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おとぎ話の悪役令嬢は罪滅ぼしに忙しい  作者: 石狩なべ
四章:仮面で奏でし恋の唄(前編)
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第8話 逃走


 階段を滑るように駆け下りて、いつかのメニーのようにガラスの靴を落とさないように、短いヒールの靴をきちんと手に持って、裸足で走れば足に痛みがあるとは言え、スピードがどんどん加速していく。そのまま何事も走っていられたら良かったが、後ろから迫ってくる足音が聞こえた途端、あたしははっと息を呑んだ。

 振り向かずに走る。走らないと追いつかれるだけだ。


(……っ……隠れる所…)


 周りを見るが階段しか無い。あたしは階段を駆け下りる。足が階段を滑り下りる。あたしは靴を投げた。階段から飛び降りる。


(っ)


 足が痛くて地面に転がる。しかし、じっとしていられない。追いつかれる前に、ここから出ないと。あたしは急いでドレスを持ち上げ、赤い絨毯をぺたぺた走る。相手はもうすぐそこまで来ている。


(来ないで)


 あたしは足を動かす。ドレスから手を離して、両腕を振る。足音が近づいてくる。


(来ないでよ)


 足が痛い。ふらつく。リボンが解ける。走る。


(来ないでよ!!)


 あたしは出口に向かう。ここにいたら、あたしの身が危ない。


(ギロチンが待ってる)


 王族はあたしを殺す。


(関わらなければ助かる)


 優しい姉を演じ切って、メニーを王族に差し出して、それでおしまい。


(そうすれば、あたしの死刑は回避されるのよ)


 変に王族と関わらなければ。


(あたしは)


 死なずに済む。


(あたしは)


 死刑にならない。


(あたしは)


 生きていられる。




 ―――――門の手前で、手首を掴まれた。




「っあ…」


 足が止まる。


「いや…」


 あたしは無理矢理動かす。


「やだ…」


 ぐいと引っ張られる。


「や…いや…」


 あたしは振り返らず、一歩前に出る。


「離して…」

「っ」


 相手が声を出す前に、


「離してって言ってるでしょ!」


 あたしは腕を振る。


「離してよ!!」

「待って」

「離して!!」

「テリー」

「お前の声なんか聞きたくない!!」


 ぐいと引っ張られる。体を無理矢理後ろに振り向かされる。息を切らしたキッドがあたしを見ていた。


「…テリー…」


 美しい王子様が、あたしの目の前にいた。


(よく考えたら分かることだった)

(こんなに美しい人が、庶民なわけないもの)


 あたしは首を振って後ろに下がる。


「離して…」

「テリー、落ち着いて」

「離して」

「テリー」

「離して! 分かったから! 手を離して!」

「何を分かったの?」

「いいから手を離して!」

「落ち着いて。テリー。ちゃんと説明するから」

「説明?」


 あたしはキッドを見上げる。


「第一王子だったって説明? それなら大丈夫。もう分かったから…」

「テリー」

「分かったの。あたしもう分かったから。理解出来たわ。ねえ、本当素敵。あたしなんかが関われる相手じゃなかったんだわ。ええ。よく分かった。最高」

「テリー」

「もう離して。もういいから」

「テリー」

「十分分かった」


 ほらね。思った通りよ。あたしの願いはいつだって叶わないのよ。キッドと結婚したら、なんて幻想を抱いたあたしが馬鹿だったのよ。


「ご無礼、ご無礼を、お許しください…」

「テリー」

「お願い、ごめんなさい、あたし、ごめんなさい…」

「テリーってば」

「何度だってごめんなさいって言うから。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」

「テリー、ねえ」

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」

「テリー、落ち着いて」


 キッドの手があたしの頬に触れた。


「いやっ!!」


 あたしは悲鳴をあげて、後ろに下がる。キッドの手が引っ込んだ。


「いや! やめて! やめて!!」

「テリー」

「触らないで!」


 キッドがあたしを引っ張った。


「っ」


 あたしを強く抱きしめる。


「テリー、落ち着いて」

「落ち着いて?」


 あたしはキッドの背中を叩く。


「嘘ついたのはあんたでしょ…?」

「俺がいつ嘘をついたの?」

「だって…王族なんて…一言も…」

「俺、自分が貴族とも、平民とも、一度も言ったことないよ」

「…何それ…」


 あたしはもう一度叩く。


「王族だって知ってたら…関わらなかったのに……」

「なんで?」


 キッドがあたしの耳に囁く。


「王族なら、どうして関わらないの?」


 貴族ならば、絶対に関わりたいはずだ。


「俺は王子だ」

「第一王子」

「国の頂点に立つ一族の血が流れてる」


 テリー、


「言っただろ? お前は運がいいんだよって」


 なんたって、王子様のお気に入りなんだから。


「みーーーーんな、王子様が好きだ。相手が王子様というだけで恋心が生まれるほどね」


 だから皆、リオンが好きなんだろ? 憧れてたんだろ?


