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おとぎ話の悪役令嬢は罪滅ぼしに忙しい  作者: 石狩なべ
五章:おかしの国のハイ・ジャック(前編)
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第17話 10月12日(6)


 19時30分。帰り道。



 設置されていたベンチに座って物思いに更けて、歩きながら物思いに更けて、噴水の縁に座って物思いに更けて、ゆっくり歩きながら物思いに更けて、そんなことを繰り返していたら、いつもよりも帰りが遅くなってしまった。だって、物思いに更けたくなっても仕方ない。


 だって、だって……。


(鼠……)


 太った可愛い鼠。


(ハンスに似てたわ……)


 牢屋で出会った太った鼠。


(いつもお腹空いたって顔して、あたしを見上げてきてたのよ……)


 じわりと、涙が溜まってくる。


「ああ、いけない……」


 鼠のことを考えたら、涙が出てくる。だって、鼠に関しては女の子だもん。


(あの白蛇、許さない……。よくも可愛い丸い鼠を食べてくれたわね……)


 思い出して、またぐすんぐすんと泣きながら家に辿り着く。扉を開けて、玄関と廊下の奥にあるリビングに声をかける。


「ただいま、じいじ……」


 震える声。涙目。最悪。しばらく俯いて、落ち着くまで部屋にいようかしら。


(いや、先にお風呂に入って、顔を洗った方がいいかも。泣き疲れた……)


 リビングの扉を開ければ、


「テリーーーーーーーーーーーーーーー!!」

「むがっっっ!!!!」


 一気に涙が引っ込んだ。突っ込んできたスノウ様に抱きしめられたのだ。ぎゅううううっと抱きしめられる。抱きしめられる。動けない。抱きしめられる。


(はっ!! そうだった!!)


 あたしの顔が青ざめる。


(今夜は帰ってきてるんだった!!)


 てか、スノウ様までいるの!?


(王様! なんで何も言わないの! 夫婦は常に一緒にいるものでしょう!?)

(……うっ……息が出来ない……だと……!)


 顔がスノウ様の胸に埋まり、ばたばたと手を暴れさせる。


「もーーー! 遅くまでどこにいたの! お外は真っ暗よ!? 駄目じゃない!!」

「むが! むが!!」

「金曜日だからって遊んでたんでしょ! ママは分かってるんだからね! ね!!」

「むがああああ!」

「奥様や」


 料理を運ぶじいじが、呆れた目でスノウ様を見つめた。


「食事に埃がつきます。座りなさい」

「そうよ! テリー! 私達もさっき来たの! テリーも帰ってきた! いいタイミングでビリーがご飯を用意してくれた! というわけで一緒に食べましょう! ……あら!?」

「ぶはっ!」


 スノウ様があたしの顔を胸から離し、あたしの手を握った。


「まあ、冷たい手! 嫌だわ。テリーってば、ずっと外にいたの?」

「……まあ……」

「先にお風呂の方がいいかも。ビリー。お風呂の準備」

「……あの……大丈夫です。……荷物置いてきます……」


 俯かせて、顔を隠して、チラッとリビングを見る。ソファーにキッドはいない。部屋でゆっくりしているのかもしれない。


「テリーや、荷物を置いたら手を洗いなさい。すぐに食事にしよう」

「はい」


 じいじの言葉に返事をして、階段を上り、部屋の扉を開ける。ここで、ようやく一息。


(……疲れた)


 扉を閉めて、壁にリュックをかけて、ジャケットを脱いで壁にかける。ふう、とため息。


(……本当に疲れた)


 パンツのポケットに手を突っ込ませる。レオからもらったヘアピンが入った袋が出てきて、開けて、中のピンを取り出し、それを天井に掲げて、じっと眺める。


(……綺麗)


 赤の石がキラキラ光っている。

 青の石がキラキラ光っている。

 緑の石がキラキラ光っている。

 黄の石がキラキラ光っている。

 紫の石がキラキラ光っている。

 黒の石がキラキラ光っている。

 三つの花の中に、周りに、光る石達。

 ニクスが持っている宝物の石のように、輝いて見える。


 袋から出して、鏡の前に行く。ヘアピンをそっと髪につけると、花のピンが目立つ。少し美しくなった気になる。本当は、着飾っているだけ。……ふっと、笑う。


「……やっぱり、似合わない」


 ヘアピンを外す。


「……似合わない」


 こんな綺麗なもの、あたしの濁った髪の色には似合わない。


「……全然、似合わない」


 着飾ってるだけ。


(……ああ、そうだ。メニーにあげようかな)


