第15話 お腹のすいた狼さん(3)
メニーが目を見開く。あたしが硬直する。二人で歪な獣を見つめる。
歪な獣はお腹を撫でる。
「オ、腹、すいタ」
一歩、歩き出すと、獣から赤がぽたりと落ちた。
「アッ」
獣が口を押さえた。しかし、赤があふれ出し、雪に浸透していく。
「おえっ」
赤が流れ出す。
「おええええええっ」
赤が吐き出される。
「おえええええええええええええええええええええええええええええええええええ」
白い地面が赤く染まる。
滝のように、
川のように、
泥のように、
どろどろと、
どばどばと、
獣から、
口から、
止まらない。
あたしは一歩下がった。メニーは固まったまま、動かない。獣の口からぽろりと何かが出てきた。女性の手だ。指がかさかさと動く手だけ、吐き出された。しかし、手はかさかさと動いて、次第に動かなくなる。
「ああ、すっきりシた」
頭がかくんと動いた。
「お腹スイタヨぉ」
首が回った。
「お腹が、すイた、スイタよ、お腹すい、すいた。すいたァ」
笑い出す。
「ふふふふふふふ」
獣が笑う。
「縺??縺オ縺オ縺オ縺オ?」
赤い目をぎょろぎょろと動かした。あたし達を見つけた。
「■_」
一歩、歩き出した。
「縺?s?溘←縺?@縺溘??溘↑繧薙〒縺昴s縺ェ逶ョ縺ァ隕九※縺?k縺ョ?」
一歩、歩き出した。
「縺願?縺後☆縺?◆繧薙□縺代←縲∽コ御ココ縺ィ繧ゅ?√→縺ヲ繧らセ主袖縺励◎縺?□縺ュ」
一歩歩き出した。
「鬟溘∋縺ヲ縺?>?滄」イ繧薙〒縺?>?溘b縺??諷「縺ァ縺阪↑縺??縲ゅ?縺医?∬ィア縺励※縲ゅ#繧√s縺ェ縺輔>縲ゅb縺?>縺?h縺ュ縲ゅ♀蜈?■繧?s」
一歩二歩三歩四歩五歩歩きだして、―――横から狐がぴょんと出てきた。
(あ)
獣が即座に反応する。狐にかじりついた。
(あ)
狐の首から血をすする。
(あ…)
すごい勢いで、吸いつくす。
「…………」
狐がぺたんこになる。内臓と骨と皮膚だけ残される。血だけ奪われた死体。獣が唇をぺろりと舐めた。ぺろぺろと舐めた。舌が揺れる。動く。口角が上がる。赤を舐める。赤を舐めて、赤を舐めまわして、笑い出す。
うふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふ!!!
あたしはメニーの腕を掴む。
「メニー!」
あたしは固まるメニーの腕を引っ張った。
「メニーメニーメニーメニーメニー!!」
あたしは思い切り足を動かした。
「走って!!」
メニーが走り出した。あたしも走り出す。木と木に歪な獣がぶつかった。大きくなった体を、木が閉じ込める。あたしはメニーを引っ張り、雪道を走る。踏まれて道となった雪道に、足を動かす。
お互いに後ろは振り向かない。
あたしは無言で走る。
メニーも無言で走る。
あたしはメニーを引っ張って走る。
あたしとメニーが雪を踏む。
あたしとメニーが走る。
雪が邪魔をしてくる。
あたしとメニーは構わずに走る。
しばらくして、後ろから木が倒れる音が聞こえた。
(え?)
めきめきいっている。
(何の音?)
嫌でも聞こえてきた。走る音。追いかけてくる音。笑い声。
きゃははははははははははは! きゃはははははははははははははははははははハハハははははははは! うふふふふふふふふふふふふふふふふふ! きゃははははははははははははははハハハハハハははははははははははははハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハあーーーーーははははははははははははははははは! けらけらけらけらけらけらけらけら!