「でも、俺が王子と名乗った瞬間どうだ?」


 人々の関心は、俺に移った。リオンじゃない。俺だ。俺が美しくて、俺が強くて、俺を初めて見たから、興味が俺に注がれた。


「俺こそがこの国の第一王子」

「活躍するには絶好のタイミング」

「怪盗パストリルを捕まえて」

「この国の悪を蹴散らして」

「メニーを救って」

「俺は一躍ヒーローだ」


 どうだ? テリー。


「冷静な頭で考えてごらん」


 誰もが羨む立場にお前はいる。


「お前は俺に選ばれた」


 第一王子に選ばれた。


「第一王子に気に入られるなんて、絶対にないこの上ない幸運」


 これ以上の幸せなんてあるか?


「いや、ないね」

「絶対にないね」

「これ以上に幸せなことなんてあるものか」


 キッドがあたしの頭を撫でた。


「テリーだから特別だよ」

「俺がお前を幸せにしてあげる」

「だってテリーは」


 俺のものだから。


「ふざけるなああああああああああああ!!!!!!」


 あたしの感情が爆発して、キッドの背中を叩く。


「そうやって!! いつもあたしを馬鹿にする!!」


 後ろに下がる。


「あたしを見くびるな! 見下すな!! このあたしを誰だと思ってるのよ!!」


 テリー・ベックスを見下すなんて!!


「なんて最低かつ最悪かつ災厄かつ下劣なの!! この下種!! この王族! 恥を知りなさい!!」

「痛いよ。テリー」


 キッドがあたしを抱きしめ続ける。


「落ち着いて」

「離して!」

「離さない」

「離してよ!」

「どうして怖がってるの?」

「いいから離してよ!」

「ねえ、さっきからどうしたの? なんでそんなに怯えてるの?」


 俺、何かした?


「したと言えば、そうだな」

「テリー、お前の姉さんを守ったのは誰だ?」

「テリー、お前の先生を守ったのは誰だ?」

「テリー、お前の妹を守ったのは誰だ?」

「テリー、お前の友達を守ったのは誰だ?」

「ねーえ、テリー」


 俺、何かした?


