テクノスの冠を持つ女王
陣内恋太郎という人物の知名度は、競馬に興味がない人々の間ではさほど高くない。
陣内が社長を務める電子機器メーカー、テクノス電子株式会社の本社屋がある静岡の地元住民や、同じに業界に勤めている人間であれば、『ああ、あの会社の社長のことか』と思い当たる人はいるかもしれない。
だがそれは所詮、知る人ぞ知る程度の知名度だ。
しかし、それが競馬のファンや関係者ならば、陣内の名は何度も耳にしたことのある著名な名に変わる。
競馬を知る者に陣内という男の名を聞けば、皆口を揃えてこう言うだろう。『ああ、あの“テクノス”のオーナーのことか』と。
『テクノス』。それは今の日本の競馬を見ていれば、必ず目にすることになる冠名だ。
陣内という馬主は、自身が経営するテクノス電子の会社名から冠名を取り、買った馬のほぼ全てに『テクノス』から始まる馬名を付けている。
馬名が『テクノス』で始まる馬は、全て陣内の所有馬という訳である。
そして『テクノス』の名を付けられた馬達の多くは、競馬界で華々しい戦績を残してきた。
テクノスグールのGⅠ5勝を皮切りに、以降今日まで、10年以上に渡り毎年いずれかのテクノス冠馬が、GⅠレースで勝利を挙げ続けてきたのである。
所有馬のいずれかがGⅠを勝つ。そしてそれを10年以上連続で続ける。それはそう簡単に達成出来ることでない。
毎年50頭以上のサラブレットを購入するような、200頭近い現役馬を所有する日本トップクラスの大馬主であっても、滅多に達成出来ないような大記録である。
しかし陣内はそれをやりとげ、そしてその連勝記録を今も伸ばし続けている。
特筆すべき点は、陣内はいわゆる大馬主ではないという点だ。
陣内は毎年1~3頭しか馬を買わない、どちらかと言えば小規模にしか馬主業をしていないオーナーなのである。
陣内は多くても3頭、少ない時は年1頭しか馬を買わない。そんな馬主が毎年GⅠで勝ち続けるというのは、馬主の常識、競馬の常識で考えれば、絶対にありえないと断言できるほどの怪記録だった。
『日本一の馬目利き』。それは、陣内の決して多くない頭数の所有馬達が、非現実的なほど毎年GⅠを勝ち続ける内に、いつしか呼ばれるようになった陣内の異名だ。
相馬眼なのか、勘なのか、とにかく陣内には将来強くなる馬を見抜く特別な能力があるのだと、今では多くの競馬関係者がそう信じるに至っている。
さて、そんな陣内の慧眼によって買い集められた、少数精鋭とも言えるテクノス軍団ではあるが、実はそのGⅠ連勝記録は、昨年一度途切れかけた。
去年陣内の所有馬は怪我や引退が相次ぎ、夏が終わった時点でまだGⅠを1勝も出来ていなかった上、現役続行の競走馬が2頭しか残っていなかったのである。
1頭は当時二歳馬のテクノスリング。そしてもう1頭は、牝馬三冠に挑戦中だった三歳牝馬。
しかし、牝馬の方は桜花賞は賞金が足らず出走除外、オークスでは14着、秋華賞では10着と、いいところなし。GⅠはおろか重賞に挑めるだけの実力があるのか疑問視されるレベルの馬だった。
頼みの綱は陣内期待の超良血高額馬、テクノスリング。
テクノスリングが年末の2歳GⅠで勝てるかに、テクノス軍団のGⅠ連勝記録の更新が掛かっていると、誰もがそう思っていた。
しかし、そのテクノスリングが10月に故障してしまい、2歳GⅠへの出走が絶望的になると、競馬関係者はにわかにざわめき出した。
10年以上に渡るテクノス冠馬と陣内恋太郎のGⅠ連勝記録。それがついに途切れると、マスコミ含め多くの者が色めきだった。
併せて、テクノスリングが故障したことに対し、『やはり動物の名を持たないテクノスはGⅠを勝てないのだ』と、そんな言葉も囁かれた。
