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廻り続ける薄汚い因果の応報


 NHKマイルカップのレース後、後検量の為に騎手達が集まる検量室の中。


 雑談に興じる騎手もいる中で、山田は一人壁際に立ち、じっと自分の左手の甲を見つめていた。


 山田がおもむろに、自分の左手の甲を右手の親指で撫でる。左手の甲は、まだ残るヒリヒリとした痛みを山田に返した。

 そしてその痛みが山田に、ついさっき走り終えたばかりの、NHKマイルカップの最終直線を思い出させた。


 今日のレース、追込馬であるシマヅサンバを先行させるという奇策は、見事にはまった。


 先頭集団の中でも、シマヅサンバは走る気を最後までなくさなかった。

 そして、マークしていたバインを追い、馬群を抜けて一度は2位にまで浮上した。


 馬群を割って前へ出たバイン。その後を追って、見事馬群を抜け出したシマヅサンバ。

 歴戦の勝負師たる桜庭調教師の目論見通りに、今日のレースは展開したのである。


 そして、ゴールまで残り200mの地点で、シマヅサンバはバインに並びかけるというところまで迫った。


 否、並びかけるどころの話ではない。その時シマヅサンバの脚は十分に残っていた。そして何よりも、シマヅサンバはその時点でも走る気をなくしていなかった。


 今まで見せことがないほどの気炎を吐きながら、サンバは外へ膨れることもなく、真っすぐゴールへと突き進んでいったのである。


 勝ったと、この時山田は思った。昨年の阪神JFでは、脚とスタミナがギリギリ足らずに負けた。


 だが今日はあの日より、脚もスタミナも気力も、全てが上回った状態で残っている。

 あの瞬間、確かにシマヅサンバという馬は、バインという同世代最強格の馬を圧倒していた。


 並びもせず一瞬で先頭を奪えると、山田は確信しながら鞭を振っていたのである。


 だが、そのシマヅサンバ完勝の状況を変えたのは、騎手の東條だった。


 より正確に言えば、東條騎手が振るった、たった一発の鞭だった。


 シマヅサンバが先頭に追い付こうとしたその瞬間、東條騎手の振り上げた鞭が、東條が乗るバインの尻ではなく、山田の左手を強打したのである。


……馬の尻を叩こうとした騎手の鞭が、後ろを走る馬の顔に当たってしまうというのは、レース中起こりうる事故だ。

 そしてそんな事故に見せかけて、わざと大きく鞭を振り上げ、後ろの馬の顔を鞭で打つというのは、一部の騎手がたまに使う『手』だった。


 より悪質なケースだと、馬の顔ではなく、手綱を握る騎手の手を狙って鞭が飛んでくる。


 山田はその悪質な方の『手』を使われた。

 今日の勝利騎手である東條に、まんまとそれをやられた。


 断じて、断じてあれは事故ではなかった。何故なら鞭が左手に命中した瞬間に、山田は東條の顔を見た。

 ゴーグルの奥に隠れた東條の瞳が、獰猛な光を発するのを、見た。


 それは、事故を起こして驚く人間の目とは程遠かった。

 罠に掛かった獲物を冷徹に観察するような、冷たい残酷さを秘めた眼光だった。


 東條は実に上手く、気づかれにくく山田に鞭を当てたのである。前後に不自然な動作や、わざとらしい挙動は一切なかった。

 カメラには映らない角度だった。観客に気づかせない自然さだった。練習したことがあるとしか思えないほどの巧みさだった。


 そして、その見事なほどの妨害行為によって、山田は勝機を逸した。

 左手を打たれた瞬間、痛みと痺れで山田の左手は感覚を完全に失ってしまったのだ。そしてその時山田の右手は、鞭を握っていた。


 左手が手綱から離れれば、山田はそのまま落馬してしまう状態だったのである。

 トップスピードに乗ろうという馬からの落馬。それも、後続の馬達が加速しながら追い上げてきている状況で。


 落ちたら確実に死ぬ。

 山田は咄嗟に鞭を捨て、右手で手綱を握った。感覚がマヒした左手で、握力を込め直すようにして手綱を握り直した。


 それは、落馬しないための反射的な行動だった。しかし気分良く前に行こうとしていた馬にとっては、走りを邪魔される行為に他ならなかった。

 そしてサンバは鞍上の異変に気付き、みるみる速度を落とした。


 騎手に走りを邪魔されやる気をなくしたから、ではない。


 明らかに山田を落馬させない為に、サンバは速度を落とした。鞍上の山田を気遣う様子を見せながら、サンバは後退したのである。


 普段は懐く素振りすら中々見せない馬が、何故こんな時だけと、後ろに下がるサンバの上で山田は茫然と思った。

 そしてそこへ、先頭を目指す後続の馬達が殺到し、サンバは馬群に呑まれた。


 嫌いな馬達に囲まれたサンバは、一瞬怖がるように耳を絞った。

 しかし、サンバは馬群から抜け出そうと暴れたりはしなかった。前は空いていたのに、馬群から逃げる為に加速したりもしなかった。