「ずっとお前を守ってる」

「今さら、何を怖がってるの?」

「何もしないよ。テリー」

「お前には何もしない。本当だよ」

「お前には怖いことしないよ」

「俺はお前の味方なんだから」


 あたしは俯く。


「……またそうやって嘘つくの……?」


 キッドが瞬きをした。


「……え?」

「どれが本当なの?」

「全部本当だよ」

「それも嘘?」

「本当だよ」

「その言葉も嘘?」

「本当だよ」

「その態度も嘘でしょ?」

「テリー?」

「何が真実なの?」

「テリー、落ち着いて」

「結局全部嘘じゃない。婚約だって、ボディーガードだって、最初から、全部、何もかも全部嘘。ずっと嘘ついて、嘘だらけで、あんたの何を信じたらいいって言うの」

「嘘なんかついてない。テリー。俺はお前の味方だよ」

「嘘つき」

「テリー、怖がらないで」

「嘘つき」

「なんで?」

「嘘つき」

「なんで怖がってるの?」

「嘘つき」

「テリー、俺は王子様なんだよ?」

「嘘つき」

「お前が求めてた王子様だよ?」

「嘘つき」

「そうか。分かった。じゃあ覚悟を決めよう。結婚しよう。ね、これで本当になる」

「嘘つき」

「嘘じゃないよ。俺、お前が気に入ってるんだ。テリーとなら結婚していいよ」

「嘘つき」

「落ち着いて。ほら、テリー。俺を見て? 何も怖くないよ」

「嘘つき」

「嘘じゃないよ。俺はお前のものだ」

「誰が誰のものよ。あんたはあんたのもので、あたしはあたしだけのものよ」


 震える声で、伝える。


「婚約は解消よ」

「え?」


 キッドが訊き返した。


「解消?」


 キッドがあたしの耳元で笑った。


「しないよ?」


 キッドが腕の力を強めた。


「しないって言っただろ?」


 キッドがあたしを見た。


「お前は決める権利無いんだろ?」


 キッドが鋭い目であたしを見た。


「絶対しないよ」

「……する」

「しない」

「……するの」

「しない」

「するのよ…! 婚約解消するの…!!」

「しないよ」


 キッドがあたしの顔を覗き込んだ。


「お前は俺のものだ」

「嫌だ」

「テリーは俺のもの」

「そんなの嫌だ」

「俺はテリーのもの」

「嫌だ」

「なんで?」

「嫌よ」

「憧れの王子様がお前のものなんだよ?」

「いらない」

「素直になっていいんだよ」

「嫌だ」

「テリー、違うよ」


 そこは、


「媚びを売ってでも、猫被ってでも、ぶりっこしてでも」


 キッド、嬉しい。大好きよ。あたしをキッドのものにして?


「って言うところだよ」


 キッドの目が見開く。


「なんで?」


 キッドがあたしを見る。


「なんで言うこと聞いてくれないの?」


 キッドがあたしを睨む。


「なんで俺のものにならないの?」

「……あたしに媚を売れって言うの……?」


 キッドを軽蔑する。


「キッドに、媚を売って、猫被って、ぶりっこしろって言うの?」


 キッドを軽蔑する。


「なんで、そんなこと言うの?」


 キッドを軽蔑する。


「キッド」


 キッドを軽蔑する。


「あたしは」


 キッドを、


「キッドのこと」


 あたしは、


「キッドを………」




 真剣に、想って………。




「…テリー…?」


 顔を上げれば、王子様のキッドがいる。目が合う。キッドが不思議そうな目で、あたしを見た。視界が揺れる。頬に、涙が滴る。


(あ)