 あたし、なんて優しい恋のキューピッドかしら。


「メニーなら似合いそう」


 もしくは、


(あのクリスタルのようなレディなら、この素敵なピンも着けこなしてしまうのでしょうね)


 唯一憧れる、その存在。透明なクリスタルのように美しいレディ。仮面舞踏会で会った、忘れられないその少女。


(ああ、あの人なら、このピンは似合いそう)

(メニーにも似合いそう)

(あたしは……)


 ヘアピンを机に置いて、――また、ため息。


(……何やってるんだろう)


 リオンの傍に、あたしがいる。

 あたしの隣に、リオンがいる。

 遠い昔、恋をしていた相手が、すぐ傍にいる。

 近い昔、恐怖に怯えた相手が、すぐ傍にいる。


(……馬鹿ね)


 利用するためとは言え、


(あたしは大馬鹿よ)


 リオンの傍にいるなんて。


(……馬鹿よ)


 俯いて、ヘアピンを見下ろす。


(疲れた)


 明日は休みだ。あたしは、友達のアリスと出かける。


(アリス)


 あたしの友達。


(アリス)


 笑顔の素敵な、あたしの友達。


(リオンのことを考えるより、アリスのことを考えてる方が、ずっと気が楽)


 だったら、リオンのことよりアリスのことを考えよう。明日のことを考えよう。


 あたしは瞼を閉じる。


 明日はどんな会話をしようかな。

 明日はどんな服で来るのかな。

 明日はどんな顔を見せてくれるのかな。


(一度目の世界では、会えなかったアリス)


 初めて友達になったアリス。


(一緒に出かける)

(友達と出かける)

(ニクス以外の友達と出かける)

(アリスと出かける)


 考えれば考えるほど、冷えた胸が、どんどん温かくなってくる。


「そうだ」


 あたしは目を開いて、クローゼットを開けて、中を覗いた。


(服を選んでおかないと。あまり普段通りだと、アリスが恥ずかしくなるかもしれない)


 男物ばかりだけど、スノウ様も女の子っぽい服を買ってくれた。


(これにしようかな……。ああ、いや、こっちの方が女の子っぽいかも……)


 同世代の女の子とお出かけ。

 友達の女の子とお出かけ。

 あたしの友達とお出かけ。


(アリスとお出かけ……)


 アリスの向日葵のような笑顔が、あたしの心を温かくする。

 アリスの向日葵のような笑顔が、あたしの胸を温かくする。


(お出かけ……)


