第8話 逃走
階段を滑るように駆け下りて、いつかのメニーのようにガラスの靴を落とさないように、短いヒールの靴をきちんと手に持って、裸足で走れば足に痛みがあるとは言え、スピードがどんどん加速していく。そのまま何事も走っていられたら良かったが、後ろから迫ってくる足音が聞こえた途端、あたしははっと息を呑んだ。
振り向かずに走る。走らないと追いつかれるだけだ。
(……っ……隠れる所…)
周りを見るが階段しか無い。あたしは階段を駆け下りる。足が階段を滑り下りる。あたしは靴を投げた。階段から飛び降りる。
(っ)
足が痛くて地面に転がる。しかし、じっとしていられない。追いつかれる前に、ここから出ないと。あたしは急いでドレスを持ち上げ、赤い絨毯をぺたぺた走る。相手はもうすぐそこまで来ている。
(来ないで)
あたしは足を動かす。ドレスから手を離して、両腕を振る。足音が近づいてくる。
(来ないでよ)
足が痛い。ふらつく。リボンが解ける。走る。
(来ないでよ!!)
あたしは出口に向かう。ここにいたら、あたしの身が危ない。
(ギロチンが待ってる)
王族はあたしを殺す。
(関わらなければ助かる)
優しい姉を演じ切って、メニーを王族に差し出して、それでおしまい。
(そうすれば、あたしの死刑は回避されるのよ)
変に王族と関わらなければ。
(あたしは)
死なずに済む。
(あたしは)
死刑にならない。
(あたしは)
生きていられる。
―――――門の手前で、手首を掴まれた。
「っあ…」
足が止まる。
「いや…」
あたしは無理矢理動かす。
「やだ…」
ぐいと引っ張られる。
「や…いや…」
あたしは振り返らず、一歩前に出る。
「離して…」
「っ」
相手が声を出す前に、
「離してって言ってるでしょ!」
あたしは腕を振る。
「離してよ!!」
「待って」
「離して!!」
「テリー」
「お前の声なんか聞きたくない!!」
ぐいと引っ張られる。体を無理矢理後ろに振り向かされる。息を切らしたキッドがあたしを見ていた。
「…テリー…」
美しい王子様が、あたしの目の前にいた。
(よく考えたら分かることだった)
(こんなに美しい人が、庶民なわけないもの)
あたしは首を振って後ろに下がる。
「離して…」
「テリー、落ち着いて」
「離して」
「テリー」
「離して! 分かったから! 手を離して!」
「何を分かったの?」
「いいから手を離して!」
「落ち着いて。テリー。ちゃんと説明するから」
「説明?」
あたしはキッドを見上げる。
「第一王子だったって説明? それなら大丈夫。もう分かったから…」
「テリー」
「分かったの。あたしもう分かったから。理解出来たわ。ねえ、本当素敵。あたしなんかが関われる相手じゃなかったんだわ。ええ。よく分かった。最高」
「テリー」
「もう離して。もういいから」
「テリー」
「十分分かった」
ほらね。思った通りよ。あたしの願いはいつだって叶わないのよ。キッドと結婚したら、なんて幻想を抱いたあたしが馬鹿だったのよ。
「ご無礼、ご無礼を、お許しください…」
「テリー」
「お願い、ごめんなさい、あたし、ごめんなさい…」
「テリーってば」
「何度だってごめんなさいって言うから。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
「テリー、ねえ」
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
「テリー、落ち着いて」
キッドの手があたしの頬に触れた。
「いやっ!!」
あたしは悲鳴をあげて、後ろに下がる。キッドの手が引っ込んだ。
「いや! やめて! やめて!!」
「テリー」
「触らないで!」
キッドがあたしを引っ張った。
「っ」
あたしを強く抱きしめる。
「テリー、落ち着いて」
「落ち着いて?」
あたしはキッドの背中を叩く。
「嘘ついたのはあんたでしょ…?」
「俺がいつ嘘をついたの?」
「だって…王族なんて…一言も…」
「俺、自分が貴族とも、平民とも、一度も言ったことないよ」
「…何それ…」
あたしはもう一度叩く。
「王族だって知ってたら…関わらなかったのに……」
「なんで?」
キッドがあたしの耳に囁く。
「王族なら、どうして関わらないの?」
貴族ならば、絶対に関わりたいはずだ。
「俺は王子だ」
「第一王子」
「国の頂点に立つ一族の血が流れてる」
テリー、
「言っただろ? お前は運がいいんだよって」
なんたって、王子様のお気に入りなんだから。
「みーーーーんな、王子様が好きだ。相手が王子様というだけで恋心が生まれるほどね」
だから皆、リオンが好きなんだろ? 憧れてたんだろ?
