君と私のための二重奏
1
ホールからの華々しい音色が、薄暗い舞台裏に響き渡っていた。
ソロコンクールも全国大会となると、支部大会とは比べものにならないほどの演奏が続く。次が私の演奏だというのに、耳は自然とホールからの音楽に傾き、そのまま飲み込まれてしまいそうだった。耳を塞いでも隙間を縫うように入り込む音の粒子が、私の身体を小刻みに震わせ、呼吸の間隔を狭くさせる。
「茜、緊張してる?」
そう問うたのは、隣に座るピアノ伴奏者の青峰一香だ。
私の心境を悟ったのかのような発言に、心臓が一つ跳ねる。
「うん。緊張してる」
正直に私は漏らした。
耳に入り込む私の声は、酷く力が抜けている。
「そっか……」
一香は心配そうな表情で呟いたかと思えば、私の手をぎゅっと握り「大丈夫!」と、はにかんでみせた。あどけなく笑う様子は、いつもの一香そのものだった。
「茜の演奏は私が支えるから。茜はいつもみたいに、鳴らしてよ」
力強く、けれど優しくて温かい手の感触に、抱擁されたような安心感を覚える。
私は、ほうと一つ息を吐き「ありがとう」と漏らしてから、続けた。
「演奏が走っちゃっても、ついてきてね」
「関西大会の時も、そうしてきたつもりだけど?」
「あはは。ほんと、一香は凄いよ。私のめちゃくちゃな演奏に合わせてくれるんだから」
「そう? めちゃくちゃ──かもしれないけど、合わせやすいよ、茜の演奏」
「そうなんだ。……幼馴染だから……かもね?」
「ふふっ、そうかもね」
一香は照れ臭そうに笑い、私の頬も自然と綻んだ。
手を繋いだまま、私たちは演奏順が来るのを待った。
ホールから大きな拍手が聞こえた時「行こっか」と席を立つ。
そしてお互いの顔を見合わせて言葉を交わした。
「絶対入賞しようね、一香」
「うん。もちろん、茜」
舞台に向かって、歩みを進める。
不思議と、緊張は既に消えていた。
『プログラム23番。白鳥茜。フンメル作曲 トランペット協奏曲』
眩しい照明に目を細めながら、舞台を歩く。満席の客席の目が、私たちを向いた。
ナレーションの声と共に、コツコツと、二人分の足音がホールに響く。
舞台中央に立った私は、お辞儀ののち、トランペットを真っ直ぐと構えた。
横目で鍵盤に手を乗せた一香を捉え、お互いに首を縦に振る。
「──すっ」
一香の呼吸音に続き、ピアノの前奏が奏でられた。
彼女の一音目が鳴った時『あ、これは調子が良いな』と口の端が吊り上がる。
心地の良いピアノを耳で味わいながら、私は目を瞑り、軽く息を吸う。
軽くとは言ったが、吐く息には詰め込む想いは様々だった。
私は──トランペットに命を吹き込む。
最高の一音目だった。
私の演奏は、私の中では大方完璧なものだった。
演奏後の拍手が来るのが早く感じたし、その拍手が続くのも長く感じた。
しかし、その余韻を味わう時間は、ほんの一瞬となった。
「──白鳥茜さん」
そんな声がかけられたのは、舞台裏に戻ってすぐのことだった。
顔を向ければ、そこには深刻な表情をした一人の女性スタッフが息を切らしていた。
「お母様から、お電話を頂戴しております」
「……母さん、ですか?」
疑問が口を衝いて飛び出す。
なぜなら、母さんは先まで私の演奏を聞いていたはずだからだ。
私の演奏の感想をすぐにでも伝えたかった……とは考えにくい。
訝しみながらも、私はスタッフから電話を受け取る。
「……もしもし?」
私は息を呑んだ。
電話越しから聞こえたのは、咽び泣く声だった。
「母さん。どうしたの?」
心臓の動悸が嫌に激しくなる。
私の問いに、すぐに返事は来なかった。
しばらく母さんは嗚咽を繰り返した。
ホールでは、次の人の演奏が始まっていた。
やがて母さんは、嗚咽の隙間から言葉を紡いだ。
「────」
私は母さんの声に、何も返すことができなかった。
──ガンッ。
代わりに、酷く鈍い音が聞こえた。
それはトランペットが床に落ちる音だった。
けれどそんなの、もはやどうでも良かった。
私はただ、母さんの言葉の意味が分からなかった。
その『父さんが交通事故で遭った』という言葉の裏を、これでもかというほどに探った。
けど。意味なんて一つしか無かった。それを理解した瞬間、視界が遠くなる。
「────!」
一香が何かを言っていた。
気付けば、身体には固い床の感触が触れていた。
私は目を瞑った。そして耳を閉じた。
この日、私の父さんは他界した。
2
青峰一香は酷く病弱な女の子だったと記憶している。
小学校低学年の頃はほとんど教室に姿を現さなかったし、もし仮に現したとしても昼休みになる頃には教室からいなくなっていることがほとんどだった。一香の姿を頻繁に見るようになったのは三年生からで、しかしこれまで教室内の人とほとんど関わりのなかった彼女は孤立していた。そんな彼女と、大した理由も無いのに孤立していた私が、体育の活動でペアを組まされたことから、私たちの関係が始まったのだと思う。気付けば毎日を共にするようになり、私たちは親友になった。少なくとも私はそう思っていた。
三年生も終わりを迎える頃、一香からとある提案を受けた。
「茜ちゃんはピアノに興味ある? 一緒に始めてみない?」
聞くと一香は、あるドラマに影響を受けピアノに興味を持ったらしい。
これといった趣味も習い事も無かったので、良い機会かと私は首を縦に振った。
そうして私はピアノに出会い、音楽に出会った。
