Ⅳ-2 ウィステリア
目を開けるより早く、病原体に乗っ取られていることがわかった。
身体が怠い。
頭の内側が熱い。レンジにかけられたのかと思うくらい深刻な温度だ。
なのに、氷の上に横たわっているように首から下が寒く、小刻みに震えている。
まだ生きているのか。
それとも生かされているのだろうか。
とりあえず死んでいないので、いつものチョコっぽい自分にまた会えた。
耳を澄ますと、室内はとても静かだ。壁の時計が音もなく時を刻んでいる。
たぶん、夢は見なかった。何も憶えていない。
思い出したくない夢を見たのかもしれないが、悪夢の病巣は切り除かれている。
柊は、寒気から身を庇うように寝具を引き寄せた。
本当は心細い気がするけれど、子どもの頃と同じように、寂しくないと暗示をかける。
ひとりの空間は、傷を癒す最高のシェルターだ。安全で自由で、何にも怯えなくていい。
短く眠って、再び目が覚めた。
時刻はきっと、夜明けと朝の間だろう。
曖昧なシティを覆う、薄青い空を想像した。
導かれるように、ベッドサイドのランプテーブルを見る。
薬と水が置かれていた。
昨日の出来事が緩やかに回想されていく。
結論からいうと、カレンを抱えたまま、居住館のロビーで力尽きた。
もう、一歩も先へ進めないという残量ゼロのエネルギーアウト。
しばらく彷徨った末に、プールになりかけていたアンダー路を脱出し、この建物まで歩いた。
彼女は途中で眠ってしまい、降り頻る豪雨の下、灰色の街に溶け込む孤独感。
カレンの、冷たく、透明化しそうな白い顔。
人の腕の中でアットホームな気分になれる彼女の無防備さが信じられなくて、けれどそういう感覚を味わってみたくて、とても羨ましかった。
カレンは愛情深い貴重な生命体だ。
自分とは共通事項のない正しい命。
どのような犠牲を以ってしても、死んだ肉体から心を取り出すことができない。
だから、彼女を生きたまま部屋に帰さなければと、焦燥する使命感に突き動かされていた。
ロビーの壁際で蹲っていたところにディオンが通りかかり、事の成り行きを話した。
その後、この部屋に帰還するまでのフィルムが抜け落ちているが、彼が手を貸してくれたのは間違いない。
カレンは無事だろうか。
・
ヤスパーは、セーラの傍らに膝を着いた。
ソファに座った彼女は無表情に近い面持ちで、テーブルに載せた道具を眺めている。
切ない少女の肖像画みたいだ。
「ディオンが君のこと心配してたよ。テレパシーで感じちゃった」
「何かの間違いじゃない?」とセーラは笑う。「心配してるの、私の方よ?」
ふたりの間に、思春期に差しかかった幼馴染と似た何かを感じる。
「彼が塞いでたら、『課題教えて』って言ってあげて。頼りにされると嬉しくなってちょっと開くはず」
「心の扉が?」
口の端を上げて肯定した。ついでに手指を消毒する。
「あの人、字は下手だけど最高学府の出身だからね」
ガーゼを剥がすと、素足の傷に、血と混ざり合った琥珀色の体液が滲んだ。
「いいのよ、自分でやるわ」
セーラはやんわりと、開封したばかりのコットンを奪おうとする。
「ぼくのことが嫌いなの? そうじゃないなら任せてよ」
宙に佇む彼女の手を押し留めた。
「さりげなくジェントルね」
「どうかな」
先刻、花とディオンは食材の調達に出かけた。
3度めだが、柊の様子も見に行かなければ。冴えわたる閃きで、捨てようか迷っていたキャンディ柄のルームウェアを彼に着せてみた。可愛い患者が増えて、訪問の楽しみが2倍という充実感。
――ラギは、飛んでるときだけ素っぽく解放されてるね。
フライトを代わると申し出てもおそらく、頑なに辞退するだろう。
仕事と生き甲斐が綺麗に重なりすぎている。
