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桜花賞で倒すべき敵


「東條君と俺の間に認識の齟齬(そご)がある気がするから、一旦俺の桜花賞についての考えを全部話していいか」


 郷田にそう尋ねられ、東條は一も二もなく頷いた。


「まず大前提として、バインの世代の実力ナンバー1はニーアアドラブルだ。東條君が気にしている通り、あの馬の走りは別格だよ。間違いなくバインより強いし速い」


 郷田は東條に自分の手の甲を見せながら、指を2本立てた。


「それを踏まえた上で、出走馬が出揃っていない現時点、注目しておくべき馬は2頭だ。1頭はもちろんニーアアドラブル。そしてもう1頭は、ノバサバイバーだ」


「ノバサバイバー。阪神JFで2着だった馬ですね」


 阪神JFでバインにアタマ差まで迫った末脚を思い出しながら、東條は言った。


「そうだ。しかも、阪神JFでは乗り替わりで二宮騎手が乗っていたが、桜花賞では主戦の天童騎手が乗る。天童が乗ると馬は化ける。前に勝った馬と同じ馬だと油断することだけは、絶対にしちゃいけない」


 それはまるで馬よりも天童騎手を警戒しているような口ぶりだった。

 だが、警戒して当然の相手ではある。


 天童善児。騎手リーディングにおいて長年1位の座に君臨する、デビュー当時から天才の名を欲しいままにしてきた日本最強のジョッキー。


 郷田は現役騎手時代、10年に渡り騎手リーディング2位の座に君臨した。しかし、1度も1位にはなれなかった。

 いついかなる時も、常に1位の座は天童のものだったからだ。


 そして郷田が騎手を引退してからは、天童は毎年200勝以上の勝鞍を上げ続けている。


 年間100勝出来れば超一流と言われる騎手の世界で、去年100勝を達成した騎手は天童以外に3人しかいない。そしてその3人の中に150勝を越えた騎手は1人もいない。


 リーディング2位に50勝以上の差をつけて、騎手の世界の絶対王者として君臨しているのが天童善児なのである。


 ちなみに東條は去年68勝し、リーディングは14位だった。


「とはいえ天童が乗るノバサバイバーは、レース毎に仕上がりのむらっけが激しい馬だ。そして仕上がりの良し悪しがモロに末脚の伸びに現れる馬でもある。レースが始まった時、天童がどの位置にノバサバイバーを付けるかは注意して見ておいた方がいい」


 郷田の言葉に、東條は首を傾げた。


「ノバサバイバーは後方差しですよね。いつも通り中団より後ろに待機するんじゃありませんか?」


「今までのレースならそうだろうが、今回の桜花賞は違う。ノバサバイバーより末脚で勝る、ニーアアドラブルがいるからな」


 言って、楽しそうに郷田は笑った。


「実際、天童にとっては厳しい戦いだよ。後方に待機すると、ニーアとの切れ味勝負になって負ける。かといって前で粘ろうとすれば、バインとの根性比べが待っている。それでも勝とうとするなら、さあどうする?」


「……中団に控えて、ニーアアドラブルよりも早く仕掛ける、ですか?」


「そうだ。バインを切れ味で抜き去り、上がって来るニーアアドラブルに粘り勝つ。それがノバサイバーの勝ち筋だ。そして勝ち筋があるなら、天童は必ず勝ちに来る男だ」


 レース当日の天童騎手の苦労を想像しているのだろうか、郷田は笑みを深くした。


「だがこの勝ち筋は、結局ノバサバイバーの末脚が要だ。そしてその末脚の伸びは、当日の馬の仕上がりによって変わってくる。だから位置取りに注意なんだ。仕上がりが良ければ、中団に控えるだろう。仕上がりが悪いなら、末脚が使えない分中団より前に陣取る必要がある。調整に失敗したなら、それこそバインの真後ろ辺りにつけてくることだってあり得る」