 あたしは手袋で拭う。


「やめて」


 俯く。


「見ないで」


 手が震える。


「見ないでよ…」


 涙がどんどん溢れてくる。


「もう離して…」


 涙が止まらなくて、ドレスに、ぽたりと、ぽたりと、落ちていく。


「お願い、もう…。もう…」


 もう解放して。


「メイクが落ちるよ」


 冷静なキッドの声が、耳に響く。


「ほら、テリー、こっち向いて」


 キッドの手が近づく。


「っ」


 あたしは顔を横に向けた。


「嫌っ!」


 キッドが無理矢理あたしの頬に手を添えた。


「やめてっ」

「頬が濡れてる」


 キッドがあたしの顔に近づく。


「や、やだっ」


 腰を押さえられる。動けない。


「や、やめて!」


 キッドがあたしの頬に舌をつけた。


「ひっ」


 濡れた頬を舐める。


「ん、んんん……!」


 唇を閉じて、肩をすくませて、ぞくぞくする悪寒に耐える。


「ん…んん……」


 涙がぼろぼろと落ちて来れば、キッドが優しく微笑む。


「また泣いてる」

「あっ、やっ」


 胸を押すが、びくともしない。キッドに再び頬を舐められる。


「んっ」

「しょっぱい」


 キッドがあたしの目尻を舐めた。


「ひっ、いや…!」

「すっぱいな」

「や、やめ…」

「ここ?」

「っ」


 舐められて、体が強張る。


「………っ」

「んー…。涙が止まらないな」


 キッドがあたしの顔を覗き込む。


「ね、テリー、景色のいい所に連れて行ってあげる。二人きりになれるよ。そこでさ、ちょっと話をしよう」

「…………」


 あたしは首を振る。キッドが微笑む。


「テリー、きっと気に入るから。ね? 行こう」

「…………」


 あたしは首を振る。キッドが息を吐いた。


「テリー、行こうよ。少し歩いたら気分も変わるから」

「…………」

「メニーのことが心配? 大丈夫だよ。俺が必ず救い出すから」

「…………」

「綺麗な夜景が見える所なんだ。城下町全体が見える。テリー、高い所平気なんだろ。だったら気に入るさ。さあ、行こう」

「……あたし、帰る」


 後ろに下がると、キッドがあたしの腰を掴んで、引き寄せた。


「テリー、行こうよ」

「帰る」

「テリー」

「ここにいたくない」

「行こう」

「行かない」

「来てよ」

「帰る」

「そんなこと言わないで」

「帰る」

「楽しいよ。玩具がいっぱいあるんだ」

「帰る」

「お人形さんも沢山いるよ」

「帰る」

「本も沢山あるんだ」

「帰る」

「テリー、行こうよ。夜景が綺麗だから」

「帰る」

「来て」

「嫌」

「大丈夫。怖くないよ」

「行かない」

「来てよ」

「あたし、行かない。帰る」


 あたしは後ろに下がった。


「もう離して…!」

「駄目」


 キッドの手が離れない。


「あたし、帰りたいの!」

「じゃあ送るよ」

「いい! 一人で帰る! ついてこないで!」

「なんで怖がってるの?」


 キッドがクスッと笑った。


「帰るんだろ? じゃあ馬車で送るから」

「自分の馬車に乗る!」

「テリーの家の馬車はまだ来てないみたいだ。21時になったら迎えに来るかもしれない。だから俺の用意した馬車で送るよ」

「結構よ! あたし歩いて帰る!」

「裸足のまま危ないよ」

「帰るの!」

「じゃあ、こうしよう。21時になるまで休める場所で馬車を待とう。それならいい?」

「いい! あたし歩いて帰る!」

「もー……」


 キッドがあたしの手を離さない。


「わがままだな」

「離してったら!」

「駄目」

「離してよ! あたし帰るの!」

「駄目」

「帰らせて!」

「駄目」

「帰りたいの!」

「駄目」

「離して!」

「駄目」

「キッド、お願い、やめて!」

「じゃあこうしよう」


 キッドがあたしの顎を掴んで、上を向かせる。あたしとキッドの目が再び重なる。あたしは驚愕する。


 キッドが、とても楽しげに微笑んでいる。


「好きって言って」


 目を見開く。


「え?」

「俺のこと、好きって言って」


 キッドが微笑む。


「キッドのことが好き。だから、絶対にキッドから離れないって、言って」


 ………………。


 あたしは首を振る。


「言ったら手を離してあげる」


 あたしは首を振る。


「テリー、手を離してあげるよ。言ってくれたら」


 あたしは首を振る。


「ねえ、こんなの慣れてるだろ? 今まで散々やってきたじゃないか」


 あたしは首を振る。


「じゃあ、手を離さないからな。それでいいんだな?」


 あたしは首を振る。


「じゃあ言って」

「…………」

「約束するよ。言ってくれたらお前を帰す」

「………………」

「『キッドのことが好き。だから、絶対にキッドから離れない』」


 キッドがいつもの無邪気な笑みを浮かべた。


「ほら、言って」

「……………き」


 掠れる声で、復唱する。


「……きっどの、ことが、すき。だから、ぜったいに、…きっどから、……はなれない……」


 キッドが微笑む。あたしは一歩下がる。


「これでいい?」


 下がる。


