【三題噺】お題:餅、辞書、うさぎのぬいぐるみ
学校で借りた古い国語辞典に、初めて書き込みを見付けたのは、小学三年生の時。
『こんにちは。あなたの名前を教えてください。』
思わず笑ってしまった。
これを書いた人は、国語辞典で交換日記をしようとでも思ったのかな。
馬鹿らしいとは思ったけれど、まだ幼かった私は、返事を書く事にしてしまった。
今思えば、愚かな選択だった。
あの頃の自分を思い出すだけで、顔面をタコ殴りにしてやりたい衝動にかられる程に。
いずれは図書室に返却する本で、これを書いた人が誰か返事をしていないか確かめに来る可能性が高い。
もし上級生だったら嫌だな、と思い、私は本名からは程遠い偽名を書き加えた。
『こんにちは、初めまして。美咲といいます。』
美咲は幼稚園の時に仲の良かった友達の名前だ。
今は学校が違うし、特に問題はないだろう。
書いたページを忘れないように、その紙面の右上を確認する。
一番初めに「餅」とあった。
私はお餅が大好きだ。忘れるようもない。
にまにましながらランドセルに辞典を放り込み、その日は眠りについた。
翌日、学校から帰って来て机に向かい、宿題をするのに国語辞典を使った時、たまたま目に付いた 例の「餅」のページ。
なんとなく開いてみて、私は「きゃっ!?」と短い悲鳴をあげ、床に国語辞典を投げ付けた。
返事が書いてあった。まだ返却していないのに。
恐る恐るページを開き直すと、そこには前とは少しだけ違うような筆跡で、こう記されていた。
『お返事をありがとう、でも、いいえ、ちがいます。あなたは美咲ではありません。茜です。』
そこまで読んだところで、肋骨を突き破って出てきてしまうんじゃないかというくらい、私の心臓は激しく胸を叩き始めた。
茜。あかね。アカネ。
何度見たって変わらない、確かに私の本当の名前だった。
苦い唾を飲み込み、続きに目をやる。
『名前を知っていることと、返事が書いてあることを、あなたは気味悪く思うでしょう。でも、それは私があなたと大の親友だからできたことです。国語辞典は、あなたの机に入っていたのを取り出してしまいました。勝手にごめんなさい。』
正直、大の親友だと言われても、ピンと来なかった。
自分で言うのもなんだけど、私は友達と呼べる友達がいた試しがない。
人間でなくていいなら人形のお友達が何十人といるけど、生きていないなら返事は書けない。
『それでも、もしよかったら、お返事をお願いします。』
少し迷った。でも、少しだけだった。
毒を食らわば皿までだ、と、どこかで聞いた 意味もよくわかっていないセリフを呟き、私は鉛筆を手に取った。
『お返事をありがとう。すごくうれしいです。私の名前は雪子です。』
翌日、人形の中でも一等お気に入りの うさぎのぬいぐるみ を抱きしめて「餅」のページを開いた私は驚いた。
ちょうど、抱きしめていたぬいぐるみと同じ名前だっからだ。
『雪子?すごいね、私のぬいぐるみとおんなじ名前!きれいでかわいくていいなぁ。よろしく、雪子!』
私と雪子のやり取りは、学校のない日以外、毎日毎日、途絶えることなく続いた。
『雪子、聞いて。今日クラスの男子と友だちとけんかしちゃった。でも、むこうがさいしょに私の筆ばこをごみばこに投げたんだよ。泣いちゃったら、すぐ泣くから女はいやなんだよって言われた。どうしたらいいんだろう?』
『大変だったね、かわいそうに。茜は何も悪くないよ。そんなやつの筆箱こそ、ごみばこになげすてちゃえ!』
彼女は私を元気付けようとして言ったのだろうけど、自分が悪いわけではないと確信した私は、悲しみが消えて怒りが込み上げて来た私は、それを実行してしまった。
次の日から、クラスでは私の存在は空気となった。
『どうしよう雪子。雪子の言ったことやっちゃったの、そうしたらみんなが私をいないふうにするの。どうしよう、どうしよう。』
『大丈夫だよ茜、茜には私がいる。あなたがなにをしたって、私はあなたの味方だよ。茜は悪くない、同じことをやっただけなんだから。』
茜には私がいる。
あなたがなにをしたって、私はあなたの味方。
その二文は麻薬のように私の心に浸透、侵食した。
その頃から私は堕ち始めた。
『雪子、今日ね、私のうわばきがごみばこの中にあった。やったのはたぶん、また、おなじクラスのはるかちゃん。どうしたらいいんだろう。』
『はるかちゃんがいやがらせしてくるの、今日で三回目じゃない?もうやり返すだけじゃダメだね。川に流しちゃえば?』
私の良心が、それはやりすぎじゃない?と囁いた。
「違うよ、雪子は正しいもん。やり返すだけじゃ、もうダメだよ。」
その言葉を、声に出して否定した。
良心と共に、はるかちゃんの上履きを近所の流れの速い川に捨てた。
学年が上がっても、私は国語辞典を借りっぱなしでいた。
元々古いものだったし、先生も気に留めない。
それをいい事に、私は雪子とのやり取りを未だに続けていた。
「餅」のページに記載された単語なら、空で意味まで言えるほど、国語辞典に取り憑かれていた。
『雪子、となりのクラスの男子が』
『雪子、今日は朝からバケツで水を』
『雪子、どうしよう、どうしたらいいんだろう、雪子。』
『そんなやつのノート、カッターで引き裂いてしまったら?』
『花瓶でも投げつけて』
『大丈夫、大丈夫だよ。茜には私がいるよ。』
親が学校に呼ばれることなんて、そのうち日常茶飯事になった。
私の小学校はみんなが持ち上がりで中学校に入るから、雪子と私の中学は一緒だった。
そしてやはり、中学に入ってからも、私は雪子にべったりだった。
『雪子』
『雪子』
『どうしよう雪子』
『刃物で脅して』
『万引きくらい大したことないよ』
『手足縛って殴りつけて』
そうした日々が、何度も続いて。
ある日、私の脳裏にふと、疑問が浮かんだ。
『ねえ、雪子、教えて。
あなたは、誰?』
『おかしいこと言うね、茜。
私は大の親友だよ?あなたの、味方。』
『でも、ここは少年院だよ、雪子。
雪子の言う通り、包丁で首を掻き切って、人殺しやって、捕まったんじゃない。』
『知ってるよ、あなたの事ならなんだって知ってるもの。
好きな男の子の事を考えながら夜な夜なしていたことも、その男の子の彼女に嫌がらせをし続けた事も、全部。』
『やめてよ、恥ずかしい。
それに、はぐらかさないで。
あなたは、誰?』
『雪子だよ。
小さい頃から君と一緒に寝ていて、君の事ならなんでも知っているのに、君が年を重ねるごとに私に構ってくれなくなって、君の周りの人間を排除する為に君に指示を出し続けて、今も君の隣に座っている、雪子だよ。』
薄汚れたうさぎのぬいぐるみの、口の端がつり上がった気がした。