「でも、俺が王子と名乗った瞬間どうだ?」
人々の関心は、俺に移った。リオンじゃない。俺だ。俺が美しくて、俺が強くて、俺を初めて見たから、興味が俺に注がれた。
「俺こそがこの国の第一王子」
「活躍するには絶好のタイミング」
「怪盗パストリルを捕まえて」
「この国の悪を蹴散らして」
「メニーを救って」
「俺は一躍ヒーローだ」
どうだ? テリー。
「冷静な頭で考えてごらん」
誰もが羨む立場にお前はいる。
「お前は俺に選ばれた」
第一王子に選ばれた。
「第一王子に気に入られるなんて、絶対にないこの上ない幸運」
これ以上の幸せなんてあるか?
「いや、ないね」
「絶対にないね」
「これ以上に幸せなことなんてあるものか」
キッドがあたしの頭を撫でた。
「テリーだから特別だよ」
「俺がお前を幸せにしてあげる」
「だってテリーは」
俺のものだから。
「ふざけるなああああああああああああ!!!!!!」
あたしの感情が爆発して、キッドの背中を叩く。
「そうやって!! いつもあたしを馬鹿にする!!」
後ろに下がる。
「あたしを見くびるな! 見下すな!! このあたしを誰だと思ってるのよ!!」
テリー・ベックスを見下すなんて!!
「なんて最低かつ最悪かつ災厄かつ下劣なの!! この下種!! この王族! 恥を知りなさい!!」
「痛いよ。テリー」
キッドがあたしを抱きしめ続ける。
「落ち着いて」
「離して!」
「離さない」
「離してよ!」
「どうして怖がってるの?」
「いいから離してよ!」
「ねえ、さっきからどうしたの? なんでそんなに怯えてるの?」
俺、何かした?
「したと言えば、そうだな」
「テリー、お前の姉さんを守ったのは誰だ?」
「テリー、お前の先生を守ったのは誰だ?」
「テリー、お前の妹を守ったのは誰だ?」
「テリー、お前の友達を守ったのは誰だ?」
「ねーえ、テリー」
俺、何かした?
「ずっとお前を守ってる」
「今さら、何を怖がってるの?」
「何もしないよ。テリー」
「お前には何もしない。本当だよ」
「お前には怖いことしないよ」
「俺はお前の味方なんだから」
あたしは俯く。
「……またそうやって嘘つくの……?」
キッドが瞬きをした。
「……え?」
「どれが本当なの?」
「全部本当だよ」
「それも嘘?」
「本当だよ」
「その言葉も嘘?」
「本当だよ」
「その態度も嘘でしょ?」
「テリー?」
「何が真実なの?」
「テリー、落ち着いて」
「結局全部嘘じゃない。婚約だって、ボディーガードだって、最初から、全部、何もかも全部嘘。ずっと嘘ついて、嘘だらけで、あんたの何を信じたらいいって言うの」
「嘘なんかついてない。テリー。俺はお前の味方だよ」
「嘘つき」
「テリー、怖がらないで」
「嘘つき」
「なんで?」
「嘘つき」
「なんで怖がってるの?」
「嘘つき」
「テリー、俺は王子様なんだよ?」
「嘘つき」
「お前が求めてた王子様だよ?」
「嘘つき」
「そうか。分かった。じゃあ覚悟を決めよう。結婚しよう。ね、これで本当になる」
「嘘つき」
「嘘じゃないよ。俺、お前が気に入ってるんだ。テリーとなら結婚していいよ」
「嘘つき」
「落ち着いて。ほら、テリー。俺を見て? 何も怖くないよ」
「嘘つき」
「嘘じゃないよ。俺はお前のものだ」
「誰が誰のものよ。あんたはあんたのもので、あたしはあたしだけのものよ」
震える声で、伝える。
「婚約は解消よ」
「え?」
キッドが訊き返した。
「解消?」
キッドがあたしの耳元で笑った。
「しないよ?」
キッドが腕の力を強めた。
「しないって言っただろ?」
キッドがあたしを見た。
「お前は決める権利無いんだろ?」
キッドが鋭い目であたしを見た。
「絶対しないよ」
「……する」
「しない」
「……するの」
「しない」
「するのよ…! 婚約解消するの…!!」
「しないよ」
キッドがあたしの顔を覗き込んだ。
「お前は俺のものだ」
「嫌だ」
「テリーは俺のもの」
「そんなの嫌だ」
「俺はテリーのもの」
「嫌だ」
「なんで?」
「嫌よ」
「憧れの王子様がお前のものなんだよ?」
「いらない」
「素直になっていいんだよ」
「嫌だ」
「テリー、違うよ」
そこは、
「媚びを売ってでも、猫被ってでも、ぶりっこしてでも」
キッド、嬉しい。大好きよ。あたしをキッドのものにして?
