今年もダービーが始まる
5月最終日曜日。東京優駿。日本ダービーの日がやって来た。
騎手控室でのレース前検量を待ちながら、東條は自分のコンディションを確認していた。
去年まではクラシックレース前日、まして自分が出走するダービーの前夜などは、緊張とプレッシャーで中々寝付くことが出来なかった。
だが、今年は違った。今年東條はダービー前日にいつも通りの時間に就寝することが出来た。
朝の目覚めはいつもより30分ほど早かったが、寝不足や身体のダルさは感じなかった。
食欲もいつも通り。自分の注意力が散漫になっているとも感じない。前日土曜のレースを走った疲労も、問題なく抜けている。
悪くないコンディションだと、そう思った。
パドックの開始が迫り、出走が刻一刻と近づく中、東條は手首に親指を当て自分の脈を測ってみた。
東條の脈拍は、普段のレース前より大分早かった。
緊張しているな、と、東條は自分を分析する。
『クラシックでいつも通りの騎乗が出来る騎手など、日本中探したって5人もいない』。
桜花賞前に郷田から言われた言葉が、今日も東條の心を支えていた。
まだまだ未熟な自分ごときが、クラシックの頂点たるダービーで、平静を保てる訳がないと、良い意味で開き直っていた。
(特別なことは必要ない。緊張するのも当たり前。俺の仕事はこの緊張を抱えたまま、ウインターコスモスを気持ち良く走らせてやることだ)
クラシックという魔境。ダービーという魔境の最奥。そんな場所で、余計な小細工が出来るほどの技量は今の東條にはまだない。
出来得る限りいつも通りの騎乗で、馬の行きたいように行かせてやろう。
東條がそう思っていると、やがてパドックが始まる時間になり、ダービーを走る三歳馬達が姿を現した。
東條が乗るウインターコスモスも、その姿を観客と東條の前に現した。
日の光を浴びパドックを進むウインターコスモスの仕上がりは、悪くない。むしろ良すぎる程だ。
毛並みに艶があり、歩調に力強さがある。発汗もさほどなく、入れ込んでいる様子もない。厩務員に牽かれ、大人しくパドックを歩いている。
想定していたよりも良く仕上がってしまった、というのは、坂東調教師の言葉である。
馬の状態が良いのに言い方が苦々しかったのは、元々ダービー出走自体を渋っていたが故だろう。
とは言え、どれだけ状態が良くとも、ウインターコスモスはダービーで勝ちを狙えるような馬ではない。
18頭フルゲートでの15番人気。内枠が断然有利といわれるダービーで、2枠3番という絶好の良枠を引きながら、この人気である。
青葉賞2着の戦績も、悪天候が生んだフロックだと評価されていた。
東條としては、もちろん今日のレースを勝ちたいとは思っている。とはいえ、ウインターコスモスに対する馬券人気や評価は、妥当なものだとも考えていた。
他の出走馬達に感じる格上感は拭い難く、ウィンターコスモスにとって今日のダービーが、掲示板に載ることすら難しいレースになるのは間違いない。
『元々俺は勝てると思っていない。馬主への奉公で走るだけだ。乗り方も、お前に任せる。逃げでも追い込みでも、好きにしろ』
ふと、レース前に言われた、坂東調教師の投げやりともとれる言葉を思い出していた。
『どう考えたって、馬の力不足だからな。もし今日のレース3着以内に入れたら、ウインターコスモスの鞍は正式にお前にやるよ』
東條のウインターコスモスの騎乗は、あくまでダービー限定の臨時ということになっている。
元より4歳からのレースを期待されている馬だ。重賞を本格的に狙える馬体が仕上がったら、鞍上は別の騎手に任せたいと坂東は考えているのだろう。
東條がダービージョッキーになるという自身の夢を叶えるには、1着になるしかない。
東條がウインターコスモスの主戦として認められるには、3着以内に入賞するしかない。
しかし、肝心のウインターコスモスは15番人気。その実力では掲示板に入ることすら難しい。
(でも、ウインターコスモスは運を持っている馬だ。青葉賞といい、今日の枠番といい、あいつは『持っている』馬だ)
案外、何か起きるかもしれないと東條は思っている。
勝てっこないと落胆するでもなく、薄い勝ち目を絶対にもぎ取ると入れ込むのでもなく、今日は試しに待ってみようと東條は思っている。
青葉賞で奇跡の2着に入った馬の運を。ダービーで2枠3番を引き当てた馬の運を。
その運が何か大きなチャンスを運んでくるのを期待して、待ってみようと東條は考えている。
東條の脈拍の乱れは、徐々に落ち着いてきていた。
去年より、自分は騎手として成長している。平静を保てている。そして、チャンスがもし目の前に来たならば、絶対にそれを逃がさないとも思っている。
平静を保つ。馬の運を信じて焦らずに待つ。チャンスが来たら即座に反応する。
諦めてはいない。がっついてもいない。ゆらりと自分の中で、闘志の炎が静かに揺らめき立っているのを感じている。
(うん。良いコンディションだ)
パドック周回が終わり、騎手の馬への騎乗が始まる。
今年もダービーが始まろうとしていた。
同じ年に生まれた7000頭の頂点。日本一の馬を決める戦いが、始まろうとしていた。
続きは本日夜8時更新です。
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