 山田が鞭の痛みから復帰した後も、サンバは山田が落馬しないよう、まるで騎手を守るかのように静かに走り続け、そのままゴールした。


 掲示板にすら乗らない7着。着外でのゴールだった。


「…………ちくしょう」


 誰にも聞こえないほどの小さな声で、山田は呟いた。

 気づけば無意識の内に、山田は左手の甲を強く指で押していた。激痛と呼んでいいほどの痛みが走ったが、山田は指の力を緩めることが出来なかった。


 悔しくて、悔しくて、こんな程度の痛みではまるで足りなかった。


 シマヅサンバを勝たせてやれなかった自分が、ただただ不甲斐なかった。

 シマヅサンバに助けてもらった自分が、ただただ情けなかった。


 ぎゅっと、自分の左手を握る。

 左手の甲は、鞭で打たれた痛みを訴え続けている。

 左手の平には、感触が残っていた。


 見えるものではない、本来触れられるはずもないものの感覚が、山田の左手には残っていた。


 今日逃した勝利。一度は掴んだと思った勝利。


 自身初の。九州産馬初の。シマヅサンバにとって初めての。

 GⅠタイトルという栄光が、自分の手の平から零れ落ちる感覚。

 山田の左手の平には、その感覚がはっきりと残っていた。


「山田さん、手、大丈夫ですか?」


 不意に声を掛けられ、山田は顔を上げた。

 声を掛けてきたのは、東條薫だった。今一番顔を見たくない、NHKマイルの勝利騎手がそこに立っていた。


 卑怯な手段でGⅠタイトルをサンバから奪った張本人が、気づかわし気な顔で、山田の左手に視線を送っていた。


「すみません。あの鞭は俺の不注意でした。以後、気をつけます」


 そして、いっそ白々しいほどの態度で、東條は山田への謝罪を口にし、頭を下げた。


 下げられた東條の頭を見た瞬間、山田の頭にカッと血が上った。


 不注意。今、この男は不注意と言った。

 わざとやったくせに。明らかに故意でやったくせに。


 もしあの時、鞭に打たれたあの瞬間、山田の左手が手綱を離してしまっていたら、山田は落馬して死んでいたかもしれないのだ。


 そしてそんなことは、東條だって承知だったはずだ。

 この男は、自分が勝つ為なら山田が死んでも構わないというつもりで、あの時鞭を振ったのだ。


 もう、7勝もしているくせに。山田が一度も勝ったことがないGⅠを、7度も勝っているくせに。


「……別にいいよ。わざとじゃないんだろ?」


 しかし山田の口は、心中で渦巻く感情とは全く逆の言葉を口にした。


 本当は東條の胸倉を掴み、卑怯者めと怒鳴りつけてやりたかった。よくも俺を殺そうとしたなと、ぶん殴ってやりたかった。


 しかし、山田の中の理性が、それを押しとどめた。

 山田が東條の妨害行為を糾弾し、結果東條が失格になったとしても、着外に沈んだシマヅサンバが勝馬になることは絶対にない。


 何よりも、鞭が手に当たったくらいのことを大げさに騒ぐのは、騎手間の暗黙の了解に反する。


 公営賭博である競馬は、公正でクリーンなものでなければならない。

 しかし、その建前に反しない範囲で、公にされなければ問題にならないグレーな行為というものは、ある。

 多くの騎手がここぞという時に使う、フェアとは言い難い数々の行為が、ある。


 だが、そうしたライバル達のグレーな行いを暴いて騒ぎ立てるのは、自分自身が使える手段を減らすことにもなってしまう。

 大事になって過去のレースに遡った調査などが行われたら最悪だ。どの騎手も、探られるとまずい腹の一つ二つは持っている。


 結果として誰も藪蛇をつつきたがらず、グレーなものはグレーなまま、放置しておくことが暗黙の了解となっている。


「本当にすいませんでした」


 東條は最後にもう一度頭を下げると、用は済んだと言わんばかしに踵を返し、検量室の出口に向かった。


 東條はこの後、NHKマイルカップの表彰式に向かうのだろう。


 そして、何食わぬ顔で式に出席するのだ。

 多くの人が、バインバインボインという馬の強さと、東條の騎乗を讃えるのだろう。

 汚い手で掴んだ今日の勝利を。正々堂々戦えば、シマヅサンバが手にするはずだったGⅠタイトルを。


 東條薫という卑怯者は、笑みを浮かべながら、シマヅサンバのことなど頭の片隅にも置かず、喝采の中で今日のレースを勝ち誇るのだ。


「……待てよ」


 東條が検量室のドアノブに手を掛けるのと、山田が東條の肩を背後から掴んだのは、同時だった。


 東條が、驚いたように振り向く。


「何ですか?」


 謝罪は済んだのに、何故呼び止められたのか分からないといった様子で、振り返った東條の顔には戸惑いが浮かんでいた。


 だが、山田は山田で言葉に詰まっていた。


 何をしゃべるか全く考えずに、半ば無意識に東條を追い、その肩を掴んでいた。

