第12話 雪の王(1)
急いで馬車から下りる。
森に囲まれた、トンネル前の広い遊び場所に向かって歩き出す。
氷の上にはニクスがいた。
静かに、目を閉じて、じっとして動かない。
ニクスがひたすら立っている。
木が多くて、ここからではニクスはあたし達の姿が見えないだろうが、多くの人間がニクスを囲んで待機していた。キッドに背中をとん、と押されて、あたしは歩き出す。歩く、から早足に変わって、早足から走るに変わって、駆け出して、凍っている地面の前で立ち止まる。
「ニクス!」
大声で呼ぶと、ニクスがゆっくりと目を開け、顔を上げた。
あたしは笑顔でニクスに手を振る。
「そんな所で何してるのー!?」
ニクスが瞬きした。
「約束の時間には、まだ早いんじゃないー!?」
ニクスが青い顔で、あたしを見つめた。
「ねえ! そっちに行っていい!?」
「駄目!」
ニクスがにこりと笑って、いつもの笑顔で、大声を上げて返事を返す。
「駄目だよ! 入ってこないで!」
「どうして!?」
あたしは笑顔で大声を上げて返事を返す。
「あんた、今日、パン屋の仕事お休みしたんでしょ! あたし、分かってるんだから!」
「えへへ! ばれちゃった!」
「ねえ! あたしもそっちに行きたい!」
「駄目だよ!」
「ニクス! 遊ぼうよ!」
「駄目だよ!」
「ニクス!」
一歩踏み込むと、ニクスが叫んだ。
「入るな!!!!!!!」
あたしは足を止めた。ニクスが口角を下げる。ぐっと、拳を握り締める。
「入っちゃ駄目」
ニクスが手にはめる手袋を抱きしめた。
「テリー、大丈夫だよ」
ニクスが青い顔で微笑んだ。
「僕が何とかするから」
「ニクス」
「大丈夫」
「ニクス、教えて」
「言えない」
「何が起きてるの」
「言いたくない」
ニクスの唇が震える。
「どうせ誰も信じない」
「ニクス、教えて」
「大丈夫さ。冬さえ乗り越えちゃえば、きっと、元に戻るから」
「ニクス」
「地震、多いな…」
「…ニクス?」
「最初は、ちゃんと自我があったのに…」
「ニクス?」
「最近は無意識にやってる…」
「ニクス?」
「僕に黙って、ここから抜け出すなんて…」
「ニクス?」
「でも、大丈夫。僕が何とかする。だって、僕は家族だから」
「ニクス…?」
「テリーを守らないと」
「ニクス」
「大丈夫だよ。テリー。この街も、この国も、君も、僕が守ってみせる。安心して。絶対大丈夫だから…」
ニクスの足がふらついた。
「ニクス」
あたしは手を伸ばす。ニクスに差し出す。
「こっちに来て。ニクス」
「テリー」
ニクスが弱々しく、手を伸ばしかける。
「大好きだよ。テリー。僕のお姫様。大切なテリー。僕の、たった一人の…友達…」
だから、
「テリー、お願い…」
ニクスが腕を下ろした。
「こっちに来ないで…」
ニクスの目の色が、薄くなる。
「君まで、巻き込まれる…」
左胸を押さえる。ニクスが、座り込む。
「来ちゃ駄目だ」
ニクスが、目を閉じる。
「凍っちゃう…」
ニクスが氷の上に倒れた。
「ニクス!」
あたしは構わず、氷の上に足を滑らせる。青くなったニクスに滑り寄る。倒れたニクスに近づき、膝の上で抱き抱えた。
「ニクス!」
ニクスは反応しない。呼吸が小さい。ニクスの肌に違和感がある。手袋を外して触れて、慌てて離す。驚いて目を見開き、もう一度触れる。メニーと同じ。凍ったように肌が冷たい。
呪われている。
(………)
ニクスは約束の場所に、時間は違うが、来て、存在している。まだ間に合う。間に合う気がする。あたしはニクスの腕を乱暴に引っ張り、自分の肩に回した。
「おらっ!」
声を出して、ぐったりするニクスを抱える。その拍子に、ニクスの鞄が落ちた。中から木箱が転げ落ち、蓋が空いて、薄汚い石が数個外に滑って広がる。ニクスの荷物だろうか。あたしは手を伸ばすが、ニクスを抱えるので手一杯だ。
(ぐっ、拾えない…!)
