坂東鬼八 美浦で一番の調教師
東條は坂東調教師に呼び出され、美浦トレーニングセンターの、坂東厩舎の事務所の前に来ていた。
坂東調教師は、日本一の調教師に与えられるJRA賞を過去何度も受賞している、美浦で一番の調教師である。
そんな名調教師と東條の関係の始まりは、5年前まで遡る。
東條が騎手になって初めてGⅠを獲ったその少し後、それまでほとんど面識のなかった坂東調教師に突然東條は食事に誘われ、その席で前触れなく馬の騎乗を依頼されたのだ。
騎乗を依頼されたのは1頭の未勝利馬だった。臨時の乗り替わり、1回限りの騎乗依頼だった。
そしてその騎乗依頼で、東條はあっさりと勝った。2着と2馬身差をつけて楽勝だった。
これだけ走れる馬が何故未勝利だったのか、不思議に思ったほどだ。
そして結局、その後その馬の主戦は東條ということになった。鞍上が東條になってから、その馬は引退までに4勝した。
それ以来、坂東は東條に時々騎乗依頼をくれるようになった。
東條が3年前に勝った安田記念とヴィクトリアマイル。この2つのGⅠは、どちらも坂東厩舎の馬に乗せて貰っての勝利だった。
そういう意味で東條は、GⅠを掴むチャンスをくれた坂東に大きな恩を感じている。一方で、自分はその騎乗依頼に結果で応えて来たという自負もある。
今回の坂東からの急な呼び出しも、騎乗依頼である可能性が高い。
なので本来ならば、どんな馬を任せて貰えるのかとワクワクしていいはずなのだが、東條の気持ちはむしろ沈んでいた。
なんならば、坂東厩舎の事務所の前にもう着いているのに、その中へ入るのを躊躇っている位には、気持ちが重かった。
坂東厩舎のボスである坂東鬼八という調教師は、怖いのである。名前も、見た目も、性格も、言動も、何もかもが怖い。
厩務員や騎手へのパワハラなど日常茶飯事で、腹を立てれば平気で相手を拳で殴り飛ばすような男なのだ。
実際坂東にぶん殴られて、壁まで吹っ飛ばされたという騎手や厩務員が、この美浦には何人もいるのである。
そんな時代錯誤のパワハラを続ける男は、きっとその内訴えられて大事になると誰もが思っているのだが、坂東を相手に訴訟を起こした者はまだ誰もいない。
そんなことをすれば、怒り狂った坂東に何をされるか分からないので、誰も怖くて訴え出ることが出来ないのである。
労働組合が強いと言われるこの美浦で、暴力と恐怖で人間を従え、誰より上手に馬を鍛え上げる。それが坂東鬼八という調教師だった。
東條は怖い。もう付き合って5年になるが、今でも坂東のことが怖い。
会話をしているだけで、びりびりと脅されているような圧を掛けられる。
そんな男とこれから会って話さなければならないと思うと、それだけで気が重い。
だがしかし、その精神的な重圧を差し引いても、坂東厩舎からの騎乗依頼というのは魅力的だった。
日本屈指の調教師が鍛えた馬に乗る機会をみすみす逃すなど、騎手である東條には考えられない選択だった。
「……よし」
何がよしなのか自分でも分からないが、気合を入れる為一声発して、東條は坂東厩舎の扉を開けた。
事務所の中では、坂東鬼八が一人黒革のソファに座り、東條のことを待っていた。
東條がドアを開けると同時、坂東はそれまで読んでいた何かの資料から顔を上げ、東條のことを確認すると、
「おう、来たか。まあ座れ」
と言って、顎をしゃくり向かいのソファを指した。
言われるがまま入室し、坂東の向かいに座る。
坂東は持っていた資料を、自分の横に放り投げるように置いた。
東條は、改めて坂東のことを観察した。
スキンヘッドの頭に、太い眉毛と深い眉間の皺。10人中10人が目を反らしたくなるような鋭い三白眼。今にも怒声が飛び出してきそうな薄い唇。
年齢は60近いにも関わらず、その肉体は筋骨隆々としており、広い肩幅がその見た目のごつさを際立させていた。
太っていはいない。しかし、ぶっとくて分厚い。そんな印象を与えてくる、鍛えられた肉体だった。
ふと、東條は坂東の腕に目を向けてしまった。頑強な筋肉に覆われた、太い丸太のような腕だった。
東條の先輩騎手は、坂東厩舎の事務所のソファで話している最中、いきなりこの腕に殴られたことがあるのだという。
その先輩はソファごと吹っ飛ばされて、数メートル離れた後ろの壁まで飛んで行ったというのは、その先輩本人の談だ。
初めて聞いた時は大げさな冗談だと笑ったが、坂東調教師ならあり得ると、最近の東條は本気で思い始めている。