天皇賞の春と秋を制覇した『テクノスラビット』。陣内に初の海外GⅠタイトルをもたらした『テクノスウルフ』。クラシック三冠を成し遂げた『テクノスタイガー』。
全くの偶然ではあったが、過去GⅠを勝利したテクノスグール以外のテクノス冠馬は、すべてその名に動物の名を含んでいたのである。
そのことから一部の競馬ファンが、馬名に動物の名を付けられなかったテクノスリングのことを揶揄したのであった。
しかし、それらの言葉の一切、テクノス冠馬の連勝記録の途絶を期待し、嘲弄しようとする言葉の全てを、一頭の牝馬が黙らせた。
期待されていなかった3歳牝馬が、11月にそれをやった。
11月のGⅠ、マイラーの頂点を決めるマイルチャンピオンシップにて、その牝馬はなんとレースレコードを叩き出して完全勝利し、陣内にその年初のGⅠタイトルをもたらしたのである。
その牝馬が、テクノス冠馬と陣内の連勝伝説を守り、繋いだ。
その牝馬は、動物の名を持つテクノスだった。
その馬の名は、『テクノスホエール』。
クジラの名を与えられたその巨躯の黒馬は、そこから連勝街道を突き進むことになる。
マイルチャンピオンシップでGⅠ初勝利を挙げた翌月に、年末の香港マイルに挑戦、そのまま海外GⅠ初勝利を挙げ、GⅠ2勝で 3歳のシーズンを終えた。
国内外の2つのGⅠタイトルと、その2レースでの圧倒的な勝ちっぷりによって、テクノスホエールのフロックを疑う声は完全に消えた。
そして今年四歳になってからは、4月の香港チャンピオンマイル、6月の安田記念のGⅠ2つを危なげなく勝利し、GⅠ初勝利から無傷のGⅠ4連勝。
かくしてテクノスホエールは、日本と香港をまたに掛けて活躍する、日本を代表する名馬の一頭となったのである。
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押しも押されぬGⅠ馬、テクノスホエールの馬房の前で、その主戦騎手である天童は馬房の中を眺めていた。
馬房のど真ん中で、その房の主であるテクノスホエールは、『座って』いた。
尻を地面につけ、後ろ足を前に投げ出し、前足も正面に突き出し、さながらテディベアのような格好で、身体が倒れないよう器用にバランスをとりながら、テクノスホエールは『座った』姿勢を維持している。
全く同じ姿勢をしていた馬を、ついこの間北海道で見て来たばかりだった為に、『父娘揃ってこいつらは何をしているんだろう』という、なんとも言えない感想を天童は抱いた。
そして、その何とも馬っぽくない座った姿勢を保ちながら、ぼーっと天井の辺りを見上げていたテクノスホエールが、不意に馬房の前で立ち尽くす天童の方を向く。
天童とホエールの目が合った。目が合うと、テクノスホエールは不思議そうに首を傾げた。
『いや、不思議なのはお前のその格好だよ』と、天童が心の中で突っこみを入れると、ホエールは座った姿勢から、ポテンと横に倒れて寝そべった。
そして、そのままずるずると身体で地面を這うようにして前進し、寝たまま天童に向かって移動し始める。
遠目で見ると、まるで大きな黒いゴミ袋の塊が地面を這い進んでいるかのようだった。
なんて横着な馬だろうかと、思わず天童は呆れた。
テクノスホエールは、別に怪我などで歩けない状態である訳ではない。
今年の安田記念の直後は脚に重めの炎症を起こしたが、それはもうすでに完治している。
つまりこの馬は、ただ単に立って歩くのを面倒くさがって、地面を這って進むという馬らしからぬ奇行に出ているのである。
ずるずるとたっぷり時間を掛けて移動してきたホエールは、天童の前まで来ると、そこでおもむろに立ち上がった。