「って言うところだよ」
キッドの目が見開く。
「なんで?」
キッドがあたしを見る。
「なんで言うこと聞いてくれないの?」
キッドがあたしを睨む。
「なんで俺のものにならないの?」
「……あたしに媚を売れって言うの……?」
キッドを軽蔑する。
「キッドに、媚を売って、猫被って、ぶりっこしろって言うの?」
キッドを軽蔑する。
「なんで、そんなこと言うの?」
キッドを軽蔑する。
「キッド」
キッドを軽蔑する。
「あたしは」
キッドを、
「キッドのこと」
あたしは、
「キッドを………」
真剣に、想って………。
「…テリー…?」
顔を上げれば、王子様のキッドがいる。目が合う。キッドが不思議そうな目で、あたしを見た。視界が揺れる。頬に、涙が滴る。
(あ)
あたしは手袋で拭う。
「やめて」
俯く。
「見ないで」
手が震える。
「見ないでよ…」
涙がどんどん溢れてくる。
「もう離して…」
涙が止まらなくて、ドレスに、ぽたりと、ぽたりと、落ちていく。
「お願い、もう…。もう…」
もう解放して。
「メイクが落ちるよ」
冷静なキッドの声が、耳に響く。
「ほら、テリー、こっち向いて」
キッドの手が近づく。
「っ」
あたしは顔を横に向けた。
「嫌っ!」
キッドが無理矢理あたしの頬に手を添えた。
「やめてっ」
「頬が濡れてる」
キッドがあたしの顔に近づく。
「や、やだっ」
腰を押さえられる。動けない。
「や、やめて!」
キッドがあたしの頬に舌をつけた。
「ひっ」
濡れた頬を舐める。
「ん、んんん……!」
唇を閉じて、肩をすくませて、ぞくぞくする悪寒に耐える。
「ん…んん……」
涙がぼろぼろと落ちて来れば、キッドが優しく微笑む。
「また泣いてる」
「あっ、やっ」
胸を押すが、びくともしない。キッドに再び頬を舐められる。
「んっ」
「しょっぱい」
キッドがあたしの目尻を舐めた。
「ひっ、いや…!」
「すっぱいな」
「や、やめ…」
「ここ?」
「っ」
舐められて、体が強張る。
「………っ」
「んー…。涙が止まらないな」
キッドがあたしの顔を覗き込む。
「ね、テリー、景色のいい所に連れて行ってあげる。二人きりになれるよ。そこでさ、ちょっと話をしよう」
「…………」
あたしは首を振る。キッドが微笑む。
「テリー、きっと気に入るから。ね? 行こう」
「…………」
あたしは首を振る。キッドが息を吐いた。
「テリー、行こうよ。少し歩いたら気分も変わるから」
「…………」
「メニーのことが心配? 大丈夫だよ。俺が必ず救い出すから」
「…………」
「綺麗な夜景が見える所なんだ。城下町全体が見える。テリー、高い所平気なんだろ。だったら気に入るさ。さあ、行こう」
「……あたし、帰る」
後ろに下がると、キッドがあたしの腰を掴んで、引き寄せた。
「テリー、行こうよ」
「帰る」
「テリー」
「ここにいたくない」
「行こう」
「行かない」
「来てよ」
「帰る」
「そんなこと言わないで」
「帰る」
「楽しいよ。玩具がいっぱいあるんだ」
「帰る」
「お人形さんも沢山いるよ」
「帰る」
「本も沢山あるんだ」
「帰る」
「テリー、行こうよ。夜景が綺麗だから」
「帰る」
「来て」
「嫌」
「大丈夫。怖くないよ」
「行かない」
「来てよ」
「あたし、行かない。帰る」
あたしは後ろに下がった。
「もう離して…!」
「駄目」
キッドの手が離れない。
