第4話 仮面舞踏会(2)
(……汚い)
手袋を脱いで、口元を拭う。
(くそ……)
口紅は取れていないだろうか?
(最悪……)
便器の水を流して、扉を開けて、また別にある洗面器がついた部屋で口をゆすいで、扉を開けて、広すぎるトイレから出た。
吐いたおかげか、少し気分がすっきりして、もやもやしている。血の気が下がってる気がする。鏡で見たら、肌の色が青かった。
(さっきの紳士に悪いことしたわね)
(今、戻って謝るって言うのも、なんか面倒だし……。……いいわ。どうせもう会わないから)
……気分転換に城内でも歩こうかしら。
(いや、待て)
メニーが待ってる。
(……行かなきゃ)
メニーの元へ。
(……行きたくない……)
メニーに会いたくない。
「……」
でも、あたしはメニーに言ってしまった。
迎えに行くからって。
合流しようって。
メニーは待ってる。
頼りになる都合の良いお姉ちゃんのあたしを待ってる。
(行かなきゃ……)
(行かないと……)
(牢屋に入る……)
(工場に入る……)
(死刑になる……)
(ギロチンが待ってる……)
ふらふらと、おぼつかない足がダンスホールに向かって動き出す。
人混みが多い。人混みを抜ける。メニーとアメリは一階にいるはず。ここで探すよりも、上から見た方がいいかもと思って、また階段を上る。
(ああ、しんどい……)
(面倒くさい……)
(疲れた……)
さっき走ったせいで、ヒールを履いてる足が痛い。
(ほんと、最低……)
(……帰りたい)
二階に上がり、バルコニーの前を通り、手すりに手を置いて、沿って歩いていると、――とん、と肩がぶつかった。
はっとして、慌てて振り向く。
「すみません、失礼しましたっ……」
相手を見上げ、頭を下げ、視線を下ろし、また足を一歩進ませると、
「おっと、お待ちを。レディ」
呼び止められた。
(ん? あたし、何か落とした?)
扇子は手に持っているし。
(……何?)
振り向くと、肩をぶつけた相手があたしを見つめている。
紺のジャケットに、白いパンツを着こなした、背の高い紳士が、あたしに体を向け、胸に手を当て、ニッ、と笑った。
「これは、なんて美しい人だ。その黒と緑が入り混じったような綺麗な赤髪は見たことがない。その海のような、はたまた空のような広大な青のドレスも美しい。どうでしょう。美しきレディ。どうかこの私と踊っていただけませんか?」
そう言って、紳士が白い手袋で隠した手を差し出してくる。
透き通る黒に近い青い瞳と、目が合う。
その低い声を、どこかで聞いたことがある。
その背丈は、どこかで見たことがある。
そのワックスで整えられた青髪は、どこかで見たことがある。
派手で高級そうな鷹の仮面をつけた顔は、誰かの面影がある。
贅沢で豪華でシンプルなそのスーツは、非常にその紳士に、似合っていた。
あたしはそれを見て、
――にんまりと、いやらしく微笑み、扇子で口元を隠した。
純情なレディになりきって、紳士を目だけで見つめる。
「せっかくの嬉しいお誘い、誠にありがとうございます。しかし、残念です。あたくしには既に結婚を約束している方がおります故、貴方のような素晴らしく素敵な紳士とは踊れません。失礼致します」
一歩下がれば、くくっ、と紳士が笑った。差し出した手を下ろし、背中に隠す。口角は上がったまま。
「それではこうしましょう。今夜の出来事は一夜の夢。夢となれば、ひと時の幻想、そして幻となりましょう。幻想と幻になってしまえば、現実では起こりえなかった事となります。つまり、これは夢。夢の世界です。夢の世界となれば、どんなに素晴らしいお方と結婚を約束されているレディでも、ご自由にお戯れなられるかと。さあ、もう一度、お誘い申し立てましょう。どうか、この私と踊っていただけませんか?」
また手を差し出される。
あたしは微笑んだまま、その手を取らない。
「それではこうしましょう。あたくしに即興で、唄をご用意してください」
ほう。
「唄遊び、ですね?」
紳士が面白そうに、にやけながら訊いてきた。あたしは頷く。
「その通り。あたくしがその唄を気に入れば貴方と喜んで踊りましょう。ダンスをお誘いするくらいですもの。あたくしのために、素敵な唄を用意してくださるのでしょう? ミスター?」
「なるほど」
紳士は一歩下がり、差し出した手を胸に当て、微笑む。
「それでは、素敵なレディに、捧げましょう」
すっと息を吸って――唄った。
愛しき赤い薔薇の君
今宵の魔法は赤い糸
小指で繋がる愛の魔法
運命の歯車が動き出し
君と目が合い心を奪われ
まるで恋泥棒の愛しき君
私の心は奪われた
私の心を手に取り
どうぞ私を踊らせたまえ
貴方にキスを贈りたい
貴方に愛を贈りたい
愛しき赤い薔薇の君
ここで出会えた赤い薔薇
どうかその茨の棘で
私の心臓を縛ってください
強く激しく乱暴に
私の心臓を縛ってください
愛しい君
愛しい人
愛してる
――は?