ピアノという楽器は音楽の授業で度々目にしていたし、音もよく知っていた。
けれど実際に自身の指を押し当ててみると、あまりうまくはいかなかった。
右手と左手で別のことをやる──どころか、右手のそれぞれの指を独立させて動かすのが難しくて、いくら練習を続けてもピアノを上手く演奏することは叶わなかった。
一香ばかりが成長するのを横目で見て、私にピアノの才能が無い事を小学生ながらにして悟っていた。
私は中学生になった頃、逃げるように別の楽器を始めた。
私には興味のある楽器が一つあった。それが、トランペットだった。
技術はぐんぐんと伸び、中一で既に中三の先輩よりも上手く吹けるようになっていた。
けれど気付けば、いつの間にか一香と関わることは少なくなっていた。
ある日。私は吹奏楽部の顧問からソロコンクールに出てみないか、と提案を受けた。
その提案が、私はとてつもなく嬉しかった。そして期待が膨らんだ。自分の楽器の技術がどれだけ世間に通用するのか、試したくて仕方が無かった。
しかし。コンクールに出るとなると、ピアノ伴奏者が必要だった。
私は悩んだ挙句、一香にピアノ伴奏をお願いできないかと頼んだ。
一香は最初こそ驚いてはいたが、とても嬉しそうに引き受けてくれた。
その一香の無邪気に喜ぶ姿を見て、私はなぜだか胸を痛めた。
その日から小学生の頃のように、日々を一香と過ごすことが多くなった。
放課後は私の家に招き、狭い防音室でソロコン用の曲を練習した。
遂にやってきたソロコン当日。私たちは中学二年にして、県で一位になった。
それからは順調だった。トランペットのことだと何をしても上手くいった。
だから、私はきっと何か、喜劇の主人公なのでは無いかと、天狗になった。
高二の冬に出場した国内最大規模のコンクールでは全国大会にまで駒を進めた。
結果から言えば、金管楽器部門で三位だった。それは、素晴らしい結果だったはずだ。
けれどその日、私は父さんを失った。途端に結果なんて、どうでも良いものに感じた。
喜劇の主人公──なんて考えた自身の煩悩を殴りたい衝動に駆られる。私にスポットライトなんて当たるわけがないのだから、悲劇の脇役にすらもなれていないだろうに。
私は酷く後悔し、自分自身を咎め続けた。
もし。両親とコンクールに来ていたら。
もし。私がコンクールに出ていなければ。
もし。私がトランペットを始めていなければ。
もし。私が音楽に出会わなければ。
──そしたら、こんなことにはならなかったのに。
私はその日、トランペットを手放した。
埋葬するようにケースに埋めたそれに反射する私の顔は、命が抜けたように萎んでいた。
だけどこれでよかった。
音楽なんて、私の人生に必要ない。
そう思い込まないと、いけない気がした。
3
しゅわしゅわと鳴くセミの声が、七月の教室内に響いていた。
ただでさえ暑いのに、セミの声が余計に肌をチリチリと焼くようである。
開け放たれた窓からの風も決して涼しいとはいえず、八秒おきほどで当たる天井に備え付けられた扇風機だけが、マイナスの気持ちをほんの少しゼロに近付けてくれた。
「はーいじゃあ、帰りのホームルーム始めましょうか」
教壇に立った担任の霜月先生が声を飛ばす。
黒板上の時計の針は四時十五分をさしており、十分もすれば放課後だった。
それが憂鬱で仕方無かった。放課後には決まって『あの人』がやってくるからだ。
「そういえば、今日も数学の時間に叱られたって聞いたよ? もうすぐ夏休みだからって、気を抜きすぎないようにね。もう高校三年生なんだから、受験はすぐに来るよ?」
頭が痛い。暑さと先生の言葉で、更に痛い。
受験はすぐにくる? 分かってる。それくらい、分かってる。
でも。志望大学も決まっていない私にとったら、どうしても重たくなる二文字だった。
ただ、前までは行きたい大学も、就きたい仕事もちゃんとあったはずなのに。
けれど。いつから私は──。
「──ほら白鳥、ちゃんと話聞いてるの?」
不意に名を呼ばれ、肩がびくんと跳ねた。
「はっ! はい!」
思わずつんのめったような返事をしてしまう。
教室内からくすくすと笑い声が起き、体が熱を帯びた。
顔を俯かせる私をよそに、先生は容赦無しに二の句を継ぐ。
「受験は団体戦っていうでしょ? 一人が教室の雰囲気を悪くしたら、みんなの士気まで下がっちゃう。白鳥だけが悪いっていうんじゃないけどね、先生の話はちゃんと聞くこと」
「……はい、すみません」
弱々しく溢すと、先生はすぐに別の話題に移った。
放課後の訪れを告げるチャイムが鳴ると、先生は話を中断させる。
「あ。はい、じゃあ号令お願いしまーす」
そして私は『放課後だ』と再度気分を重くした。
放課後は決まって教室に『あのひと』がやってくる。
今日は来なかったりするのだろうか。いや、今日に限って有り得ないか。
そんなことを思いながら、私は席を立ち上がり、皆に合わせて頭を下げる。
途端に「はー終わったー」「一緒帰ろー」なんて声が、蝉の声に混じり飛び交った。
そして、その喧騒に紛れるように、後方の扉が勢いのよい音を立てる。
一部の生徒がそちらの方に顔を向け『またか』みたいな顔をしたが、特にこれ以上の興味を寄せることもなく、自身の帰り支度に注意を戻した。
「茜!」
私の名が呼ばれる。
無論、扉を開けた人物の声だ。
そして声の主は、颯爽と私の元へと近付いてくる。