「ひっ」
「っ」
メニーが悲鳴をあげる。あたしも更に怖くなる。追いかけられる恐怖に足が止まりそうになるが、あたしは止まらず、息を吸い込んで、怖いなら呼んでしまえと、走りながら、喉も潰す勢いで叫んだ。
「キッドーーーーーーーーーーーーー!!!!!」
木々が揺れる。風が吹く。追いかけてくる足音が聞こえてくる。
「キッド!! キッ!!」
足が滑る。けれど、何とかふんばって走る。
「キッド!! 早く! ここよーーーー!!!」
死に物狂いで叫ぶ。誰も現れない。あたしは走る。メニーと一緒に、死ぬ気で走る。
「キッド!! キッドーーーーーー!!」
声が枯れてもいい。叫んで助かるなら、こんな喉潰したっていい。潰れたって、喉は数日で治るのだから。
(だから早く!)
「助けてぇぇええええええ!!!」
どしんっ、と、また音が鳴る。地面が揺れる。
「おねっ…!」
「……っ!!?」
突然、引っ張られた。
「きゃっ!!」
メニーが転んだ。あたしの手が滑って、メニーを離した。
「メニー!!」
慌てて振り向いて、目を見開き、あたしの足が凍った。
「っ」
走ってくる。
獣が全力疾走で、楽しそうに、笑いながら走ってくる。歪んでいる。あたし達と遊ぼうと言うように走ってくる。
「鄒主袖縺励>陦?繧偵■繧?≧縺?縺??らァ√?∬。?縺悟、ァ螂ス縺阪?よ掠縺城」イ縺ソ縺溘>縺ョ縲り。?繧偵■繧?≧縺?縺??ゅ♀蜈?■繧?s縲∝勧縺代※縲ら李縺?h縲ょ哩縺梧ク?¥繧医?よュサ繧薙§繧?≧繧医?ょ勧縺代※縲ゅ♀蜈?■繧?s縲∝勧縺代※縲」
(ひっ!)
あたしはメニーの手を掴んで、引っ張った。
「は、早く! 立って!」
「おねえちゃ…」
メニーが再び転ぶ。
「痛い」
「え」
「足が」
メニーが立てなくなった。あたしはメニーの手を引っ張る。
「痛いのなんか、後でいくらでも痛がっていいから! 今は走って!」
「い、痛くて、立てない…」
「早く立って!」
「た、立てない…」
メニーが座りこんだ。
「立てない…」
その間も向こうから走ってくる影が見える。こっちに向かって走ってくる。
「メニー…」
あたしは手を引っ張る。メニーは立てない。
「あああ…」
あたしは引っ張る。
「メニー…」
メニーが涙目でうずくまる。泣きたいのはこっちだ。
「はや、はやく、はやく…」
あたしはメニーの手を掴みながら、顔をあげる。けむくじゃらの獣が二本足で走ってきた。たたたたたたた! と走ってくる。コミカルに走ってくる。ととととととと! と走ってくる。両腕を可愛く振り回して走ってくる。
「縺願?縺吶>縺溘h!!!!」
獣が笑う。
ふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふ。
獣が首を動かして笑った。
ふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふ!!!!!!
「ど、ドロシー…」
あたしはメニーの手を引っ張る。
「ドロシー、ドロシー来て…」
獣が走ってくる。
「無理よ。これは無理よ。あたし、これはもうどうしようもないってば」
獣が近づく。
「もう無理。もう無理。もうむり」
獣が近づく。
「ああ、ドロシー! ドロシー!! ドロシー!!!」
獣の顔が見えた。
「ドロシー! ドロシー! ドロシー!」
獣の赤い目があたしに笑った。
「メニー!」
メニーは立てない。メニーが首を振った。
「お姉ちゃん、逃げて…」
「陦?縺碁」イ縺ソ縺溘>縺ョ!」
獣が走ってくる。
「メニー! 立って!」
「繧上◆縺励↓鬆よ斡!」
「もう! なんであたしがこんな目に合うのよ!」
「蟷ク縺帙r遘√↓鬆よ斡?」
「メニー! お願い、立って!!」
メニーは立とうとするが、足が動かない。体がよろける。腰も抜けてしまったようだ。獣が牙を見せる。口を大きく開けた。歯が並ぶ。その中にも歯が並ぶ。またまた歯が並ぶ。三重に歯が並んでいた。涎を垂らす。赤い目が求める。あたしたちの赤を求める。メニーは立てない。逃げられない。
「ああああああああ、ああああ、ああああああああああああ!!」
あたしは座り込んで、目を閉じる。メニーを思い切り抱きしめた。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」
メニーが身を強張らせた。あたしが身を縮こませた。大きな口があたし達にめがけて、突っ込んでくる。
(終わりだ)
あたしは死刑を回避したかっただけなのに。
(終わりだ)
普通の人生を謳歌したかっただけなのに。
(終わりだ)
あたしはまともな人生を送りたかっただけなのに。
(ここで終わるの?)