 無意識に口元が緩むと、あたしのお腹の虫が下品な音を奏でた。


 ぐう。


「チッ」


 あたしは舌打ちして、自分のお腹を睨んだ。


「いいところだったのに……」


 お腹がすいたと虫が鳴いている。ぐう。ぐーう。ぐううううう。


「分かったわよ。行くわよ。行けばいいんでしょ」


 クローゼットの扉を閉めた。


「あーあ。お腹空いた」


 呟いて、くるりと振り向く。


「今夜のご飯は何かしらー?」


 歌いながら部屋のドアノブを掴む。手を捻って、ドアノブを捻って、扉を開けて、廊下に一歩踏み込んだ――瞬間、


「その前に」


 キッドが扉の横から出てきて、


「つまみ食いはいかがかな?」


 あたしの部屋に、無理矢理入ってきた。


「は?」


 一歩二歩、三歩四歩下がって、驚いて呆気に取られていると、扉を閉められる。


「お前さ」


 見慣れたシャツを着るキッドが腕を組み、あたしの部屋の扉に背をもたれさせた。


「随分と俺を煽るのが、上手くなったな」

「ん?」


 顔をしかめて、キッドを見上げる。


「何よ。何の話?」


 キッドがくすっと微笑む。


「少し時間を貰おう。ほんの少しでいい」

「何? あたしこれからご飯なのよ。お腹空いたの」

「大丈夫。事が済んだらいくらだって退けてあげるよ。今は俺が優先」

「あたしにとってはご飯が優先よ。さっきからお腹の虫がうるさいの。お退き」

「嫌だね」

「お腹すいたの」

「そう」

「退いて」

「どうしようかな」

「退いて」

「どうしてくれようか?」


 キッドが笑う。不気味に笑う。いやらしく笑う。あたしが思わず後ずさるほど、笑いやがる。


「……何よ」


 眉をひそめて、警戒モード80パーセントでキッドを見つめる。


「なんで怒ってるのよ」

「怒ってないよ。まぁ、確かに考えてみれば、俺が不謹慎だったと思うし。そこは俺が悪いさ。認めよう」

「……何?」

「だが、怒るというより、拗ねてるという表現が正しい。俺はショックだったわけだ。あんな避け方、されたことなかったから」

「……さっきから何の話か分からないんだけど」

「そうだ。つまりお前にはそれほどの出来事でしかないということだ」


 どんなにショックを受けても、

 どんなに心が傷ついても、


「それはお前ではなく、俺だけが感じているだけの話」


 ああ、


「すごく寂しい」


 キッドが一歩踏み込む。


「というわけで、テリー、こっちおいで」


 あたしは一歩下がった。


「どういうわけよ」


 キッドが一歩近づいた。


「いいから、俺の傍においで」


 あたしは一歩下がった。


「なんで」


 キッドは一歩近づいた。


「婚約者だろ?」


 あたしは一歩下がった。


「近づきたくない」


 キッドが一歩近づいた。


「また、そうやって拒むの?」


 あたしは一歩下がった。壁とあたしの背中がこんばんは。


(いっ……)


 固まる。キッドがあたしに狙いを定める。あたしは嫌な予感がする。キッドがあたしから視線を外さない。あたしは眉間に皺を寄せた。


(何? こいつ、なんでこんなに不機嫌なの?)


 あたしでも分かるくらい不機嫌なキッドの鋭い目が、あたしを見る。


「テリー」


 低い声で名前を呼ばれ、その瞬間、ぞっ、と背筋が凍る。


(え?)


 何、この冷たい空気。


(え、何?)


 何、この重たい空気。


「テリー」


 また呼ばれる。冷たい声で呼ばれる。


「早く。こっち」


(なんかよく分からないけど、あたしにも一つだけ分かることがある)


 今、キッドの傍に行けば、非常に危険であるということ。


 あたしは逃げ道を探す。正面にはキッド。横、下、上。


(家具の配置、隙間を考えて)


 キッドの横を潜るしかない。


(潜ってしまえばこっちのものよ)


 キッドの後ろはがばがばだ。潜ってしまえば、扉を開けて、ここから脱出出来る。外にはじいじとスノウ様がいる。逃げられる。


「何?」


 あたしは涼しい顔で一歩を踏み込む。


「なんであんたに命令されなきゃいけないのよ。むかつくわね」


 あたしは一歩、また一歩踏み込む。キッドとの距離が近くなる。キッドが左腕を伸ばす。あたしはその瞬間を捉えた。


(今だ!)


 一歩下がって、その腕を避ける。

 右腕側に足を踏み込ませ、キッドの横を潜り抜けようと足を動かすと、


「はあ」


 キッドの右腕があたしを掴んだ。


「ひぎっ!」

「そういうことする」


 引っ張られる。


「あっ」


 肩に抱き抱えられる。


「ちょっ」


 ぐう。あたしのお腹が鳴る。


「畜生! 鳴るな!」


 腹の虫に怒る。足をばたつかせる。


「何よ! 何なのよ!」


 肩から乱暴に下ろされる。


「あだっ!」


 ベッドとあたしの背中がやあ、こんにちは。


「やっ」


 慌てて起き上がろうとすれば、キッドが上からのしかかり、あたしの肩を押さえた。


「やめて!」


 あたしは暴れる。


「お腹空いたの!」

「今は俺が優先」

「何よ! さっさと終わらせて!」

「じゃあ、暴れずにじっとしててよ。俺は拗ねてるんだ。そしてお前の『逃げる』のコマンド選択の多さに、とうとうイラッとしたわけだ」

「あたしは年がら年中あんたにイラついてるわよ! 今だってイライラしてるわよ! お腹空いた! あーー! お腹空いた! あたしのお腹にいる虫の演奏隊達がご飯という名の指揮者を出せと抗議してるのよ! だからこんなに鳴るんだわ!」