「よかった。今ホームルーム終わったんだ」
私は気怠げに、彼女──青峰一香に顔を向けた。
彼女は私の幼馴染兼──私の、かつてのピアノ伴奏者である。
けれど私たちはもう、とっくに『演奏者と伴奏者』なんて関係からは解消されている。
あのコンクール以降、私は音楽を諦めて、一香も顔を見せなくなったのだから。
要するに私たちの関係は自然消滅をしたのだ。いや、はずだった、と言うべきだろう。
「一香……今日は、なに?」
一香は突然に、私の元へ訪れるようになった。
そして決まってこんな問いをしてくるのだ。
「ねぇ茜、どうしてもトランペットを吹く気は無いの?」
一香が教室に訪れるようになったのは、おおよそ二週間ほど前からだった。
そんな彼女のことが、私にはどうしても理解できない。
一香はあのコンクール以降、顔すらも見せてくれなかったのだ。
家に会いに行ってもいつもいない。教室に行ってもいつもいない。
なのに。なぜ今更、トランペットを吹かせようとするのだろう。
「無いよ。私はもう吹かない。吹けないの」
つい語気が強くなる。
一香は尻込みした表情になった。
しかし食い下がる様子は無い。
「けど……。私、どうしても、茜の音が聴きたい」
だから。どうして今なんだよ。
もう、遅すぎるっていうのに。
「私、帰るから」
これ以上話しても、いつもの二の舞だ。
私は机上から荒っぽく鞄を手に取り、廊下へ向かう。
「待ってよ茜。せめて一緒に帰ろう? 明日とかさ、一緒にお昼ごはん食べない?」
寂しげな一香の声がしたが、私は聞こえないフリをした。
周りからの痛い視線を受けながら、早足で教室の外に出る。
「ねぇ。……私のこと、嫌いになったの?」
聞こえない。なにも、聞こえない。
逃げるように自転車小屋に向かい、銀色の自転車に跨った。
鞄をカゴに突っ込み、夏の日差しの下へ繰り出す。
何か、嫌なものが心の中で渦巻いている。
最後の一香の言葉が、耳にこべりついて離れない。
それを剥がしたくて、忘れたくて、がむしゃらに自転車を漕ぐ。
田んぼ道に入ると、正面の空に大きな積乱雲が佇んでいた。
倒れてきたら、そのまま潰されてしまいそうなくらい巨大な雲だった。
じきに雨が降るかもしれない。さらに自転車のスピードを上げる。
やがて十分ほどで、私の住むニュータウンの敷地に辿り着いた。
住宅が立ち並ぶ道路をしばらく進み、一つの家の前で自転車を止めた。
その家は私の家では無い。表札には『青峰』と一香の姓が記されている。
今は最早、日常の背景と化しているが、かつては毎日通っていた場所でもあった。
ここにくれば何か一香のことを理解できる手がかりがあるかもしれないと思ったが、どうやら無駄足だったらしい。そりゃそうか、と自虐的な笑いが溢れる。
「…………」
私は家を見上げた。
二階にある窓は、一香の部屋の窓だ。
確か中学生の頃は、その部屋目がけて『一香!』って呼んで練習に誘っていたっけ。
それで、窓を開けた一香はそんな私になんて返してくれた? ……思い出せない。
代わりのように『私のこと、嫌いになったの?』という一香の言葉が、声と共に蘇った。
知らないよ。『嫌いになったの?』なんて、急に聞かないで欲しい。
私の方こそ、嫌われていたと思っていたのに。
今更。ずるいよ、それは。
──もう、これ以上の長居はダメだ。
帰ろうと自転車を再発進させようとしたが、背後から車の気配を感じ、私は道の脇に逸れた。けれど車は私の横を通過することなく、エンジン音をピタリと止める。
不思議に思い振り返れば、そこには一台のワゴン車が停まっていた。
私はこの車を知っている。一香の母さんの車だ。
「茜!」
しまった、と思った。
一香が、車の中から飛び出してきたのだ。
そうだ。一香は、昔から度々車で登下校をしていた。
こちらに駆けてくる彼女に目を合わせられず、思わず視線を落とす。
「ねぇ、茜──」
「ごめん。でも、もうトランペットはできないから」
反射で口走る。
「……うん」
一香の悲しげな声に、胸が痛くなった。
多分今の言葉は、一香の望むものでは無かったのだと思う。
でも、しょうがないじゃん。これ以外に、なんて言えばいいから分からないんだから。
「……」
もう一香には何も言えなかった。
私たちの間に生まれるのは、奇妙な沈黙。
しかし、その沈黙を埋めるように、新たに一つの声が現れた。
「──ってあれ、茜ちゃん?」
一香の母さんだ。
「……あ、こんにちは」
私は顔を上げ、控えめに頭を下げる。
「久しぶりね〜。せっかくだから上がっていきなさい。立ち話もなんでしょう」
一香の母さんは、昔と変わらず穏やかな笑みを浮かべた。
その提案は、半年前までの私であったら嬉々として頷くことができたのだろうけど。
「いや、私は──」
帰ります、とそう言いかけた矢先。
ポツ、と。鼻先に生ぬるい感触が触れた。
やがて遠くから、ザーッという激しい音が聞こえてくる。
田んぼ道で見た、積乱雲の存在を思い出した。
「ほら、雨も降ってきたことだし。どうぞ」
「……分かりました。ありがとうございます」
流石にもう、断ることはできなさそうだ。
私は一香の母さんに頭を下げ、歩みを進める。
玄関の前で振り返ると、一香と目が合った。
一香はバツが悪そうに笑い、私は逃げるように視線を逸らす。
雨の奥に映る背景の空は、嘘みたいに綺麗な青色だった。
