ウインターコスモスの花言葉
資料に書かれていたのは、ウインターコスモスという鹿毛の牡馬だった。
ウインターコスモスは、今年の青葉賞で2着に入賞した、ダービーの優先出走権を持つ馬だ。
今年の青葉賞はゲリラ豪雨に見舞われ、有力馬が総崩れを起こすあらゆる意味で大荒れのレースだった。
そしてそんなレースに12番人気で出走したウインターコスモスは、多くの関係者の予想を裏切り、大番狂わせでひょっこり2着に入ってしまったのである。
1着は8番人気、3着は6番人気。こんな馬券読めるかと、多くの馬券師を泣かせたレースだった。
「しかし、ウインターコスモスの騎手は坂東厩舎所属の……」
「あいつならクビにした。気にしなくていい」
東條の質問を遮るようにぴしゃりと、不機嫌を隠しもせずに坂東が吐き捨てるように言った。
ウインターコスモスの主戦騎手は、坂東厩舎所属の、坂東鬼八子飼いの騎手である。
坂東厩舎所属の騎手の中で最も若い騎手であり、坂東自身が今後を期待している騎手の一人であるはずだった。
そんな目を掛けている若手がせっかく掴んだダービー出走のチャンスを、何故坂東厩舎所属でもないフリーの東條に譲ってくれるのか。
何かしらの事情がなければ、中々ない話である。
「彼と、何かあったんですか?」
あからさまに不機嫌になった坂東に質問をするのは怖かったが、後任を受ける以上は事情を聞かない訳にもいかないと思い、東條は尋ねた。
坂東は鼻を鳴らしてから、どこから話したものかと腕を組んで考えは始めた。
坂東が発する不機嫌なオーラで場の空気が重たくなりだした頃、坂東はようやく重たい口を開いた。
「ウインターコスモスは、晩成型の馬だ。3歳春の重賞に挑戦するなんてのは、本来俺は反対だった。だが、馬主がどうしてもとダービーにこだわるから、仕方なく青葉賞で使うことになった」
そして、坂東自身を含めたあらゆる関係者の予想を裏切って、ウインターコスモスは青葉賞で2着をもぎ取った。ダービーの優先出走権を、掴んでしまった。
「今年の青葉は、大雨大荒れの糞レースだった。だが、だからこそ1着を狙える位置に、ウインターコスモスだけがポツンと残った。騎手の腕が並以上なら、勝てたレースだったんだよ、今年の青葉は。なのにあいつは、ぎりぎりで日和った。日和って、1着じゃなく2着を狙う騎乗をした」
だから俺は騎手を叱りつけてやったんだと、坂東は話した。
軽く言っているが、パワハラ気質の坂東調教師のすることだ。おそらく、相当厳しくウインターコスモスの騎手を叱責したのだろうと東條は予想した。
勝ち目の薄い12番人気の馬で見事重賞で入賞し、ダービーの優先出走権まで掴む。それは普通なら褒められる以外ないというような快挙だ。
それなのにレース後待っていたのが、このおっかない調教師からの怒声だったのでは、その騎手に同情すら感じてしまう話である。
「じゃあ、その青葉賞での騎乗を理由に、ダービーで屋根替えをすることになったんですか?」
もし本当にそうなら、降ろされる騎手が流石にかわいそうだと思いながら、東條は尋ねた。
『そうだ』という返事がすぐに返ってくるものと思っていたが、返事はなく、ぎろりと無言で坂東は東條を睨んできた。
「………………。蹴ったんだよ」
「え?」
「青葉賞のことで俺に怒鳴られた後、あいつ、腹いせに俺の馬に蹴りを入れやがったんだ」
今思い出しても腹が立つと言わんばかしに、坂東の顔は赤らんでいった。
「誰も見ていないと思ったんだろうがな。人のいない馬房の中で、あのガキあろうことか、ウインターコスモスの尻を蹴ってやがったのさ。何発も何発も、八つ当たりでだ。だがお天道様ってのは見ているもんだぜ。そこを偶然俺が通りすがって、馬を蹴った瞬間を丁度見ちまった」
そこまで一息で話すと、坂東は急に押し黙った。
ぞっとする話だった。馬に携わる者として、馬に暴力を振るったその騎手の行いは論外だ。