前触れなく、いきなり勢いよく黒馬が立ち上がる。一瞬天童は、眼前に突然巨大な壁が現れたように錯覚し、わずかに自分の身体が竦むのを感じた。
デカい女。ホエールを見るたびに抱く感想を、今日も天童は抱いた。まず何よりも、テクノスホエールという馬はデカい牝馬なのである。
本来馬は、牡よりも牝の方が身体が小さい生き物だ。体重の平均を取れば、牝馬の方が牡馬よりもその体重は20Kg以上軽くなる。
しかし、目の前のテクノスホエールという牝馬は大きかった。牝馬であるにも関わらず、並みの牡馬より二回り以上は大きかった。
それもそのはず、テクノスホエールの体重は、優に500Kgを超えているのだ。それは牡馬の平均体重を、40Kg以上上回る数値だった。
牝馬より平均20キロ重い牡馬よりも、更に40キロ以上重い体重を有するのが、このテクノスホエールという牝馬なのである。
クジラの名が示すが如き、その巨躯と呼べる見事な馬体には、間近で見たものを圧倒する迫力があった。
その姿を見慣れているはずの天童ですら、いきなり目の前で立ち上がられたりすると、思わず後ずさりしたくなるような威圧感だ。
しかしその顔を正面から見て、やはり綺麗な馬だとも天童は改めて思った。テクノスホエールは、ただ大きいだけの馬ではない。
馬体の大きさに目を引かれ、その姿に注目すれば、いつもその美しさに息を呑む。
顔の流星も、足元の白毛もない、正真正銘全身真っ黒の完璧な黒馬。
全ての光りを吸い込むようなその毛並みは、しかし光を照り返す漆黒で、薄暗い馬房の中でさえ輝いて見える。
また毛並みだけでなく、テクノスホエールはその顔も美しかった。筋の通った左右対称の整った顔立ちは、父親譲りの素晴らしい美形だとファンの間でも話題になっている。
また、その垂れ目がちな穏やかな瞳は、父馬にはないホエールだけの魅力だとも。
見た目が綺麗な馬が強いわけではない。しかし、GⅠレースに勝つような強い馬達は、その見た目だけで人を惹きつけるような魅力を持っている。
このテクノスホエールにはそれがある。見るものを圧倒し、思わず息を呑ませるほどの力が、この馬にはある。
天童が手を伸ばすと、テクノスホエールがその手に自分の頬を宛がってきた。そのまま優しく撫でてやる。
撫でながら、天童はテクノスグールが暮らす牧場で出会った馬主の陣内との、帰り際に交わした会話を思い出していた。
会話というよりかは、陣内の愚痴とも不満ともつかぬ言葉を、天童が一方的に聞かされただけではあった。
陣内の話を要約すると、陣内はテクノスホエールの調教師である高橋に、不満を抱いているという内容だった。
元々、高橋調教師と陣内の出会いは、陣内が会社の仕事で世話になっている人物に、高橋を紹介されたことが始まりであるらしい。
紹介してくれた人への義理もあり、陣内は期待馬であったテクノスホエールを高橋厩舎に預けることにした。
その時陣内は紹介者の顔を立てる為にも、ホエールの調教内容や出走レース、騎手への騎乗依頼についても、高橋調教師に全て任せるつもりだったという。
ホエールならば、多少調教師の腕に問題があったとしても十分勝ってくれるはずだと、そう信じるほどに陣内は当時1歳のホエールを高く評価していた。
しかし高橋調教師の腕前は、陣内の期待を大きく下回るものだった。
陣内の見込みでは、2歳から重賞で活躍出来る逸材であるはずのホエール。しかし、実際は小さな怪我や発熱を繰返し、デビューに漕ぎつけることすら中々出来なかった。
陣内曰く、ホエールのデビューが遅れたのは調教師と厩務員に責任があるそうなのだが、調教師は『テクノスホエールは身体の弱い馬だ』としか言わず、調教の遅れを馬のせいにしたと言う。