「一香。茜ちゃんには、ちゃんと伝えられたの?」
家に入るなり、一香の母さんはそんなことを言った。
何がだろう、と思いながらローファーを丁寧に脱ぎ、揃える。
「してないよ。まだ、その話はしないで」
一香は、冷たい声で母親の言葉を否定した。
一香の母さんは寂しそうに「そっか」と呟き、私は「何を?」と小首を傾げた。。
「茜。私の部屋いこっか」
だが、届かなかったのか一香は言った。
「あぁうん」と曖昧な返事をすると「付いてきて」と歩き出す。
一香の母さんに会釈を与えた私は、慌てて一香の背中を追った。
部屋へと続く階段を上りながら、私は声を飛ばす。
「雨が止むまでで大丈夫だよ」
夏の雨は嘘泣きが多い。
先の空模様からして、じきに止むだろう。
「分かった。……入ろう」
部屋の前まで辿り着いたらしい。昔に比べて、短い距離に感じた。
一香がドアノブに手をかけ、ゆっくりとその扉を開く。
その刹那、懐かしい匂いが鼻を衝いた。
部屋の匂いって、案外そのままなんだな、と思う。
内装もさして、最後に見た時と変わっていない。
私とのツーショット写真が机上に飾られているのも、そのままだ。
「じゃあ、飲み物もってくるね」
頷きを返す間も無く、一香は部屋を出た。
腰をかける気も起きず、何となしに部屋を見回す。
かつての思い出が、脳裏に浮かび上がってくるようだった。
ベッドの上のクマのぬいぐるみも、床のカーペットも、記憶の景色のままそこにある。
けれど、机上のツーショット写真は少しだけ黄ばんでしまったようだった。
これは確か、初めて出たソロコンでの記念写真だ。
『金賞』と書かれたトロフィーを二人で大事そうに抱えている。
ズキりと心臓が痛んだ。
あぁ。見るんじゃなかった、と、強引に目を逸らすと、また別のものが目に飛び込んでくる。
それは──一冊のノートだった。
机上の隅っこに、潜むように置かれている。
表紙には短く『したいこと』と書かれていた。
私は興味本位でノートを手繰り寄せ、一ページをめくった。
小さな可愛らしい文字が、そこには並んでいる。
上から順に、一つずつ目を通した。
『会話をする』◎
『一緒にご飯を食べる』
『好きだと伝える』
『ハグをする』
『キスをする』
──ここで『したいこと』の意味を理解するには、遅すぎたのだと思う。
あれ?
すぐさま脳裏に疑問符が浮かんだ。
これはきっと『一香が好きな人としたいこと』を記したものだ。
◎がついているものは恐らく、達成できたもので──。
つまり私は今、まずいものを見てしまったのではないか?
勝手に一香のプライベートを覗いてしまった、ってそれは──。
プライバシーの侵害、という言葉が頭をよぎる。唐突に自分に嫌気がさした。
もうノートは閉じよう。最後の一行に目をやりながら、私は表紙に手をかける。
だが。なんとなしに見たその一行に、私の手は膠着させられてしまった。
『もう一度、彼女のピアノ伴奏をする』
外の雨音がやけに大きくなった気がした。
景色が遠くなる。そして歪み始めた。
その時。ドアの向こうから、慌ただしく階段を駆け上がる音が聞こえた。
思考する隙も与えず、ドアは荒々しく開かれる。
──バンッ!
開いたのは、狼狽した形相の一香だった。
私と、その手にあるノートに視線を行き交いさせ──。
「見たの!?」
唾を飛ばす勢いで、そう問うてきた。
飲み物を持ってくると言ったはずの手元には、何もない。
このノートが気がかり戻ってきたのだと、簡単に分かった。
私はノートを机上に戻し、慌てて頭を下げる。
「ご、ごめん」
「どこまで見たの?」
「多分……全部、だと思う」
「……そっか」
一香の表情が徐々に崩れていった。
今にも泣き出しそうなくらい、弱々しげな顔となる。
私が見てしまったものが、一香にとってどれだけ見られたくないものだったのかを、その表情が嫌という程に教えてくれた。酷いことをしてしまったんだ、と心臓が釘を打ち付けられたように痛む。
「ごめん。今日は帰って」
一香はそう吐き捨てた。
「ごめんなさい。勝手に、見てしまって」
再び私は、深く頭を下げた。
けれど、一香の顔は見れなかった。
一香もこれ以上の言葉を返すことは無かった。
私は鞄を手に取り、部屋を後にする。
「もう帰るの?」
玄関で、一香の母さんに声をかけられた。
案ずるような声音だった。
「ごめんなさい。用事を思い出したので」
適当に理由を付けて、逃げるように玄関のドアを開けた。
「──っ」
眩しい光に、思わず目を細める。
やはり、先までの土砂降りは、嘘だったかのように止んでいた。
大きな水たまりに反射した夕日が、私の目を攻撃してくる。
どこからか聞こえるひぐらしの声が、夕方の訪れを告げていた。
コンクリートからの独特な臭いが立ち込める中、私は自転車を発進させた。
「…………」
罪悪感が胸を占めていた。
明日。ちゃんと謝らないと。
そう思うと同時に、疑問に残るものがあった。
『もう一度、彼女のピアノ伴奏をする』
あのノートの、最後の文章が頭から離れない。
彼女、って誰だ。──いや、分かってる、私だ。
一香がピアノ伴奏をするのは、私の演奏だけだから。
それなら、前に書かれていたことは、一体なんなのだろう。
『好きだと伝える』とか『ハグをする』とか『キスをする』だとか。
誰か他の人のこと? なら、どうして最後に私のことが書かれるの?