「誰か! 見てないで手伝って!」
そう叫んだ瞬間、地面が揺れた。
(げっ、こんな時に地震!?)
ぞっとして下を見下ろす。
(ひびが割れる前に、ニクスを氷の上から出さないと…)
あたしの視界に氷が広がる。揺れる。氷が揺れている。水が揺れている。そういえば、ニクスが言っていた。ここは窪みがあって、降った雨がその窪みに溜まって凍った水の上だと。だから、湖ではない。底はそんなに深くはない。
(……おかしいわね)
あたしの目から見たら、とても深く見えるけど。
(まるでここが湖のように)
氷の下の水が、揺れているように見える。
ゆらゆらと、
ゆらゆらと、
ゆらゆらと、
何かが泳いでいるように、揺れている。
(なんだ?)
(これはなんだ?)
あたしは目を凝らしてみる。
波がある。
揺れている。
水に小さな波が出来る。
氷が、溶け始める。
「!!?」
ニクスとあたしの足が沈む。氷が水に変わっていく。
慌てて一歩踏み込むと、水があたしの足を掴んだ。
「ひいっ!」
情けない悲鳴をあげる。
仕方ないことだ。だって、水があたしの足とニクスの足を、掴んでいるのだから!
「な、何、これ!」
幸い、水の冷たさは感じない。魔法によって、あたしには寒さが無い。だから思いきり水を蹴った。水がぽしゃんと弾け、消える。また一歩踏み込むと、水があたしの足を掴む。
「ひっ! だ、誰か!」
あたしはパニックになり、また水を蹴飛ばす。水は消え、再びあたしの足を掴んでくる。ぎろりと水を睨み、怒鳴った。
「ちょっと冷水! あたしを誰だと思ってるの!? テリー・ベックス様よ! あたしに触らないで! この無礼者!!」
怒鳴り、また蹴り飛ばす。一歩踏み込むが後ろに引っ張られる。振り向くと、ニクスの足が取られていた。ぐっ、と引っ張られる。ニクスが氷の下に引っ張られていく。
「はーなーせ、つってんのよ! このスカタン! 冷水のくせに生意気な! あたしの声をお聞き! よくお聴き! ニクスを離せ!」
ぎろりと睨んで水を蹴る。また蹴る。再び蹴ると、水が離れる。
今度はあたしの足を掴む。蹴る。ニクスの足が掴まれる。蹴る。足が濡れていく。でも寒さは感じない。それでも、ニクスが引っ張られていく。あたしも引っ張られていく。
「誰か!」
誰も来ない。
「キッド!!!!」
怒鳴る。
「ボディーガードなら、何とかしなさいよ!!!!!!」
足が取られる。
呼吸が乱れる。
必死に蹴る。
水が揺れる。
寒さは感じないが、足は濡れていく。
ニクスが重い。
重力で座り込んでしまいそう。
だが、分かっている。ここで座り込んだらおしまいだ。
ニクスの体を震える体で支える。
進めない。
水が邪魔してくる。
氷の中へ引きずろうとしてくる。
生きてるように邪魔してくる。
睨みつける。
氷に睨まれた気がした。
でも睨む。
ニクスを掴む手に、力を入れる。
音が聞こえる。
振り向く。
リトルルビィが足を滑らせていた。
「テリー!」
「ルビィ!」
叫ぶと、リトルルビィが高くジャンプし、着地し、滑り、あたし達に向かって進む。それに氷と水が怒ったように、水が背を高く氷から飛び出す。避けて、リトルルビィの足がまた動く。滑る。また水が氷から噴き出す。避ける。腕を伸ばす。リトルルビィが小さな体を突っ込ませ、あたしの下腹を抱え、ニクスの体を肩に抱えた。
「うごっ!」
拍子に変な声が出て、そのまま抱えられる。リトルルビィが一直線に滑り始めると、水が氷の隙間から再び噴き出し始め、追いかけてくる。それを見たあたしの綺麗なおめめがぎょっと見開かれ、顔を青ざめた。しかし、リトルルビィの赤い瞳は水を捉え、全て避ける。目の前に飛び出してくる水が現れたら足を滑らせて避ける。スケートのように足を滑らせ、くるんくるんと体を回し、障害物を避け、進む。氷の前には、キッドや、ビリーや、キッドのお手伝いさんと呼ばれる大人達が立っていた。
「キッド!」
リトルルビィが叫び、あたしをぶん投げる。
(ひえっ!!?)