ディオンが口を噤んだので、柊が昨夜なぜ、カレンとふたりで滅茶苦茶に濡れていたのかは謎のままだ。さすがに本人たちには訊けない。
ふと、セーラがこちらの胸を凝視して首を傾げた。
「そのTシャツ、遠い国の言葉で『贖い給え』って書いてあるわ」
「ヤスパーは罪深いからね」
冗談めかして片目を閉じると、セーラが肩の力を抜くようにして微笑んだ。
「私もよ」
まだ事故のことを気にしているのか。
彼女が線を越えているというなら、世界は罪人ばかりだ。
セーラの足に包帯を巻き、視線を上に移した。
右の鎖骨を巻き込むようにできた痣が痛々しく、酷い色をしている。
突き飛ばされて倒れた際、歩道の段差に当たったらしい。
「プロフェッショナルに診せなくて平気?」
彼女は浅く頷いた。
「苦手なの。メディカルセンター。入ったら永遠に出られない気がして……」
言い終えた後、はっとしたように口元を強張らせる。
「ごめんなさい。否定したかったわけじゃないの」
セーラは泣きそうな顔をして目を伏せた。
無駄に医科と併学していたことをばらしたせいで、気を遣わせてしまっている。
とりあえず本題に戻った。
「大丈夫。無理矢理連れて行ったりしないよ。メディカルセンターはやめよう」
破れかけた情景が、今朝の出来事のように去来する。
「ぼくはあの場所で、人の死に触れるのが怖かった」
誰にもいなくなってほしくない。
悲しい報せを遮断したい。
一度だけ、過去に罅割れた自分が、別離の痛みを受け流せないと知っている。
「……だから医者にならなかったんだ」
・
仕事の呼び出しに応じた帰り、セーラは通路の曲がり角で足を止める。
古い輸入機材に不具合があり、海外への問い合わせに通訳が必要だった。
――何かしら、今の。
遅くまで人のいるターミナルとは異なり、こちらの階はほとんどのスタッフが帰宅した後だ。
ディナーの準備を手伝っている途中だったので、若干急いでいる。
しかし突然、明かりのない場所から物音が聴こえて動けなくなった。
通路の一番奥。
空調管理室だ。
関心を持たずに通り過ぎるべきか。
それとも一応、確かめに行くべきか。
躊躇いとは裏腹に、緊張の度合いが加速している。
――少しだけ……。
近づいてみるくらいなら問題ないだろう。
些細なことでも、Apの危機を見過ごすわけにはいかない。ショッピングセンターの事件があったばかりだ。
館内のセキュリティは厳重に強化されているが、職員の中に『venom』が紛れている怖れがある。
今はフライトメンバーの5人しか信じられない。
――私が行かなきゃ。
たとえ不審な人物に出くわしても、全力で走れば逃げ切れるはずだ。
点していないペンライトを片手に持ち、扉横のリーダーにIDを翳す。
入室は速やかに許可された。
そっとドアを開ける。
奥行きのある真っ暗な部屋に、多くのコンピュータが立ち並んでいた。
物音の正体も、詳しい状況も、ここからでは把握できない。
中に入って調べるしかないだろう。
少し考え、ドアの横にフォトンを置く。
本能からの警告を遮り、数歩踏み込んだ。
背後で扉が閉まる。
それだけのことなのに、驚いて悲鳴を上げかけた。
やはり引き返そうかと逡巡する靴の先に、やわらかい何かが当たる。
「えっ?」
ライトは点けず、視線を落として目を凝らす。
「何……?」
闇に浮かぶ奇妙な輪郭。
人の指だ。
「きゃあッ!」
機械の間の細い通路に誰か倒れている。
制服の胸元を握り、呼吸を整えた。
まだ死体と決まったわけではない。生きているならすぐに助けを呼ばなければ。
「あの、……すみません、……大丈夫ですか?」
側に身を屈めて覗き込む。
俯せているので顔は見えないが、これといって特徴のない男性だ。このエリアのスタッフだろう。
諦めずに5回、それぞれ違う国の言葉で呼びかけてみたけれど、反応がない。