しかし、その瞬間をよりにもよって、この坂東という美浦一恐ろしい暴漢に見られたというのは、想像するだけで背筋が寒くなるシチュエーションである。
「……それで、どうしたんですか?」
怖いもの聞きたさで、東條は話の先を促した。
「別に、特別なことは何もしてねえさ。あいつが馬の尻にやったことを、俺があいつの顔面にしてやっただけだ」
「相手の顔面を、ハイキックしたんですか!?」
「ブハハハ!」
東條が驚いて尋ねると、坂東は大げさに笑った。
「いくらお前ら騎手がチビでも、俺の脚がそんなに高く上がる訳ないだろ」
言って、坂東がテーブルに置かれた湯飲みでお茶を一口飲んだ。太い筆字で『馬』と書かれたドデカイ湯飲みだった。
「張り倒して地面に転げさせた後、顔面を踏みつけてやったのさ。俺の目の前で3発馬を蹴りやがったから、その倍の回数踏みつけてやった。……ああ、そうだ」
おもむろに坂東は立ち上がると、事務所のオフィスデスクまで歩いて行った。
そしてその引き出しから何かを取り出し、ソファまで戻ってくる。
「あいつの忘れ物なんだが、せっかくだから一つお前にやるよ。持って帰ってくれ」
言って、何か小さいものをコロンとテーブルの上にほおった。
東條は、最初それが白い小石のように見えた。しかし、顔を近づけ目を凝らすと、それは石ではなく人間の前歯だった。
根元に付着している赤いものは血の跡だろうか。人間の折れた前歯を、坂東はテーブルに取り出して来たのである。
思わずぞっとして、東條は仰け反った。
「い、いらないですよ、こんなの。なんで取っておいているんですか」
「遠慮するな。もう元の持ち主はここには帰ってこないんだから、持って帰っても誰も文句は言わねえよ」
いたずらっぽく坂東は笑うと、東條の手を掴み、むりやり折れた前歯を握らせてくる。
なんて悪趣味な悪戯だと思いながらも、どうやら坂東につき返すのは無理と悟り、東條はその歯をティッシュにくるんでしぶしぶ自分のズボンのポケットに入れた。
とにかく、ウインターコスモスの騎手がクビになったというのは本当のことらしかった。
それも、ウインターコスモスから降ろされるというだけでなく、坂東厩舎そのものをクビになったという意味のようである。
ダービーの優先出走権を持つ馬の鞍上が急遽空になってしまった為、お鉢が東條に回って来たという訳だ。
坂東のペースに飲まれ過ぎないようにしなければと思いつつ、東條は渡されたウインターコスモスの資料に目を落とした。
今までのレースや、坂東厩舎に来てからの調教記録、体調の変化、様々なことが事細かに書かれていた。
「……ウインターコスモスの騎乗依頼は、お受けします。この資料、後でコピーさせて貰ってもいいですか?」
「そのまま持って帰ってくれて構わん。なにせ、ダービーまで日がないからな。お前が調教に来る日の調整は、担当の厩務員と直接連絡を取ってくれ」
言って、坂東が一枚の名刺を渡してきた。坂東厩舎で働くベテラン厩務員の名刺だった。そこに書かれた携帯番号に連絡し、調整しろということなのだろう。
「ウインターコスモスは、坂東先生から見てどういう馬ですか?」
資料に目を落としながら、東條は尋ねた。
資料にはない、調教師が肌で感じた馬の感想を知りたくての質問だった。
「今時流行らん晩成型のステイヤーだ。ありゃ仮に将来GⅠを獲れたとしても、繁殖入り出来るか怪しいレベルだな。だが、あの馬は面白くなるぞ。4歳を過ぎてから、あの馬は絶対に面白くなる」
面白い、というのは、坂東が強い馬を指して使う言葉だ。
「……馬の性格は?」
「大人しい馬だな。加えて飛び切りの怖がりだ。怖がり過ぎて、怖い目にあうと固まっちまう。悲鳴を上げたり、逃げたりすることも出来なくなる。震えたまま、黙ってじっとその場で固まって、我慢してしまう。そういう馬だ」
