相変わらずな男達
「ひぃぃっ!? た、たすけてぇぇ!」
厩務員の小野が郷田の目の前で馬に襲われていた。
小野を襲っているのは、珍しい尾花栗毛の毛並みを持った一歳の牡馬だった。
その一歳馬は小野の上着の襟に噛みつき、その服もろとも小野のことを滅茶苦茶に振り回している。
一歳馬とは言え人間の何倍もの体重を持つサラブレッドだ。その怪力で小野は右へ左へと振り回され、地面を転がされながら、ろくな抵抗も出来ずにただ悲鳴を上げていた。
その様子を、郷田は遠い目をして眺めていた。
郷田の隣では尾花栗毛の馬のオーナーである大泉笑平が、気まずそうに暴れ馬と小野から目を逸らしている。
「……大泉オーナー」
「……はい。なんでっしゃろ、郷田先生」
小野が上着を脱ぎ棄てて、上半身タンクトップ姿でどうにか馬から逃げ出すのを見届けてから、郷田は口を開いた。
「残念ですが、あの馬をうちの厩舎でお預かりすることは出来ません」
「そう言わず! 何とかお願い出来ませんやろか!?」
郷田が断りの文句を告げ終えるより早く、被り気味に笑平は声を上げた。そして爪が食い込みそうな勢いで、郷田の両肩を鷲掴む。
凄い力だった。絶対に放さないと言わんばかしの強い力だった。
「冷たいこと言わんで下さい。俺と先生の仲やないですか。先生にまで見捨てられたら、あの馬はもうお終いや。ホンマにレースにデビューすることもなく、処分するしかなくなってしまう。馬1頭の命を助けると思って、郷田厩舎でどうかあいつの面倒を見ていただけないやろか」
勘弁してくれと、郷田は頭を抱えたくなるような気持ちになりながら笑平を見た。
「馬の面倒を見るのはオーナーであるあなたの責任でしょう。大体、2頭目の持ち馬は私以外の調教師に預けるつもりだと、去年そう言っていたのは大泉オーナーじゃないですか。何故今になって郷田厩舎に預託するなんて、そんな話になるんですか」
郷田の反論に、笑平は珍しく目を泳がせた。
「お、俺かて、2回続けて郷田先生に頼るのはマンネリになると思うて、別の先生の厩舎に2頭目は預けようと、そう最初は思うとりましたよ」
「ならそれでいいでしょう。最初の予定通り、他所の厩舎を当たればいい」
「でもその、断られてしまいましてん」
「は?」
「せやから、俺が馬を預かってくれと頼んだ厩舎全部に、その馬を預かるのは無理やと断られてしまったんですわ」
そんな馬鹿なと、郷田は耳を疑った。
確かに郷田は今、大泉笑平の2頭目の所有馬の預託を断ろうとしている。
何故なら笑平が買った2頭目の馬が特大の気性難を抱えている馬だと、その馬の目を見ただけで郷田には分かったからだ。
実際、その馬は挙動不審で全く落ち着きがなく、ついには側にいた小野に襲い掛かるまでしてしまった。
そんなあからさまに危険な暴れ馬を預かるのは御免だと、そう考えて郷田は笑平からの依頼を断ろうとしている。
しかし例え気性難の馬であっても、暴れ馬と呼ばれるような凶暴な馬であっても、拒まずに受け入れてくれる厩舎は普通にある。
なのに厩舎全部に断れたとはどういうことかと、そう郷田が問えば、笑平はつらつらと自分が依頼しようとした美浦の厩舎を挙げ連ねた。
その厩舎のラインナップに、郷田は思わず舌を巻く。
確かな実力と実績を兼ね備えた中堅以上の厩舎。あるいは、そこまで目立つ実績はまだないものの、馬を鍛える確かな腕を持っていると郷田が一目置いている厩舎の名ばかりが、その中に含まれていたからである。
人を見る目というか、仕事の出来る人間を的確に見抜く笑平の能力に、郷田は思わず内心で唸った。
そして同時に不安になってくる。馬を鍛える確かな腕、あるいは馬の素質を見抜く優れた相馬眼を持つ一級の調教師達。
そんな彼らがこぞって預かるのを拒んだ馬とは、一体如何なる馬か。
郷田はもう一度問題の馬に視線を向けた。
小野から奪った上着をくわえたまま振り回し続け、ズタズタにしていく暴君がそこにいた。