ぴくりと、左目が痙攣した。
思わず笑みが引き攣った。
扇子を持つ手にびぐっ! と力が入る。
背中が寒気でぞわぞわした。
(こいつ……、何言ってるの……?)
(気持ち悪い)
(気持ち悪い)
(もう一度言おう)
(気持ち悪い)
「素敵……」
(は?)
声に視線を移すと、うっとりと唄った紳士に見惚れるレディがいて、感動する紳士がして、直後、周りから拍手が起きた。
「素晴らしい!」
「なんてシンプルで、愛のこもった唄なんだ!」
「美しい!」
「ドキドキしてしまったわ!」
「こんなの初めてだ!」
「うっとりしちゃった!」
「ブラボー!」
ぱちぱち聞こえる拍手の音。胸に手を当て、姿勢よく頭を下げる紳士。あたしの引き攣る笑顔は継続中。
(これで拍手……? 頭おかしいんじゃないの……?)
なんてこと。あたしのぴちぴちなお肌に鳥肌が立っているわ。冷や汗まで吹き出てくる。顔が青ざめる。左目の痙攣は止まらない。笑顔は継続中。ああ、最低。無理。甘ったるくて反吐が出そう。気分が最低の最悪のはたまたどん底に最悪。
一歩、下がれば、紳士はその笑みをあたしに向けた。
「いかがでしょうか。レディ」
あたしは紳士に、にっこりと微笑み扇子を仰いだ。
「ふふっ。聴いた中で一番最低な唄でしたわ。結構結構」
(逃げよう)
紳士に背を向け、感動する人々をかき分けて歩き出す。
「おやおや、手厳しい」
いつもの軽い口調で呟き、肩をすくめてから紳士も歩き出し、あたしの後ろをついてきた。
足音を重ね、同じタイミングで歩いて、また重ねて、余裕のある表情であたしの横に追いつく。
「ねぇ、踊らないの?」
「なんでいるのよ」
うんざりして訊けば、顔を覗き込んできたキッドが、くくっと笑った。
「いたら悪い?」
「別に悪くないけど……」
「悪くないけど?」
「お前のせいで鳥肌が立ったわ」
「嬉しいね。再会の喜びに興奮して鳥肌が立ってしまったか」
「何が再会の喜びよ。お前の唄のせいに決まってるでしょ」
キッドがにんまりと口角を上げた。
「どうだった? お前への愛の唄」
「最低よ。あんな甘ったるくて反吐が出そうなやつ。背中がぞわぞわした。ほら、見てごらんなさい。あたしのお肌が、ほら、ぴっきーんって! ああ、可哀想なあたしのお肌ちゃん」
扇子をキッドに仰ぐ。
「それになんで拍手が起きるわけ? 全員あんたの知り合い?」
あたしの扇子を手で退かすキッドが首を振った。
「いいや? 全員知らない人」
「嘘だ。絶対嘘だ。そんなはずない」
「お子様のお前の評価と違って、皆分かってるんだよ。いやあ、やっぱ俺すごいな……。我ながら最高にいい出来だった」
「あんた本気で言ってる?」
青ざめた顔で訊けば、キッドは笑顔で頷いた。
「当然!」
(うわあ…)
仮面からでもいい笑顔!
(呆れた……)
視線をキッドから逸らし、また一階を見下ろす。
(こんなことしてる場合じゃない。メニー達はどこ行ったの?)
「ねぇ」
キッドが声をかけてくる。ちらっと視線を移せば、やっぱりいつも通りのイケメンのキッドが立っている。あたしを見下ろして、にこりと笑った。
「踊ろうよ。せっかく会えたんだから」
――踊らないで。
――踊ったら、嫌だ。
メニーの声が聞こえた気がして、
思い出した自分にむかついて、
ふいと、そっぽを向いた。
「やだ」
「なんで?」
「身長が合わない」
「大丈夫。何とかなるさ」
「17歳が13歳を誘うな」
「まだ16歳だもんね」
「他の人と踊るんじゃないの?」
「くくっ。俺、さっきすげえ誘われてたんだよ? 知らない? こーんな行列が出来てたやつ。あれ俺だよ」
手で距離を表現する。別に興味ないし、
「見てない」
「嘘だ。だってすげえ目立ってたよ?」
「外にいたから」
きょとんとキッドが瞬きした。
「バルコニー?」
「ん」
「なんだ。外の風に当たってたんだ」
「そう」
「お前吐いただろ」
――足を止めた。ゆっくり振り向いて、不審者を見る目でキッドを見れば、キッドがにっこりと微笑んだ。ひいっ!!
さっと顔が青くなる。
「……見てたの?」
「お前さ、俺がいつでもお前のこと見てると思ったら、とんだ勘違いだぞ。それ」
「だって、じゃあ、なんで知ってるの!?」
(怖い! こいつ怖い! キッド怖い!!)