 ぐうううう。


「うるせえ! 虫ども! レディがお腹の音を鳴らすなんてはしたないじゃない!」


 押さえてくるキッドを見上げる。


「退け! じいじのご飯が待ってるのよ!」

「ご飯なんて、いつでも食べれるだろ?」


 上からキッドが覆いかぶさる。


(は?)


 ぎゅ、と抱きしめられる。


(は?)


 ぎゅううううう、と抱きしめられる。


(は?)


 ぎゅううううううううううううううううううううううううううう、と抱きしめられる。


「ちょ」


 キッドの背中に手を置く。


「キッド」


 ぽんぽんと叩く。


「何?」


 キッドが黙る。


「キッド?」


 キッドが黙る。


「おーい。キッド坊や?」


 キッドが黙る。


「ねえ」


 キッドが黙る。


「キッドってば」


 キッドが黙る。


「どうしたのよ?」


 キッドが顔を上げた。あたしと顔を見合わせた。キッドとあたしの目が合う。キッドの青い目があたしを見て、あたしの目がキッドを見て、じっと見てくるキッドがいて、ぽかんとするあたしがいて、キッドが瞼を下ろして、顔を近づけた。


(あ)


 角度を変えて、


(あ)


 あたしの唇に近づく。


(やだ)


 腕を引っ込めて、あたしの口を押さえると、あたしの手の甲にキッドの唇がくっつく。ぱちりとキッドの目が開かれる。あたしはキッドを睨む。キッドの目が余計冷たくなった。


「テリー」

「あっ」


 両手を掴まれる。


「だめ」

「ちょ」


 キッドが近づく。


「大人しくして」

「やだ」


 ふいっと顔を横に背ける。


「こっち向いて」

「やだ」


 キッドが追いかけてくる。無理矢理顔を逸らす。


「やめて」


 言えば、キッドの体が沈んだ。


(あ?)


 ――ちゅ。


「ひゃっ!」


 首にキスが落とされる。


「な、何を!」


 ――ちゅ。


 耳にキスが落とされる。


「ちょっ」


 耳を甘噛みされる。


「んっ」


 べろりと舐められる。


「なっ」


 ニクスのピアスが舐められる。


「やめっ!」


 両方の手が、顔の横に押さえられる。


「あ」


 キッドが舌を出した。


「あっ」


 あたしに舌を這いずりだした。


「汚い!」


 あたしの耳を舐めてくる。


「それ嫌だって言ってるでしょ! やめて!」


 キッドはやめない。


「やめ……」


 キッドが舐めてくる。


「こら……」


 ぺちゃぺちゃ、という音が響く。


「んっ」


 キッドの吐息が耳に吹かれる。


「んうっ……」


 舌が水滴を弾く。


「んっ、んっ……、んっ、……っ……」


 ぐちゅりと音を響かせて舌が動く。


「うっ、……んっ……んっ……」


 はあ。


「ふぇっ……」


 肩がぴくりと揺れると、キッドの舌がより動く。


「やっ」


 ぐちゅ、ぐちゃ、と耳の中で舌が暴れる。


「あっ」


 ねちゃねちゃと舌が動く。


「んっ」


 ぱちん、と水滴が弾いて、流れる。


「んっ」


 舌がなぞる。耳の中をなぞる。這いずる。舌の熱が気持ち悪い。鳥肌が立つ。ぞわぞわする。


「んぅ……」


 はあ。


「ぁっ」


 すう。


「ゃっ」


 ん、


「ぁ」


 あ。


「あ」


 ――ずぷ。



「あっ!」



 今まで、出したことのない声が出て、目を見開く。


(っ)


 キッドの舌が、ぴたりと止まった。あたしの唇が震える。


(あたしの、声……?)


 唇を結ぶ。


(今の、あたしが出したの?)


