表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
セスナ・エア・シーク  作者: satoh ame
Ⅳ Circular - サーキュラー
9/17

Ⅳ-2 ウィステリア


 目を開けるより早く、病原体に乗っ取られていることがわかった。

 身体が怠い。

 頭の内側が熱い。レンジにかけられたのかと思うくらい深刻な温度だ。

 なのに、氷の上に横たわっているように首から下が寒く、小刻みに震えている。

 まだ生きているのか。

 それとも生かされているのだろうか。

 とりあえず死んでいないので、いつものチョコっぽい自分にまた会えた。

 耳を澄ますと、室内はとても静かだ。壁の時計が音もなく時を刻んでいる。

 たぶん、夢は見なかった。何も憶えていない。

 思い出したくない夢を見たのかもしれないが、悪夢の病巣は切り除かれている。

 ひいらぎは、寒気から身を庇うように寝具を引き寄せた。

 本当は心細い気がするけれど、子どもの頃と同じように、寂しくないと暗示をかける。

 ひとりの空間は、傷を癒す最高のシェルターだ。安全で自由で、何にも怯えなくていい。


 短く眠って、再び目が覚めた。

 時刻はきっと、夜明けと朝のはざまだろう。

 曖昧なシティを覆う、薄青い空を想像した。

 導かれるように、ベッドサイドのランプテーブルを見る。

 薬と水が置かれていた。

 昨日の出来事が緩やかに回想されていく。

 結論からいうと、カレンを抱えたまま、居住館レジデンスのロビーで力尽きた。

 もう、一歩も先へ進めないという残量ゼロのエネルギーアウト。

 しばらく彷徨った末に、プールになりかけていたアンダーを脱出し、この建物まで歩いた。

 彼女は途中で眠ってしまい、降り頻る豪雨の下、灰色の街に溶け込む孤独感。

 カレンの、冷たく、透明化しそうな白い顔。

 人の腕の中でアットホームな気分になれる彼女の無防備さが信じられなくて、けれどそういう感覚を味わってみたくて、とても羨ましかった。

 カレンは愛情深い貴重な生命体だ。

 自分とは共通事項のない正しい命。

 どのような犠牲を以ってしても、死んだ肉体から心を取り出すことができない。

 だから、彼女を生きたまま部屋に帰さなければと、焦燥する使命感に突き動かされていた。

 ロビーの壁際で蹲っていたところにディオンが通りかかり、事の成り行きを話した。

 その後、この部屋に帰還するまでのフィルムが抜け落ちているが、彼が手を貸してくれたのは間違いない。

 カレンは無事だろうか。



 ヤスパーは、セーラの傍らに膝を着いた。

 ソファに座った彼女は無表情に近い面持ちで、テーブルに載せた道具を眺めている。

 切ない少女の肖像画みたいだ。

「ディオンが君のこと心配してたよ。テレパシーで感じちゃった」

「何かの間違いじゃない?」とセーラは笑う。「心配してるの、私の方よ?」

 ふたりの間に、思春期に差しかかった幼馴染と似た何かを感じる。

「彼が塞いでたら、『課題教えて』って言ってあげて。頼りにされると嬉しくなってちょっと開くはず」

「心の扉が?」

 口の端を上げて肯定した。ついでに手指を消毒する。

「あの人、字は下手だけど最高学府の出身だからね」

 ガーゼを剥がすと、素足の傷に、血と混ざり合った琥珀色の体液が滲んだ。

「いいのよ、自分でやるわ」

 セーラはやんわりと、開封したばかりのコットンを奪おうとする。

「ぼくのことが嫌いなの? そうじゃないなら任せてよ」

 宙に佇む彼女の手を押しとどめた。

「さりげなくジェントルね」

「どうかな」

 先刻、はなとディオンは食材の調達に出かけた。

 3度めだが、柊の様子も見に行かなければ。冴えわたる閃きで、捨てようか迷っていたキャンディ柄のルームウェアを彼に着せてみた。可愛い患者クランケが増えて、訪問の楽しみが2倍という充実感。