終わりたくない。
死人が生きれば死は移る。それが世界の理。
死人が生きれば生は移る。それも世界の理。
命がなければ死も来ない。死が来なければ命もない。
狐が死ぬ。木が死ぬ。枯れた草が死ぬ。虫が死ぬ。デヴィッドが死ぬ。
死ぬはずだったクロシェ先生が生きている。
死人が生きれば死は移る。それが世界の理。
死人が生きれば生は移る。それも世界の理。
生きている。
生は移る。
命は揺れる。
定める。
狙う。
剣が光る。
―――キッドが動いた。
「はーーーーーーーーーーぁああああっ!!!」
キッドが、あたし達に伸びていた獣の腕を、斬り落とした。腕の肉が飛び、血が溢れ、獣が悲鳴を上げた。
きゃあああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!
獣が腕を押さえた。
「逞帙>繧茨シ」
獣が唸った。
「タスケテ」
獣が腕を振り回した。
「邏ォ縺ョ鬲疲ウ穂スソ縺?&繧薙b縺?d繧√※遘√r蜉ゥ縺代※繧ェ繧コ繧√h縺上b繧?▲縺ヲ縺上l縺溘↑繝峨Ο繧キ繝シ蜉ゥ縺代※蜒輔r蜉ゥ縺代※遘√r蜉ゥ縺代※縺雁?縺。繧?s縺雁?縺。繧?s縺企。倥>遘√r讌ス縺ォ縺励※繧ゅ≧闍ヲ縺励>繧」
獣が鳴いた。
「ururururuurruuururururururururururururururuuuruurururuurruurururururuurururruruurururu」
キッドが目を見開いて剣を獣に向け、ためらわず叫ぶ。
「消毒!!!!!」
一斉に、大勢の大人達が水鉄砲を獣に向けて発射した。
水がかかる。
あたしとメニーにかかる。
キッドにかかる。
水が乱射される。
雨のように降る。
植物に水を与えるように水が飛び交う。
獣の皮膚が蒸発した。
皮膚が、ぱちんと、弾き溶けた。
「縺阪c縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺」
また、ぱちんと弾き溶けた。
「縺阪c縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺」
「足りない!! もっとだ!!」
もっと水をかける。
「縺阪c縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺」
肉が溶ける。毛が溶ける。皮膚が溶ける。腕が溶ける。足が溶ける。溶けていく。
「逞帙>」
とろとろ。
「逞■>ぃ」
とろとろとろ。
「痛?い」
とろろろろ。
「痛い」
とろろろろろん。
「いたい」
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いクルシイ痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いオ兄チャン痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いタスケテ痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いよお痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い溶けちゃう痛い痛い痛い痛い溶けて痛い痛い痛い痛い痛い溶けて痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いトロトロシチャウ痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いお兄ちゃん痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いとろろろろろろ痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いオ兄チャン痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い!!!!!!!!!!
