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今こそ力を見せる時


 10月最終週日曜日。東京競馬場。天皇賞(秋)当日。


(……3枠3番か)


 前検量を終えた東條から、今日バインが着けるゼッケンを渡された郷田は、珍しいものを見る気持ちでそのゼッケンの番号を眺めた。


 バインが今日どの枠から出走するかは、もちろん郷田も把握していた。しかし、改めてバインがこのゼッケンを着けるのだと思うと、何やら感慨が湧いたのである。


 バインという馬は、何故だか端っこの出走枠ばかり引き当てる馬として、一部で話題になっている馬だった。


 なんとバインは過去11戦の内、4戦を最内枠、もう4戦を一番外側の枠、そして残りの3戦は逆にど真ん中から出走しているのだ。

 デビュー以来極端な位置からしかスタートしたことがないという、珍記録を持った馬なのである。


 そしてそんな珍記録を作ってしまったバインに、出走枠の抽選操作を疑う声は当然上がった。しかし、そのような不正があった事実はもちろんなかった。

 問い合わせを受けたJRAも必死に調査したそうだが、誰かが抽選を操作した証拠も痕跡も全く見つからなかった。


『抽選の結果、偶然そうなってしまったとしか説明しようがない。バインバインボイン号に最内や大外の枠が当たらない様にするべきとの意見もあるが、それをやったらそれこそ抽選操作になってしまうので、こちらとしてもどうしようもない』


 というのが、調査した担当者の回答だ。


『ほんまに好きな枠から出走してええなら、端っこやなくもっとええ枠選ぶがな』


 というのは、大泉オーナーの言である。


 実際、その極端なスタート位置がバインの走ったレース全てでプラスに働いたかというと、そんなことはなかった。

 郷田や東條がバインの出走枠を見て、なんで毎度毎度端っこからスタートしてしまうのだと、頭を抱えたのは1度や2度の話ではない。


 しかし、その端っこかど真ん中からしか出走しないという謎の珍記録を作っていたバインが、今日ついに普通の枠番を引いた。


 3枠3番。端でも真ん中でもない、普通に良い『当たり』の枠番を引いた。


 バインの持つ神通力が切れたような、もしくは呪いが切れてまともな状態に戻れたような、不思議な感覚を郷田は覚えた。


 郷田は、騎手の東條が整えたゼッケンを含む鞍の装備一式を受け取った。


 これらの装備を装鞍所まで持っていき、馬に装備させるのは、通常騎手か厩舎のスタッフ、または調教師の手によって行われる。


 今までのレースは厩舎のスタッフにその仕事を郷田は任せていた。

 しかし、もしかしたら今日の天皇賞がバインの最後のレースになるかもしれないという可能性が、郷田にいつもと違う行動を取らせていた。


「珍しいですね、郷田先生がここに来てくれるのは」


「自分でも普段しないことをしている自覚はあるよ。レース前の騎手の気持ちを乱したくなくて、いつもは来ないんだがな」


 言って、郷田は東條の顔を見た。

 リラックスしているように見える、けれどどこか張りつめている空気。大一番に勝つつもりで挑もうとしている、トップジョッキーの顔を見た。


 強くなった。このレース前の表情を見るだけで感じる。東條薫という騎手は、この2年で見違えるほどに強くなった。


 この男と、自分の育てた馬の力が合わされば、どんな馬にだって勝てるという期待が、自分の中で揺らめき立つのを郷田は感じた。


「今日のレース、東條騎手はどう勝つつもりだ?」


 そして、聞かないでおこうと思っていたことを、つい我慢出来ずに聞いてしまう。


 郷田は今日の天皇賞秋でどう走るべきか、一切東條に助言や指示を与えていなかった。

 当日レースをどう走るかは全て騎手である東條に任せるとし、また東條も郷田に助言を求めなかった。


 テクノスホエールやニーアアドラブルといった強敵と戦う際は、郷田の意見に必死に耳を傾け、時に自ら勝ち方を教えてくれと頼んできた東條が、今回は一切郷田に助けを求めなかった。