「あたし、帰りたいの!」
「じゃあ送るよ」
「いい! 一人で帰る! ついてこないで!」
「なんで怖がってるの?」
キッドがクスッと笑った。
「帰るんだろ? じゃあ馬車で送るから」
「自分の馬車に乗る!」
「テリーの家の馬車はまだ来てないみたいだ。21時になったら迎えに来るかもしれない。だから俺の用意した馬車で送るよ」
「結構よ! あたし歩いて帰る!」
「裸足のまま危ないよ」
「帰るの!」
「じゃあ、こうしよう。21時になるまで休める場所で馬車を待とう。それならいい?」
「いい! あたし歩いて帰る!」
「もー……」
キッドがあたしの手を離さない。
「わがままだな」
「離してったら!」
「駄目」
「離してよ! あたし帰るの!」
「駄目」
「帰らせて!」
「駄目」
「帰りたいの!」
「駄目」
「離して!」
「駄目」
「キッド、お願い、やめて!」
「じゃあこうしよう」
キッドがあたしの顎を掴んで、上を向かせる。あたしとキッドの目が再び重なる。あたしは驚愕する。
キッドが、とても楽しげに微笑んでいる。
「好きって言って」
目を見開く。
「え?」
「俺のこと、好きって言って」
キッドが微笑む。
「キッドのことが好き。だから、絶対にキッドから離れないって、言って」
………………。
あたしは首を振る。
「言ったら手を離してあげる」
あたしは首を振る。
「テリー、手を離してあげるよ。言ってくれたら」
あたしは首を振る。
「ねえ、こんなの慣れてるだろ? 今まで散々やってきたじゃないか」
あたしは首を振る。
「じゃあ、手を離さないからな。それでいいんだな?」
あたしは首を振る。
「じゃあ言って」
「…………」
「約束するよ。言ってくれたらお前を帰す」
「………………」
「『キッドのことが好き。だから、絶対にキッドから離れない』」
キッドがいつもの無邪気な笑みを浮かべた。
「ほら、言って」
「……………き」
掠れる声で、復唱する。
「……きっどの、ことが、すき。だから、ぜったいに、…きっどから、……はなれない……」
キッドが微笑む。あたしは一歩下がる。
「これでいい?」
下がる。
「もう帰るわよ」
「うん。いいよ」
でも、
「帰るのは明日ね」
「えっ」
ぐいと、手を引っ張られた。
「あ」
城に向かって引っ張られる。
「や、ちょ…!」
「俺のこと好きなんだろ?」
「ちが…」
「キッドが好きって言った」
「だって、言ったら帰すって…!」
「うん。明日ね」
「あ、あたし、今帰りたいのよ!」
「うん。明日ね」
「キッド! 約束と違うじゃない!」
「なんで? 明日帰すって言ってるだろ」
「また嘘ついたの!?」
「落ち着いてよ。テリー。部屋でゆっくり俺と話そう。そしたら冷静になれるから」
「嘘つき!」
「俺が好きなんだろ?」
「キッド!」
「絶対に離れないんだろ?」
「まだ婚約者ごっこを続けるの!?」
「ごっこじゃないよ。俺達、れっきとした婚約者だろ?」
「あ、あたし、もう、もういい…! もういい!」
「駄目。契約は継続する。お前は俺の婚約者で、俺のものだ」
「やだ…」
「テリーは俺のものだよ」
「やだ………」
「だから俺の言うことだけ聞いて」
「やだぁ………」
「俺から離れるなんて、許さない」
「嫌…!」
足を止める。
「嫌い!!」
叫んだ。
「お前なんて嫌いよ!!」
キッドが止まった。
「嫌い! 大嫌い!」