とろとろ。
毛が。
とろとろ。
油が。
とろとろ。
脂肪が。
とろろろろろろろろ。
「あっ」
溶けた。
「………………………………………」
リトルルビィが、倒れた。
真っ白な雪に、赤が移る。
白が赤に変色していく。
皮膚が溶ける。
湯気が立つ。
ぱちんと、皮膚が弾けた。
斬られた片方の腕から血がこぼれる。
赤い目は閉じられて何も見えない。
小さな小さなリトルルビィが虫の息で、小さく小さく、呼吸を繰り返す。
大人達がリトルルビィを囲む。
水鉄砲を構える。
リトルルビィは動かない。
キッドが剣を構える。
リトルルビィは動かない。
キッドが近づく。
大人たちは構える。
リトルルビィは、
充血した目を開けた。
「血」
歪んだ口が喋った。
「血」
ぎょろんと歪な目玉を動かした。赤い瞳に、呆然と自分を見つめるメニーが映った。
「血」
メニーと目が合った。
「寄コセ!!」
メニーが固まった。皮膚の溶けたリトルルビィが飛びついてくる。囲んでいたはずの大人達でさえ何もできない速さで、メニーに突っ込んできた。誰よりも早く、キッドが振り向いた。
「っ」
何か叫ぼうと口を開ける。
しかし、どちらにしろ間に合わない。
メニーがいる。
リトルルビィがその首にめがけて歪な形となった口を開けた。
メニーが目を見開いた。
リトルルビィが牙を見せた。
メニーが横に押された。
リトルルビィの目玉が瞬時に狙いを変えた。
メニーを突き飛ばしたあたしに標的を変えた。
あたしと目が合う。
リトルルビィの赤い瞳があたしに近づく。
手が伸びる。リトルルビィが飛びつく。あたしを押し倒す。メニーがあたしの手によって、地面に突き飛ばされた。
「きゃっ!!」
「うぐっ!!」
メニーとあたしが悲鳴をあげた。
そして、何を言う前に、リトルルビィが身をかがませ、躊躇なく、あたしの首を噛んだ。
「っ」
血管が破れた痛み、噛まれた痛み、リトルルビィの歯が刺さった痛みに、体が跳ね、動けなくなる。
「っ」
あたしの喉が鳴った。リトルルビィがごくりと飲んだ。あたしの血が滴る。メニーがぞっと顔を青くした。キッドが走った。殺気のある目を、充血した目を、集中した目を、リトルルビィに向けて、定めて、走り、その剣を、すさまじい速さで、振り上げる。
リトルルビィに、剣が落とされる。
――――その前に、
「待った!!!!!!」
あたしが叫んだ、瞬間、ぴたりと、リトルルビィの首の横で、剣が止まる。
キッドが止まった。
そのまま殺気付いた目で、あたしの首に口を寄せるリトルルビィを睨む。
しかし、あたしは、冷や汗が流れる顔で、じっと、くらくらしてきた頭で、キッドを見上げる。
「…………ちょっと、待って」
「………………」
キッドが、黙る。
リトルルビィは、あたしの血を飲み続ける。
吸血されているのが、わかる。
痛い。
ひりひりする。
注射を打たれているような、
そうじゃないような、
首が暖かい。
ひたすらに、暖かいものが流れている感覚。
痛みを乗り越えれば、後は、溶けるだけ。
力んでいた力が抜けていく。
脱力していく。
積もった雪に、くたりと身を委ねた。
リトルルビィが喉を動かす。
暖かい。
キッドがリトルルビィを睨む。
リトルルビィはひたすら飲む。
メニーは言葉を失う。
あたしはまだ意識が残っている。
リトルルビィの喉の音が聞こえる。
「……リトルルビィ」
反応はない。吸血鬼は、あたしの血を飲み続ける。
「あんたも、なかなかろくな人生過ごせてないようね」
反応はない。吸血鬼は、血を求める。
「このまま、あたしを殺す気?」
反応はない。吸血鬼は、赤を求める。
「リトルルビィ、これが最後のチャンスよ」
あたしはリトルルビィを抱きしめる。
「やめなさい」
あたしはリトルルビィに言う。
「血を飲むのをやめなさい」
あたしはリトルルビィを離さない。
「今なら、まだ間に合う」
「今なら、まだ人間でいられる」
「今なら、まだ何とかなる」
「今なら、まだやり直せる」
「リトルルビィ」
吸血鬼は赤を求める。
「お兄ちゃんが見てるわよ」
リトルルビィの指が、ぴくりと動いた。
「このままあたしを殺せば、もうやり直せない。欲に負けて、血を飲んで、今度こそ、人間じゃなくなる」