 唇を強く結ぶ。


(何、今の声)


 なんて、はしたない声。


 あたしは黙る。

 キッドも黙る。

 あたしはじっとする。

 キッドの舌も動かない。

 あたしの呼吸が荒い。

 キッドの呼吸が荒い。


 キッドの舌が、あたしの頬を舐めた。


「ふわっ!?」


 つーーーう、となぞられ、ぞわわっと、鳥肌が立つ。


「やめっ……」

「んっ」


 キッドがあたしの頬に唇を押し付ける。柔らかな唇が肌にくっつく。


「んっ」


 またぎゅっと抱きしめられる。


「んんっ」


 唸って、顔をひたすら逸らして、くたりと脱力する。


「……」


 抵抗も何も出来なくなり、黙って、肩で呼吸する。キッドの胸板が顔に押し付けられる。むぎゅ。


「……お腹空いたんだけど……」

「もう少し」


 キッドがあたしを抱きしめる。


「もう少しだけ、独り占めさせて」


 キッドがあたしの頭を撫でる。


(うっ)


 優しい手。


(……っ)


 まるで麻薬のような手。

 まるで麻薬のような感覚。

 まるで中毒になりそうな撫で方。


「……っ」


 ぐっと唇を噛むと、キッドが深呼吸した。


「はあ」


 溜まった息を吐いて、あたしを腕の中に閉じ込め続ける。


「テリー」


 耳元で囁かれ、ぞわっと鳥肌。


「んっ」

「しー」


 強張るあたしの背中を撫でる。


「テリー、しー。静かに」


 キッドが微笑む声で、あたしに言う。


「しー……。ね? ……しー……」


 ぼうっとしてしまいそうな、その囁きに、その低い声に、その低い吐息に、身を預ける。身を委ねる。また体を脱力させて、くてん、とすると、キッドが再びあたしの頭を撫で、また耳に囁く。


「テリー」

「……」

「仕返し」


 キッドが言った。


「昼間の、仕返し」


 キッドの手が、酷く優しく、あたしの頭を撫でる。


「俺の愛を避けた仕返し」


 上から下に、手を動かす。


「ざまあみろ」


 上から下に、頭を撫でる。


「……ざまあみろ」


 キッドの唇が耳に触れた。一瞬だけ、ちゅ、とキスされる。


「……んっ」


 小さく唸ると、キッドもぴくりと動く。

 優しく、あたしを抱きしめる。

 優しく、あたしを撫でる。

 強く、あたしを抱きしめる。


「覚えてて」


 キッドがあたしの耳に囁く。


「次避けたら、もっとはしたないことするから」

「……くたばれ……」

「もう避けないでね」


 ちゅ、と頭にキスされる。


「だ、だって」


 ちゅ、と唇を押し付けられる。


「あれは職場だったわ。不謹慎よ」

「うん。だから、ここでならいいだろ?」


 ちゅ、と唇を押し付けられる。


「よ、良くない」

「なんで?」

「……恋人でもないのに……キス、するなんて、……軽率だわ」

「じゃあ恋人になろうよ」


 ちゅ、と唇を押し付けられる。


「あ、あたしは、好きじゃない!」

「俺は好き」


 ちゅ、と唇を押し付けられる。


「恋してない!」

「俺は恋してる」


 ちゅ、と唇を押し付けられる。


「気持ち悪い!」

「俺は気持ちいい」


 ちゅ、と唇を押し付けられる。


「キッド!」

「テリー」


 顎をすくわれる。


「あっ」


 顎の角度を変えるキッドがいて、


(あ)


 瞼を閉じたキッドがいて、


(あ)


 ふに、と唇が重なる。


(あ)


 柔らかい唇が重なる。


(あ……)


 キッドの熱が、あたしの唇に伝わる。


(あ)


 キッドの唇が柔らかい。


(……)


 人は、こうやって魅了されるのよ。あたしは、頭の中で自分に言い聞かせる。


(好きじゃない)

(恋に落ちない)

(騙されない)

(嘘つき)


 どんなにその唇が柔らかくても、

 どんなにその唇が優しくても、

 どんなにその唇が心地よくても、


(これは毒だ)


 キッドの毒だ。


(あたしは、魅了されない)

(相手はキッド)

(相手はキッド)