キッドがあたしの手を離さない。
「離して! あたしは帰るのよ!」
「好きって言ったくせに」
あたしに背を向けたまま、キッドが呟いた。
「俺から離れないって、言ったくせに」
キッドがあたしの手を引っ張った。
「ちょ」
乱暴に顎を掴まれ、再び腰を掴まれる。
「や、なにっ…」
「テリー」
キッドが微笑む。
「目閉じて?」
「……………」
あたしはキッドの肩を掴む。
「なんで?」
「そんなに怯えないで。何もしないから」
「何もしないのに目を閉じるの?」
キッドがにこりと笑う。あたしは後ずさる。
「キッド」
「何?」
「やめて」
「何が?」
「やめて」
キッドがあたしの腰を抱く。
「ねえ、やめて」
「何が?」
キッドの顔が近づく。
「ねえ、嫌なの」
「何が嫌なの?」
「やめてってば」
「嫌よ嫌よも好きのうちって知ってる?」
「キッド、怖い」
「怖くないよ」
だって、
「俺のこと、好きなんでしょう?」
「キッド、まって」
「離れたくないんでしょう?」
「や、やだって…」
「じゃあくっつこう?」
キッドの青い瞳があたしを捕らえる。
「テリー」
頬を撫でられる。
「………キッド」
顔が寄せられる。
「キッド」
下がる。腰が掴まれて動けない。
「ねえ、キッド…」
キッドの顔を押そうと手を動かすと、両手を掴まれた。
「いっ」
キッドがあたしを壁に押し付けた。
「ひゃっ!? え? え?」
手を押さえられる。
「ちょ、」
「テリー」
顔が近づく。
「ちょ、まっ」
パニックになる。
「待って、待って、待って!」
顔を逸らす。
「やめて! キッド!」
「テリー」
顔が近づく。
「や、やだ! やだ! やだってば!」
「大丈夫」
「やだやだやだやだ!!!」
「怖くないよ」
キッドの顔が近づく。唇が近づく。
「ああああ、嫌、嫌! いや! 嫌!! 嫌あああああ!!!」
「大丈夫。大丈夫」
額にキスをされる。あたしは慌てて俯く。キッドが屈んだ。横を向く。キッドが追いかけてくる。
「や、やめ…!!」
鼻と鼻がくっつく。
「嫌っ!! いやあああああああ!!!!」
キッドが目を細める。
「怖くないよ。テリー」
キッドの瞼が下ろされる。
「大丈夫。気持ちよくて」
キッドが微笑んだ。
「俺しか見えなくなるから」
キッドの唇が、あたしの唇に、重なる、
寸前に、
「ねっ…! 兄さん! 今パストリルの唄の分析がおわっ…!!」
―――――――っ!!!!
「うわっ! 何やってんだ! キッド!!」
キッドが、ぎろりと、刃のように鋭い目つきで声の方向を睨んだ。その隙を見て、あたしの足が動く。
「このっ!」
キッドの腹を蹴る。
「エロガキ!!」
「いだっ!!」
キッドの手が緩んだ。
「あっ」
あたしの手がするりと抜けて、あたしは慌てて走り出す。
「テリー!」
あたしはがむしゃらに走る。
「テリー!!」
無我夢中で走って―――ばちんっ、と弾けるような音が鳴った。
「っ!!!?」
驚いて目を見開く。頭が軽くなった。
(あ、髪飾り…!)
せっかく仮面舞踏会のために買った髪飾り。サリアにつけてもらった、髪飾り。
『お似合いですよ。テリー』
あたしは目を瞑って、真っ直ぐ走る。
怖い。
ここにいたくない。
怖い。
怖い。
ひたすら怖い。
恐怖。
怖い。
怖い。
怖い。
怖い。
怖い。
怖い。
怖い怖い怖い怖い。
なんであたしばかり、こんな目に遭うの?
