Ⅲ-2 コルク
フライトメンバーに、『venom』の情報と経緯を伝えた。
自分にしては珍しく、決断と行動が同じ方を向いている。
――これでよかったのかな……。
誘導灯が点かないので、感覚だけを頼りにしたけれど。
柊は、あたたかいカップに口をつけた。
力を使い果たしてしまい、しばらく立ち上がれそうにない。
「ラギ、もう平気?」
覗き込んできたカレンが、猛烈に見覚えのあるニットパーカを着ていた。
中はCAの制服にスカーフを巻いたままだ。
「これ、あなたのだけど興味本位で借りたの」
こちらは現在、備品の毛布に包まれて救助者状態だ。
「それ、ほしかったら君にあげるよ。柊コスに使ってみて」
「いいえ」彼女は明らかに悪乗りを我慢している。「わたしには大きいもの。洗って返すわ」
確か、『venom』について話し終えた直後に、立っているのが限界になってベッドに縋った。
原因のひとつめは、徹夜の毒が回ったせい。
ふたつめは、カレンに与えられた可愛いシロップのあいつ。
壁の時計が正しければ、さほど時間は経っていない。
打ち寄せていた波が落ち着き、不思議と心が凪いでいる。
選択肢は間違えていないと信じたい。
室内を見回すと、隣のベッドに怪我人のセーラ。
医師用のデスクに頬杖をつき、医学本を眺めているヤスパー。
長椅子に横たわって、休眠中らしいディオン。
花はセーラの事故のことで呼ばれたのか、姿がなかった。
自然な風景だ。
渦中の柊さえ辞めれば『venom』の危機は遠ざけられる。そういった意見が出ることも覚悟していたが、退職に導かれる気配はない。
「レディス&ジェントルマン!」
回転椅子をくるりと回したヤスパーが、器用に片目を瞑った。続いて、手の平サイズの端末を掲げる。
「安全確認のため、夜のフライトは中止です!」
視界の隅で、ディオンが小さく唇の端を上げた。
セーラは更に暗転し、必死に何かを押し殺すような表情をしている。怪我の痛みが深刻なのか、罪悪感に溺れかけているのかはわからない。
ヤスパーはこちらに歩み寄り、「そういうことだからさ、ラギはここで少し寝なよ。大変だったね」と微笑んだ。「何かあったら起こしてあげる。花もそろそろ戻って来るし」
同じベッドに座っていたカレンに促され、もう眠るしかなくなった。
けれど、その前に言わなければいけないことがある。
「あの……、僕のせいで、みんなまで危険に晒してしまって……」
「偶然おまえが狙われただけだろ。Ap全体の問題だ」
弾みをつけてベッドから降り立ったカレンが、片腕を警礼の形に曲げ、自信ありげな笑顔を見せた。
「ラギ、心配しないで。わたしたちがいるから大丈夫!」
・
セーラは痛む身体を労わらず、近くの図書館を訪ねた。
問い合わせなどで通訳が必要なときは、セルラに連絡してほしいと伝えてある。
ターミナルから外へ出ると、ビルの合間に、爆破されたショッピングセンターの一部が見えた。
――Apがあんなふうになったら、私はどうなるのかしら。
命のことではなく、生活の基盤が危ない。
「施設も寄宿舎も遠慮したいわ……」
ヤスパーが綺麗にガーゼを当ててくれたけれど、いかにも事故に遭いましたという印象になってしまった。明日から普段通りに仕事ができるか自信がない。
ヘアサロンで洗って貰った髪が涼しく、絡んでいた血も流れて、いくらか冷静さが戻ってきた。
辿り着いた図書館は閑散としていて、誰の声も聞こえない。
目的の本を探すため、エスカレータで2階へ上がる。
書架に並ぶたくさんの資料。
ディオンの写真嫌いにトラウマめいたものを感じ、あの日からずっと気に掛かっていた。
それを調べに来たのだけれど、本の背表紙に触れた瞬間、出過ぎた真似をするべきではないと警告が過ぎる。
――でも、私が動かないと、ディオンはやさぐれた気分のまま生きていくことになるし……。
行動のスイッチを入れ、目についた図書を棚から抜いて腕に抱える。
次の本を手にしたとき、表紙の著者名を見て息を呑んだ。
懐かしいというより、驚きと同時に時間が止まった気がした。
――パパと、ママの名前。
国籍が入り乱れたふたつの氏名。
これは偶然なのか。
それとも意味のないトラップなのか。
――セーラは……、あなたたちの娘はケガばかりよ。宿命かしら。
可笑しくなって、自然と涙が零れた。
「パパもママも、私のこと憶えてないでしょ? 死んだんだもの。もう忘れちゃったわよね……」
どこかで見守ってくれていると、信じてみるのも悪くないけれど。
カバーの折り返しに著者の紹介がある。
父は心理学部の講師。母はコミュニケーション学部の研究生。ふたりの共著だ。
