Ⅳ-1 シェルピンク
朝方に部屋へ戻ると、ドアノブに紙袋が掛かっていた。
吹くはずのない風に撫でられた気がして、柊は首元へ手を遣る。
――手紙かな。……きっと僕宛のレターだね。
以前は手放しで喜んでいたが、今は『venom』の因子が混ざっているのではないかと警戒のスイッチが入る。
無音の空間で鼓動が急加速。
袋を逆さにし、ダイニングテーブルに中身をすべて出した。
雑に広げ、素早く見回したが、不自然な封筒は見つからない。
――来てないのか。本当に?
一通ずつ確認したけれど、それらしいものは紛れていなかった。
力が抜け、その場に座り込む。
この段階で、『venom』からの間接的接触を怖れる意味などないではないか。
椅子の背に汗っぽくなった額を預けると、眠気の残る目蓋が閉じていく。
昼のフライトが迫っているので、二度寝するわけにはいかない。
立ち上がりたくて力を溜めていると、小さな気配があり、いつの間にかカフスとラペルが側に来ていた。
胴を共有し、片方の顔だけが目を開けている。
――右がラペル?
左はカフスか。
やはり、どうしても思い出せない。
トラウマによる記憶の欠けを問い詰めたくなる。
不時着は上手くいったのに、なぜなのか。自分でもわからない。
猫が遠慮がちにこちらを見ている。
近くに来るよう促し、それぞれの手で左右の頬を包んで、耳の間にそっと指を滑らせた。
そっくりなふたつの顔を見ていると、夢の残像が浮かんでくる。
――僕も双子だったら……。
偽物のあいつが実在するストーリーを空想してみた。
「微妙に髪の色違うなんて」
カレンに言ったら確実に笑うだろう。
何度も考えているけれど、続く悪夢に意味があるとしたら、少しでも早く真相を知りたい。
――報復。呪い。新手の柊ディス。
警告の線が濃厚か。
あるいは予知夢のようなものなのか。
この先、自分だけが死ぬ運命だとしても、場合によっては砕け散った機体とともに、多くの血が流れるだろう。
・
エドガーは思い悩んでいた。
だいぶ前から直面している重要課題だ。
――議長にも話した方がいいよな絶対。
柊から、フライト仲間に『venom』の侵攻を伝えたという報せを受け、決断を急ぎたくなった。
「どうしたの? 調子が悪いならメディカルセンターに戻るべきだわ。つき添ってあげても構わないけど」
街路を歩きながら、議長が返事を待っている。
「せっかく部屋帰って着替えたのに欠勤かよ」自分で言って可笑しくなった。
昨日は瓦礫と煙で窒息寸前だったが、覚醒後、議長の尋問で急速に回復。
現在、彼女を送り届けるために大学へ向かっている。
次はいつ会えるかわからない。到着するまでの間に決めなければ。
打ち明けるか否かの迷いで、身体中のビートが途切れそうだ。
彼女は秘密を守ってくれるだろう。困ったとき知恵を貸してくれるかもしれない。
身近で最も頼りになる存在だ。
だからこそ、おそらく『venom』の手によって、シティの平和が蝕まれていることを伝えるべきなのか。
「エディ。あなたがセスナ署のバッジつけてるせいで私、非行少女みたいに見えてる気がするの。ポリスに捕まったというシチュエーションよ」
「俺が捕まえたのか。未来の検察官を」
頷き、彼女はうっすらと微笑んで右手の甲をこちらに向けた。
綺麗だと言うので、リサイズして渡したリングが、朝の陽を浴びて輝いている。
「すごくいいわ。これがあると不埒な男子が話しかけてこないもの」
強烈なバリア効果が実証されているらしい。
けれど、誠実な誘いがあっても、議長は正体の知れない他人を受け入れたりはしないだろう。
高等部の頃からそうだった。
凛とした会議の進行。冷静な判断。そして、いつも何かを怖れ、人の本心を疑っているような、人間らしい女子生徒だった。