「もう帰るわよ」

「うん。いいよ」


 でも、


「帰るのは明日ね」

「えっ」


 ぐいと、手を引っ張られた。


「あ」


 城に向かって引っ張られる。


「や、ちょ…!」

「俺のこと好きなんだろ?」

「ちが…」

「キッドが好きって言った」

「だって、言ったら帰すって…!」

「うん。明日ね」

「あ、あたし、今帰りたいのよ!」

「うん。明日ね」

「キッド! 約束と違うじゃない!」

「なんで? 明日帰すって言ってるだろ」

「また嘘ついたの!?」

「落ち着いてよ。テリー。部屋でゆっくり俺と話そう。そしたら冷静になれるから」

「嘘つき!」

「俺が好きなんだろ?」

「キッド!」

「絶対に離れないんだろ?」

「まだ婚約者ごっこを続けるの!?」

「ごっこじゃないよ。俺達、れっきとした婚約者だろ?」

「あ、あたし、もう、もういい…! もういい!」

「駄目。契約は継続する。お前は俺の婚約者で、俺のものだ」

「やだ…」

「テリーは俺のものだよ」

「やだ………」

「だから俺の言うことだけ聞いて」

「やだぁ………」

「俺から離れるなんて、許さない」

「嫌…!」


 足を止める。


「嫌い!!」


 叫んだ。


「お前なんて嫌いよ!!」


 キッドが止まった。


「嫌い! 大嫌い!」


 キッドがあたしの手を離さない。


「離して! あたしは帰るのよ!」

「好きって言ったくせに」


 あたしに背を向けたまま、キッドが呟いた。


「俺から離れないって、言ったくせに」


 キッドがあたしの手を引っ張った。


「ちょ」


 乱暴に顎を掴まれ、再び腰を掴まれる。


「や、なにっ…」

「テリー」


 キッドが微笑む。


「目閉じて?」

「……………」


 あたしはキッドの肩を掴む。


「なんで?」

「そんなに怯えないで。何もしないから」

「何もしないのに目を閉じるの?」


 キッドがにこりと笑う。あたしは後ずさる。


「キッド」

「何?」

「やめて」

「何が?」

「やめて」


 キッドがあたしの腰を抱く。


「ねえ、やめて」

「何が?」


 キッドの顔が近づく。


「ねえ、嫌なの」

「何が嫌なの?」

「やめてってば」

「嫌よ嫌よも好きのうちって知ってる?」

「キッド、怖い」

「怖くないよ」


 だって、


「俺のこと、好きなんでしょう?」

「キッド、まって」

「離れたくないんでしょう?」

「や、やだって…」

「じゃあくっつこう?」


 キッドの青い瞳があたしを捕らえる。


「テリー」


 頬を撫でられる。


「………キッド」


 顔が寄せられる。


「キッド」


 下がる。腰が掴まれて動けない。


「ねえ、キッド…」


 キッドの顔を押そうと手を動かすと、両手を掴まれた。


「いっ」


 キッドがあたしを壁に押し付けた。


「ひゃっ!? え? え?」


 手を押さえられる。


「ちょ、」

「テリー」


 顔が近づく。


「ちょ、まっ」


 パニックになる。


「待って、待って、待って!」


 顔を逸らす。


「やめて! キッド!」

「テリー」


 顔が近づく。


「や、やだ! やだ! やだってば!」

「大丈夫」

「やだやだやだやだ!!!」

「怖くないよ」


 キッドの顔が近づく。唇が近づく。


「ああああ、嫌、嫌! いや! 嫌!! 嫌あああああ!!!」

「大丈夫。大丈夫」


 額にキスをされる。あたしは慌てて俯く。キッドが屈んだ。横を向く。キッドが追いかけてくる。


「や、やめ…!!」


 鼻と鼻がくっつく。


「嫌っ!! いやあああああああ!!!!」


 キッドが目を細める。


「怖くないよ。テリー」


 キッドの瞼が下ろされる。


「大丈夫。気持ちよくて」


 キッドが微笑んだ。


「俺しか見えなくなるから」


 キッドの唇が、あたしの唇に、重なる、




 寸前に、




「ねっ…! 兄さん! 今パストリルの唄の分析がおわっ…!!」


 ―――――――っ!!!!


「うわっ! 何やってんだ! キッド!!」


 キッドが、ぎろりと、刃のように鋭い目つきで声の方向を睨んだ。その隙を見て、あたしの足が動く。


「このっ!」


 キッドの腹を蹴る。


「エロガキ!!」

「いだっ!!」


 キッドの手が緩んだ。


「あっ」


 あたしの手がするりと抜けて、あたしは慌てて走り出す。


「テリー!」


 あたしはがむしゃらに走る。


「テリー!!」


 無我夢中で走って―――ばちんっ、と弾けるような音が鳴った。


「っ!!!?」


 驚いて目を見開く。頭が軽くなった。


(あ、髪飾り…!)


 せっかく仮面舞踏会のために買った髪飾り。サリアにつけてもらった、髪飾り。


『お似合いですよ。テリー』


 あたしは目を瞑って、真っ直ぐ走る。


 怖い。

 ここにいたくない。

 怖い。

 怖い。

 ひたすら怖い。

 恐怖。

 怖い。

 怖い。

 怖い。

 怖い。

 怖い。

 怖い。

 怖い怖い怖い怖い。



 なんであたしばかり、こんな目に遭うの?



