私は何もしたくない
【1日目】
脚が痛い。身体に力が入らない。
何もしたくない。脚が痛い。何も、したくない。
【2日目】
脚が痛い。何もしたくない。食欲がない。水を飲むのも億劫だ。身体に力が入らない。
寝転がる私を見る厩務員の視線がうっとおしい。
見るな。近寄るな。構うな。邪魔だ。失せろ。
【3日目】
お腹が減らない。喉も乾かない。身体に力が入らない。
けれど、うるさい。今日はやたらと厩務員が話しかけてくる。
うっとおしい。静かにしてくれ。何もしたくないんだ。あっちへ行け。どこかへ消えろ。
珍しくおしゃべりだった厩務員が帰ると、馬房はまた静かになった。
聞こえてくるのは馬達の鼻息。踏まれて潰れる寝藁の音。私の頭の中で再生される音。
耳の奥から蹄の音が聞こえてくる。私を抜いていく差し馬の蹄。私の遥か前を進む逃げ馬の蹄。
私以外の馬を包む、人間達の拍手と歓声。
うるさい。うるさい。うるさい。忘れさせろ忘れさせろ忘れさせろ。
【4日目】
身体に力が入らない。だから寝そべっている。
寝転がっていると、昼間でもつい寝してしまう。浅い眠りの中で、京都競馬場の夢を見る。
夢の中で誰かに負けて、その度に目が覚める。
私は何もしたくない。何もしたくないのに、起きていていると色々なことを考えてしまう。考える度に、私の心はクシャクシャになる。
寝ている間すら悪夢がやってきて、私の心が私を休ませてくれない。
寝ていても、起きていても、自分の置き場所が、ない。
何も考えず、何も感じないでいられる場所が、ない。
私が人間だったなら、寝そべってスマホでも眺めていれば、何も感じない時間を作ることが出来たのだろうか。
何も思い出さなくなればいい。夢を見なくなればいい。
痛みを発する右脚を見る。
……例えば、この脚の怪我がもっと酷ければ。
この怪我が、もう二度と走れなくなるほどの大怪我だったなら、私は脚の痛み以外を感じずに済むのだろうか。
例えば、この折れた脚を硬い地面に叩きつけてしまえば、全て終わりになるだろうか。
自分の右脚をじっと見つめていると、厩務員がやって来た。今日も厩務員はやかましく私に話しかける。
うるさい。うるさい。うるさい。話し掛けるな。私に構うな。早くここからいなくなれ。
厩務員がいなくなると、また馬房は静かになった。
【5日目】
水を少し飲んだ。
【6日目】
ご飯をちょっと食べた。
最近よく話掛けてくる厩務員は、小野という名前らしい。
最近毎日話し掛けてくるから、仕方なく名前を憶えてやることにした。
【7日目】
今日も厩務員の小野がよくしゃべる。
昨日私がご飯を食べたことが余程嬉しかったらしい。こっちは食べれば少しはお前が静かになるかと思って食べたのに、逆効果だった。
小野は本当に私の気持ちを察しない駄目な厩務員だ。まあ、どうでもいいが。
折れた右足を地面に叩きつける計画は、まだ実行に移せないでいる。
自分の脚を壊そうとすると、友蔵おじさんや、東條の顔が浮かび、どうしてか実行に移せない。
わざわざそんな痛い真似しなくても、例えばゲートが開いても走り出さないようにすれば、それだけで失格になれるか。
レースに出れなくなるにはどうすればいいか。あるいはレース場に連れていかれた時、どうしたら走らず失格になれるか。そんなことばかり考えている。
【8日目】
私は考える。なんで自分が考えているのか考える。
そもそも、何かを『考える』必要なんて、本来私にはないはずだ。
馬が生きていく為に必要なのは、水とご飯と寝床であって、私にはそれが全部揃っている。だから悩むことなんて何もないし、何かを考える必要もない。
食べて、寝る。起きたら、また食べて、寝る。
それだけでいいはずだ。それを繰り返すだけでいいはずだ。それ以外は馬である私に不要なもので、それ以外は捨ててしまっていい余分でしかないはずだ。
私以外の馬達は、皆そのように生きているはずだ。
なのに私は考えている。毎日毎日悩んでいる。折れた脚を見つめながら、この脚をもっと滅茶苦茶にして、何もかも終わりにしてしまうべきかを悩んでいる。
考えるのは、悩むのは、躊躇っているからか。
私は私が何を躊躇っているのかが分からない。
私は何もしたくない。私はもう走りたくない。
だって、結論はもう出ている。走るのを止めるという結論。戦うのは止めるという結論。自分はきっともう勝てないという結論。
ニーアアドラブルに負けた時点で、私の心には多分もうヒビが入っていた。
そこを、テクノスホエールに手も足も出ず負けて、完全に打ち砕かれた。
私は負けて、完膚なきまでに負けて、脚の骨まで折って、やる気も死んだ。
ああいう本物の怪物達には、この先私なんかが何度挑んでもきっと勝てないのだと、諦めもついた。
結論は出ているのだ。
私は何もしたくない。もう走りたくない。もう負けたくない。勝ちたいとも思はない。何もかもどうでもいい。それが私の結論だ。
だからもう、全部忘れて、悩むことも考えることも全部捨てて、ただ普通の馬として生きていけばいいだけのはずだ。
なのに何故、私は考えるのを止められないのか。
選択肢がなくなれば、考える余地すらなくなるのに。
折れた脚を床に叩きつけ、何もかも取り返しがつかない状態にして、終わりにしてしまえばいいのに。
そうすれば、この毎日毎日悩み続けるこの苦しみからも、解放されるはずだ。
それで解放されるはずなのに、何故私は、この脚を床に叩きつけることを、こんなにも躊躇うのか。
今日も、空気を読まずに厩務員の小野がおしゃべりしにやって来た。