「あなたには、しばらくデスクワークをお勧めするわ。資料をまとめたりする素敵な任務よ」
不意に閃きがあった。『venom』について、もっと深く調べられないだろうか。
搬送の事実を利用して、署に残ることは充分可能だ。出動できるほどには復活していないとアピールすれば問題ない。
隙を見てファイル室に侵入する。
もしかすると、『venom』に関する過去のデータが保管されているかもしれない。
今後のためにも、奴らの情報は少しでも多く知るべきだ。
そもそもなぜ、シティ・セスナを標的に、非情な攻撃を繰り返すのか。
その理由を突き止めるキィも見つけられれば成功だ。
捜査は全件で難航し、容疑者は依然不明。『venom』の存在すら浮上していない。
――署内の誰かが沈めてるのか。……笑えねえよ。
もし、ホテル放火とショッピングセンター爆破、その他の事件が繋がっていないとしても、犯行グループを炙り出さなければシティが破壊される。
――一刻を争う危機だよな。
すべてを終わらせない限り、セントラルのエアポートが狙われる危険性が高い。
これまでに頭の中で何度も敵の姿を想像した。
規模。リーダー。目的。次のライブ。
――単独犯だったら、俺がステージで表彰してやるよ。
『venom』の体制を暴くのが楽しみだ。
ゲームのつもりなら、最後のひとりが降伏するまで追い詰める。
大学の門が見えてきたので結論を出した。議長に話をするのは、情報を集め終えた後だ。
「何かあったらすぐに逃げろよ。求められても、誰のことも助けるな」
「見殺しにするの?」
「そうだ」
いざというとき、議長が情に流されて選択を誤らないよう願った。
ほんの一瞬、触れ合うようにこちらの手を握って、彼女は側を離れていく。
知性を纏う、潔白な後ろ姿。
複雑な心境で見送っていると、数歩進んだところで振り返った。
花びらが舞っていなくて残念だ。
「あなたこそ……」
「は?」
「あなたの方こそ、死ぬくらいなら、冴えない正義を捨てて逃げるといいわ。職業なんて関係ない」
・
柊は、軋む身体を励ましてステアリングを握った。
――一般市民、強すぎるよね……。
ショッピングセンターの事件があったせいか、『City War』が前回より白熱していて、カレンの誘導がなければ二桁以上撃たれていた。
予定通りディナーを終えて帰路に就き、居住館へ向けて車を走らせようとしている。しかし動かない。
「……渋滞かしら? 事故じゃないといいけど」
助手席のカレンが不安げに眉を寄せる。
「あのまま行けば今頃着いてたのに。……ごめん、疲れたよね」
予告なしの豪雨に見舞われ、導かれるようにアンダー路へ下りてしまった。
このままでは部屋に帰れない。
ふと窓の外を見ると、路上が不気味に濡れていた。
水は流れ込まない設計のはずだ。
アクシデントだろうか。
位置が悪く、ここで浸水されると前後左右逃げ場がない。最悪の場合、車を諦めて、徒歩で地上を目指すことになる。
カレンも食事のための着替えを用意していて、今は『City War』の戦士ではなく、淑女の装いだ。ムードに合わせた綺麗な靴を履いている。
「カレン。聞いてほしいことがあるんだけど」
彼女は目を丸くし、胸に手を当てる。
「待って。その言い方にびっくりしたわ。……絶対わざとね。どうかしたの?」
少し頬が赤くなっている気がするが、何だか楽しそうだ。
ハッピーをぶち壊すのは申し訳ないけれど、告白するしかない。
「地上から浸水してると思う……」
「えっ」とカレンがドア上のウィンドウを覗く。「大変だわっ、……これで済むかしら。もっと水が来る?」
「たぶん」
始まったばかりの悪天候が、早々に過ぎ去るとも思えない。