 ――ラギは、飛んでるときだけっぽく解放されてるね。

 フライトを代わると申し出てもおそらく、頑なに辞退するだろう。

 仕事と生き甲斐が綺麗に重なりすぎている。

 ディオンが口を噤んだので、柊が昨夜なぜ、カレンとふたりで滅茶苦茶に濡れていたのかは謎のままだ。さすがに本人たちには訊けない。

 ふと、セーラがこちらの胸を凝視して首を傾げた。

「そのTシャツ、遠い国の言葉で『あがない給え』って書いてあるわ」

「ヤスパーは罪深いからね」

 冗談めかして片目を閉じると、セーラが肩の力を抜くようにして微笑んだ。

「私もよ」

 まだ事故のことを気にしているのか。

 彼女が線を越えているというなら、世界は罪人ばかりだ。

 セーラの足に包帯を巻き、視線を上に移した。

 右の鎖骨を巻き込むようにできた痣が痛々しく、酷い色をしている。

 突き飛ばされて倒れた際、歩道の段差に当たったらしい。

「プロフェッショナルに診せなくて平気?」

 彼女は浅く頷いた。

「苦手なの。メディカルセンター。入ったら永遠に出られない気がして……」

 言い終えた後、はっとしたように口元を強張らせる。

「ごめんなさい。否定したかったわけじゃないの」

 セーラは泣きそうな顔をして目を伏せた。

 無駄に医科と併学していたことをばらしたせいで、気を遣わせてしまっている。

 とりあえず本題に戻った。

「大丈夫。無理矢理連れて行ったりしないよ。メディカルセンターはやめよう」

 破れかけた情景が、今朝の出来事のように去来する。

「ぼくはあの場所で、人の死に触れるのが怖かった」

 誰にもいなくなってほしくない。

 悲しい報せを遮断したい。

 一度だけ、過去に罅割れた自分が、別離の痛みを受け流せないと知っている。

「……だから医者にならなかったんだ」



 仕事の呼び出しに応じた帰り、セーラは通路の曲がり角で足を止める。

 古い輸入機材に不具合があり、海外への問い合わせに通訳が必要だった。

 ――何かしら、今の。

 遅くまで人のいるターミナルとは異なり、こちらの階はほとんどのスタッフが帰宅した後だ。

 ディナーの準備を手伝っている途中だったので、若干急いでいる。

 しかし突然、明かりのない場所から物音が聴こえて動けなくなった。

 通路の一番奥。

 空調管理室だ。

 関心を持たずに通り過ぎるべきか。

 それとも一応、確かめに行くべきか。

 躊躇いとは裏腹に、緊張の度合いが加速している。

 ――少しだけ……。

 近づいてみるくらいなら問題ないだろう。

 些細なことでも、Apの危機を見過ごすわけにはいかない。ショッピングセンターの事件があったばかりだ。

 館内のセキュリティは厳重に強化されているが、職員の中に『venomベノム』が紛れている怖れがある。

 今はフライトメンバーの5人しか信じられない。

 ――私が行かなきゃ。

 たとえ不審な人物に出くわしても、全力で走れば逃げ切れるはずだ。


 ともしていないペンライトを片手に持ち、扉横のリーダーにIDを翳す。

 入室は速やかに許可された。

 そっとドアを開ける。

 奥行きのある真っ暗な部屋に、多くのコンピュータが立ち並んでいた。

 物音の正体も、詳しい状況も、ここからでは把握できない。

 中に入って調べるしかないだろう。

 少し考え、ドアの横にフォトンを置く。

 本能からの警告を遮り、数歩踏み込んだ。

 背後で扉が閉まる。

 それだけのことなのに、驚いて悲鳴を上げかけた。

 やはり引き返そうかと逡巡する靴の先に、やわらかい何かが当たる。

「えっ?」

 ライトは点けず、視線を落として目を凝らす。

「何……?」

 闇に浮かぶ奇妙な輪郭。

 人の指だ。

「きゃあッ!」

 機械の間の細い通路に誰か倒れている。

 制服の胸元を握り、呼吸を整えた。

 まだ死体と決まったわけではない。生きているならすぐに助けを呼ばなければ。

「あの、……すみません、……大丈夫ですか?」

 側に身を屈めて覗き込む。

 俯せているので顔は見えないが、これといって特徴のない男性だ。このエリアのスタッフだろう。

 諦めずに5回、それぞれ違う国の言葉で呼びかけてみたけれど、反応がない。