 成長しているのだと、郷田は思う。東條薫という騎手はバインという馬と共に、1段も2段も騎手として高いステージに上った。


 そしてだからこそ興味があった。今の東條薫がニーアアドラブルという強敵を前に、どのように勝つつもりでいるのかを。


「そうですね。珍しく走りやすい枠番も引けましたし、安田記念に続いて今日も逃げてみようかと思います」


 その意外な言葉に、郷田は目を見開いた。


「驚いたな。天皇賞秋を逃げて勝った馬なんてほとんどいないぞ。確か最後に逃げて天皇賞を勝った馬は40年近く前、昭和の話だ。東京競馬場が改修されて以降、天皇賞で逃げた馬は1頭も勝てていない」


「知っています。俺も普段の天皇賞なら逃げなんて打ちません。でも、今年はバインがいるので」


 悩む素振りも思いつめた様子もなく、東條は堂々とそう言った。


「ヴィクトリアマイルと安田記念での走りで、バインは逃げを打つとハイペースになる馬だと思われています。横に馬がいれば競り合ってどこまでもペースを上げてしまう、ちょっかいを掛けるには危険な馬だと、他の騎手達からバインはそう思われている。」


「その印象を、逆手に取ろうという訳か」


 郷田の確認に、東條は力強く頷いた。


「バインに鈴を付けられるような逃げ馬は、今日のレースにいません。バインが先頭で逃げ出したら、皆それに巻き込まれるのを恐れて近づいては来ない。そうなれば今日バインは、自分の好きなペースでレースをコントロールすることが出来る」


 バインが逃げればハイペースになる。その思い込みを逆手に取り、逃げた上であえてスローペースでレースを展開させる。レース全体のペースを可能な限り遅くしたいと、東條は言った。


 バインの強みであるゴール前での粘り。それを最大限生かす為に、バインの強さの最大値をニーアアドラブルにぶつける為に、騎手である自分がレース全体をコントロールしてみせると、そう東條は言っていた。


 郷田は考える。そもそも天皇賞秋の舞台である東京競馬場は、最後に500m超の最終直線が待つ、差し追い込みに有利なコースだ。ニーアアドラブルが得意とするコースと言ってもいい。


 仮に東條の言う通りにスローペースでレースを展開することが出来たとしても、先頭で逃げ続ける分バインの体力は相応に消耗する。

 その状態で、ニーアアドラブルの末脚にバインが対抗出来るかどうか。


 展開の有利を得ようとしているバインと、コースの有利が確定しているニーア。


 二頭の勝負を分けるものがあるとすれば、それは馬達自身の力の差か、あるいはその背に乗る騎手の差か。


「天皇賞で逃げ勝つ、どう考えても難しいぞ。東條君に出来るか?」


 郷田の問いに、東條は不敵に笑って見せた。


「難しいのは百も承知ですが、天童騎手や現役時代の郷田騎手ならその位出来ると思うんですよね。なら俺も、もうそろそろその位出来る様にならないと」


 言って、東條は郷田が受け取ったバインの鞍に視線を落とした。


「それに、バインが逃げ馬としてどの位凄い馬なのか、俺も先生もまだ知らないはずなんです。だって、あいつは今まで逃げたレース全て、あのテクノスホエールを相手にしていたんですから」


 バインが逃げを打った過去2戦。バインはその両方でテクノスホエールに消耗戦を仕掛けた。あの最強の逃げ馬を相手に、互いの脚と体力を削り合うというという戦いを繰り広げた。


 それはテクノスホエールの力を削ぎ落す為の戦いだったが、その為にバインは自身の脚と体力を犠牲にしてあの馬と競い続ける必要があった。


「でも、今日のレースにあんな強い逃げ馬はいない。テクノスホエールという枷のない状態で、初めてバインはその実力を今日レースで見せることになる。4歳になって初めて、古馬になったバインの実力が、テクノスホエールに削られていない状態で今日お披露目される」