ふぅぅ、と、そこで何かを堪えるように坂東が細く長い息を吐いた。
そして堪え切れなかったのか、突然目の前のテーブルを思いっきり蹴った。テーブルが大きく揺れ、湯飲みからお茶がわずかに零れた。
「あのクソったれの小僧は、あの馬がそういう馬だと知っていて蹴りやがった。蹴っても騒いだり、反撃したりしてこない、じっと我慢してしまう馬だと知っていたから、馬のことを蹴りやがったんだ。ああ、クソ、腹が立つ。もう三本位歯をへし折ってやればよかったか」
物騒なことを口にしながら、驚いて資料から顔を上げていた東條の顔を、坂東がじっと見つめて来た。
睨んできたのではない。真正面から、真っすぐに、東條の目を見つめて来た。
「ウインターコスモスはな、臆病なんだよ。臆病なせいで、人間に心を開いていない。俺にも、厩務員にもだ。騎手にだけは、少しだけ気を許していた。だが、よりにもよってその騎手に、怖い目に遭わせられた」
ただ一人心を開きかけていた相手から、突然身に覚えのない暴力を振るわれる恐怖。
大人しく臆病な馬であるというウインターコスモスの心に、それはどれほどの傷を与えたのだろうか。
「馬は、悲しみを一生忘れない生き物だ。もうあいつは、二度と人間のことを信用してくれないかもしれん。あの馬が人間に心を開くことは、もうないのかもしれん。だがな、」
躊躇うような、一瞬の間が空いた。
「人間を、背中に乗せる騎手を信用出来ないような馬が、レースで勝てる訳がない。自分の背中に乗せているものに怯えながら走って、どうしてレースで勝つことが出来る。このままあいつが人間に心を閉ざしてしまったら、あいつはもう、競走馬として使い物にならなくなってしまう」
いつの間にか、坂東の声には懇願するような声色が混ざっていた。
こんな坂東を見るのは、東條にとって初めてのことだった。
「頼む、東條。ウインターコスモスを、あいつを、助けてやってくれ」
言って、坂東は頭を軽く下げた。
坂東という男が誰かに頭を下げるのを、東條は初めて見た。
そしてそれと同時に、自分が何故かこの坂東という男から、とんでもない過大評価を受けているような気がしてきた。
「……もちろん、騎手として出来る限りのことはやらせて貰います。でも、ウインターコスモスと仲良くなれるかは、まず会ってみないことには何とも言えませんが」
予防線を張るつもりでそう言うと、坂東が意地の悪い笑みを浮かべた。
少しほっとした自分に驚く。そうだ、この坂東という美浦で一番の調教師には、こういう悪い顔がよく似合う。
「大丈夫だ。お前はとびきりの馬たらしだからな。気性難も臆病者も人間嫌いも、お前がニコっと笑って撫でてやると、ころっと懐きやがる。お前のたらしっぷりときたら、人間にしとくのがもったいないほどだよ」
ハハ、と、東條は相槌代わりに笑った。
「馬に生まれていたらモテモテでしたかね。サラブレッドの場合、まず繁殖入りするのが大変ですが」
「当て馬になればいいだろう。種付け場で大活躍出来るぞ」
坂東のあまりに下品な冗談に、東條は力なく苦笑した。
当て馬というのは、種付け場に用意される牡馬のことだ。牝馬を発情させるのが仕事で、牝馬が発情した後はお役御免となり、実際の種付けは他の種牡馬が行う。
つまり、女性をその気にさせた後、それを他の男にくれてやるのが仕事の馬である。
「何にせよ、一度ウインターコスモスを見てきます」
「おう、ウインターコスモスは今馬房だ。場所は分かるな?」
分かると頷いて、東條は立ち上がった。
挨拶し、事務所の出口のドアに手を掛ける。
「そういえば、なんで牡馬なのにコスモスなんて馬名なんですか?」
ふと気になって、尋ねてみた。
花の名を馬名にする馬主は多いが、それは牝馬に付けられることの方が多い。
「馬主の趣味だ。ウインターコスモスって花の、花言葉が好きなんだと」
「花言葉?」
少し迷う素振りを見せてから、坂東は答えた。