リトルルビィの赤い瞳は揺れる。
「罪を犯したい?」
あたしの手が動く。
「罪を重ねたい?」
あたしの手がリトルルビィの頭に乗った。
「罪は消えないのよ」
いくらお掃除したって、
「その記憶は、消えることはないのよ」
永遠に、憎しみとなって、憎悪となって、後悔となって、自分を支配して、一生、出て行くことはない。
「今なら間に合うわ」
まだ間に合う。
「やり直せる」
あたしには無理だけど。
「あんたみたいに小さな女の子なら」
きっと、やり直せる。
「やめなさい」
リトルルビィ。
「やめなさい」
小さなルビィ。
「こらえなさい」
小さな少女。
「血を飲んでは駄目」
小さな子供。
「テリー」
青い瞳が揺れる。
「残念だけど、時間切れだ」
キッドの声が、目が、リトルルビィを定める。あたしはリトルルビィを抱きしめ続ける。
「ルビィ、やめるのよ」
「テリー」
キッドの声が、あたしを催促する。しかし、あたしは離さない。
「ルビィ、やめなさい」
この娘は、クロシェ先生の仇だ。
この娘は、デヴィッドの仇だ。
分かっている。
「ルビィ、こらえなさい」
この子は犯罪者か。
この子は獣か。
リトルルビィは、まだまだ小さな子供だ。
無垢な、ただの女の子だ。
何も知らない子供だ。
「ルビィ」
あたしは考える。
「ルビィ」
どうやったらこの無垢で孤独な子供を説得できるか、考える。
「ルビィ」
あたしは考える。
「ルビィ」
あたしは教科書を開く。
クロシェ先生が、あたしに教えた。
あたしに本を渡す。
あたしは絶望した。
しかしクロシェ先生は読んでみなさいと渡してきた。
それは獣と美女の物語。
メニーは瞳を輝かせて訊いた。
「それから、三女のレディはどうなったの?」
獣に捕まった美しい女性。
獣が孤独であると知った。
美女はどんどん獣に惹かれていった。
獣はどんどん美女に惹かれていった。
彼女は獣に言った。
呪いを解く呪文を唱えた。
「愛してる」
あたしはルビィを抱きしめる。
「愛してるわ。ルビィ」
血を飲む獣を抱きしめる。
「だから、もうやめて」
呪文を唱える。
「愛してあげるから、やめて」
「……………………………………………」
リトルルビィの目が、ぴくりと、動いた。
反応した。
問題文が出てくる。あたしは答える。
「愛が欲しいなら」
ルビィが固まった。
「愛してあげるわ。ルビィ」
ルビィが石になった。
「欲しいでしょ?」
あたしは少女の頭を撫でる。
「愛が欲しいなら」
あたしは少女を横目で見る。
「分かってるわね?」
吸血鬼は動かない。
「今なら愛せるわ」
少女は動かない。
「今ならやり直せる」
吸血鬼は揺れる。
「こらえるのよ」
少女は揺れる。
「こらえて」
あたしは、強く、抱きしめた。
「やめて」
リトルルビィの耳元で、言った。
「血を飲むのを、止めなさい」
リトルルビィが、
「止めるのよ。ルビィ」
あたしを見ない。
「ルビィ」
「やめなさい」
「それは」
「悪い事よ」
「良い子でいたいなら」
「今すぐに」
怒鳴った。
「血を飲むのをやめなさい!!!!」
少女が肩を揺らした。
びっくりしたように目を見開いた。
はっとしたように意識を戻した。
赤い目に光が宿った。
口を開けた。
歯を離した。
リトルルビィが、血を飲むのをやめた。
「………………………………………………………………」
彼女の、
唇が、血で汚れている。
目が、充血している。
肌が、青い。
肌が、ぼろぼろだ。
肌が、やけどだらけだ。
人間に、見えない。
でも、
「偉いわね」
あたしは頭を撫でる。
「ほらね、やれば出来るじゃない」
ごわごわに硬い髪の毛を撫でる。
「良い子ね」
あたしはルビィを抱きしめて、頭を撫でた。
「良い子よ。ルビィ」
優しく頭を撫でる。
優しく彼女を愛でる。
注意したら、すぐにやめてくれるなんて、聞き分けの良い子じゃない。
どうでも良い子のメニーとは違って、とっても純粋で、良い子。
自分にとっての欲望を抑えたこの子を、心から褒め称えるべきよ。
欲って、抑え込むのすごくしんどいのよ。
お腹が空いて、目の前にお肉があったらどうする? 食べたいでしょう?