 あたしは、ただ、幸せになりたいだけなのに。






 立ち止まった。






 木に囲まれた小道から、光り輝く城が見える。


「……………………」


 自分の姿を見下ろした。


(……靴、放り投げちゃった)


 足がぼろぼろ。


(青いドレス)


 泥だらけ。


(髪の毛)


 ぼさぼさ。

 手を当てると、やっぱり、髪飾りはない。


(顔)


 多分、メイクは台無しだ。だって、泣きじゃくって、あいつに舐められたから。


(最悪)


 ぼろぼろ。


(あたし、なんかした?)


 あたし、そんなに酷いことした?


(メニーを放って、遊んでただけじゃない)


 あたしには遊ぶことも許されないの?


「…ふふっ」


 ふらりと歩き出す。


「ずっと子守りしてたら良かったわけ?」

「そうね」

「そうよね」

「子守りしてたら良かったのよね」

「そうしたらメニーだって誘拐されずに済んだわ」

「そうか」

「あいつ、誘拐されたのね」

「ああ、どうしようかな」

「ドロシーに怒られるんでしょうね」

「どうしよう」

「誘拐されちゃった」

「誰にも頼れないや」


 今から戻って、キッドの言いなりになる?


(あたし、何かした?)


 行きたくないって言ったじゃない。

 行けないように髪も切ったじゃない。

 行ったら結局メニーに嫉妬したじゃない。

 嫉妬から逃げるために、気を逸らしたじゃない。

 キッドが誘ってきたから、

 キッドが臭い唄を唄ったから、

 キッドが庭まであたしを引っ張ったから、

 キッドがあたしをからかったから、

 キッドが理想の夢を叶えてくれたから、

 キッドの手を取って、踊った。

 キッドとのダンスが楽しくて、

 キッドの質問タイムに戸惑って、

 キッドがいいよって言ったから、

 なんだか嬉しくなって深入りしたら、


 その正体は王族だった。

 あたしを殺す王族だった。

 関わったら、いつ殺されても、おかしくない。


 ―――テリー・ベックスを死刑に!!


(あたし、何かした?)


 唇を押さえる。


(なんでキスされそうになったの?)

(あいつ、なんであたしを離してくれなかったの?)

(…怖かった)

(……すごく怖かった……)


 テリー。言葉は嘘だらけだと、あれほど言ったじゃない。あれほど、信用してはいけないと言ったじゃない。あれほど、詮索してはいけないと言い聞かせていたじゃない。知れば知るほど、全てが壊れると分かっていたじゃない。


 なんで近づいたの?


(キッドを知れると思ったから)


 なんで近づいたの?


(キッドがいいよって言ったから)


 なんで近づいたの?


(キッドを知りたくなったから)


 なんで近づいたの?





 キッドを好きになったから。







 ほろりと、涙が落ちた。




「う」




 涙が溢れた。




「ん」



 ほろりとまた落ちた。



「んん」




 止まらない。




「はあ」




 息を吐いた。またほろりと落ちた。



「ずずっ」



 鼻をすすった。またほろりと落ちた。



「うん…」




 手の甲でその涙を拾った。



「ん……」



 涙を拾ってくれるキッドはいない。



「……んんん………」



 唯一頼れた人が、

 暖かいその存在が、


 一気に冷たい存在に変わった。



(怖い)



 冷たい。



(キッドが怖い)



 ほろりと、


 ほろほろと


 ほろろろろろろろろと


 涙が落ちた。




 こうやって壊れていくのね。

 どんなに守っていても、壊れていくんだ。


 あたし、この先も同じよ。


 幸せになれないのよ。





「…………ん」




「………んん………」




「…………………」




「っ」




 ―――悲鳴のような泣き声が止まらない。



 あたしは、また、知って、知りすぎて、近づきすぎて、



 癒えない傷を負ってしまった。




 また傷つけられるのかしら。そう思ったら、怖くて振り向けない。
























「……………………………………」

「こんな時にナンパかよ。いい加減にしてくれよ。兄さん。大変だったんだからな」

「………………」

「戻ろう。解読は終わったし、あとは誘拐された令嬢を助け出す準備を……」

「……………………………………」

「………キッド? 髪飾りなんか持って、何やってるんだ? うん? なんで構えてるんだ? ちょ、まて、キッド、おい! 待て待て待て待て!! お前! なにするきっ…………いだーーーーーー!!」



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[一言] キッドはいつも頼りになったけど、それはそれとしていつも不穏でいつも怖かったですからね。
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