結局、ホエールがようやくGⅠに挑戦出来たのは3歳春のオークスから。
しかし結果は見事な惨敗。オークスでの負けっぷりを見て、陣内はマイル・短距離路線への変更を提案したが、調教師の方が中距離路線にこだわった。
そして調教師の意見を通した結果、ホエールは秋華賞でも惨敗を喫した。
にも関わらず高橋調教師はその敗因を距離適性ではなく『馬の力不足』とし、ホエールを中距離の条件戦で使おうとし始めた。
その段になってようやく、陣内は高橋調教師に対し強く手出し口出しをすることを決意し、馬主の強権を発動した。
まず、陣内はオークスと秋華賞の惨敗を理由に、主戦騎手を天童に変えた。
その上で調教師の反対を無視し、マイルチャンピオンシップにホエールを出走させた。
それらは調教師の意見を一切無視した、馬主の一存による決定だった。そしてそれによって、テクノスホエールの連勝は始まった。
『ホエールは私の予想を大きく超える名馬でした。阪神JF、桜花賞、NHKマイル、スプリンターズステークス。競馬にたらればは通用しませんが、本来ホエールはそれらのGⅠを全部取り、今頃GⅠを8勝していてもおかしくないほどの逸材なんです』
天童は陣内の言葉を思い出す。陣内の表情を思い出す。
『本当につまらない話です。その可能性を、他ならぬ私が潰してしまった。私があの厩舎にホエールを預け続けているのは、結局人間関係の為です。金と仕事の為の人間関係。そんな下らないものに配慮したばっかりに、ホエールの才能が潰されかねない場所に、彼女を置くことになってしまった』
そう話す陣内の表情にあったのは、疲れと諦観、後悔、そして、隠し切れぬ厭世感。
『人間の都合なんてつまらないものの為に、馬の走りが犠牲になることが私は一番嫌いです。私にとって馬は、つまらない世の中を忘れさせてくれるものなのに、その私が人間の都合で馬を潰してしまうなど、あまりにも馬が可哀そうだ』
それは、人間の世の中がつまらないと嘆く、人間が嫌いな人間の言葉。
『だから天童さん、お願いしますよ。彼女の、ホエールの才能がこれ以上潰されない為に。彼女の走りはグールには全く似ていないが、その速さはグールにも並び得る。そんな彼女の強さを、彼女の走りを、あなたには守ってもらいたいんです』
その言葉に、自分はなんと答えたのだったか。
「……まあ、いい。俺とお前が組めば、誰も俺達には勝てやしないだろうから」
マイルの戦場ならば、ニーアアドラブルが相手でも、例え現役時代のテクノスグールであっても、きっとテクノスホエールには勝てないという自信があった。
去年のマイルチャンピオンシップから始まったホエールの連勝記録。今年マイルチャンピオンシップの連覇を達成することで、ホエールは現役最強のマイラーとしてその名を更に深く世に刻むだろう。
そして来年、陣内が言ったようにマイルやスプリントのGⅠタイトルをテクノスホエールが席巻するならば、ホエールは史上最強のマイラーとしてその名を挙げられるほどの、偉大な名馬としてその名を競馬史に刻むことになる。
そう、この馬は来年、天童の騎乗と共に伝説となる。
それは決して夢物語ではなく、極めて高い確率で実現する話であることを、天童は確信していた。
天童の期待も、オーナーの忸怩たる思いも、馬主と関係が悪化し困っているであろう調教師も、そのどの思惑にも我関せず、天童に撫でられるテクノスホエールは、気持ちよさそうに目を細めたのだった。
ようやく天童が強い馬に乗ります。
明日も昼の12時更新予定です。
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