 そして、もし本当に天皇賞秋で逃げ勝ったなら。

 40年近くに渡り、誰も達成出来なかった天皇賞秋を逃げ勝つという偉業。しかも最後に天皇賞を逃げ勝った馬は牡馬だ。牝馬のバインがその偉業を成し遂げたなら。


 伝説に成る。今日のレースはバインの勝利によって、間違いなく競馬史に残る伝説のレースとなる。


「あいつなら出来ますよ。バインという馬はもうそういうことが出来る、高いステージにいる馬だって、俺はそう思っています」


 一欠けらの不安すら見せずに言い切った東條を見て、郷田の胸に期待が湧いた。その期待が起こした風を受け、郷田の胸の内の炎がより強く燃え上がる。


 元より、今日の騎乗を東條に任せると言った言葉を翻すつもりは郷田にない。

 郷田もまた、東條が浮かべる強気な笑みに釣られ、薄く笑った。


 そして同時に想像する。もし東條の言う通り、バインが逃げ、東條がレースのペースをコントロールし、その術中に野々宮騎手がまんまとハマって、そのせいでニーアアドラブルが先頭に届かなかったら。


「それでバインが勝ったら、野々宮騎手にとっては一生もののトラウマだな。今日のレースは彼にとって、忘れたくても忘れられないレースになる」


「俺はハナからそのつもりですよ。野々宮騎手にトラウマを植え付ける。彼には今日見るバインの走りに、この先一生魘されて貰います。そのつもりで、俺達は今日勝ちます」


 なんて酷いこと言う男だと、郷田は笑った。しかし、騎手とはそうでなくてはとも思う。


「……東條君の夢は、今もダービーで勝つことか?」


 鞍を郷田に預け、立ち去ろうとした東條に、郷田はふと声を掛けた。

 今までの会話の流れと関係のない質問だった。大泉笑平に似たようなことを自分が聞かれたからだろうか、不意に浮かんだその質問を、郷田はそのまま口に出してしまっていた。


 東條は郷田の突然の質問に、少し首を傾げたが、すぐに返事をした。


「それはもちろん、ダービーは俺の夢です。あそこは俺にとって夢の場所。馬も人も一流ばかりが揃う栄光の舞台。ダービーで勝つことの難しさを知ったから、そこで勝つということがどれ程のことなのかを学んだから、俺はその夢をいつか必ず叶えます」


 言った後、何故か東條は少し迷うような素振りを見せた。


「……でも、実は最近もう1個夢が出来ました。バインという馬に乗って、自分より格上を相手に、いつだって本気で挑み続けるあいつと一緒に走って、俺の中にダービーとは別の新しい夢が出来たんです」


「ほう、そりゃどんな夢だ?」


 郷田の問いに、東條は目をそらし、言うか止めるか悩むような素振りを見せた。しかし、郷田の目を真っすぐ見て、口を開いた。


「俺の新しい夢は、天童善児と郷田太という二人の騎手を超えることです」


 そのあまりにも実直な東條の視線に、郷田は思わず笑みを深くした。


「天童善児を超える、か。俺を超えるのはともかく、天童を超えるのは大変だぞ。俺は一生を掛けても、結局それを成し遂げることは出来なかった」


「難しいのは分かっています。天童騎手を超えることも、郷田先生を超えることも。でも、壁が高いから諦めるなんて、そんな道はもう俺の人生にないので」


 言って、東條は郷田に一礼し、去っていった。


 今日も騎手が馬と共に戦いに向かう。彼らが勝つ為の準備を整えて、郷田は彼らの戦果を待つ。


 戦いの最後の準備を整えるべく、郷田は鞍をその手に、装鞍所で待つ馬の下へと急いだのだった。



続きは明日12時更新です。



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[良い点] 以前いっていた、枠順が両極端なやつですね。 母親の成績が因果になりと書かれてましたが、今回それを外れたのは親からも自由になったようで、 まさに主人公自身の道がこれからできる前触れに見えまし…
[一言] 天秋で逃げ…うっ頭が! これで1枠1番引いてたら競馬ファン阿鼻叫喚だったな
[一言] 毎日王冠で一叩きで無くて秋天で初戦か。そうすると、あと一戦使えるわけだけど……はたして。
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