「典型的な後方差し馬のノバサバイバーが、そこまで前に来ますか?」


 正直、そこまで序盤から前に出てしまったら、最後に粘れるだけのスタミナがノバサバイバーに残るとは思えない。


 素朴な疑問を口にすると、郷田は大きく頷いた。


「やるね。天童ならその位平気でやる。スタミナ切れで最下位に沈む可能性が生まれようとも、勝つ可能性が1%でも上がるなら、そっちに賭ける。そういう男だ。どんな駄馬を宛がわれても、必ず勝ち筋を見つけ出し、卓越した技術で勝ち負けまで持って行ってしまう。騎手の力だけでどんな馬でも勝たせてしまう理想の騎手。それが天童善児だ」


 言って、自分でも言葉に熱が籠っていたことに気付いたのだろう。郷田は自分を落ち着けるように、テーブルに置いてあったお茶を飲んだ。


「それで次に、本題のニーアアドラブルだが、あれは中距離馬だ。マイル戦である桜花賞では、ホープフルでの走りは忘れていい」


「え?」


 頭から離れなかったレースを忘れろと言われ、思わず東條は呆けた声を出した。


「ホープフルでの走りと、それ以外のレースでの走りと比べれば、一目瞭然だよ。あの馬が真価を発揮するのは2000m以上のレースからだ。加えて、ニーアアドラブルには分かりやすい弱点がある」


「弱点?」


 あるのか。今年の3歳牝馬に乗る全ての騎手が対抗策に頭を悩ますあの馬に、そんなものが。


「騎手だよ。あの馬は騎手が未熟すぎる。あの馬の主戦の野々宮騎手に、中距離馬であるニーアアドラブルの末脚を、マイル戦の中で使い切らせる技術はない」


 郷田は、断定するように言い切った。


「その断言の仕方はどうでしょうか。野々宮騎手とは何度かレースで一緒になったことがありますが、彼の騎乗に問題があるという印象は俺にはありません。確かに若手ではあると思いますが」


 特に悪印象がある相手でもなかっただけに、東條は思わず野々宮騎手をフォローするようなことを口にしてしまった。


 ニーアアドラブルの主戦騎手、野々宮春馬。栗東の野々宮厩舎所属の5年目、23歳の青年だ。


 GⅠの勝鞍は去年のホープフルのみだが、そもそもデビュー4年でGⅠを獲れる騎手など滅多にいない。


 騎乗技術もまだまだ荒さはあるが、年相応の範囲内だ。槍玉に上げられるほどの酷い騎乗をしたという噂も、特に聞かない。


「上手い下手ではなく、経験の問題だな。彼は桜花賞に出走するのは今年が初めてらしい。クラシック初挑戦は去年の菊花賞で、結果は18着だった。そんな奴が今年いきなりGⅠ馬でクラシックに出て、まともに走れると思うか?」


 クラシックに呪われている、なんて言われている東條にしてみれば、笑えない話だった。

 デビュー4年目でダービーに出走した時の自分を思い出し、そしてそれ以降のクラシックレースでの失態を思い返し、東條は野々宮騎手に同情すらしそうになった。


「まず間違いなく、当日野々宮騎手はプレッシャーに潰される。鞍に座っているだけの置物になれたら上出来だな。普通に考えれば、緊張のあまり出遅れ、直後に掛かり、終始折り合いつかず、喧嘩したままスタミナ切れ、最下位にドボン、だ。」


「……もしかして、俺の初ダービーのこといじってます?」


 ジト目で東條が睨むと、『ハハハ』と郷田は笑った。


「東條君の初ダービーは16着で最下位じゃなかっただろ。最下位にドボンは去年の野々宮騎手だよ。去年の菊花賞の野々宮騎手の走り、一度じっくり見てみるといい。こんな下手糞に負けてたまるかって気がしてくる良い映像だぞ」