投げられたあたしの体が、キッドに受け止められる。
「よし、きた!」
「うぎゃっ!」
(キッド、ナイスキャッチ…)
「でかした! リトルルビィ!」
キッドがあたしを自らの肩へやり、無造作に抱える。リトルルビィがニクスを抱えたまま。飛び込むように氷から出た。
キッドが叫ぶ。
「撤退!!」
全員、走り出す。
あたしが後ろ向きで見たその光景は、氷から、渦巻いた水が噴き出し、あたし達を威嚇しているように見えた。でも、離れると、どんどん離れていくと、水が氷の中に戻っていき、また、静かな氷に戻った。
また、空気の静かな、氷が広がる、遊び場所に戻ったのだった。
(*'ω'*)
病院ではなく、キッドの家にニクスが運ばれる。暖かい部屋のベッドにニクスを寝かせ、その肌の冷たさに、ビリーが眉をひそめた。
「同じ症状ですな」
「やっぱりね」
キッドが青い顔のニクスを見下ろす。
「ニクスは大丈夫だと思ったんだけどな。症状が出てるって事は、中毒者ではない」
「ああ。隊の者達と同じだ。鏡を見たのだろう」
「でも毎日トンネルに入ってて、何ともなかったのに」
「さようですな」
「おかしいな。だとしたら、ニクスは今までトンネルに入ってたけど、鏡を見てなかったってことか?」
キッドが顔をしかめて首を傾げた。そして、少し考え込み、ふと、眠るニクスの両肩を掴んだ。
「ちょっと、失礼」
ニクスの服のボタンを外す。
第一ボタン、第二ボタン、第三ボタンを外せば、ニクスの下着のシャツが見えた。キッドがニクスを脱がしていく。シャツを脱がし、ブラジャーを脱がし、
(……ん?)
子供用ブラジャー。
「………」
なんで、ニクスがブラジャーなんてしてるわけ?
眉をひそめながら目線を上げる。すると、ニクスの膨らんだ胸が見えた。
「っ」
まるで心臓を蝕むように、左胸だけが氷に覆われている。
あたしの目が見開かれる。リトルルビィが眉をひそめる。キッドの目つきが鋭くなる。
「脈はある」
そっと氷に触れる。
「こんな状態でまだ生きている。実におかしな現象だ。こんなの初めて見た」
「キッド、これ、メニーと同じ症状よ。助手さんが言ってた」
リトルルビィがキッドの横に並んだ。
「メニーも左胸が氷で覆われてるんだって」
「なるほど」
「中毒者の呪い?」
「だろうね」
二人が真剣な会話している間、あたしの頭は混乱とパニックの嵐が襲ってきていた。
(え?)
ニクスを見る。胸がある。
―――え?
ニクスを見つめる。胸が膨らんでる。
え?
筋肉じゃない。
え?
柔らかそうな胸がある。
え?
