第三話 その賢者は考えて
--数週間後
トントントン…。
登る朝日と共にマヨヒガに軽やかな、一定のリズムの音が響く。徐々に明るくなりゆく室内に、ほんのり漂う和の香。
「…」
厨房に立つは、七本の尻尾をゆらゆらと揺らす一匹の白虎。鈴である。
大分厨房に立つ様もまともになったと言えるだろうか。数週間前までは包丁で指を切るわ、鍋をひっくり返すわ、はたまた食器を割るわで本当に大変だったのだ。それでもこの数週間で落ち着いたのは、彼女自身の向上心の現れなのだろう。
「…っ、もうこんな時間…」
小窓から差し込む光を手で遮りながら、鈴は調理道具を置き手ぬぐいで手を拭いてから踵を返した。
襖をゆっくりと開け、その奥のいやに丸まった布団の塊へと足を運ぶ。
「紫様…紫様…」
鈴はその前で、てんと膝をつき両手でその塊を揺すった。
「ん…んぅ…。あと、あと三時間…」
明確な寿命がない妖怪ならではの台詞である。鈴がいくら起こそうとしても、彼女は一向に起きる気配を見せなかった。
「んもぅ…」
このままじゃ起きない。そう確信した鈴は服から飛び出している七本の白銀の尻尾を手に持ち、寝ている紫顔に押し当てぽんぽんと叩いた。
「鈴のぉ…もふもふぅ…」
そして紫がそれを掴む前にひゅいっとそれを持ち上げる。すると紫もそれに着いてくるようにして起き上がる。
鈴は無表情でその作業を繰り返し、紫を寝室から居間へと移動させる。
「…ん。あ、鈴。おはよう」
寝室から数歩出て、はっと紫が鼻風船を弾けさせた。そして何事も無かったかのようにしてこちらに向き直った。
「おはようございます」
それに対して鈴も特に何も言わず、ぺこりと頭を下げる。
これが、マヨヒガの朝の日常であり鈴の日課なのである。
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「そうそう…今日は鈴に博麗神社に向かってもらおうと思っててね…」
ずるるる…。となめこと豆腐の味噌汁を啜りながら紫は言った。
「博麗神社、ですか?」
それに対し、油揚げに青ネギ、生姜、醤油をかけたまるで酒の肴のような朝食を口に運びながら鈴は返答する。
「えぇ、あなたを式として向かい入れた訳の一つ。それはあなたに博麗神社の巫女、博麗霊夢の世話を任せよう、ということなのよ」
鮭の切り身と玄米を口に運びもぐもぐと咀嚼する紫。
「…なぜ私に?」
鈴が疑問に思うのも必然だった。まだ幻想郷に来て間もない鈴に幻想郷の重要な機関である博麗神社の巫女を任せるなどいくらなんでも匙を投げすぎなのである。
そもそも博麗神社とは、幻想郷と外の世界、いわゆる車が走り、飛行機で空を飛ぶ世界と幻想郷を繋ぐ博麗大結界がある神社だ。そしとそこの巫女はその大結界を管理するという役割を担う。もしも大結界に何かあれば幻想郷と外の世界が混ざり合い忘れ去られた者達の楽園である幻想郷の住民はその時発生する忘れ去られた、認知される存在のない者が存在するという矛盾に苛まれ消滅してしまう。
そんな幻想郷の命綱とも言える博麗神社の巫女をここに来てまだ数週間しか経っていない鈴に任せるのがどれだけのことか分かるだろう。
「あなたをきちんとした式にするためにも、仕事は必要でしょう」
ずるるると茶を啜る紫。そんなに軽いノリで決めつけていい仕事では無いのだが。
「…分かりました。今日の昼過ぎからでよろしいですか?」
「ええ、お昼ご飯を食べてから行きましょう」
鈴は最後の油揚げを口に運び、二人分の食器を両手で運ぶ。そして鈴が背を向けた時、紫はふっとほくそ笑んだ。それは慈愛の笑みではない、冷酷な笑い。決して式に見せるものでは無いようなものだった。
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「はい、着いたわよ」
音も立てずに、数百段あるであろう階段の前に紫のスキマが出来上がる。そしてその中から紫、鈴の順で外に出てきた。
あとから出てきた鈴は少し青ざめ、目を回していた。鈴にとっては初めてのスキマ。無限に広がる虚無の空間と無数の真紅色の瞳が浮かび上がるその空間を通ることは相当精神力を消費するはずだろう。
「この階段を登りきったところに博麗神社があるわ」
「…え」
紫が閉じた扇子で指し示すその階段を二度見、三度見する鈴。その表情はさしずめ「この階段登るの?」といったところか。
「どうして階段の上にスキマを出さないのかって?」
「…」
「ただの気まぐれよ。じゃあ後は頑張るのよ」
「えっ、ちょっと。紫様ぁ!?」
うふふふふっ、と耳に着く笑い声を残しながら紫はスキマの中に入りパチンとそれを閉じた。
「…どうしよう」
ぼそり、鈴は独り言を零した。
それはこれから登る、階段の事でもなく博麗神社の事でもない。ただ、マヨヒガに帰る方法についてだった。