牧だ。もうすぐ夏だ。なんなら気温や湿度はすでに真夏並みだ。
早く放牧に出して貰って、小野のいない巴牧場に避難させて貰おう。
ようやくテクノスホエールに勝てたと喜んだのもつかの間、レース疲れと小野との戦いに、私は精神を苛まれる羽目になったのだった。
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そんなこんなで7月の初旬。ちょっとずつ水やご飯を食べられるまで回復した私は、巴牧場に放牧のため帰って来た。
胸を張っての堂々とした帰省だ。前回の放牧は、テクノスホエールに惨敗して心身ズタボロの状態での帰省だった。
今回は違う。勝てなかったという負い目も、自身の不甲斐なさに対する羞恥心もない。故郷へ錦を飾るとは、きっとこういう気持ちのことを言うのだろう。
巴牧場の土を踏みしめ、北海道日高の高い空を見上げる。
大きな入道雲、白い夏の日差し、どこまでもどこまでも澄み渡る空。
子供の頃から何度も見てきたはずの日高の空なのに、ここの空はこんなにも綺麗だったのかと、初めて気付いたような気持ちになる。
負けて俯いていたら一生気付けなかった青さが、そこにはあった。
大きな大きな勝利を挙げたから、初めて気付けた青さが、そこにはあった。
青空の下で思いっきり空気を吸い、吐く。懐かしい巴牧場の匂いだった。
私は久しぶりに、勝って故郷に帰ってきた。
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「おや?」
母が体調を崩していたため会えなかった前回と違い、今回はいつものように母の下へ私は通された。
普段なら私が帰ってくると嬉しそうに近寄って来てくれる母。しかし、今回母は私の顔を見るや不思議そうに首を傾げた。
そしてソロリソロリと私に近付いて来て、確認するように私の匂いを嗅ぎ始める。
「……ただいま、お母さん」
「ああ、やっぱり私の娘だ。お帰り、娘よ」
声を掛けると、ようやく私だと分かってくれたのか、母がいつもの優しい顔になる。
「しばらく会わない内に見違えたね。一瞬誰だか分らなかったほどだよ」
立派になったと、母はしみじみと言ってくれた。
何気なく言った母のその一言が、私の心の真ん中にぐっと響いて、ぽかぽかとした熱になって体の中を温める。
「うん。牧場の外でね、色々あったんだ。本当に、色々あったんだよ」
言って、私は自分の首を母の首に重ね、ハグするように毛づくろいをする。
母も同じように私に毛づくろいをしてくれる。
しばし母娘で抱擁し合っていると、後ろから何やらニヤニヤした顔の妹が現れた。
こいつ、最近郷田厩舎で姿を見ないと思っていたが、私より先に巴牧場に帰って来ていたのか。
「ネエ、ネーサマ」
「なんだ、妹」
「カーサマはワタシノコト、スグワタシってキヅイテクレタヨ?」
自慢げに胸を張って見せる妹。
何というか、こいつは本当に、いつまで経っても変わらない奴である。
「お前はずっと可愛いままだねぇ」
母がしみじみと、でもなんでかちょっと嬉しそうに妹に言う。
「ウン、ソウ。ワタシカワイイノ」
その可愛いは多分誉め言葉だけの意味じゃないぞと思いつつ、私は呆れながらドヤ顔の妹を見た。
これ、母の教育もあんまり良くないと言うか、妹の性格の原因やっぱり母だなと、私は改めて思ったのだった。
次話が少し短くなったので、本日2話更新します。夜8時に投稿予定です。
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