(相手はキッド)


 騙されない。騙されてはいけない。


 テリー、


 キッドは駄目。やめておきなさい。


 出会った時から、自分の中で、自分があたしにそうやって、忠告してきた。


 騙されてはいけない。あたしはキッドに、魅了されない。あたしは、恋に落ちない。


 キッドの唇が離れる。


 青い目があたしを見る。

 あたしは目を逸らす。

 青い目があたしに視線をぶつける。

 あたしは瞼を閉じる。

 キッドの視線が痛い。

 あたしは顔を俯かせる。

 キッドがあたしの顎をすくいあげる。


「駄目」


 キッドが言った。


「俺を見て」


 また始まった。


「俺を見て」

「やだ」

「見ろ」

「やだ」

「テリー」

「無理矢理見させようとするなんて最低」

「見るだけ」

「なんで」

「テリーの目が見たい」

「あたしは嫌」

「見たい」

「なんで」

「好きだから」


 瞼を上げる。

 キッドが見つめる。

 すぐに視線を逸らす。

 キッドの目があたしの目を見つめる。

 あたしは視線を逸らす。

 キッドがうっとりと見つめる。


「……ね、こっち見て」

「……やだ」

「なんで?」

「……やなの」

「テリー」


 それでも、


「俺は好き」


 キッドが囁く。


「好き」


 ちらっと、目玉を動かす。

 キッドを見る。

 キッドと目が合う。

 青い目玉と何かが合わさる。

 何かが重なる。

 何と重なっているか分からないのだけど、何かが合ったような感覚。

 青い目が見つめてくる。

 あたしの目が見る。

 青い目があたしを見つめる。

 あたしはきょとんとした。


(……?)


 青い目が、キッドじゃない気がした。


(ん?)


 青い目が、キッドであるのに、


(ん?)


 キッドのはずなのに、


(ん?)


 違和感。


(キッド?)


 キッドなのに、


(キッド?)


『キッド』じゃない気がした。


「……」


 黙って、キッドの目を見る。

 キッドが見る。

 あたしを見る。

 キッドの目が近づいた。

 キッドの瞼が少し、下ろされる。

 あたしは下がった。

 頭を掴まれた。

 顎を掴まれた。

 下がれなくなった。

 キッドが近づいた。

 ただ、


 何か違和感を感じて、


「キッド」


 名前を呼んで、


「キッドでしょ?」


 ――言えば、キッドの瞼が上がる。


 キッドがあたしを見つめる。

 キッドであるはずの彼があたしを見つめる。

 キッドがあたしを見つめる。

 キッドなのに、何か違和感を感じる。

 その目が、どこか、知ってる青い目が、どこか、


 見たことのない、青い目に感じただけ。


 いや。

 見たことはある。

 どこかで、その目を見た。


 青い目。

 透明な目。

 青い目。

 透き通る目。

 硝子のような目。

 青い目。

 闇の目。

 透明な目。



 ク リ ス タ ル 。




「テリー」


 その声が、手を伸ばした。


(え)