ここ数日小野は、私が決心をしようとするタイミングでやって来て、あれこれと話しかけて来、私の決断の邪魔をする。
本当にうるさい。早くどこかへ行け。私に構うな。いなくなれ。いなくなれ。いなくなれ。
【9日目】
明日から私は巴牧場に放牧へ出されるらしい。
久々に私の下へやってきた東條は、痩せた私の身体を見て悲しそうな顔をしてから、『待っている』と言ってきた。
私はそれに返事はしなかった。東條は何を話すでもなく、ただ黙って私の首を数度撫でてから、私の馬房を去った。
その少し後、珍しいことに、馬主の大泉笑平が郷田先生を伴って私の馬房を訪れた。
怪我して以来、大泉笑平が私の前に姿を見せるのは初めてのことだった。
『お前、いつになく危ない目ぇしとるなぁ。なんや、崖っぷちで片足立ちしとるような顔や』
私の瞳をじっと覗き込んできた大泉笑平は、半笑いでそんなことを言ってきた。
『マイナスから0になろうとするには、ガムシャラさ以外何もいらん。真摯さと懸命さだけが己を救う。せやけど0より上の位置で、もっと欲しいと手を伸ばす言うんは、欲を張るってことや。欲張りは苦労する。足らんものではなく、手に入らんものが欲しくなるからや』
『欲を全部捨ててお坊様みたいに悟りを開くか、欲の炎に全身突っこんでみるか、結局、その二択しか道はないんやで』
それは、誰に対して話した何の言葉だったのだろう。
私に言ったような、郷田先生に言ったような、ただの長い独り言のような、大泉笑平のその言葉が、妙に私の頭に残った。
【10日目】
巴牧場に帰って来た。
母は最近軽く体調を崩し、そのせいで気が立っているとのことで、私は母と会うことは出来ないそうである。
母の体調は心配だが、友蔵おじさんに余り深刻な様子は見られないので、母の容体はそこまでの大事ではないのだろう。
巴牧場の土と牧草を踏みしめ、冷たい日高の風を全身で受けた。
今年の夏の終わり、この牧場から出発する時は、私は牧場の外で価値あるものを手に入れて、ここへ胸を張って帰って来るつもりだった。
しかし結局私はこの秋、欲しかったものを何一つ手に出来ず、ただ敗北だけをこの身に刻んで、故郷に帰って来た。
本音を言えば、今母とは会いたくなかった。
正直に吐露すれば、今すぐ母に会って抱きしめて貰いたかった。
けれど、母と会えば終わる予感がしていた。
母と会って、母に私の話を全部聞いてもらって、その後に母の話を聞く。
きっと母は、私を否定しないだろう。私が負けたことも、諦めることも、走るのをやめることも、全て受け入れてくれるだろう。
それがお前の生き方ならば、そうすればいいと、きっと母は私の全てを容認してくれる。
そうやって母に受け入れて貰えたら、多分そこで私は終わる。それでいいと母に言って貰えたら、私はそこで本当に終わる。
それでいいじゃないかと、やはり思う。
わざわざ怪我した脚を痛めつけるまでもなく、ただ母に話を聞いてもらい、母に一言貰うだけで楽になれるなら、それで楽になればいいじゃないかと。
母と一緒に故郷の牧場で、痛みも悩みもないこの平和な牧場で、ただ静かに暮らしていけるなら、それで十分じゃないかと。
大好きな母と、優しい人たち。必要なものが全て揃ったこの牧場でこのまま生きていくことに、一体何の不満があるというのか。
『欲張りは苦労する』
昨日聞いた、大泉笑平の言葉が蘇る。
苦労の原因が欲だというのなら、私がこうして考え悩み苦しんでいるのも、何かを欲張ったからなのだろうか。
私はまだ欲張っていて、手に入らないものを欲しがっているから、それを諦めることを躊躇っているのだろうか。
欲しがることを止めてしまえば、本当に永遠に手に入らなくなってしまうから、私はまだ、欲を張り続けようとしているのか。
欲を捨てまいという抵抗が、この苦悩の原因なのか。
でも、それなら私が欲しがっているものとはなんなのだろう。
全て諦めれば楽になれるのは明白なのに、欲したところで手に入るとは思えないのに、それでも私が欲しいと思っているものとはなんだ。
『勝利』? 『栄光』? 『人間からの称賛』? 『他の誰でもない自分が認めた価値』?
違う気がした。それらなら捨てられる。というか、それらはすでに手に入れたことがある。
だから、それらの『上積み』がこれ以上出来なかったとしても、それはそれで諦めがつく。
ならなんなのだろう。私が本当に欲しいものとはなんだ。私の欲とは、望みとはなんだ。
レースではない気がする。私の心はレースで折れた。レース場で見つけた物の中に、私の心を縛るものはない気がする。
もっと前な気がするのだ。競馬場で走る前。郷田先生と出会う前。
いつだろうか。あるいは前世の記憶の中だろうか。それとも前世の記憶を思い出すよりもっと前の話か。
仔馬だった頃に、私が欲しかったものとは何か。
……。
…………。
………………。今、何か、私の思索の先っぽが、私自身の本質に触れた。
『全部捨ててお坊様みたいに悟りを開くか、欲の炎に全身突っこんでみるか、結局、その二択以外道はないんやで』
そして、大泉笑平の言葉がまるで預言のように、私の中である種の質量を持って、浮かび上がって来たのだった。
ここが主人公のドン底。ここからどうやって這い上がっていくかという話を書きたい。書く。
明日から1日1話投稿に戻ります。明日は昼の12時更新です。
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