 とにかくセルラで連絡しようと端末を手にした刹那。空気の流れで、この部屋にもうひとり潜んでいることを知った。

 体内の細胞が一瞬で凍りつく。

 今になって目が慣れ、倒れている男の背に深々とした刺し傷が見て取れた。

「死ん、でる……?」

 首筋に響くほど強く、鼓動が乱れ狂っている。

 恐怖に縛られて動くことができない。

 ――迂闊だったわ。

 ここに入るべきではなかった。

 扉まで僅かな距離だが、逃げられるだろうか。

 ――残念だけど無理ね……。

 完全に捕捉されている。

 隠れていた猟奇犯は、獲物を追い詰める豹のようだ。

 痛いほど身近に死を感じた。

 黒い気配が、一歩、また一歩と迫り来る。

 重く冷ややかな靴底のしなり。

 不意に訪れる無音。

 僅かに風が起きた。

 後ろだ。

 振り返った途端、真新しいナイフと目が合った。

「ッ!?」

 反射的に避けた身体を蹴り飛ばされる。

「うッ……」

 デスクに衝突した肩が酷く疼き、藍色の視界がしゃに歪んだ。

「あなた、誰なの……?」

 返事はないが、敵であることは間違いない。

 顔を上げると、通路1本隔てて立つ黒いシルエットが、不自然に腕を曲げていた。

 研ぎ澄まされた銀の刃が的を見つめている。

 真っ白なガーゼ。もしくは胸の左側。

 無抵抗のまま諦めるしかないのか。どこへ向かっても、飛んできたナイフにあっさりと貫かれるだろう。

 未知の痛みを想像して唇を噛んだ。

 ――死んだらきっと、パパとママに会えるわ。

 目を閉じるべきか迷っていたところに、セルラの着信音が鳴り響く。

 最悪なタイミングだ。

 素早くポケットから取り出し、受話状態にして床に放った。状況を説明している時間はない。

 微かに見えた発信者の名前に胸が軋む。

「殺すつもりなら早くしてちょうだい」

 涙が零れる前に微笑んでみた。あまり明るく笑えなかった人生へのはなむけだ。

「私のことなんて誰も助けに来ないわよ。孤児だもの」

 Apの仲間は、いなくなったことを悲しんでくれるかもしれないけれど、いつかはきっと自分の存在を忘れてしまう。

 ――仕方ないわよね……。

 敵が腕を振り被ると同時に顔を伏せた。

 空間を切り裂く殺しの刃。

 硬い衝突音。

「っ! …………?」

 張り裂けるほどの惨さを覚悟したが、それらしい感触がない。

 恐る恐る目を開けた。

 身体は死んでいない。

 投げられたナイフは、腕と胴の僅かな隙間に刺さっていた。

 溢れ出すように血の気が引いて、意識が遠くなる。

「セーラッ! 立てッ!」

「……ディオン!?」

 なぜここがわかったのだろう。セルラは手から放し、何も喋っていない。

 先ほど敵が佇んでいた場所に、消火器を携えたディオンが立っていた。

 その足元に黒衣の人物が倒れている。

「ぼけっとすんな! 走れッ!」

 ふらつく身体を奮い立たせ、彼の元に駆けた。

 ディオンは消火器を敵の後頭部に叩き落とし、部屋を出ろと荒く促す。

 頷き、何も言わずに従った。

 薄暗い通路にふたり分の靴音が反響する。

「あいつ、まだ生きてるかもしれないぜ」

 彼は得意の不良みたいな笑い方をしているが、眉の辺りは険しかった。

「着信あったら助けてとか言うだろ普通」

「いいの。来てくれるって予感がしたから。……テレパシーかしら」

「送ってねえよ」

 こちらの腕を掴み、通路を疾走しながら、彼はセルラで警備を呼んだ。

「セーラ。無事か」

「ええ、もちろん」

 素直にありがとうと言えず、小さな声でつけ加えた。

「勇気を振り絞って通学したのに、学年閉鎖だったときと同じ気分よ」

「最高にツイてるだろ」

「そうね」

 生きているので明日、今日の続きが始まる。

 今回の件で、残り僅かなラックを使い切ってしまったかもしれない。

 ――だけど私。

 両親に再会することよりずっと、価値のあるものに気づけてよかった。



                                  Ⅳ-2 end.


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