分からない。
だけど、当然のように『全て私のこと』だという可能性が頭をよぎる。
一香が私のことが好き? そんなわけがない。もちろん、そう思った。
けれど。考えれば考えるほど、どうしても、辻褄は合ってしまう。
放課後あんなにしつこく、何度も私に話しかけてきたのも。ノートの『会話をする』に丸が付いているのも。『一緒にご飯を食べる』に丸が付いていないのも、今日、学校での去り際『明日、ご飯食べないか』と誘われたのも。
「…………」
けれど。何も分からないのは変わらなかった。
家に着き、ドアを開いた私は、なんとなしにすぐそこの防音室に足を向けた。
アップライトピアノが設置された、六畳ほどの小さな防音室。
そしてその部屋の片隅には、私のトランペットケースが置かれていた。
よくここで、一香と練習したのを覚えている。
目を瞑れば、あの日の音が脳内に流れてくるようだった。
その音は、決して良い音とは言えなかった。
けれど。とても楽しそうな音だった。
それはまさしく、音楽をしていた。
すぐに目を開いた。
なぜか涙が頬を伝っていた。
4
セミは早朝からよく大合唱ができるな。と、関心を覚える。そんな朝だった。
「……はぁ」
学校に到着し、席に着いた私から出たのは、まず溜息だった。
途端に昨日の一香のことが、頭を支配する。
もちろん、謝ろうと思っている。
そして多分もう、一香は学校にきている。
けれど、あと五分もすればホームルームが始まろうとしていた。
話が長くなることを考慮し、昼休みに謝りにいこう。
最終的にそんな結論に落ち着き、私は昼休みが来るのを待った。
この日だけは、授業中も暑さを忘れていた。
肌を焼く日差しも、セミの声も、今日ばかりは流すことができた。
けれどその代わりのように、昼休みが近付くにつれ心臓の動悸が早くなる。
四限終了のチャイムが鳴ると、すぐに席を立ち上がり、一組に向かった。
一組の教室を覗く。
隅から隅に目を通した。
しかし一香の姿は見えない。
なら、考えられる場所は学食だ。
そう思考し、階段を降りてすぐの学食へと赴く。
ごった返す人の波に押されながら、視線をせわしなく移動させる。
けれど。どこにもいない。見返したが、一香の姿は見当たらない。
もう一度。そしてもう一度。もう一度。
どこを見ても、一香の影は無い。
最後にもう一度。いない。
「…………」
すれ違った?
いや、この近い距離でそれはない。
「……いや」
思わず声が出た。
すれ違った、って。バカみたいだ。
それ以前に、私たちはずっと前からすれ違ってるのに。
すれ違いだなんて、あまりにも今更すぎる。
目に見えるところにいるのに、どうしても、前のようには戻れない。
すれ違いが起こる原因は簡単だ。ただ、私が避けているからである。
じゃあどうすればいい? あの日みたいに、トランペットを持てばいい?
だけどもうトランペットは吹けない。音楽なんて出来ない。
それは、私の人生を壊してしまったのだから。
私は再度、一組に戻った。
やはり一香の姿はどこにもない。
もしかして──と、嫌な予感に心臓がドクンと鳴る。
ごくりと生唾を飲み込んだ私は、近くの席の人に声をかけた。
「すみません。……青峰さんどこにいるか知ってますか?」
「ん? あ、青峰一香さん?」
「はい……」
首を縦に振る。
その生徒は「えっとね」と少し首を傾げたのち「あぁ」と思い出したように続けた。
「彼女たしか、今日休みだよ。風邪だったかな」
「え──」
言葉が出なかった。
今日、一香は学校にきていない?
なぜ? という自身の問いかけに『私のせい』という答えがよぎる。
私は昨日、一香の秘密を覗いてしまった。ノートの内容は多分『好きな人としたい事』。最後の伴奏のやつは、たまたま私のことを書いただけに違いない。なんにせよ、そんなノート見られたら、そりゃあ私と顔を合わせたくなんか無いだろう。
「……ありがとう、ございます」
自身の四組へと戻った。
昼ご飯を食べる気力は無かった。
代わりに頭だけはよく回った。
一香は今日、恐らく私のせいで学校に来ていない。
そんな一香に私は何ができる? 私はどうすればいい?
第一にするべきは、やはり謝罪だったのだろう。
しかしそれは、昨日のうちにすべきことだった。
もう遅い。今更したって、今日一香が学校に来ないことは変わらない。
だけど。ここで停滞していい理由にもならない。
停滞したら遅れて行くだけだから、私は、今の私にしかできないことを考える。
もし今、手を伸ばして、その遅れを取り戻すことができるのなら。
私には、こうすることしか思い付かなかった。
──私は、教室を飛び出した。
不器用な気がした。
だけど、これが間違いでもよかった。
廊下を駆け、昇降口から外へと繰り出す。
真昼間の空気は密度が狭く、日差しは刺すように痛い。
だけど。もう、いい。なんだっていい。
私は自転車を取り出し、腕時計を見た。
昼休みは残り三十分。
戻れるのは、五時間目の途中だろうか。
しかし幸い、五時間目は音楽だ。
5
──ピンポーン♪
『はい。あ、茜ちゃん?』
インターホンから出てきた声は、一香の母さんの声だった。
やがて十秒もせず、ドアが開かれる。
「いらっしゃーい。もう学校は終わり?」
「……あ、えと。はい。お見舞いにと思って」
「あら、ありがとうね」
彼女は穏やかな調子で微笑む。
私は少し前のめりに、一香についてを問うた。
「あの、一香はどうして今日休んだんですか?」
「んー、そうね。別に身体の調子が悪いわけじゃないのよ。……けど、昨日から少し元気が無い、というか。きっと茜ちゃんのことで色々悩んでいるんだと思うんだけどね……」
「え? 一香、私のことで何か言ってたんですか?」
「あぁいや、そういうわけじゃなくてね。それに、茜ちゃんが悪いっていうことじゃないの……とりあえず上がって上がって」
促されるまま、私は家に上がる。
私のことで悩んでるって、なんだろう。
だけど悩むことと言ったら、やはり昨日のことだと思う。
それなら、完全に私が悪いじゃないか。
「すみません。……あの、一香はどうして私のことで悩んでるんですか?」
リビングまで来た私は、焦燥からそう問うた。
一香の母さんは、部屋のクーラーを付けながら「えっとね」と返す。
やがてエアコンのリモコンをテーブルの上に置くと、くるりと私の方を向いた。
「その前に、聞きたいことがあるの」
一香の母さんは問いの答えをくれなかった。
けれど代わりに、真剣な表情で私に言葉を与えた。
これ以上、何かを返せる雰囲気ではなく、ただ一つ頷きを返す。
「茜ちゃんはこの四ヶ月くらい、一香がどうして学校に来なかったか知ってる?」
──え?