瞬きをする。顔が青ざめる。血の気が下がる。唇がぎゅっと結ばれる。冷や汗が出てくる。
「………」
じっと、ニクスを見る。
じーーーーーーーと、ニクスを観察する。
苦しそうに閉じられた瞼に生えたまつ毛が揺れる。鼻。唇。頬。その可愛いと思ってた顔全体を観察する。
「…………………」
あたしはこくりと頷いた。
(なるほど)
理解した。
見れば見るほど、納得した。
(………………女の子だ。ニクス)
あたしはにこりと微笑んだ。
ずっと、男の子だと思ってた。だって、自分の事、僕って、呼んでたから。
だから、男だと思って、男だと思ったから、乱暴に言葉を吐いて、乱暴に扱って、あたしがお姫様よとニクスの腕を引っ張ってた。
あたしの体が震え始める。
(違う)
(あたし、本当は気づいてたの)
(知らないふりしてただけなの)
…女の子なら、もっと優しくしたわよ…。
(違う。あたし気付いてたわ)
(気づいてたけど)
(まともな女の子の友達なんて、今までいなかったから)
(どう接していいか分からなくて、ちょっと乱暴に接してただけ)
(そうよ)
(ニクスは女の子)
(あたしが知らないとでも思った?)
知らなかった…。
(そうよー。ニクスは女の子なのよー)
(あたしには同性の友達がいたのよー)
(異性じゃなくて同性よ)
(妬みや嫉妬の喧嘩言葉をぶつけてくる女の子じゃなくて)
(ちゃんとした女の子の友達)
(優しい女の子の友達)
(あたしの、女の子の友達は、ニクスよ)
ちょっと待って。それって、あたしにもちゃんと女の子の友達がいたってこと?
(女の子の友達なんていなかった。パーティーではいつも女の子と喧嘩してたから)
でも、ニクスは女の子。
(女の子)
同性の友達。
(あたしに、女の子の友達)
ニクスが女の子。
憧れた、同性の友達が、ニクス。
…………。
…………………。
…………………………。
「テリー、どうしたの?」
顔を覗き込んでくるリトルルビィが、不安そうに表情を曇らせていた。
「どうしてにやけてるの?」
「は?」
あたしはぴしっと口角を下げ切った。
「何言ってるの。あたしはいつも通りよ。リトルルビィ」
「そう?」
「キッド」
あたしに振り向くキッドに、指を差した。
「いつまでニクスの胸を見てるわけ? このすけべ。早く服を元に戻して」
「ああ。そうだね。お前の胸も見たことないのに、他の女の子の胸を見るなんてマナー違反だった。ごめんね。テリー。愛してるよ」
「いいから早く戻して」
ああ、いい。
「ニクスに触るな。あたしがやる」
「はいはい」
キッドが両手を上げてニクスから離れる。キッドが離れた椅子にあたしが座り、ニクスに服を着せる。
「乱暴に脱がされて可哀想に…」
キッドに振り向いて睨みつける。
「恥を知れ!」
「俺、乱暴に脱がしてないよ」
「嫁入り前のレディの肌を見るなんて、最低! ニクスに触らないで!」
「はいはい。もう触らないよ。だからヤキモチ妬かないで。俺が愛してるのはお前だけだから」
「何がヤキモチよ。馬鹿じゃないの。そこ退いて。ニクスに暖炉の火が当たらないでしょ。お前は壁になってるのよ。邪魔よ。退いて」
「ああ、婚約者様はご立腹だ。しょうがない。俺は家具となって見守ろう」
「家具になったキッドなんか置いたら、ニクスにキッドの菌が移るでしょ! もう出て行ってよ! くたばれ!!」
キッドが横目でビリーを見た。
「じいや、なんで俺の家で俺が追い出されなくちゃいけないんだろう」
「お友達を心配されているのですよ。我慢せい」
「テリー、落ちついて、大丈夫よ」
リトルルビィがあたしの背中を撫でた。
「ニクスの事心配してるテリーも素敵。でも、まずは中毒者をどうにかしないと」
「中毒者、ね…」
ニクスに毛布を被らせ、優しく抱きしめる。あたしの魔法の体温で、少しでも暖まればいい。
(メニーが寒がってた時、あたしと触れたら暖かいと言ってた。ドロシーの魔法が鏡の呪いを和らげたのかも)