あたしなら我慢せずに食べるわ。
でも、この子は我慢した。
それは食べてはいけないのよって言ったら、きちんと我慢が出来た。
我慢出来る子ってすごいじゃない。
だから、あたしは褒めるわ。
一度目の世界で、クロシェ先生が、あたしにしたように。
―――テリー、
―――あなたは、
何も間違えてない。
「間違えたのなら、やり直せばいい」
あたしはリトルルビィの頭を撫でる。
「わからなかっただけよね」
「どうしていいか、教えてくれる人がいなかったから」
「ただ、幸せになりたかった」
「信じたのよね」
「幸せになれると思って」
そして、殺戮を繰り返した。兄の場合はルビィがいた。けれど、ルビィには、止めてくれる人がいなかった。混乱した。彼女は止められなくなった。
どうしていいかわからなくなった。
「ね、ルビィ」
「今から綺麗事を言うわね」
「あんた、お兄ちゃんにすごく愛されてたんでしょ」
「あんたがお兄ちゃんを愛した様に、お兄ちゃんはルビィを愛していたんじゃない?」
「だったら、その命、粗末に扱わない方がいいわ」
「あんたには、幸せになる義務がある」
「あんたのお兄ちゃんが守った、その命を守る義務がある」
「まだ間に合う」
「罪を償える時間がある」
「ルビィ」
「いいこと?」
「これは綺麗事よ。正しい意見じゃない」
「でも」
「言わないよりマシだと思うから言うわね」
「あんたが孤独に思ってるなら」
「そんな殻にこもるような考えは捨てなさい」
「世界は、思ったよりも、そんなに悪い奴らばかりじゃないわ」
「あんたが悪い事をしてたら、止めてくれる人が必ず現れる」
「それはお兄ちゃんじゃなくたって」
「絶対に、味方は出来るわ」
「どんな形であれ」
「頼っていい人が、この先出てくるわ」
「もう一度、信じてみて」
「世の中も、捨てたもんじゃないから」
「ルビィ」
「よく我慢出来たわね。本当に偉いと思う」
「だったら、もう一度頑張れるわね?」
「あんたは人間よ」
「誘惑に負けちゃ駄目」
「人間よ」
「負けちゃ駄目」
「あんたは、化け物じゃない」
「だって、あんたは、小さくて、まだ、まだまだ小さい、女の子よ」
「孤独だと思うなら、またこうやって抱きしめてあげる」
「だから」
「死に急がないで」
「ルビィ」
「苦しいなら」
「気持ちを受け止める相手が欲しいなら」
「あたしでよければ、受け止めてあげる」
「一人じゃない」
「大丈夫」
「大丈夫だから」
「あたしなら、受け止められる」
「悪いものも、汚いものも、あたしはわかってる」
「わかってるから」
「だから」
「あたしに汚いものを吐き出して」
「そして」
「その分綺麗なものを吸収して」
「その分綺麗な人間になればいいわ」
「それが、あんたの将来なるべき姿よ」
「そうでしょう?」
「お金持ちの、いい女に、なりたいでしょう?」
「幸せになりたいんでしょう?」
ルビィが、赤い目をあたしに向ける。
ルビィが、じっとあたしを見つめる。
あたしは微笑む。
「なれるわ」
ルビィの手を握り締める。
「絶対幸せになれる」
ルビィの頭を撫でた。
「あんたなら、大丈夫」
ルビィの赤い瞳が揺れる。
「本当よ」
ほら、何かあったら、
「そこに、あたしの妹もいる。あの子はとても優しい子だから、あんたの力になってくれるはずよ」
赤い瞳がメニーを見る。あたしを見る。
「大丈夫」
あたしは微笑む。
「大丈夫」
頭を撫でる。
「ちゃんと幸せになれるから」
「……………本当?」
ルビィが掠れた声を出した。
「幸せになれる?」
ルビィが涙を溜めた。
「私、幸せになれる?」
ルビィの瞳から涙がこぼれた。
「なれるの?」
「なれないと思ってるの?」
ルビィの頭を撫でる。
「幸せになるわ」
「でも、飴、舐めたのに」
「変な飴なんて捨てなさい。捨てられないなら、あたしが捨ててあげる」