本の内容は、心に傷を負った生徒との対話に関するもので、求めていた何かを得られそうに思えた。
貸出の手続きを終えた後、特に理由はなくNペイパーの一角に立ち寄った。
刊行の新しいものが、いくつかラックに飾られている。
ひとつ手に取って広げた。
写真の中で、強盗犯が非難の光を浴び、命を守るように顔を俯けている。
レンズの包囲。詰責のフラッシュ。
「あっ」と思わず声が漏れる。
この予感。
――まさか、ディオンも……。
けれど、加害側だったとしたら、パイロットのライセンスは絶対に取れない。
誰かに危害を加えられたのか。
もし、これが的中した場合、彼は被害者である可能性が高い。
フォトンを壊されたときのことを、思い出さずにはいられなかった。
言いたくないからディオンは黙っているのだろう。
手段があったとしても、過去を覗くような不道徳は、絶対にやってはいけない。何も知るべきではない。
――人の秘密を暴くなんて、私には。
罪が重すぎる。
難しい顔をしていたからか、司書が古い記事の探し方を教えてくれた。
「ありがとうございます。でも……」
図書館を出て事故現場へ足を運ぶと、荒い線路のような血の跡が消えていた。
見知らぬ誰かの死。その記憶だけが、深く胸に刻まれている。
花束を置いて行く場所がなく、抱えたまま立ち去るしかなかった。
傷口のガーゼが、黒ずんで重くなっている。
薬が切れたせいか、熱く責め立てるような痛みが身体中に響き始めていた。
泣きたいのに泣けなくて、感情が抑圧されているのがわかる。
帰路の途中。ふと思いつき、橋から水の流れへ向けて、弔いの花弁を散らした。
淡い色が宙を舞い、やがて夜に攫われていく。
――救ってくださった方には申し訳ないけれど、私は自分を、大切にはできない……。
・
目を覚ますと、離陸後の機内にいた。
不相応に等級のよい席で、窓に手を伸ばすと空の水色に触れそうだ。
――今日は僕が乗客か。
それなのになぜか制服着用だ。
この謎なシチュエーションは、夢の中に違いない。
柊は自虐気味に笑った。
航空機で、どこへ行くというのだろう。目的地も、身を寄せるあてもないのに。
側を通りかかったCAを呼び止め、機体の名を訊く。
彼女は『sky paginater-9633』と言った。
自分が任されていた機だ。
違和感に突き動かされ、席を離れてコクピットへ向かう。
関係者しか立ち入れないエリアだが、手を突っ込んでみると、上着のポケットにカードキーが入っている。
――『venom』の作戦部屋になってたりして……。
遂に直接対決か。
仮にそうだとしても、パイロットがいるはずだ。正体を確かめたい。
ドアが開くと同時に、嫌な動悸に襲われる。
「えっ……」
操縦席に座っている人物は、自分ではないのか。
しかし、髪の色が若干薄い気がする。
色素を節約したのかもしれない。
チョコっぽいというより、ワインの栓と同じカラーだ。
「偽物の柊、操縦を替わってくれ。君に任せたくない」
彼は振り向いて言った。「僕だって柊なのに」
やはり同じ顔だ。だが、妙に自信ありげというか、余裕ぶって平然としている。
最悪の対面。この不自然な事態に、どう収拾をつければよいのか。
「っ!?」
扉の前で立ち尽くしていると、突然背後から拘束され、コクピットから引きずり出された。
「放してくれ!」
どこに乗っていたのか、厳めしい保安員姿の男だ。座席へ連れ戻そうとしているらしく、無言で力を込めてくる。
乗客の視線が痛い。注目のダメージで抵抗力が落ち始めている。
抗議の甲斐なく、先ほどのシートに押しつけられ、手首を縛られた。
彼は通路を挟んで斜め後ろの席から、威圧的にこちらを監視している。
何を主張しても信じてはくれないだろう。まるで囚人だ。
仕方がないので、偽の柊を捕えて、どこかに閉じ込めておくしかない。
けれどこの状況では無理だ。策を考えなければ。
いつもは操縦している方なので想像すらしていなかったが、ロングフライトの乗客は本当に退屈だった。
小さな窓から景色を眺める以外にすることがない。
少し前までざわついていた機内が、今は無気力なほど静かだ。
隣の席はふたつとも空いている。
そっと周囲を窺うと、モニタで映画を観ている者と、就眠した者の比率が非常に高い。誰もこちらを気にしていない。
ふと閃きがあり、手首のロープがよりきつく締まるよう捻ってみた。
次第に皮膚が青褪めていく。
「すみません」通路に顔を出し、遠慮がちに保安員を呼んだ。
彼は面倒そうに席を立って、こちらへ近づいて来る。