「……馴致は?」
「へ?」
嫌な予感を抱えたまま、郷田は笑平に尋ねた。
「馴致、人を乗せて走る訓練はどこまで進んでいるんですか」
「先生、それを気にして下さるということは、預かる気になってくれたんでっか!」
郷田の質問に答えず、笑平が郷田厩舎で馬を預かる方向へ強引に話を進めようとする。
そうはいくかと、郷田は笑平の言葉が一切聞こえないかのように振る舞い、とにかく自分の質問に答えろと迫った。
バインを預かった3年間、郷田はとても強くなった。厄介な馬主が相手でも、どうにかその話術に抵抗出来る程度には、きっと成長した。
「……その、全く進んどりません」
そして郷田の詰問についに屈し、笑平が口を開いた。
「全くというのは、人を乗せたことがまだないということですか?」
「いや、その、実はそれ以前の問題で、ホンマはまだ鞍すら満足に乗せられんような有様で」
その背に鞍を乗せようとすると、暴れて訓練どころではなくなってしまうのだという。
それはつまり、人を乗せるどころか馬具すらまともに付けられない、どうしようもない馬ということだった。
「残念ですが、そういうことならもうあの馬のことは諦めるしかないですよ。人も鞍もその背に乗せられない馬が、レースを走れる訳ないでしょう」
多くの馬を見て来た郷田は知っている。馬の中には時々、そういう競走馬としての適性を全く持たない馬が存在するということを。
競走馬として最低限の適性。つまり鞍を乗せ、人を乗せ、ゲートに入り、スタートし、コースを走れる。そして騎手の指示に従って止まれる。それが出来るならば、気性難を抱えた馬でもレースで活躍することは可能だ。
どれだけ我侭でも、暴れん坊でも、人間の言うことを中々聞いてくれなくても、基本的にレースで活躍する馬たちは、『人を乗せてレースを走ることが出来る』まともな馬達なのである。
逆に言えば、そうでない馬もいる。気性難なんて言葉ではとても表現し切れない、どうしようもない馬というのはいる。
それは人間に全く従わない、レースで勝つ負ける以前の問題を抱えてしまった馬達だ。コースをまともに走れない馬、人を背中に乗せられない馬、人命を危険に晒すほど凶暴な馬。
そういう競走馬にはなれない、どれだけ訓練しても競走馬として使い物にならない馬というものは、残念ながら一定数存在する。
つまりはそんな『大外れ』の馬を、この大泉笑平という新人馬主は買ってしまったということなのだろう。
初めて買った馬がGⅠを5勝するというとびきりの『大当たり』を引いた。その揺り戻しを受ける様に、2頭目に買った馬はデビューすら出来ない『大外れ』だったと言う訳だ。
「そら、確かに俺も調教師の先生方には色んなことを言われましたわ。桜庭先生は『その馬は人間が扱える代物じゃない』と言うとったし、坂東先生からは『人を乗せる気のない馬など連れて来るな』と怒鳴られました」
天下の坂東厩舎にまで声を掛けていたのかと、郷田は目の前の馬主の顔の広さと行動力に思わずぎょっとした。
「せやけどどうしても、どうしても俺はあいつのことを諦められんのです。あの馬は育てばとんでもない馬になると、その思いが捨てられへん。それに俺以外にももう一人、あの馬は強くなると言ってくれたお人もおるんや」
「なら、あなたの馬を見込んでくれたその調教師に頼んで下さい。先ほどお断りした通り、私の意見も預かりを拒否した他の厩舎と同じです」
「あいつは強くなると太鼓判を押してくれたんは、調教師やないんです。馬主や。陣内恋太郎オーナーや」
意外な人物の名に、思わず郷田は目を見開いた。
「あの人に俺の馬を見せた時、言うてくれたんや。とてつもない怖さを感じる馬だと。もしこの馬がレースを走れば、とてもとても楽しいことになると、陣内さんはそう言ってくれた。そんなん言われたら、俺かてその気になるやないですか」
言って、笑平は真っすぐ郷田の目に向き直った。