「お兄ちゃんは」
「飴を舐めてる暇があれば、水を飲みなさい。水を飲めば、人間は生きていけるのよ。水がないと、死んでしまうのよ。死んでしまったら、いつ幸せになれるの?」
血だらけのリトルルビィを抱きしめる。
「腕痛いでしょう。我慢して偉いわね」
「ん…」
「良い子。とっても良い子」
「んん」
「もう大丈夫」
キッドがあたしを慰めたように、囁く。
「ルビィ、もう大丈夫」
ルビィがあたしにしがみついた。
「お姉ちゃん」
「うん」
「ごめんなさい」
「そうよ。悪い事をしたら謝るの」
「ごめんなさい」
「ええ。謝れて偉いわね」
「ごめんなさい」
「大丈夫」
「…ごめんなさい…」
「もう大丈夫。大丈夫。一人でよく頑張ったわね。良い子ね。ルビィ」
クロシェ先生がしたように、
キッドがしたように、
あたしは抱きしめる。
小さな孤独な少女を抱きしめる。
「もう大丈夫」
あたしの肩が濡れた。
ほろほろと、ほろほろと、リトルルビィが涙を流した。
その涙が、あたしの首筋から、垂れて、雨のように、飴のように、ぽとぽとと、落ちてくる。
リトルルビィの体が震える。ひたすら涙が落ちていく。
リトルルビィが、噛んだ傷穴に口を寄せる。ぺろりと舐めた。あたしに魔法をかけた。傷口が塞がれていく。あたしの首から血が止まる。
リトルルビィがあたしにしがみつく。
「…ごめんなさい。飲んでごめんなさい」
リトルルビィが涙を落とす。
「お腹空かせてごめんなさい」
リトルルビィはお腹をすかせる。
リトルルビィは赤を求める。
リトルルビィは喉が渇くたびに、また求める。
「……でも、もう大丈夫。我慢できるよ」
リトルルビィは歯をしまう。
「血は、欲しいけど、我慢できるよ」
「そう」
「お姉ちゃんと、もっと話したい」
「あたしと話しても、仕方ないわよ」
「…あの子とも話したい」
「あの子はメニーって言うの。仲良くしてあげて」
「仲良くしてくれるかな?」
「大丈夫よ」
「本当?」
「本当」
「お姉ちゃんは?」
「あたし?」
「お姉ちゃんは、また、頭なでてくれる?」
ルビィが首を傾げた。あたしは眉をへこませて、薄く笑う。
「あたしでよければ、いつだって」
そうやって言えば、ようやく、泣いていた赤い目に光が映って、あたしから顔を離して、ようやく可愛い顔を見せる。
リトルルビィが、ようやく笑った。
顔についた血なんか気にならないほど、皮膚が溶けてるのなんか気にならないほど、可愛く、素敵な笑顔を浮かべていた。
「ありがとう」
赤い瞳があたしを見つめる。その瞳はまた泣きそうで、見つめて、あたしを深く見つめて、忘れないように、まっすぐ、あたしを見つめてきて、
体を痙攣させた。
キッドが、思いっきり彼女の首に、注射器を当てていた。
リトルルビィの瞼が下りていく。
ふらりと倒れる。
あたしに倒れこんで、深く、眠りについた。
「………………………終わり」
キッドが、注射器を、リトルルビィから離した。
「『保護』して」
優しく、大人達に言う。
大人達が、歩き出す。
リトルルビィを『保護』するために。
あたしの小さな胸に、顔を埋めたリトルルビィは、
その顔は、どこか、救われたような、安心しきった表情をしていた。
「……………」
あたしは微笑む。
リトルルビィを見下ろして微笑む。
黙りこくる。
「…お姉ちゃん?」
メニーがあたしを呼ぶ。
あたしはふらりと倒れる。
「あ!」
メニーが声を出すと同時に、あたしは雪に埋もれた。
「お姉ちゃん!!」
「あーあ、だから言ったんだよ」
キッドがあたしに近づいた。
「テリー」
キッドがしゃがみこんで、あたしの顔を覗く。相変わらずいやらしい笑みを浮かべている。
「やるじゃないか」
あたしは眉をひそめて、キッドを睨む。
「お手柄だ」
キッドの手が、自分を睨むあたしの頭を、優しく撫でた。