やはり色の悪くなった手に憐れみを感じてくれたようだ。渋々と、気乗りしない仕草でロープを解きにかかった。
「逃げるなよ」
どこに逃げられるというのだろう。「フライト中の機内は準密室ですから」
男の目に警戒が走った瞬間、渾身の力で腕を振り上げた。
計算通り、保安員の頸部に直撃。
素早く席を立ち、よろめいた巨体を窓の窪みに叩きつけた。
数秒待ってみたけれど、男は起き上がらない。
冷たく鼓動が跳ねる。生存を確認して罪の意識を捨てたかったが、焦りを原動力に前方へ走った。
ギャレーに行けばハサミがあるはずだ。
仕切りのカーテンを開くと、中で作業をしていたエプロン姿のCAが動きを止めた。
「カレンは?」と問いかけたが、彼女は「存じません」と首を振った。
「すまないが、刃物を貸してくれないか」
職業柄察しがよく、彼女は何も言わずに手錠代わりのロープを切った。
「ありがとう。助かったよ」
一瞬の躊躇いの後、台に置かれたハサミを上着の袖に隠した。
フライトは順調だが、これで終わるはずがない。
コクピットへ戻ると、偽の柊が操縦席で眠そうにしていた。
彼ひとりだけだ。副操縦士はどこへ消えたのだろう。
「そこを退いて、仮眠用のベッドで寝てくれ。君はもう戻って来なくていい。交代の時間だ」
正面の窓に視線を遣ると、先の陸地がうっすらと見て取れた。
偽物が動かないので、右の座席に着く。操縦権をこちらに切り替えた。
「余計な邪魔をしないでほしい。僕は事故を起こすわけにはいかないし、フライト中に寝る趣味もない」
計器と位置情報を確認して眉を顰める。
「航路が違うじゃないか」
「どうでもいいよ。そんなこと」
「サブパイロットは誰だ。どこへ行った」
「うるさいから殺してしまったんだ。責任は取るよ……」
「僕っぽい言い方だな」完璧にからかわれている。
陸地がはっきりと目視できるようになると、そこに燻る不穏な雲に気がついた。
「うわ、殺伐としたムードだね」偽の柊は他人事のような口振りだ。
レーダーに、未確認接近機有りと警告が出ている。
狙われているのか。
他機が、絶妙な正確さで距離を詰めてくる。
想定外の脅威だ。
奇禍を重ねるように、正しい手順を繰り返しても、管制と連絡が取れない。
やがて雲の向こうに戦闘機のシルエットを捉えた。
こちらに照準を定めているのは明らかだ。
異国の攻撃圏内に侵入してしまった。
――まずい、撃たれる……!
身構えたと同時に、機体が大きく上下する。
着弾したのは間違いない。
計器が狂っていなければ、左の翼が破壊され、そこから燃料が漏れている。
「君のせいじゃないか! 何でこんなことを……。目的と理由を言え!」
「自由に飛んでみたかったからだよ」
隠していた夢が、歪んだ形で叶えられようとしていた。ぞっとする。
「そういうときは搭乗せずに、廃ビルから地面に向かって飛んでくれ!」
急旋回で進路を変えるべきか。
管制からの指示が届かない以上、こちらで決断するしかない。
一般の航空機が誤って侵入したと伝われば、僅かだが見逃してくれる可能性もある。
「偽物。君が乗客にアナウンスを。僕は手が離せない」
「『当機は間もなく墜落します』って?」
怒りに弾かれて隣を向いた刹那、飛んで来る何かに視界を塞がれた。
反射的に顔を背ける。
凄まじい爆音と振動。
「ッ……!」
庇いながら細く目を開けると、抉り取ったようにコクピットの左大半が消えていた。
上空へ引く鋭い風に身体が吸い出されそうだ。
このエリアに充分な酸素が残っていない。
頭か、それとも額からか、溢れた血が真上に誘われていく。
耐えがたい苦しさの中、偽物の自分に腕を掴まれていることに気づいた。
彼は、酷くダメージを受けた左の操縦席で項垂れている。
いつの間にか、腕時計のベルトで支えていたハサミが偽物の手に渡っていた。
「どうせ墜ちて死ぬよ。……生きてると辛いことしかないね」
彼は掠れた声で言い、自分の胸の負傷部位に刃先を突き刺した。
痛みなど微塵も感じていないような潔い眼差し。
制服の白が、侵食を超える速度で血に染まっていく。
あっさり死に向かいすぎだ。何のために現れたのか。
若干色の薄い頭が、生命感を失い、不安定に揺れている。
偽物の柊は辛いことしかなかったらしく、どこか後味の悪い結末だ。
そしてまた救えずに乗客乗員を殺すのか。
この機は、崩壊寸前の状態で墜落するだろう。
急激に高度が下がっている。
残念ながら制御不能だ。
致死の衝撃に備えて目を閉じる間際。少し心細くなって隣を見る。
――自分の手で機体を飛ばすまでは、僕も、悲しくて辛いことばかりだった……。
Ⅲ-2 end.