「日本一の馬目利き、陣内恋太郎がそこまで言ってくれた馬なら、『ひょっとしたら』。そう思ったら、一度そう思ってしまったら、もう期待せずにはおれん。何とかしてレースを走らせたいと思わずにはいられん。この俺の気持ちは、先生だって分かってくれるやろ?」
まずい、と思いながらも、郷田は自分の脚元がぐらりと揺らぐのを感じた。
バインという、かつて郷田には何が強いのか理解出来なかった馬。郷田にとって未知の力を宿していたその馬を、『面白い』と感じて見出した大泉笑平という馬主。
テクノスグールという、郷田にとって最強の馬。その馬を『怖い』と感じて魅入られた、陣内恋太郎という馬主。
大泉笑平はその馬のことを、バインより面白くなると思ったのだと言う。
陣内恋太郎はその馬のことを、とてつもなく怖いと感じたのだと言う。
郷田にはない特別な『馬の力を見抜く目』を持った二人の馬主。その両方から将来を期待される馬が、今、郷田の目の前にいる。
育ててくれと、育てられるのはお前しかいないと、その馬が今、郷田の前に差し出されている。
本当にそんなに凄い馬ならば。多少の気性難や馴致に遅れがあったとしても、あの二人が太鼓判を押す馬ならば、『ひょっとしたら』。
あまり良くない考えが、軽率で絶対に将来後悔する考えが、自分の心に沁み出してきているのを郷田は感じた。
郷田は馬を見た。ズタズタにした小野の上着をまだ咥えたままでいたその馬は、郷田と目が合うと、見せつける様にその口から上着を落とした。
郷田を見つめるその馬の目が言っていた。お前もこの布切れのようにズタボロにしてやると。その血走った両目に、怒りとも不満とも判別付かぬ感情を迸らせていた。
それは完全に気が触れている馬の目だった。絶対に人に懐くことのない、野獣の眼光だった。
あ、やっぱ無理だと、あの馬は関わってはいけないヤベー相手だと、郷田が冷静になろうとした時、ぽん、と郷田は肩を叩かれた。
振り向けば、何故か笑平が揉み手をしながら笑みを浮かべていた。
笑って細くなった笑平の目は、ブランド品をねだる風俗嬢のような、あるいは高級外車を買わせようとするディーラーのような、不吉な色をしていた。
郷田が警戒のレベルを一段階上げようとするよりも早く、笑平がその眉を困ったように八の字に曲げる。
そして、揉み手を拝むような形に変え、情けない声を上げだした。
「この通り、このとーりお願いですわ先生。どうか俺と俺の馬を、また助けて下さい。あの暴れん坊のへそ曲がりを何とか出来そうなお人は、もう先生以外残っておらんのです」
そして、泣き落とすように懇願を始める。
「………………。お断りします」
その泣き落とす様な声と、心に湧いた『ひょっとしたら』という気持ちから目を背ける様にして、郷田は断りの返事を絞り出した。
「そんな、そんなつれないこと言わんといてぇな。俺と先生の仲やないですか。それにもう、俺はあの馬の馬名かて決めてもうたんでっせ」
「酷なことを言わせて貰いますが、見込みのない馬に名前を付けると、情が湧いて辛くなるばかりですよ?」
馬の名前を聞いて情が湧いても困るので、郷田は笑平の言葉を遮った。しかし『いやいや、そんなこと言わずに聞いてくれ』と、笑平は強引にその馬の馬名を言い放った。
「ゴールドツップです」
「…………ゴールド、シップ?」
「ちゃいます先生。シップやのうて、ツップです」
なんだその間抜けな響きの名前はと、郷田は思わず気が抜けたような気分になった。
そして、その変な馬名を付けられてしまった馬を見る。
馬の毛並みは珍しい尾花栗毛だった。尾花栗毛は光を眩く照り返す、まさに黄金の輝きを放つ毛並みだ。
その希少な黄金の体毛を持つ馬に、『ゴールド』と名付けるのは理解できる。見たままの色をそのまま馬名に入れただけだ。分かり易すぎるほどである。
だが、ではツップとは? ツップ。ツップってなんだ??