「東條、お前、最近は随分調子が良いみたいだな。あのけったいな名前の牝馬。牝馬限定だけじゃなくNHKまで勝って、お前も鼻が高いだろ」
挨拶代わりの坂東の問いかけ。それに東條は曖昧に笑って相槌を打った。
近頃はどこへ行ってもバインのことを話題に出されるので、東條にとってその話題は少々食傷気味だった。
「だが皮肉なもんだな。お前の馬に負けたニーアアドラブル。あれ、次走はダービーらしいぞ」
何気なく告げられた坂東の言葉に、思わず東條は目を見開いた。
「本当ですか? ニーアアドラブルがダービー、オークスではなく?」
ニーアアドラブルほどの馬なら、オークスではなく日本ダービーでも勝てるのではないか。それは競馬ファンの間では予てより言われていた話題だ。
しかし、実際にダービーに出走するという話は、少なくとも東條はまだ聞いたことがない情報だった。
「今週中には発表される確かな話だ。おかげで今年いいとこなしだった俺のところの3歳牝馬にも、オークスを獲る目が見えて来た。ありがてえ話だよ」
皮肉気に笑う坂東を見て、東條は自分の中にモヤっとした感情が芽生えるのを感じた。
桜花賞を勝ったバインは、王道のクラシックを逸れてNHKマイルカップに進んだ。
なのに桜花賞を負けたニーアは、クラシックの大本命であるダービーに出るという。
日本ダービーは、東條がいつか勝ちたいと願っている夢の舞台だ。騎手を目指した切っ掛けのレースであり、東條にとっての夢そのものだ。
バインに乗ってダービーに出る自分の姿と、そこでニーアアドラブルと日本一を懸けて争う場面を想像してしまい、東條の中の封じ込めていた不満が、一瞬顔を覗かせた。
「お前も残念だったな。乗っているのがニーアアドラブルの方だったら、今年こそダービージョッキーの夢が叶ったかもしれんのに」
「俺は、バインよりニーアアドラブルに乗りたいと思ったことは一度もありませんよ。バインがオークスやダービーを走らないことに関しては、そもそも騎手は馬をどのレースで使うか決める立場ではありませんから」
煽るようなことを言ってくる坂東に、東條は感情をぐっと抑えながらそう答えた。
「そうかねぇ。俺ならお前の馬に、2400走らせる位訳ないことだがな。あのバインバインボインって馬は面白い。本当に、郷田なんぞにはもったいない馬だ」
言って、ぎろりと、坂東は東條を睨んだ。
「お前、今年のダービー出たいか?」
「乗せて貰えるんですか?」
坂東の問いに、東條は前のめりになって質問を質問で返した。
会話の流れから言って、坂東厩舎の馬でオークスに出てくれという話になるのかと思っていた。
東條は世間から牝馬に強い騎手だと認識されている。今までに制した8つのGⅠの内、5つが牝馬限定のレースだからだ。
乗り替わりで坂東厩舎の馬でオークスに出て欲しいと、そういう依頼がくるものと思っていた。
しかし、坂東は今ダービーと言った。
東條は坂東厩舎所属の3歳馬と、その主戦騎手をつらつらと思い浮かべた。
ダービーに出られそうな馬の騎手に、乗り替わりを命じられそうな者は思い当たらない。
食い気味に問い返した東條に、坂東はにやりと笑って見せた。
「お前が乗せてくださいと頼むなら、特別に考えてやってもいいな。お前はこれまでも、それなりに俺の馬を勝たせて、」
「乗せて下さい。お願いします。俺にダービーに出るチャンスを下さい」
坂東が言葉を言い終わらない内に、東條は頭を下げた。冗談だと言われたら、そのまま土下座して冗談を本当にして貰うまで頼み込むつもりだった。
ダービーに出られる。それも、美浦で一番の調教師が手掛けた馬で出走出来る。
そんなチャンスを掴めるのなら、頭くらいいくらでも下げるし、靴でも舐める覚悟だった。
「お前のそういうところ、俺は好きだぞ」
頭を上げるように言われ、顔を上げると、坂東はテーブルの上に資料を投げた。
東條が入室した時に、坂東が読んでいた資料だった。
「……ウインターコスモス、ですか」
「そうだ」
資料に書かれたその馬名を読み上げると、坂東は口角を吊り上げ、悪だくみをするような笑みを浮かべた。
「そいつに乗ってダービーに出てくれ」
続きは本日夜8時更新です。
会話の中でちょろっと苗字だけ登場していた坂東調教師になります。
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