 ただ、このまま何も言わずに東條を表彰式に行かせるのだけは、絶対に嫌だった。


「……あの鞭は、わざとだろ」


 そして、少しの躊躇いの後、山田の喉がどうにか絞り出したのは、その一言だった。


「まさか。山田さん、申し訳ないとは思っていますが、今日のあれは事故ですよ」


 しかし東條は、開き直ったような態度で言葉を返す。

 絶対に故意だとは認めないという強気な姿勢が、その奥に透けて見えた。


 再び怒りで頭の血が沸騰した山田は、今度こそ東條を、噓つきの卑怯者めと怒鳴りつけようとした。

 右手は無意識に拳を作っていた。あるいは、その拳は怒声と共に、東條を殴りつける為のものだったのかもしれない。


「山田さんは、イチゴダイフクって馬のこと覚えていますか?」


「は? イチゴ?」


 しかし、その罵声と拳は、東條の突然の質問によって押しとどめられた。


 イチゴダイフクという馬に、山田は心当たりはなかった。今日のレースにも、もちろんそんな馬名の馬は出ていなかった。

 何故そんな何の関係もない質問をするのだと、山田は一瞬相手の意図を考えてしまい、怒りの出鼻を挫かれた。


「イチゴダイフクは、俺の初めてのお手馬です。OPに上がれる位の素質はあったと、今でも思っています。でも騎手がへぼすぎたせいで、あいつは未勝利のまま3歳の8月を迎えました」


 3歳馬の未勝利戦が組まれるのは8月までである。そして3歳9月までに1勝も挙げられなかった馬は、基本的にそのまま引退となる。


「でも、3歳8月最後のレースで、イチゴダイフクは頑張った。過去最高の走りを見せて、これは絶対に1着を獲れるという勢いで先頭集団に並びかけた。けれど、」


 そこでふっと、自嘲するように東條は笑った。


「そこで先行馬に乗る騎手の鞭が、イチゴダイフクの鼻面に当たったんです。それであいつはびっくりして失速。7着に沈んで、未勝利のまま引退。殺処分されました」


 その馬のことを覚えていますか、と、東條は山田に問うた。


 そこまで聞いて、山田の脳裏に一つの記憶が蘇った。

 イチゴダイフク、という馬のことではない。


 思い出したのは、レース後検量室の壁際に立ち、山田のことを睨みつけてきた、一人の新人騎手の姿。

 一言も発さず、黙ったまま山田のことをただじっと睨んでいた、デビュー1年目の東條薫の姿を、山田は思い出した。


 そう。事故に見せかけ鞭で後ろの馬の顔をわざと叩くというのは、一部の騎手が使う手だ。そしてそれは、山田自身も過去に使ったことがある手だった。


「山田さん。今更ですけど、あの日のあの鞭は、もちろん事故だったんですよね?」


 東條が、追い打ちをかけるように問いかけてくる。


 知ったことかと、山田は怒鳴り返してやろうかと思った。

 10年以上前に引退した未勝利馬のことなど、俺が覚えているわけがないだろうと。

 今日のGⅠの話を俺はしているのだと。

 お前が今日卑怯な手を使った事実は変わらないだろうと。


 幾つも幾つも言葉が山田の腹の中から生まれ、口から飛び出そうとしたが、その全ては、喉よりも上に上ってくることはなかった。


 思い出してしまった、山田を睨む若き日の東條の目が、山田に全ての言葉を飲み込ませた。


「手、放してください」


 東條が、ずっとその肩を掴みっぱなしだった山田の左手を払った。


 何も言えないでいる山田を置いて、東條が扉を開け、検量室を出ていく。

 バタン。と、大きめの音を立てて扉が閉まった。


 山田は立ち尽くしたまま、その扉をしばらく眺めた。


「……ちくしょう」


 小さく小さく、山田がつぶやく。山田は、自分の左手を見た。


 逃した勝利の感覚が残る左手を。

 東條の鞭の痛みが残る左手を。

 東條の肩の感覚が残る左手を。

 東條に払われた左手を。


 山田は、ただじっと見つめた。


「……ちくしょう」


 東條にぶつけようとした言葉のすべてが、『ちくしょう』というただ一言に置き変わって、いつまでもいつまでも、山田の口から零れ続けた。



ちなみに主人公は東條がやったことを気付いていません。


次話は本日昼12時投稿です。




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[良い点] 綺麗ごと一辺倒じゃないところ。 ちょっと驚いたが、物語的には厚みが確実に増したな。
[良い点] 業がふけぇよアニキ!一体全体応援してて負けた方をなんて思へばいいんだ...
[一言] 顔ムチ! 漫画『風のシルフィード』で主人公と愛馬が天皇賞・春で食らっていたのを思い出しました。 東條さんは報復を果たしたんや……
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