野毛にて
3時頃だったろうか、桜木町の改札を出て海の見える方を背にすると、そこには疲れた老人がぽつぽつ歩くだけの通りがあった。道には吸い殻と紙くずが散乱し、おおよそ外の客をもてなす様子ではない。私は観光客向けの地図に案内された通りに道を歩き、すぐに目的地にたどり着いた。上質な時間を過ごすのに最適、つまるところは体良く時間を潰すのに良い、と勧められている有名なジャズ喫茶である。
店は古びたビルの二階にあり、一階テナントの横に設けられた細い階段を登った先にある。階段を登ると、そこは全体に薄暗く、金属の分厚そうなドアには色の褪せたジャズマンのポスターが貼ってあった。何十年も空気が循環してないように思われる重苦しい佇まいに潰されそうになりながら、思いきって中に飛び込むと、そこには蝋人形のような人々で溢れていた。広くない店内は、壁のいたるところがポスターやレコードで埋めつくされ、そこに写るジャズマンたちの顔は皆タバコの脂で黄金色に輝いているのであった。あたりは唾を飲み込む音すら憚られるような緊張感で充満しており、コルトレーンの分厚い唸りが延髄に針を刺すような鋭さで響いている。私はひとまず自分の居場所を得るため一番手前のカウンターに浅く腰を下ろし、テーブルに立ててあるメニューを眺めた。すぐに主人と思われる人が注文を取りに来たので、私はとっさにコーヒーを指差し、椅子に落ち着いて座り直した。彼はすぐにカウンターの中に入り、よどみのない所作でコーヒーを淹れると、すぐに私の横にコーヒーが差し出された。彼はコーヒーの殻を片付けると、そのまま店の隅にあるレコードブースへ歩きだした。彼は定位置につくと、とうとうそこから動くことはなかった。
コーヒーのカップが空になり、さらに5回ほどレコードが差し代わったころ、通りに面した擦りガラスの向こうで、私は微かに夜の香りを感じた。そこで私は勘定を済ませ、心をえぐり続けたハードなテナーサックスの音から逃げるように店を出た。
店を出ると、太陽はすっかり桜木町の高架の下に潜り込み、かわりに昼間にはなかった赤提灯が通りの輪郭を浮かび上がらせていた。
昼間とは別の世界のように賑やかで、スーツの男どもが何人も歩き、果たして何処にこんなに多く店があったかと思うばかりに肉を焼く香りや出汁の香りが狭い路地の奥まで満ちていた。ときおり店のガラス戸から見える店内は、どの店も黄金色のビールやハイボールの輝きで満ちている。
私はしばらく通りを歩いた後に、鰹の出汁の匂いに呼ばれ、おでん屋に入った。店に入るとカウンターの中で女将が忙しく働き、見渡す限りカウンターは既にスーツ姿の男たちで埋まっている。
「そこにお座敷があるでしょう。相席ですけど、そこにお座りください。」
女将さんに言われた通り座敷に向かうと、そこにはメガネをかけた小柄なオジさんが、大きなケースを連れて座っていた。
「飲み物はどうなさいますか?」
さっきは見えなかった給仕さんに注文を促され、咄嗟にビールを頼む。落ち着いてしばらく店内を見渡すうちに、ビールが運ばれてきた。
「ご注文は?」
「ひとまず、おでんを適当に見繕ってください。」
メニューを確認するタイミングを逃し、こちらの席からは鍋の中を伺うことも出来ないので、そうとしか言えなかった。
「そちらのお客様は、ご注文大丈夫ですか?」
「お茶割りのお代わりを頂けるかな?あと、おばんざいを2人分、盛り合わせでお願いするよ。」
注文を済ませると、オジさんは私に話しかけた。
「お兄さん、此処は初めてかい?」
「はい。昼に横浜で用があったのですが、午後は暇をしてました。宿は馬車道ですが、この辺りはうまい酒が飲めると聞いてやってきたのです。明日の昼には新幹線で帰らねければいけませんが。」
「遠いところお勤めご苦労なこった。此処はお茶割りが最高なんだ。出汁にビールなんて野暮だと思わんか。」
しばらくして、おでんとおばんざいが運ばれてくると、オジさんは私におばんざいも食べるよう促した。彼は相当酒が回っているように見え、口は元気だが体の筋肉は完全に弛緩しきっている。机の上に置かれた両手は真っ赤に熟れており、まるで秋の紅葉が張り付いているようだった。
「お兄さん、ヨコハマは好きかい?」
「私はこの辺りに来たのは初めてで、まだ何とも言えません。」
「俺はここが好きでね、若い時ここにたまたま辿り着いてから、結局30年も経っちまった。」
その後も彼は、この街についてしばらく語った。どうも彼は昼間から酒を飲むような人間らしく、バーやジャズ喫茶、定食屋に至るまで、この街で美味い酒が飲める場所の思いつく限りを私に紹介し続けた。
「失礼ですけど、お仕事は何をなさっているんですか。」
私がつい尋ねると、彼は首を傾げながら私の襟を見た。
「俺はラッパ吹きなんだ。今日は朝からスタジオでね。仕事アガリに飲むこの酒だけが楽しいのさ。」
「音楽は楽しくないのですか?」
と私が言うと、彼は目線だけを私から外し、お茶割りの中の氷を見つめて呟いた。
「音楽は、死んだよ。そう、死んだんだ。」
彼はそれきり私と話すことはなく、お茶割りを2杯注文した後、1杯目を一気飲みするとスッと立ち上がり、この席の会計をまとめて支払い、さっさと帰ってしまった。
私が席にあるものを平らげ、店を後にする頃には、海の方は商業施設のネオンもまばらで、すっかり賑やかさはなくなっていた。しかし相変わらずこの近くには酔っ払いと旨そうな匂いが飽和している。赤提灯に照らされた道の先には桜木町に出入りする電車が光の矢となって飛び込んでいった。