GⅠ ヴィクトリアマイル出走前 ~憧れへの挑戦~
来た。ついに来た。来てしまった。
5月第2日曜日、ヴィクトリアマイル本番の日がやって来た。
舞台となる東京競馬場のパドックには、私含め今日出走する全18頭の牝馬が集められている。
出走馬の内訳は、何度か見たことがある私と同い年の牝馬が数頭。しかし、それ以外の半分以上の馬は、今日初めて見る私より年上の牝馬達だった。
4歳から参加可能な古馬戦であるヴィクトリアマイルでは、当たり前だが4歳である私の世代が一番の年下である。
去年のマイルCSの時は、テクノスホエールに興奮した牡馬達の、みっともない姿にばかり目がいった。
しかし、流石に今日の牝馬限定のレースには、脳みそが下半身と直結しているような馬鹿馬は見当たらない。
皆、経験を積んだ古馬らしい落ち着きを見せながら、お利口にパドックを回っていた。
私もまた、そうした先輩達の列に加わり、人間に誘導されるままパドックを周回している。
今日私が付けるゼッケンは1番だ。私の後ろには、2番のゼッケンを付けた馬が続く。そして円形のパドックにおいて、1番ゼッケンの私の前を歩くのは、一番後ろの番号を付けた馬。大外18番の美しい黒馬だった。
テクノスホエールだ。18番のゼッケンを付けたテクノスホエールが、今、私の目の前をカッポカッポと歩いている。
いつもと変わらないパドックであるはずなのに、目の前に自分を負かした相手がいると思うと、どうにも落ち着かない。
この馬に勝つ為に、私はここに戻って来た。この馬に負けたまま生きていくのが嫌で、私はこの馬に挑戦すると覚悟を決めて来た。
去年の11月に負けてから、半年近く思い続けた相手を目の前にして、私の心に浮かぶ感慨は、『やっぱりこの馬は美しい』だった。
去年初めて見た時から、少しも色褪せぬ漆黒の毛並み。見る者の視線を奪う大きな大きなその身体。ただ歩くだけで、走れば速いと分かるその威容。
相も変わらず見惚れるほどに美しい馬だった。私が初めて出会った、母以外に初めて憧れを抱いた馬は、今日も強く、大きく、美しかった。
私の憧れそのままの姿を、彼女は今日も私に見せつけてくる。
それから目を逸らしたくなくて、ここで目を逸らして俯けば、一生彼女のようにはなれない気がして、私は自分を奮い立たせるように前を歩く彼女の尻を睨んだ。
じっと、他の馬の毛並みチェックもせず、じぃっと彼女の尻を睨んだ。
するとどうしたことだろうか。その尻が私に近付いてくるではないか。いや、本当にどうした。何故前を歩くテクノスホエールの尻が、私に向かって迫って来る!?
私が思わず自分の歩調を緩めたのもつかの間、テクノスホエールは私の隣に並ぶように位置取ると、私の首に顔を近づけ、スピスピと鼻を鳴らし始めた。
……なんだこれは。本当に何をしているんだこの馬は。
突然パドック周回の列を乱したテクノスホエールに、その綱を曳いていた人間は分かりやすく慌てている。
しかし、そんな人間の動揺など知らん顔で、テクノスホエールはマイペースに私の匂いを嗅ぐ行為を止めようとしない。
私の綱を引いていた人間も、これには困惑気味だった。
テクノスホエールにまとわりつかれながら歩くのが落ち着かなかったので、私も歩くのを止めてしまうことにした。
言うことを聞かなくなった私とテクノスホエールの様子に、人間達が困ったような顔を見せているが、知ったことではない。
よく分からないまま、私はなるべく動かないようにし、テクノスホエールのやりたいようにやらせることしばし。
1分程じっとしていると、テクノスホエールはようやく満足したのか、私からその顔を離した。
彼女が何をしたかったのかは結局よく分からないままだが、彼女の用は済んだようだったので、私は再び歩き出してパドック周回の列に戻る。
テクノスホエールもスタッフの誘導に従い、何事もなかったかのように列に戻った。
今のは一体何だったのだろうか。去年レース後に倒れた私のことを、まさかテクノスホエールは覚えていたのだろうか。
私が怪我して倒れたことを覚えていて、ちゃんと元気になっているか確認するために寄って来たとか?
流石に馬であるテクノスホエールが、そこまで人間的な行動はしないと思うが、しゃべれない彼女からその真意を聞き出す方法もまたない。
ただ、テクノスホエールに匂いを嗅がれている間、私は何故だか仔馬の頃のことを思い出していた。
母と一緒に暮らしていた頃の記憶だ。私はいつでも母の側にべったりで、ちょっとでも母が側にいなくなると、すぐに泣いて母を呼んだ。
呼べば母はすぐに飛んできてくれて、泣いた私をあやしてくれた。
そんな仔馬の頃の情景が、彼女の行動によって思い出された。
何がしたかったのかも、彼女が何を考えているのかもさっぱり分からないが、おそらくさっきの行動は、彼女の中の優しさ故の行動なのだろう。
彼女の中にはきっと、馬らしからぬ優しさとしか言いようのないものがあって、それが私の側に寄って来たり、怪我をして倒れた馬を守ろうとしたりする、馬としては奇妙としか言いようのない行動に現れるのだ。
大きくて、強くて、優しくて、美しい。
私の憧れは、今日も私が憧れたままの姿でいる。
大きく息を吸い、音が出るほど大きく鼻から息を吐いた。
挑む。その憧れに。私の持てる全てを賭けて。
憧れのあなたに負けたまま、憧れに届かなかったと俯いて生きていく位なら、いっそ死んだ方がましだと、そう覚悟して私はここに戻って来たから。
パドックが終わる。返し馬の時間になり、一緒に戦う東條を背中に乗せる。
パドックを終えたテクノスホエールは、私のことを一瞥もしなかった。
テクノスホエールに乗った天童騎手もまた、私達の方を見なかった。
そうだ。私はまだ、彼女たちにとって眼中にもない存在に過ぎない。
彼女たちにとって今日のレースは勝って当然のレース。
私達にとって今日のレースは負けるのが当たり前のレース。
負けて当然の戦いに勝つ為に私は走る。
返し馬が終わり、ゲート入りが始まる。
刻一刻と、開戦の時刻は近付いて来ていた。
次話にてレーススタートです。
明日の昼12時投稿します。
「面白かった!」と思っていただけた方は、下にある☆マークから作品への応援をお願いします!
ちょっとでも「続きが気になる」と思っていただけた方は、是非是非ブックマークをお願いいたします。
何卒よろしくお願いいたします。