とにかくセルラで連絡しようと端末を手にした刹那。空気の流れで、この部屋にもうひとり潜んでいることを知った。
体内の細胞が一瞬で凍りつく。
今になって目が慣れ、倒れている男の背に深々とした刺し傷が見て取れた。
「死ん、でる……?」
首筋に響くほど強く、鼓動が乱れ狂っている。
恐怖に縛られて動くことができない。
――迂闊だったわ。
ここに入るべきではなかった。
扉まで僅かな距離だが、逃げられるだろうか。
――残念だけど無理ね……。
完全に捕捉されている。
隠れていた猟奇犯は、獲物を追い詰める豹のようだ。
痛いほど身近に死を感じた。
黒い気配が、一歩、また一歩と迫り来る。
重く冷ややかな靴底のしなり。
不意に訪れる無音。
僅かに風が起きた。
後ろだ。
振り返った途端、真新しいナイフと目が合った。
「ッ!?」
反射的に避けた身体を蹴り飛ばされる。
「うッ……」
デスクに衝突した肩が酷く疼き、藍色の視界が斜に歪んだ。
「あなた、誰なの……?」
返事はないが、敵であることは間違いない。
顔を上げると、通路1本隔てて立つ黒いシルエットが、不自然に腕を曲げていた。
研ぎ澄まされた銀の刃が的を見つめている。
真っ白なガーゼ。もしくは胸の左側。
無抵抗のまま諦めるしかないのか。どこへ向かっても、飛んできたナイフにあっさりと貫かれるだろう。
未知の痛みを想像して唇を噛んだ。
――死んだらきっと、パパとママに会えるわ。
目を閉じるべきか迷っていたところに、セルラの着信音が鳴り響く。
最悪なタイミングだ。
素早くポケットから取り出し、受話状態にして床に放った。状況を説明している時間はない。
微かに見えた発信者の名前に胸が軋む。
「殺すつもりなら早くしてちょうだい」
涙が零れる前に微笑んでみた。あまり明るく笑えなかった人生への餞だ。
「私のことなんて誰も助けに来ないわよ。孤児だもの」
Apの仲間は、いなくなったことを悲しんでくれるかもしれないけれど、いつかはきっと自分の存在を忘れてしまう。
――仕方ないわよね……。
敵が腕を振り被ると同時に顔を伏せた。
空間を切り裂く殺しの刃。
硬い衝突音。
「っ! …………?」
張り裂けるほどの惨さを覚悟したが、それらしい感触がない。
恐る恐る目を開けた。
身体は死んでいない。
投げられたナイフは、腕と胴の僅かな隙間に刺さっていた。
溢れ出すように血の気が引いて、意識が遠くなる。
「セーラッ! 立てッ!」
「……ディオン!?」
なぜここがわかったのだろう。セルラは手から放し、何も喋っていない。
先ほど敵が佇んでいた場所に、消火器を携えたディオンが立っていた。
その足元に黒衣の人物が倒れている。
「ぼけっとすんな! 走れッ!」
ふらつく身体を奮い立たせ、彼の元に駆けた。
ディオンは消火器を敵の後頭部に叩き落とし、部屋を出ろと荒く促す。
頷き、何も言わずに従った。
薄暗い通路にふたり分の靴音が反響する。
「あいつ、まだ生きてるかもしれないぜ」
彼は得意の不良みたいな笑い方をしているが、眉の辺りは険しかった。
「着信あったら助けてとか言うだろ普通」
「いいの。来てくれるって予感がしたから。……テレパシーかしら」
「送ってねえよ」
こちらの腕を掴み、通路を疾走しながら、彼はセルラで警備を呼んだ。
「セーラ。無事か」
「ええ、もちろん」
素直にありがとうと言えず、小さな声でつけ加えた。
「勇気を振り絞って通学したのに、学年閉鎖だったときと同じ気分よ」
「最高にツイてるだろ」
「そうね」
生きているので明日、今日の続きが始まる。
今回の件で、残り僅かなラックを使い切ってしまったかもしれない。
――だけど私。
両親に再会することよりずっと、価値のあるものに気づけてよかった。
Ⅳ-2 end.