渋滞の原因も気に掛かる。
スムーズにアンダー路を抜けられれば解決する問題だが、一向に動き出す気配がない。
分離帯が邪魔で、対向車線へ移るのも困難だ。
「わたし、花に連絡してみる。事故のニュースがあったら教えてくれるわ」
彼女はセルラを耳に当てる。
再び車外を窺うと、切迫した危機を覚えるほどに水位が高まっていた。
通話を終えたカレンが言う。
「先の方で大型車が横転したみたい。しばらく時間がかかりそうね」
やはり事故か。罠のようなタイミングだ。けれど、3車線すべてが封鎖されている理由はわかった。
「でもきっと大丈夫よ。ひとりじゃなくてよかった」
カレンはフレッシュな笑顔だ。現実逃避かもしれない。
地下のロードマップを開いてみたが、この近辺に、地上へ続く通路や階段は見当たらなかった。
不意にスピーカーのノイズが響く。
交通再開のアナウンスを期待したけれど、トラブルがあり、アンダー路に大量の雨水が流れ込んでいるという状況説明に終始した。
やがて怖れていた事態が現実となり、車内に浸水が始まった。もう、渋滞が解消されても走れない。
「ドアが開かなくなる前に降りよう」
周囲の者も次々と車から脱出している。
「カレン、上着を持った方がいい」
彼女はワンピースに薄手のボレロという服装だ。
「『City War』で着てたのはだめよ。わたしの汗でぽってりしてるから」
ジャケットを貸すと申し出たが、遠慮しているのか、さらりと押し戻された。
「ラギの方が寒がりでしょ。気を遣わないで」
諦めて、静かにドアを押し開ける。
今にも消えそうな明かりたちが、震えながら暗い水面に映り込んでいた。
躊躇いたくなる水嵩だ。
アスファルトに立つと、膝の辺りまでが一瞬で水浸しになる。
「君はそこで待ってて」
濡れた靴が重い。スマートな動きは無理そうだ。
助手席に回り、ドアを開けてカレンの腕を引く。
地下迷宮で、追手を逃れた人質のように、壁に凭れて力を抜いた。
刻々と寒さが際立ち、水に浸かった足から冷えた血が這い上がってくる。
取り留めのない会話の後、泳げるか否かのタイムリーな話題に突入した。
彼女は浮き輪が必要な種族らしい。
「僕も自信ないな。スポーツの授業には参加しない主義だったから」
胸の痛みとともに、初等部の頃、何度か一緒になった同級生を思い出す。彼も見学の常連だった。
最後に言葉を交わしたとき、彼は迫り来る死について、小さな声で語った。
「命ある者として役目を果たしてないかもしれないけど、僕は……」
死んだら誰にも会えないということに寂しさはなく、寧ろやっと楽になって微笑えるような、やさしい世界を想像した。
「代わりに死んであげようかって言ったら、頑張って生きるように説得された」
その日の傷が開いたままだ。
「……今は少し寂しくなれそうだよ」
けれど、人の心は完治しない病に似ている。複雑な秘密を抱えていて、簡単には変われない。
緩く意識を繋ぎ止めていると、周囲にかすかなざわめきが起こった。
救助船らしきボートが、閑散とした対向車線を進んでこちらに向かっている。
ひとつではなく複数だ。
災害レスQ隊員の呼びかけで、水難者になりかけた市民がボートに近づいていく。
「ラギ、助けが来たみたい。しっかりして」
声だけは元気そうだが、カレンの顔を見ると無彩色のように白く褪めていた。
「僕はいいよ。ずっとここにいたいな……」
「そんなのだめ! ラギはパーソナルジャンルでいうとスカイ系だから、地下に長く留まるのは危険だと思うの。他の人より早く死んじゃうわ」
確かに死にかけている。
カレンに促され、夢遊病っぽくボートを目指したが、彼女がいきなり立ち止まったので、薄い背中に衝突しかけた。