あたしはニクスを抱きしめたままキッドに振り向く。
「ニクスは呪われてるの?」
「そうだね。呪いだ」
キッドが頷いた。
「鏡を見たんだ。作業員と、隊の奴らと同じ。ニクスも鏡に呪われた。メニーの症状も悪化しているようだし…」
「…………」
「ニクスが呪われるのは想定外だった。……さて、どうしたもんかな?」
「…………さっきから思ってたんだけど、いや、いい」
あたしはリトルルビィを見た。
「ねえ、リトルルビィ」
「ん?」
「キッドやあんたは、どうしてメニーが体調崩してる事知ってるの?」
リトルルビィがにこりと笑った。
「博士がメニーを看病してるからよ!」
「博士って誰」
「研究開発班の人!」
「研究開発班…」
キッドを睨みつける。
「あんた、誰をあたしの屋敷に送り込んだのよ…」
「感謝してもらいたいね。今メニーが生きていられてるのは博士のおかげだよ」
「博士って誰」
「いずれ紹介してあげる。そう怒らないで、テリー」
「ってことは何? あたしとメニーがトンネルに入ったのも見てるわけ?」
「もちろん。観察済みだ」
「呆れた」
「止めたら逃げるだろう? だからそっとしておいた」
「またあたしを利用したのね」
「冒険に出かけたのはお前だ」
で、
「結局メニーは凍った。そしてテリーは平然としている。お前は鏡を見なかったの?」
「……見た」
「鏡はあった?」
「……ええ。あったわ」
縦長の丸い額縁に入ったやつ。
「ちょっとレトロな作りの鏡だった」
「見たのに、お前は平気だった?」
「………」
あたしはちらっと目を泳がした。
(ニクスがあたしに鏡の権利を譲ったから、平気だった)
(更にあたしは呪いがかからないから、平気だった)
さて、どうやって説明しよう。
「……………あー、なんか頭痛い………」
あたしはニクスにうずくまり、顔を逸らした。
「キッド、ちょっと休ませて。頭が痛いの」
「うん?」
「お婆様の助言が来るかも…」
リトルルビィがきょとんと瞬きした。
「え、何それ? 助言ってなあに?」
「キッド、お願い。大丈夫だから、ちょっと一人にさせて…」
「大丈夫?」
「大丈夫」
「そう」
キッドがリトルルビィの背中を押した。
「下に行こう」
キッドが言うと、ビリーが黙って立ち、部屋から出て行った。
「おいで。リトルルビィ」
「私、テリーと一緒にいる!」
「テリーが具合悪いんだって。大丈夫。テリー、十分後に様子を見に来るから」
あたしは黙って頷く。リトルルビィとキッドが部屋を出て、扉を閉めた。あたしは瞼をそっと上げる。
(……よし、今のうちにでっちあげる話を考えるわよ。ばあば、今だけ貴女を使うことを許してちょうだい。まずは、そう、ニクスが鏡の持ち主であるという説明を……)
ニクスを見下ろす。ニクスの手を握り締める。
「ニクス」
ニクスは安らかに眠っている。
「本来、あんたはここにいないのよ」
いないはずのニクスが、暖かいベッドの中にいる。
「一度目の世界でも、あそこにいたの?」
地震が起きてた。
「あたし、待ってたのよ」
氷の上を滑って、待ってた。
「あんたをずっと待ってた」
あんたは来なかった。
「どうして?」
こんなにあたしの手を握っているくせに、
「どうして来なかったの?」
あたしずっと待ってたのに。
「その後だって」
ずっと捜してたのに。
「ニクス」
ニクスを見つめる。屋敷であげた服を着ているニクスを見つめる。はあ、とため息を出す。
(……ああ、そうだ。ニクスの鞄、氷の上に置いてけぼりにしちゃったわね)
後でキッドに頼んで取ってきてもらうわ。心配無いわよ。ニクス。
「…………」
あたしは一度、瞬きをした。
(ちょっと待って)
あたしは思い出す。
もう一度、思い出す。
(待って)
あたしは瞼を閉じた。
12歳のあたしは、氷の上を滑って、ニクスを待ってた。
「あれ?」
氷の上に、鞄と、箱。箱から出てきたであろう汚い石が並んでいた。
(ん?)