 あたしの目を隠した。


「テリー」


 闇の中で、声が響く。


「俺が言いたいことは一つだけ」


 その声が、呟く。


「早く恋に落ちて」


 早く、


「俺に堕ちて」


 手が退けられる。

 キッドがいる。

 キッドが見つめてる。

 あたしを抱きしめる。


「堕ちて」


 早く。


「堕ちろ」


 早く。


「早く」


 キッドの顎が、あたしの肩に下りた。


「ねえ、テリー」


 キッドが訊いてくる。


「王子様は好き?」

「……王子様を好きじゃないレディはいないわ」

「じゃあ」


 キッドが訊いてくる。


「お姫様は好き?」

「……お姫様を好きじゃないレディはいないわ」

「……そう」


 キッドが微笑む。


「そっか」


 キッドが、どこか満足したように、あたしを抱きしめる。


「テリー」


 あたしの耳に囁く。


「好きだよ」




 ぐううう。



 あたしのお腹の虫がチューニングを始めたようだ。

 聞いたキッドがぶふっと吹き出した。

 聞いたあたしはむっとした。


「……あたしはあんたなんか嫌いよ」

「くくっ! ……そろそろ本当に行こうか」

「……」

「お前が悪いんだよ? お前が『王子である俺』のキスを避けたりするから」

「知らないわよ」

「あーあ。傷ついた。俺のガラスハートにまたひびがついた」


 冗談交じりに言って、キッドから体を離す。


「ほら、行くよ」

「……ん」


 立ち上がるキッドを見て、あたしも起き上がる。床に足をつけて、立とうとすると、力が入らない。


「……」

「……テリー?」

「……立てない」

「……お前、もしかして腰抜けた?」

「分かんない」

「立てない?」

「……立てない」

「……くくっ」


 キッドが笑いだす。あたしはむっとして睨むと、キッドが肩をすくめた。


「仕方ない。責任を取ろう。……くくっ。五分だけ喋ろうか。その間に元に戻るさ」


 キッドがあたしの隣に座る。あたしも座ったままキッドを見る。キッドもあたしを見る。


「何でもいいよ。何か喋ろう」

「……何でもいいの?」

「何でもいいよ。今日したこととか、今日思ったこととか」

「……もうお店来ないで」

「それはまた行ってもいいってこと?」

「……来るな」

「キスしないから、行ってもいい?」

「来るな」

「お前の働いてる姿を見てみたかったんだ」

「王子としての自覚が足りないんじゃない?」

「母さんもノリノリだったし」

「リトルルビィの顔が真っ青だったわ」

「くくっ。あの後ね、GPSで怒りのメッセージが来た」

「当然よ」

「あの子にもレジを打ってもらったよ」

「アリス?」

「……あの子、アリスって言うんだ」

「ええ」

「仲良いの?」

「……友達」

「へえ」


 キッドが優しく微笑む。


「友達なんだ」

「……あのね」

「うん」

「……明日、一緒に出かけるの」

「へえ、そっか。……良かったね」

「ん」

「楽しみだね」

「……ん」


 こくりと頷くと、キッドが見つめてくる。視線を逸らせば、キッドが見つめてくる。自分の膝を見下ろせば、キッドの腕が伸びた。そっと、頭を撫でられる。


「……」

「明日、馬車に気を付けるんだよ」

「……ん」

「転んで怪我をしないように」

「……ん」

「晴れるといいな」

「……大丈夫よ。雨降っても、多分建物だもん」

「どこ行くの?」


 その質問に、顔が曇る。


「……イベント会場……」

「イベント? ……ふーん。楽しんでおいで」


 キッドがにこにこ笑う。

 あたしの頭を撫でる。

 あたしはキッドを横目で見る。

 見れば、あたしの目がきょとんと瞬きした。

 キッドの耳に手を伸ばす。


「ん?」


 キッドがあたしを見つめる。


「何?」

「キッド、風邪引いた?」

「なんで?」



「……耳、赤いから……」




 キッドが黙った。

 にこにこしたまま、黙った。

 黙って、あたしを見つめて、また微笑む。


「この部屋が温かいからじゃない?」

「……そう?」

「うん」

「……帰ってきたばっかりだっけ?」

「そうだよ。さっき帰ってきたんだ」

「ああ、確かに今日は少し寒かったかも」

「うん。体が温まってる証拠だ」


 キッドは笑う。


「お腹も空いた。そろそろ立てる?」

「……そうね。立てるかも」

「よし、きた。おいで」


 キッドがあたしの手を握った。


「あーあ。喋ってたら、俺もお腹空いてきた」


 キッドが、あたしの手を強く握った。


「少し遅くなったから、じいやに文句言われそう」


 キッドは笑う。口角を上げて、いつも通り。


「いいじゃないか。今夜のご飯は、より美味く感じるぞ。感謝しろよ。テリー。……ふふっ。……。……」


 ……。


 ……見上げれば、キッドの耳はやっぱり赤い。





(*'ω'*)




 21時。リビング。



 スノウ様がじいじと紅茶を飲みながらラジオを聞いて、むうっと顔をしかめた。


「ねえ、怒りん坊。最近の議会はどうなってるの? 謝罪したしてないで、どうしてこんなに揉めるわけ?」

「彼らにも、彼らの事情があるのです」

「旦那だって事情がある中、たくさん国民のために頑張ってるのよ! ぐぬぬぬ……! 今度議員達と個人面談してやる……! この失態は許さないわよ……!」


(チョコレート、あま……)


 ソファーでレオから貸してもらった雑誌を読みながら、スノウ様とキッドに買ってもらったチョコレートを頬張る。


(ミックスマックス特集ねぇ……。…つまんな……)


 暇だと思って見たはいいけど。


(クソつまんない……)

(チョコレートを食べる手が進む進む)

(レオはこれを見て感動だと言っていたの?)