引き攣った顔でキッドを見つめると、キッドの口角が下がった。呆れたようにじっとあたしを見下ろす。
「声がいつもより掠れてるから」
「かすれ……掠れてる?」
「掠れてるよ。だから吐いたのかなって思っただけ」
「なんで分かるのよ……。……気持ち悪い……。……あんたのそういうところ、本当に嫌だ……」
「仕方ないだろー? そういうの分かっちゃうんだよ」
キッドがぷー、と頬を膨らませたのを見て、あたしは溜まった息を吐く。
「……で、結局踊らなかったの?」
「断ったよ。お前のこと探してたし」
「あたしを?」
「うん」
「なんで?」
「会いたかったから」
きょとんと、瞬きをする。
「……あたしに、何の用?」
キッドの目がぴくりと痙攣したのが見えた。
「……」
「な、何よ。その目……」
「……お前さ、素直に喜んでいいんだよ?」
(ん?)
「喜ぶ? 何を?」
「俺が特定の人物を探すなんて、ありえないから」
「あたしに何か用があったからでしょう? 何? 紹介所の話?」
「違うって」
キッドの顔がみるみる不機嫌になっていく。
(……え?)
(こいつ、またなんで不機嫌になってるの?)
(えー、意味分かんない……。あたし変なこと言った?)
(いや、何も言ってない……)
(えー、ちょっとやめてよ。面倒くさい。仕事増やさないでくれる?)
……。
(んっ)
あたしは気づいた。そうだ。キッド、他のレディからの誘いを断ってまであたしを捜して、ダンスに誘ったってことは……。
(はっはーん?)
お前、ダンスが出来ないから、練習相手にあたしを捜していたのね!
「なるほどね……」
キッドの背中をぽんぽんと叩く。
「ま、お前もただの庶民ってことよね」
「え、何?」
「残念だけど、坊や、あたし、今ちょっとそんな気分になれないの。でもね、諦めないで。踊り方が分からなくたって、何も恥ずかしいことじゃないから」
「お前は一体何を勘違いしてるんだ?」
キッドがあたしの頰に指を押す。ぷに。
「何よ。正直に仰いな。あたしはお前と違って心が広いから。広大だから。今なら許してあげるわ。踊り方分からないんでしょ? だからあたしを捜してたんだ。練習相手が欲しくて」
「残念だが、お前の読みは外れだ。ダンスは誰よりも自信がある。お前よりも華麗に踊れる自信があるよ」
「じゃあなんであたしを捜してたの?」
「会いたかったから」
「どうして?」
「理由が無いと、会いたいと思っちゃ駄目なの?」
「だって、あたしに会いたいなんて、理由が無いとありえないでしょ」
「本気でそう思ってる?」
「そうとしか考えられないでしょ。特にあんたは」
「心外だな。お前の顔が見たくて捜してたのに」
キッドが通りすがりの使用人の持ってるトレイからグラスを持ち、軽く口をつける。
「その仮面は何? 鼠?」
「……鼠なんて汚い動物の仮面、つけるはずないでしょう? 熊よ。熊」
「……あ、そう」
キッドが通りすがりの使用人の持ってるトレイにグラスを戻した。
「ね、さっきから足がふらついてる」
「そう?」
「誰を捜してるの?」
「姉さんと妹」
「リトルな少女も向こうにいるんだ。連れてこようか」
「そうね」
「具合悪そう」
「少し人に酔ったのよ」
「多いからね」
「あいつらどこに行ったのかしら」
「ねえ、ふらついてる」
「大丈夫」
「レディ」
「だいじょ」
一歩踏み出すと、
(あ)
頭が一瞬、真っ白になる。一瞬、怒号が聞こえた気がした。
――テリー・ベックスを死刑に!
(あ)
瞬きを繰り返す。ちかちかする視界。
(……んあ……?)
「なんて大胆な人だ」
暖かな温もりに包まれ、背中を撫でられる。
「突然抱きしめてくる強引なレディも、なかなか悪くない」
「………」
(どういう状況?)
なんで歩いてたあたしが、キッドに抱きしめられてるわけ? ほら、周りの人達がなんか見てるわよ。何よ。見せもんじゃないわよ。おら、退け。キッドの胸を押す。
「退いて」
「テリー」
耳元で囁かれる。
「一度外に出よう」
「駄目よ」
「いいから」
「メニーが待ってる」
「少しくらい大丈夫さ」
「大丈夫じゃない」
「過保護だな」
でも、離さないよ。
「ひと時の幻に付き合ってもらおう」
ぐいっと、キッドがあたしの手を引っ張る。
「おいで」
「ちょ」
「さあ」
「あたし……!」
(メニーの所に……!)
――行かないと、駄目?
あたしを引っ張るキッドの手を見て、疑問が沸く。舞踏会はまだ始まったばかりだ。
「……」
時間は、まだある。
(だったら)
ちょっとくらい。
(ほんの少しだけ)
メニーを放っておいても、罰は当たらないだろう。
(ドロシー、ちょっとだけよ)
(ちょっとならいいでしょう?)
少しくらい、あたしが誰と遊んだって、少しくらいなら、
……許されるわよね?
キッドに手を引っ張られたまま、あたしは大人しくついて行った。