さっきニクスを抱えた時に、ニクスの腕から鞄が落ちた。鞄から箱が出てきて、石が転がり滑って出てきた。
「あれ、これ、ニクスの鞄だ」
(そうよ。ニクスの鞄だった)
12歳のあたしはしゃがんで、ニクスの鞄を見た。
「なんだ。ニクス、もう来てるんじゃない」
(鞄があったから、そう思った)
12歳のあたしは周りを見回し始めた。
「ニクスー!」
大声で呼んだ。
「ニクスー!」
大声で呼んでみた。
「驚かそうったって、そうはいかないんだからー!」
(ニクスが隠れてると思った。だって、鞄があったから)
鞄が置いてあったから。
(氷の上に、投げられたように置いてあったから)
12歳のあたしは足を滑らせた。
「ニクスー!」
その場をうろうろした。
「ニクスー! どこにいるのー?」
鞄の周りをうろうろした。
「ニクスー!!」
12歳のあたしを眺めながら、あたしは下を見下ろした。
氷の下の水が揺らめいている。
(さっき、氷の下の水は揺れていた)
(生きているように、揺れて)
(威嚇して)
(怒っていた)
氷の隙間から飛び出して、
(あたしの足を掴んだ)
ニクスの足を掴んだ。
(あたしがいなかったら、ニクスは引っ張られていた)
どこに?
(ニクスは、冷水に引っ張られていた)
どこに?
氷の、中に。
あたしは下を見つめ続ける。
12歳のあたしはぐるぐる滑る。
「ニクスー!」
あたしはじっと見つめる。
「ニクスー!」
12歳のあたしが滑る氷の下を見つめる。
「ニクスー!」
ニクスは来ている。
「ニクスー!」
既に来ていた。
「ニクスー!」
あたしの下にいる。
「ニクスー!」
12歳のあたしの下に、凍ったニクスが沈んでいる。
――――瞼を上げた。
あたしの視界に、安らかに眠るニクスが映る。
「…………」
ニクスの頬に、水滴が落ちる。
「嘘」
ニクスの頬に、ぽたと水滴が落ちた。
「そんなの嘘よ」
ニクスは約束を破った。
「お前が悪いのよ」
あたしは待った。
「そんなわけ無い」
死体が凍ったら見つかるはずだ。
「死体はどこにも無かった」
ニクスは死んでない。
死んでない。
死んでたはずがない。
「お前はどこかに行ったのよ」
あたしとの約束を破っただけ。
「そうでしょう?」
ニクスの頬から一方的に水滴が落ちる。
「そうだと言ってよ」
あたしは恨んだ。
「お前が消えたんじゃない」
ニクスを忘れた。
「お前が悪いのよ」
ニクスは消えた。
「お前が全部悪いのよ」
あたしの親友は、世界から消えた。
「……………………」
手を握り締めると、冷たい手があるだけ。あたしの手を握らない、反応しない弱々しい手が、そこにあるだけ。
(あたしには呪いが効かない)
(あたしには魔法がかからない)
あたしはゆっくりと立ち上がる。
「ドロシー」
後ろに、見えない気配を感じる。
「確かめたい事があるの」
あたしが確かめたいの。
「ちょっとだけでいいの」
拳を固める。
「あそこに、連れて行ってくれない?」
「キッド達はいいの?」
「あいつら、作戦会議に忙しいから」
あたし一人で行く。
「連れて行って」
ドロシーの声が響いた。
「春の風、旅の時、少女は行く、呪いの少年、心に求め」
あたしは瞼を閉じる。
ニクスの冷たい手がゆっくりと離れる。
冷たい風が、吹いた。
「……?」
リトルルビィが上を見上げた。
「キッド」
「ん?」
「テリーの匂いが無くなった」
「ん?」
「テリーの匂いがしないの」
「窓でも開けたか?」
キッドが顔をしかめた。
「…………ちょっと待った」
キッドが階段を駆け上がり、扉を開けた。そこには、ベッドで眠るニクスしかいない。
「…………」
キッドが笑みを引き攣らせた。
「はーあ」
ため息をついた。
「本気で怒った」
ニクスは、安らかに眠る。