34話 ディックとシラヌイ、結ばれる。
私ことイン・ドレカーは、そっと席を立った。
私の種族はぬらりひょん、気配や音を完全に消し去る力がある。最愛の妻とともに、ここは去るとしよう。
「……二人は、上手く行くでしょうか」
「大丈夫さ。どちらも不器用すぎる男女だが、大きなきっかけを与えれば必ずね」
相変わらずクミンは無表情だ。だけど分かるよ、君の心が温かくなっているのが。
ダイダラボッチの呪いで君はお岩という妖怪となり、表情を失った。でも君を愛する私にはわかるんだよ。私が歌い、踊る度、君が心の底から喜び楽しんでいる事が。
君が喜ぶ姿を見たいから、私は生きている。男が動く理由なんて、シンプルな物でいいんだよ。
「さぁ青年。君は誰がためにどう生きるのかな?」
◇◇◇
僕ことディックは、信じられない思いでいっぱいだった。
見間違えるはずがない、シラヌイそっくりの黒髪に、サファイアのような瞳。僕の中でずっと生き続けていた、何よりもかけがえのない人。
「母……さん……?」
『おや? ドレカーとか言うのに口説かれ来てみれば……ディックじゃないか!』
母さんだ、この声、本物の母さんだ!
思わず抱きしめようとした。だけど僕の腕は母さんを透過してしまう。
『ごめんよ、私は霊体でね。本当なら、私だってあんたを抱きしめたいんだけど……この体じゃ無理みたいだ』
「それでも……会えて嬉しいんだ……母さん……会いたかった、ずっと……!」
涙なんて何年ぶりに流しただろう。体に触れられないけど、僕は母さんと抱き合った。
『全く、大人になったのに変わってないんだから。そしてこっちが、話に聞いたサキュバスか』
母さんはシラヌイに顔を近づけた。二人の間に鏡があるようだ。
『へぇ、確かに私にそっくりだ。悪魔の姉妹なんて持った記憶はないんだけど、面白い事もあるもんだ』
「あ、あの、お初目にかかります。私の名はシラヌイ、魔王軍の……四天王を務めています」
『あっはっは! そんな肩ひじ張らなくていいよ。にしても四天王なんてね、凄い女を捕まえたじゃないか』
「捕まえたって、それはその……」
……やっぱり母さんには敵わないな……。
『こちらこそ初めまして。ディックの母親、イザヨイと申します。愚息がお世話になっているようで』
「いやむしろ私の方が助けられているといいますか! 非常に優秀な息子様で、私の副官としては勿体ないくらいです!」
『副官! あんた魔王軍四天王の副官なんてしてんのかい?』
「うん、スカウトされて」
『やるじゃないか、大出世だよ! いやーまさか息子がそんな大役務めるようになるとは思わなかったねぇ』
「……あの、お母様は何も思わないのですか? 魔王軍は人間軍の敵ですし……」
『そんなの関係ないさ。どんな形であれ、息子の活躍を喜ばない母親がいるのかい?』
シラヌイの方が面食らった顔をしている。母さんは細かい事を気にしない。どんな結果でも、僕の成果を喜んでくれる人なんだ。
『ここに居られる時間は多くないんだ。だから教えてくれるかいディック。私と別れてから、あんたがどんな人生を送ってきたのか』
「勿論だよ」
僕はもう、夢中になって話した。母さんには伝えたい事がたくさんあったから。
魔王軍はとても気のいい連中ばかりだと、四天王達はちょっと抜けているけど皆優しいんだと、人生の中で今が最も楽しいんだと。
母さんは時折相槌を打って、自分の事のように微笑んでくれている。もう二度と来ないと思っていた、僕にとって一番幸せな時間だ。
『……あんたはきちんと約束守ってくれたんだね。私の手紙もちゃんと見つけて、今日まで生きてくれて……私は嬉しいよ。それにいい人も見つけたみたいだしね』
「や! その私達はまだその……!」
『おや、そうなのか。それじゃあ私との約束はまだ半分しか守れてないね』
「半分? でも僕は、母さんの言いつけ通りきちんと生きているよ」
『あー……そっかそっか。あの手紙書いた頃にゃ、もう意識が薄れていたからね。結核でまともに話す事もできなかったしなぁ』
母さんは僕の頬に手を当てた。
『確かに私は、あんたに生きろと言いつけた。でもね、ただ生きてるだけじゃだめなんだよ。それは死んでいるのも同然だ。いいディック、私の本当の約束は……幸せに生きなさい。って事なんだよ』
「幸せに?」
『そ。だってあんたの幸せは、私の幸せでもあるんだ。あんたは私の息子だ、とても優しい、自慢の子供だ。だからディックは幸せにならなきゃならないんだよ。あんたはそうなるために、私が腹を痛めて産んだんだから』
瞬間、すっと胸が軽くなったような気がした。
母さんはシラヌイを見ると、手を重ねた。
『ディックは私の宝物だけど、あんたに託すよ。シラヌイになら息子を預けられる。そう信じられるから』
「……私はサキュバスですよ? 淫魔に息子様を預ける事に、心配はないのですか?」
『なんで心配しなきゃならないのさ。サキュバスだろうが関係ない、私の息子が惚れた女なら、必ず大事にしてくれる。私はそう信じているんだよ。何しろ見た目も中身も似てるしね』
母さんは立ち上がった。うっすらとだけど、姿が消えつつある。
『もう時間みたいだ。楽しい時間はすぐに終わってしまうね』
「……母さん」
本音を言えば、行ってほしくなかった。ずっと一緒に居てほしかった。
でも、僕はその言葉を出さなかった。
『ディック、最後にちょっとだけ、あんたに力を貸してあげる。ぶっ飛ばしてやるんだろ、勇者フェイスをさ』
「……うん」
『刀を貸してごらん』
母さんが刀に触れるなり、鞘が紫に輝いた。今までにない力を感じる。
『私はいつでも見守っている。二人とも、もしこの先危険だと思ったら、私を思い浮かべなさい。例え傍に居なくても、私はあんた達の力になる。絶対にね』
「……母さん、僕……必ず約束を守るよ。母さんの分まで、必ず……」
『うん……あんたがおじいさんになったら、また、会おうね……!』
母さんがそう言ったから、僕達はさよならを言わなかった。
母さんは消える瞬間まで、手を振り続けていた。
◇◇◇
私ことシラヌイは、託された想いをかみしめていた。
ディックによく似た母親だ。愛情深くて、どこまでも一途で……素敵な人。
そんな人から受け取った宝物はとても重い。だけど不思議と受け止められる気がした。
だって私もイザヨイさんと同じくらい、ディックが好きだから。
いいや、こいつの事で負けたくない。私はイザヨイさん以上にディックが好きだ。
ディックになら、この身をささげてもいいくらいに。
「あんたの不調の原因、私聞いたから。勝手に私を殺してんじゃないわよ」
私は生きている。ほら、手を握ってあげるから感じなさい。
「私の手は暖かいでしょ、ちゃんと触れるでしょ。私はあんたの隣に、確かにいるんだから」
「……うん」
「それでも不安や心配があるって言うなら……ほら、こっち」
ディックの腕を引いて、一緒に倒れる。丁度押し倒される形になって、少しドキドキしてきた。
「あんたに私の全部をあげる。あんたの中にある不安や恐怖を、全部まとめて私が食べてやるから……ほら、来なさい」
「シラヌイ……っ!」
その晩、私は初めてサキュバスとして一夜を過ごした。
無我夢中で、頭の中がはじけて、何をしたのか覚えていない。けど、
女として、人生一番の幸福を感じた事だけは、はっきりと覚えていた。