「残念ね。もう乗れないわ」
最後の救助船に、ふたり分の空きがない。
「大丈夫。帰れるよ」
ボートは満員に近い状態だったが、カレンひとりくらいなら乗せて貰えそうだ。
「どうか、彼女もお願いできませんか」
隊員はウェルカムな表情だ。乗客に呼びかけ、場所を空けようとしてくれている。
「いいえ」
カレンは仕事のときと同じ笑顔で辞退し、至近距離に佇んでいた男性を推した。
「こちらの方を乗せてください。わたしたちは次を待ちますので……。お心遣いに感謝致します」
遠ざかるボートの人々を、空の礼で見送った。
カレンは子どもに手を振っている。
本人が断ったとしても、彼女を乗せるべきだった。
結局カレンは残り、来るかわからない別のボートを待っている。
周囲が静寂に包まれ、時間の確かさが薄らいでいく。
こうしている間にも水位は上がり、腕を下ろすと中指の先が濡れた。
「流されそうだね。……平気?」
「少し危なかったわ」照れているようなニュアンスだが、カレンも酷く衰弱している。
ふと思いつき、彼女を車体の上部に座らせた。
白地のワンピースが肌に密着し、淡い色のレースが透けている。女子しか持っていない、スリップというランジェリーだ。
カレンはさりげなくボレロを脱ぎ、ウエストに巻いた。
「さっきのボート、君が乗ればよかったのに」
「重量の計算をしてたの。ボートの最大積載量に近い方が成功でしょ? 外見で重さを当てるの得意だから。あの男性が乗ってくれると理想値だったのよ」
本当は、自分だけが救助されるわけにはいかないと思ったのだろう。転覆の怖れはなく、誰が乗ってもよかったはずだ。
「あっ」
何気なく目に留まったカレンの足から、靴が片方消えていた。
「まだこの辺りにあるかも。探そうか?」
彼女は口元を綻ばせ、首を横に振った。
窮地の中で、新しいからかいの技法を開発したようだ。
そして、洗練された角度でもう一方の靴も脱ぎ、側に置いた。
「困ってるの。助けてくれるでしょ? ……わたしもラギを助けるから、今日はラギがわたしを助けて」
追加の救助ボートが来ないので、彼らのルートを辿って進んでみることにした。
「行こうか。明日のフライトに間に合わないとまずいから」
笑いかけると、彼女も頷いた。
「そうよね! きっとみんな心配してくれてるから、無事に戻れるように努力しましょう」
期待に応えるため、車上で凍えるカレンを抱きかかえた。
「重すぎたら遠回しに伝えてちょうだい」
控えめな物言いだが、妙に嬉しそうだ。アンダー路の環境が気に召さなくて、プリンセスの国に行ってしまったのかもしれない。
「無理っぽいなら先に、実は腕を痛めたんだ……、とか言うよ」
「そうしたらわたし、靴がないのに歩かなきゃいけないのね」
氷化寸前の世界で、素朴な笑いが生まれた。
少しでも空気の流れに触れたかったけれど、どこも低く滞っている。
無痛について考えながら、感覚の鈍い脚を動かし続けた。
水が硬い。
出口が遠すぎる。
途中、何かに追われているような気がして後ろを振り返った。
重症なのか。
ここで自分が死んだとしても、任されていたフライトは誰かが代わり、欠航せずに飛ぶだろう。仕方がないけれど、想像すると苦しくなった。
酸素が薄いせいかもしれない。
パニックを防ぐため、動揺を避けて、平常時の血圧を維持することが不可欠だ。
このまま切り抜けられるだろうか。
「ねえ、ラギ……」
腕の中のカレンが真っ直ぐに見つめてくるので、『何?』と仕草で問いかける。
嫌な予感がした。瞳の煌めきがロマンス全開だ。
彼女は悪戯に目線を外して微笑んだ。
「……わたし、男の人に突き放されたり、急にやさしくされたり、したい」
Ⅳ-1 end.