時が止まったかのような衝撃を覚えた。
数拍遅れで、私は「え……?」と疑問の詰まった声を漏らす。
一香は、この四ヶ月くらい学校に来ていなかった?
四ヶ月前は、大雑把に言えば三月。あのソロコンの時期と被る。
だけどそれだと、一香は高三から全く学校に来ていないということになる。
余程の理由がなければ、そんな長い期間の休みだと単位が足りなくなって留年するはずなのに、どうして。いや、それは『余程の理由がある』からなのだろう。その理由というのは全く検討がつかないけれど、あまりプラスな理由ではなさそうなのは何となく察せた。
思えば確かに二週間ほど前から、一香は私の教室を訪れるようになった。
それまで顔すらも見なかった一香がだ。私はそれを『一香が私を避けている』とすら認識していた。けれどその理由が『そもそも学校にいなかったから』と考えると腑に落ちる。
「……そっか」
一香の母さんは少し笑って『やっぱりね』みたいな表情をした。
「やっぱりあの子、そんなことも言ってなかったんだ」
「……えっと、はい。そもそも最近は、あまり話せていなかったので」
「そう。そのことで一香は今、悩んでいるんだと思うよ。だから会ってあげて。茜ちゃんが来たら、きっと喜ぶから」
「……はい、分かりました」
喜ぶだろうか。
きっと嫌な顔をされるだろうな。
そんなことを思いながら、私は一香の部屋へと赴いた。
ドアの前に立ち止まり、深呼吸。そしてゆっくりと、ドアをノックした。
「茜です。入ってもいい?」
返事はすぐには来なかった。
「どうぞ」
その声が聞こえたのは、おおよそ二十秒ほどが経過した頃だろう。
ドアを開く。一香はベッドから上半身を起こし、こちらを見ていた。
「いらっしゃい、茜」
一香は柔和に笑った。
けれど。細められた瞼の隙間から見える瞳は、一つも笑っていなかった。
何を言えばいいのだろう。そう悩んだが、やはりまずは、昨日のことについてだ。
「昨日はごめんなさい。……あのノートって、きっと見られたくなかったものだよね」
「うん。嫌だった」
一香は即答した。
私は再度「ごめんなさい」と、深く頭を下げる。
「いいんだよ。あれは、もう……」
その声には力が無かった。
決して『いいんだよ』とは思ってくれていそうに無かった。
だけど。今はその言葉を真に受けることにした。
「座りなよ」
一香はベッドをポンと叩き、座ることを促した。
私は頷き、柔らかな感触の上に腰を降ろすと、一香も私の隣へ座った。
肩が触れ合い、少し距離が近いように感じる。
そんな一香の肩の感触は、華奢を通り越して、どこか弱々しかった。
「お見舞いに来てくれたの?」
「そう。心配だったから」
一香は私を見なかった。私も、見れなかった。
敷かれたカーペットの模様に視線を奪われる。
最後にちゃんと目を合わせて話したのって、いつだったかな。
「学校は?」
「……抜け出した。その、謝らないとって思って」
ほんの少しの沈黙が訪れた。
一香の小さな呼吸音が耳に届く。
「抜け出した? 私のために?」
一香の瞳が、私を向いた。
「……うん。そりゃ、そうだよ」
そして私が答えると一香は目を逸らし、何も返してくれなかった。
一香は今、何を考えているのだろう。
今、私に期待している言葉はなんなのだろう。
「今日、どうして休んだの?」
問うても、返ってくるのは無言のみ。
そこでふと、一香の母さんに言われたことを思い出す。
──一香はこの四ヶ月、学校に来ていなかった。
今。それを聞いていいのだろうか。
あまりにもこの問いは、的を外れている。
そう思いながらも、止まることはできなかった。
「ねぇ、一香の母さんから、学校来てなかったって聞いたんだけど、本当?」
触れる一香の肩が、少し揺れた気がした。
「うん……」
一香は小さく頷く。
私は恐る恐ると「なんで?」と言葉を返した。
一つの深呼吸が聞こえる。吐く息と共に一香は「茜」と私の名を呼んだ。
「……私が、昔から身体が弱かったこと、覚えてる?」
「え、うん。小学校の頃は、しょっちゅう休んでいたよね」
どうしてだろう。
なぜ、ここで昔の話が出てくるのだろう。
どうしてか、悪寒がした。
「私、ずっと隠してたことがあったの」
心臓の動悸が早鐘のように鳴る。
一香の言葉を聞いたらまずい気がした。
「実はね、私はもう、長くは生きられないの」
ほら、やっぱり。って──。
「昔から心臓が悪くて、度々手術してて」
──────え?