 どこまで冗談なのか分からないことを言って、郷田はふん、と鼻を鳴らした。


「真面目な話、俺がニーアアドラブルの調教師なら、野々宮騎手には絶対に馬群の中に入らないよう言い聞かせるな。位置取りは後ろから2番目あたり、何なら最後尾でもいいだろう。適正距離ではないとは言え、あの馬の末脚ならそこからでも十分勝負になる」


 そこまで言うと、郷田はじっと東條の顔を真正面から見据えた。


「覚えておいてくれ。レース当日、東條君の敵はニーアアドラブルではなく、鞍上の野々宮春馬の方だ。野々宮がヘマをすればするほど、バインは勝利に近づく。だが、東條君が新人みたいなミスをすれば、その分バインから勝利は遠ざかる」


 ここにきてようやく東條は、これまで聞いた郷田の長い話が、自分に『本番絶対にヘマをするな』という、強い圧を掛けるためのものであることに気付いた。


「散々野々宮騎手をこき下ろしてはみたが、それでもニーアアドラブルは必ずゴール争いに絡んでくるよ。あの馬は役立たずの置物を背負って、最適性でない距離を走らされても、それでも勝ってしまうだけの力を持っている」


 言って、郷田は再び東條に手の甲を向けながら、人差し指と中指を立ててチョキを作った。


 そして、ゆらゆらと人差し指を揺らしながらしゃべり出す。


「桜花賞に出る騎手で、一番上手い騎手は天童善児だ。奴は騎手の力だけで馬を勝たせてしまう天才だ。東條薫では天童善児に勝てない」


 きっぱりと言い切った上で、郷田は人差し指を揺らすのをやめ、今度は中指を揺らし始めた。


「桜花賞に出る馬で、一番速い馬はニーアアドラブルだ。今年の3歳馬の中じゃ文句なしに最強馬だ。バインではニーアアドラブルに勝てない」


 言ってから、郷田は立てた2本の指をテーブルの上に置いた。そしてその2本の指の根元を押さえるように、逆の手で作ったチョキを重ねる。


「この一人と一頭に勝つ為には、コンビで戦いを挑むしかない。君たちはコンビで戦うんだ。ただし、戦う相手を間違えてはいけない」


「東條薫の相手は野々宮春馬だ。バインが倒す相手はノバサバイバーだ。東條薫の技術が野々宮春馬を圧倒し、バインの走りがノバサバイバーを完封する。それがお前たちの勝ち筋だ。それが出来た時、初めて勝負になる。最強の騎手と最強の馬に、勝つか負けるかのところまで持っていける」


 言い終えて、郷田は笑った。


「以上が、俺が今年の桜花賞をどう見ているか。そして、バインと東條薫がどう走るかのイメージだ。参考にしてくれ」


 とてつもないプレッシャーを感じながらも、東條はなんとか郷田の言葉に笑い返した。

 その笑顔は多分、引きつっていた。


 だが、それでも笑い返せたことに、東條は去年のクラシックの頃よりも、自分は成長していると感じたのだった。



掲示板回でちょろっと名前だけ出ていた天童騎手です。

続きは12時更新予定です。



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― 新着の感想 ―
[気になる点] >「この一人と一頭に勝つ為には、コンビで戦いを挑むしかない。君たちはコンビで戦うんだ。ただし、戦う相手を間違えてはいけない」 >「東條薫の相手は野々宮春馬だ。バインが倒す相手はノバサ…
[良い点] 主人公馬が出て来ない他登場人物視点の話でも面白いところ。 物語に引き込む力と実際にいそうな良い意味で人間臭さのあるキャラクター達の魅力。 [一言] 馬だけでは勝てない&騎手だけでは勝てない…
2023/12/11 10:36 退会済み
管理
[良い点] 最終コーナを回って直線、ここでバインバインボインが前に出る。後続を突き放す勢い。ああっと天童が鞭を入れて外から物凄い末脚、バインバインボインを、、、ガバッと、夢かなifパターンを生産者や馬…
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