「ツップとは、どういう意味の言葉ですか?」
「何の意味もありまへん。響きだけの言葉です。シップと読み間違えそうになるところが、この馬名のミソですねん」
馬名のミソって何だよと、その説明に郷田はがっくりするような気持ちになった。
『バインバインボイン』といい、この馬主のネーミングセンスはやっぱりどうかしていると思った。
「ちゃうねん先生。確かにツップって名前だけじゃそんなに面白くはないかもしれん。せやけどこの名前はあくまで、レースのことを考えて付けた馬名ですねん」
しかし郷田の脱力を気にもせず、笑平はいけしゃあしゃあと解説を続けた。
「『ゴールドツップ』は覚えやすい名前や。出走表でも競馬新聞でも、見ればきっと印象に残る。なんや変な馬名の馬がおるなあと、名前を見た人の頭に残る。そんでパドックが始まったら、すぐにこいつの姿が目に入る。金ぴかに輝く、一番目立つ馬がツップだからや」
にやにやと、悪戯を企むような顔で笑平は話しを続ける。
「でもその馬の様子がおかしい。多分あいつの気性難は一生もんや、なくなることはないやろう。だからあいつはパドックの列を乱したり、ゲート入りを嫌がったりして、悪い目立ち方をきっとする。変な名前の、珍しい色の馬が、悪目立ちして顰蹙を買う。で、面白いのはこっからや」
笑平が話しているのは、気性難の馬がよくする典型的な問題行動だ。
そこから面白いものが生まれることなどないだろうと、郷田は大して期待せず笑平の話の続きを聞いた。
「レースが始まったら、その変な馬が強い。一番強い。圧倒的に強い。誰も追いつけんほど強い。そんで勝つ。ぶっちぎりで勝つ。そうなったら、それは絶対にオモロイ」
ぴくりと、郷田は自分の片眉が痙攣したように動いたのを感じた。
心の奥に押し込めて見ないようにしていた、『ひょっとしたら』という期待の感情が、また隙間からにじり出て来るのを感じた。
「きっと観客全員、呆気にとられる。見た客全員が、その変な馬を忘れられなくなる。人を困らせてばかりの暴れん坊が、たった一度の走りで人の心を感動で染める。それは面白い。それはきっと、最高にオモロイ瞬間になる。俺はそれが見たい。そんな走りを、あのどうしようもない暴れ馬にさせてみたい」
それを成し遂げられるだけの素質と才能が、絶対にあの馬にはあるはずなのだと、笑平は言った。
その笑平の言葉を浴びて、郷田の心の中で感情が育った。育ってしまった。もう自分では抑えられないほどに、大きくなってしまった。
また自分はこの馬主の口車に乗せられてしまうのかと、郷田は無言のまま天を仰いだ。
「いやあああああ! やめてぇ、やめてぇ!!」
絹を裂いたような男の悲鳴が聞こえた。その悲鳴の方を向く。
ズタズタにされた上着を拾おうとした小野が、今度はゴールドツップにズボンの裾を噛みつかれていた。
ズボンもろとも、小野のことを右へ左へ振り回すゴールドツップ。
徐々にズボンが脱げだし、露出していく小野のトランクスを眺めながら、郷田は遠い目でその尾花栗毛の暴れ馬を見た。
何だかんだで素直な優等生だったバインとは、性格が全く違うゴールドツップ。
2歳6月の新馬戦で早々にデビューしたバインと違い、果たしてレースを走れるようになるかすら定かでないゴールドツップ。
自分はきっとこれからあの暴れ馬に、バインの時以上に悩まされ、振り回され、苦労させられることになるのだろうなと、郷田は遠い空を見上げたのだった。
明日も昼12時投稿予定です。
大泉笑平:初めて購入した馬がGⅠを5勝するという成功体験により、『人間ぽい変な馬』ばかり買い集めるようになる男。彼が後に『日本一の珍馬コレクター』と呼ばれるようになるのは、まだ先の話である。主人公の引退に思うところは多々あるものの、それでも面白そうな馬は買わずにはいられない。買った馬が面白くなることを期待せずにはいられない。懲りない男である。前世はテクノスグール。
陣内恋太郎:日本一の馬目利きと呼ばれ、多くの名馬の才覚を見出してきた名馬主。馬道楽は続けたいが、会社の経営からはもう退きたいと思っている。しかし様々なしがらみに囚われ、自分の進退すら自由に決められない男。競馬以外無趣味だったが、最近は大泉笑平とゴルフに行くなどしている。前世はどこかの国の王様。来世はトモエロード。
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