「あのソロコン覚えてる? 高二の最後の。本当はあの日、出ちゃダメだったんだよ」
──そんなこと。
「でも無理言って出させて貰って。そしてそれからすぐ、心臓移植の手術があったの」
──そんなこと、有り得ない。
「移植は成功した。嬉しかった。けど移植先で問題が見つかったの。……お医者さんには、たくさん尽くして貰った。……だけど、現代の医療じゃ難しいんだって」
────嘘だ。
「……ごめんね。隠してて」
嘘だよね。そう言いたい気持ちを必死に抑え疑問を伝える。
「…………なら、どうして。学校に来てるの。そんな重い病気なら、これないよ」
出された声は震えていた。
一香との楽しい記憶が走馬灯のように蘇る。
滑稽だ。これじゃまるで、私が死んでしまうようじゃないか。
「今ね、心臓は落ち着いてるの。すぐしたら病院に戻らないといけないんだけどね」
一香はあどけなく笑う。その笑顔の裏に、一体どれほどの悲哀が込められてるかなんて、想像もつかなかった。ただ、その笑顔が私の心臓をちくりと刺す。
「ねぇ、じゃあさ。……なんで教えてくれなかったのさ」
縋るような物言いだった。
一香は笑ったまま、私の正面へやってくる。
目が合った。逸らそうと思ったのに、逸らせなかった。
「茜は優しいから。だからきっと、私の死をすごく悲しんでくれるでしょう? 茜は一緒に泣いてくれるでしょう? だから私、悲しい顔を茜にさせたくない」
一香は涙を零した。
ダムが決壊したように、ボロボロと流れ、滴り落ちる。
「だって私は──」
一香は言葉を止めた。
一香の二の句を想像する余裕なんて、今の私には無かった。
ただ、現実が飲み込め無かった。現実では無いのかとさえ思っている。
グルグルと迷路に迷い込んだように、思考が纏まらない。
だから一香は、つまり。病気で、だから。だから……なんだよ。
一香は、私に何を言いたかった?
「ほら茜。授業、始まってるよ?」
一香は涙を拭い、なんでもないようにそう言った。
視界が遠い。
うまく焦点が定まらない。
一香の余命が残り少ない?
そんなの……そんなこと。
どうして。どうして一香は──。
「…………一香」
私は気付けば家の外にいた。
自転車の前で呆然と立ち尽くす。
唐突に、自身を殴りたい衝動に駆られた。
一香を突き放すような態度で接していた自分が嫌になる。
なぜ、何も言えずに、家の外までやってきてしまったのだろう。
今ならまだ間に合うだろうか? 謝っても許してくれるだろうか?
そんな淡い期待を抱きながら、私は再度、ドアの前まで歩みを進める。
それでも心は重く、酷く憂鬱で。どうしても開く気にはなれない。
しかし、そう思ったのも束の間だった。
「……茜!」
それは一香の手によって開かれた。
お互い「あ」と、ハッとしたような声が漏れる。
一香は安堵したように息をつくと、私にずいと距離を詰めた。
彼女の頬には、ほんのり赤い涙の跡が映っている。
吐かれる息は少しだけ荒かった。
「伝えたいことがあるの」
真剣な眼差しだった。
「昨日、茜が覗いたノートのことだけど。覚えてるよね?」
私が頷く間もなく、一香は言葉を継ぐ。
「あれはね『死ぬまでに茜としたいこと』を書いたノートなんだ」
その言葉がなぜだか、すとんと腑に落ちた。
「私はもう一度ね、茜と二重奏できたらなってそう思ってたの」
簡単なことだった。
最近になって一香が私の元へと訪れるようになったのは、ただ、この世を去ってしまう前に、私と音楽をしたかったのだ。
「茜は親友だよ。でもそれと一緒に、恋愛対象としても想っているの。そんな茜と、また二重奏ができたら、それはとっても素敵なことだと思う」
一香はさも平然と言ってのけた。そして続ける。
「……だけど。……もう」
一香は顔を歪めた。
瞬きを一つすると、大粒の涙がこぼれた。
一香は涙を隠すように俯くと、私に詰め寄った。
その刹那。夏とは思えない涼やかな風が吹いた気がした。
一香の腕が、私の背中に伸びる。そしてそのまま──。
「────」
──私にハグをした。
「──え。い、一香?」
顔が発火するような熱を帯びた。
夏の暑さとは比べものにならない熱だった。
「これまでごめんね。無理言ってしまって。でも、もう大丈夫」
一香は鼻を一回啜ると、すぐに私から距離を置いた。
私を真っ直ぐと捉える一香の目元は潤んで、光を帯びている。
細い口元から出る鋭い呼吸が、私の首筋を撫でた。
ふと、ノートの内容がフラッシュバックする。
たしか、次に書かれていたのは──。
「茜、好き」
一瞬だった。
けれど永遠のような。
そんな、ファーストキスだった。
6
一香の死というのは、どうしても受け入れ難かった。
小学生の頃、知り合って、親友になって、そして毎日を共にするようになって。
中学生の頃に私の伴奏者になって、ずっと練習を続けて、放課後もずっと一緒で。
高校生で私たちの演奏は全国レベルになって、一香と過ごす日々が、私にとってすごく大切で、尊いものだと思えて、幸せで。私にとって一香とは、かけがえのない存在だった。
けれどそんな一香は今、死の淵にいる。信じ難く、受け入れ難い。
そして私は、そんな彼女にキスされた。それは私にとって初めての経験で。いやそれどころか、人に好意をぶつけられることも、ハグもキスも、全てが初めてばかりだった。
だから驚愕し、困惑した。けれどそれは、私が一香にとって大切な存在であるのと同時に、一香が私にとって大切な人であることを、深く実感させた。
一香の死は、酷く悲しいものだ。
その現実は、心にずしんとのしかかるような重みがある。
だけど一香はまだいるじゃないか。こんな近くに、いるじゃないか。
なら今、私ができる精一杯を、与えるべきじゃないのか。
私が今、彼女に与えられるもの。それは一つしかない。
──音楽だ。
私が音楽を人生から切り離したのは、父さんが他界したからだ。
確かにそのコンクールがあったから、父さんは交通事故に遭ったのかもしれない。
だからと言って、それは音楽をやめていい理由にはならない。
それは、父さんの死という現実から逃げているだけなんだ。
人はいずれ、どのような形であれ、この世を旅立つ時はやってくる。
あの時、一番辛かったのは、他でも無い父さんだったはずだ。
あぁ。ようやく気が付くことができた。
音楽があったから、嫌なことがあった。そんな考え方じゃつまらない。
音楽があったからこそ、一香との尊い日々が送れたんじゃないか。
私はそれを見落としてしまっていた。気付けずに、一香に冷たい態度を取り続けてしまった。酷いことをしてしまった。
だけど今、後悔したって仕方ない。
酷い自分のことは、もっと後になってから咎めればいい。
一香が入院するのは、いつだろう。
明日かもしれない。今日になるかもしれない。
今の私は、今の私にしかできないことを考えるって決めたばかりじゃないか。
一香の死は、私にとって最悪な現実だ。だけど今、一番辛いのは一香だ。
そんな一香に、私は──!