(……ふーん。カード以外にもいろんな玩具があるのね)

(新作の秋コーディネート……。何このダサいコーディネート……。……こんなの着て歩いてる人がいたら見てみたい……)

(……え? テレビアニメ化……? 何? そんなに人気あるの? これ……)


 ぼうっと、その文字を見つめる。


(何がいいんだろう……)


 ぼやあ、と文字がぼやけてくる。


(でもレオはハマってるみたい……)


 ぼおおおおおおお。


(ミックスマックスか……)

(……)

(……。……。……)


 ……。……。……。……。……。


「テリー」


 とんとん、と肩を叩かれる。


「ん……」

「寝るなら部屋に行け」


 隣で何かの書類を読んでたキッドに言われて、目を擦る。


「……寝ない」

「眠そう」

「何言ってるの。眠くないわよ」


 ツンとして言って、また雑誌を見下ろす。絵を見て、グッズのページを見て、また視界がぼんやりしてくる。


(んん……? 文字がぼやけてるわね……)


 ぼおおおおおおお。


(あたし、目が悪くなったのかしら……)

(目が……悪く……)

(……。……。……)


 ……。……。……。……。……。……――。


「テリー」


 キッドに肩を叩かれる。ぼんやりと瞼を上げる。


(……歯磨こうかな……)


 ぼおおおおおおおおお。


(……もう少ししてからでいいや)


 ぼおおおおおおおおお。隣にいたキッドがため息をついて、読んでた書類を置いた。


「寝かせてくるよ」


 キッドがスノウ様とじいじに言って、あたしに腕を伸ばした。


「テリー、抱っこするよ。ほら」

「……」


 黙って、正面からキッドの肩に手を伸ばす。


「よいしょー」


 キッドがあたしを持ち上げて、歩き出す。


「ねんね、ころりよ。おこーろーりーよー」

「……るさい……」

「くくっ。眠たくてもこれか」


 キッドがおかしそうに言って、階段を上っていく。口笛を吹きながら、ゆっくり歩き、廊下に着き、また歩き、あたしの部屋を通り過ぎ、その隣の部屋の扉を開けた。


(ん……どこ……?)


 キッドがあたしを抱っこしたまま、ベッドに座る。


「ほら、テリー、ごろんして」


 ごろん?


(ごろんしたら、どうなるの?)


「今日はここで寝るんだ」


(なんで?)


「さ、ごろんして」


(なんか優しい声)


「ね?」


(でも、あんたが言ったのよ。手を離すなって)


 ぎゅっと、あたしは自分の手を握り、抱っこしてくる相手の肩を抱いた。


「テリー、ごろんして。眠れないよ?」

「……オ……」

「くくっ。……困ったなあ」


 あたしを抱っこする相手が優しい声で呟いて、一緒に、ゆっくりと倒れる。体が、ふわふわしたベッドに委ねられる。


「ほら、手、離して」


 何言ってるのよ。手を離すなって言ったのはそっちじゃない。言ってることめちゃくちゃよ。


(ああ、でも)


 ……そっか。あたしが地面に下ろしてって言ったから。……もう、下りていいのね。


「さ、テリー」


 あたしは頷いた。


「……分かった。……レオ」


 あたしはその肩から手を離した。


「レオ」


 あたしはベッドに体を委ねた。


「あんた、趣味悪いわよ……」


 呟いて、深呼吸すれば、あたしの意識は、どこかへ飛んで行った。
















「……」

「レオ?」

「……テリー?」

「……ねえ、それ誰?」

「ねえ、テリー」

「……愛してるよ」

「……で」

「……レオ……って、……誰?」


 優しかった目が一瞬にして鋭くなり、ぎらりと光った。




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