「ウインターコスモスの花言葉は、『忍耐』だ」
唯一信用する騎手から殴られても、暴れも騒ぎもせず、ただじっと耐えていたという鹿毛の馬。
その馬に付けられた馬名の意味に、東條はなんとも言えない悲しみを覚えた。
「あと、忍耐以外にはこんなのもあるぞ」
事務所のドアを閉めた後、ドアの向こうから坂東の声が聞こえて来た。野太いその声は、ドアを突き抜けて東條の耳に届いた。
「『あなたのことをもう一度愛する』だ」
事務所を出た東條は、ウインターコスモスの馬房にそのまま足を向けようとした。しかしそこでふと、自分のポケットに前任の騎手の前歯が入っていることに気づき、それをポケットから取り出した。
なんとなく、これを持ってウインターコスモスに会いに行くのは嫌だった。
どうしようかと少し考えてから、東條はその歯を、坂東事務所の屋根目掛けて思いっきり放り投げた。
歯は放物線を描いて飛んでいき、事務所の屋根の上に乗った。
それを見届けてから、はて、屋根に投げるのは上の歯と下の歯どちらが抜けた時にするのだったかと考えて、東條は意味のない自分の思索に一人笑った。
身軽になった気分で、改めて馬房に向かう。
馬房の中に入ってすぐの房に、ウインターコスモスはいた。
三歳にしては少し体が小さく、立ち姿と骨格に未熟さを感じる馬だった。
幼さを感じる、と言い換えても良い。
その鹿毛の馬は、馬房の真ん中に立って、突然現れた東條のことをじっと見つめていた。
初対面の東條のことを警戒しているのだろう。近付いて来ようとはせず、その目には怯えの色が浮かんでいるように見えた。
それが初対面の相手に対する怯えならば、問題ない。これから仲良くなって、初対面でなくなればいいだけの話だからだ。
だが、それが人間そのものに対する怯えなのだとしたら、それを人間である東條が取り払うのはきっと難しい。
駄目元で、東條はポケットから角砂糖を取り出し、それを手に乗せウインターコスモスを呼んでみた。
警戒して近寄って来ないかと思っていたが、少し待ってみると、ウインターコスモスは恐る恐るといった様子で近づいて来、ぺろりと東條の手から角砂糖を舌で舐めとった。
「なんだお前、意外と食いしん坊なんだな」
言いながら、馬が怖がらないのを確認しつつ、そっとその首を撫でてやる。
ウインターコスモスは喜びも嫌がりもせず、ただ無反応のまま東條の愛撫を受け入れていた。
「お前も大変だな。前の騎手には怖い目に遭わされるし、調教師はあの坂東先生だし。気が休まる暇もないよな」
東條は撫でるのを止め、ウインターコスモスの瞳をじっと見つめた。
その目には何も浮かんでいなかった。ただ真っ暗な黒が浮かび、東條に対し、何の感情も返してこない。最初に見えたと思った怯えの色さえ、今はない。
『馬は、悲しみを一生忘れない生き物だ』
不意に、坂東が言った言葉が胸に浮かんできた。
この、今は無機質にすら見える瞳の奥には、どれだけの感情と、どれほどの悲しみが詰まっているのか。
鳴くことも、逃げることもしないというこの馬は、これまでどれだけのものをその心に溜め込んできたのか。
ウインターコスモスの黒い瞳は、無機質なガラス玉のように、ただ東條の顔を反射していた。
「あなたのことをもう一度愛する」
東條は、ウインターコスモスの馬名に込められた、その花言葉を呟いた。
どうしてかは分からない。ただ心に浮かんだから、そのまま口にした。
「あなたのことを、もう一度愛する」
言い聞かせるように、東條は何度もその言葉を繰り返した。
その呟きもまた、ウインターコスモスの真っ黒な瞳に、吸い込まれていったのだった。
ウインターコスモスのオーナーが好きな言葉は『忍耐』の方です。
明日も昼12時と夜8時の2回更新になります。
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