あたしは、ただ、幸せになりたいだけなのに。
立ち止まった。
木に囲まれた小道から、光り輝く城が見える。
「……………………」
自分の姿を見下ろした。
(……靴、放り投げちゃった)
足がぼろぼろ。
(青いドレス)
泥だらけ。
(髪の毛)
ぼさぼさ。
手を当てると、やっぱり、髪飾りはない。
(顔)
多分、メイクは台無しだ。だって、泣きじゃくって、あいつに舐められたから。
(最悪)
ぼろぼろ。
(あたし、なんかした?)
あたし、そんなに酷いことした?
(メニーを放って、遊んでただけじゃない)
あたしには遊ぶことも許されないの?
「…ふふっ」
ふらりと歩き出す。
「ずっと子守りしてたら良かったわけ?」
「そうね」
「そうよね」
「子守りしてたら良かったのよね」
「そうしたらメニーだって誘拐されずに済んだわ」
「そうか」
「あいつ、誘拐されたのね」
「ああ、どうしようかな」
「ドロシーに怒られるんでしょうね」
「どうしよう」
「誘拐されちゃった」
「誰にも頼れないや」
今から戻って、キッドの言いなりになる?
(あたし、何かした?)
行きたくないって言ったじゃない。
行けないように髪も切ったじゃない。
行ったら結局メニーに嫉妬したじゃない。
嫉妬から逃げるために、気を逸らしたじゃない。
キッドが誘ってきたから、
キッドが臭い唄を唄ったから、
キッドが庭まであたしを引っ張ったから、
キッドがあたしをからかったから、
キッドが理想の夢を叶えてくれたから、
キッドの手を取って、踊った。
キッドとのダンスが楽しくて、
キッドの質問タイムに戸惑って、
キッドがいいよって言ったから、
なんだか嬉しくなって深入りしたら、
その正体は王族だった。
あたしを殺す王族だった。
関わったら、いつ殺されても、おかしくない。
―――テリー・ベックスを死刑に!!
(あたし、何かした?)
唇を押さえる。
(なんでキスされそうになったの?)
(あいつ、なんであたしを離してくれなかったの?)
(…怖かった)
(……すごく怖かった……)
テリー。言葉は嘘だらけだと、あれほど言ったじゃない。あれほど、信用してはいけないと言ったじゃない。あれほど、詮索してはいけないと言い聞かせていたじゃない。知れば知るほど、全てが壊れると分かっていたじゃない。
なんで近づいたの?
(キッドを知れると思ったから)
なんで近づいたの?
(キッドがいいよって言ったから)
なんで近づいたの?
(キッドを知りたくなったから)
なんで近づいたの?
キッドを好きになったから。
ほろりと、涙が落ちた。
「う」
涙が溢れた。
「ん」
ほろりとまた落ちた。
「んん」
止まらない。
「はあ」
息を吐いた。またほろりと落ちた。
「ずずっ」
鼻をすすった。またほろりと落ちた。
「うん…」
手の甲でその涙を拾った。
「ん……」
涙を拾ってくれるキッドはいない。
「……んんん………」
唯一頼れた人が、
暖かいその存在が、
一気に冷たい存在に変わった。
(怖い)
冷たい。
(キッドが怖い)
ほろりと、
ほろほろと
ほろろろろろろろろと
涙が落ちた。
こうやって壊れていくのね。
どんなに守っていても、壊れていくんだ。
あたし、この先も同じよ。
幸せになれないのよ。
「…………ん」
「………んん………」
「…………………」
「っ」
―――悲鳴のような泣き声が止まらない。
あたしは、また、知って、知りすぎて、近づきすぎて、
癒えない傷を負ってしまった。
また傷つけられるのかしら。そう思ったら、怖くて振り向けない。
「……………………………………」
「こんな時にナンパかよ。いい加減にしてくれよ。兄さん。大変だったんだからな」
「………………」
「戻ろう。解読は終わったし、あとは誘拐された令嬢を助け出す準備を……」
「……………………………………」
「………キッド? 髪飾りなんか持って、何やってるんだ? うん? なんで構えてるんだ? ちょ、まて、キッド、おい! 待て待て待て待て!! お前! なにするきっ…………いだーーーーーー!!」