思考が完全に纏まった。
やるべきことは一つしか無かった。
私は自転車を漕ぐ、すぐそばの私の家に向かって。
夏の熱気を切り裂いて、ただひたすらに自転車を飛ばす。
近いはずの家が、今日ばかりは少し遠くにあるように感じた。
やがて家に辿り着くと、防音室へと駆け込む。幸い親はまだ仕事だった。
部屋の隅に寂しげに置かれた楽器ケースの隣へとしゃがみ込む。
ケースを開いた瞬間、宝箱でも開いたみたいに眩しい銀色の光が目を突いた。
思わず目を細めながら、私は掬い上げるように、トランペットを優しく手に取った。
マウスピースを装着させ、ピストンが動くのを確認すると、私はまた家を飛び出す。
左手にトランペット。右手に自転車のハンドル。
なんて不恰好なのだろう。けれど今は気にしてはいられない。
再び一香の家へと辿り着いた私は、自転車を乗り捨て、トランペットを二階に向ける。
近所迷惑? そうかもしれない。けれど今だけは、どうか許して欲しい。
「……すっ」
鋭く息を吸った。
この感覚が懐かしかった。
一香が隣でピアノを弾いているようだった。
久しぶりの音楽に、嫌なことは何一つとして無かった。
──パーン!
命を吹き込まれたトランペットの音が、町に木霊した。
ビリビリと空気が震え、木々からセミが飛び上がる。
あの時のように、部屋に向けて彼女の名を叫ぶ。
「一香!」
部屋の窓は数秒遅れで開かれ、一香が不思議そうに顔を覗かせた。
あの時と同じだ。そして私は決まって、彼女を練習に誘うのだ。
「やろうよ! 二重奏!」
キザっぽく、手を差し出してみる。
「茜?」
一香は目の前の状況が飲み込めていないようだった。
けれどすぐに、一香の目は輝いた。顔が引っ込み、階段を慌ただしく駆ける音が聞こえたかと思えば、玄関の扉が勢いの良い音を立てて開かれる。私にずいと距離を詰めたかと思えば、さっきみたいに私にハグをした。私は静かに、自身の手を一香に回す。
「……いいの? 私の伴奏で、吹いてくれるの?」
「一香以外、いないよ。ありがとう、きてくれて」
彼女は泣いていた。子供のように、いつの日かのように。
悲しみではなく、それは確かに喜びの涙だった。
「さ。私の家、いこ」
腕時計はまだ、ギリギリ5時間目の授業の時間帯だった。
音楽の課外授業ってことで、先生は許してくれるかな。
7
「茜ってば。一体どういう風の吹き回しなの?」
私の家に辿り着くなり、一香が面白そうな調子で聞いてきた。
防音室の重い扉を開けながら「私も二重奏したくなったから」と素直に答えると、一香は「嬉しい」としみじみと言った風に返してくれた。
「茜でよかった」
「なにが?」
「色々と」
一香はなんだか楽しそうだった。未来に対する不安なんて、今は一つも考えてないようだった。ただ目の前の幸せを噛み締めているように、楽しげに笑っていた。一香は続けて「あとさ」と耳打ちするように、ポツリと囁く。
「あのキスは、一旦忘れてね?」
一香は恥ずかしそうに顔を朱に染めた。
そうだったな。と、キスの情景が思い起こされ、私の顔にも熱が帯びる。
目を合わせるのが恥ずかしかった。気まずい、なのかもしれない。けれどそのキスで、私にとって一香が大切な存在であると思えたのも確かだった。
あれは。お互いにとって、大切なキスだったのだと思う。
「よし、じゃあ、始めよっか!」
私はかぶりを振って誤魔化すように告げた。
一香は「うん!」元気に頷いて、私たち二人、防音室に足を踏み入れる。
その部屋は、二人でいるとまた違った匂いがしてくるようだった。
私はアップライトピアノの蓋を開くと「座って座って」と一香に促す。
一香はピアノ椅子に腰をかけると、軽く指を乗せ、音階を弾いてみせた。
指先のタッチは繊細で、しかし彼女の音にはしっかりと芯がある。
良い音だった。
「準備できた?」
「もちろん」
問うと、一香は元気よく首を縦に振った。
所定の位置に手を揃えるのを見て、私も「よし」とトランペットを構える。
同時に、銀色の肌に反射する私と目が合った。その私は心なしか穏やかな表情をしていた。
「演奏が走っても、ついてきてね」
「今までずっと、そうしてきたつもりだよ」
今日の演目は──フンメル作曲 トランペット協奏曲。
それはコンクールと同じ演目だ。
今日の舞台には、誰もお客さんはいないけれど。
この場所では、いつも私たちのためだけに音楽は奏でられる。
さぁ始めよう。君と私のための二重奏を。
……あ。
そうだ。一つ忘れてた。
「あとでお昼ご飯食べない? 今日、一緒に食べる予定だったじゃん」