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セスナ・エア・シーク  作者: satoh ame
Ⅱ Soar - ソア
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Ⅱ-2 ソレイユ


 ひいらぎは新しい能力に目覚めた。

 何も考えなくても、自分が夢の中にいることがわかる。

 ――今日こそはみんなを助けるぞ、って笑顔になれたらいいんだけど。

 性格的に無理っぽい。

 数秒前、管制からウェイトの指示が入ったばかりだ。着陸予定の滑走路に、無数のクレーターが見つかったという。

 降り立つ間際なので、燃料があまり多くは残っていない。

 この場合、受入要請をして最寄りのApへ飛ぶか、近隣の着陸可能エリアへ降ろすことになる。後者の不時着の方がリスクは高い。

 予期せぬアクシデントに触発され、客席がざわつき始めている。

 ――どうしてこんなことに……。

 罵声のような叫びが近づいて来るのを察した直後、コクピットの扉が蹴りつけられた。

「うちの子を殺すつもりなのッ!?」母親らしき人物が怒りに沸き、窓越しにこちらを睥睨している。「いつになったら降りられるのよッ!」

 隣には、見覚えのない補佐のパイロットが乗っていた。彼に任せて席を立つ。

 乗客がコクピットのドアを攻撃しているということは、乗組員が襲われてキーを奪い取られたのだろう。通常はこのエリアまで侵入できない。

 事態を把握しようと扉を開けた瞬間。

 凄まじい握力で腕を掴まれ、客席側へ引きずり出された。

「ちょっと来なさい! くだらない素人の練習に振り回されたくないわ!」

「申し訳ございません。滑走路のトラブルで、すぐには着陸できません……」

「そんなことどうでもいいから! 早く降ろせって言ってるでしょう!」

 乗客が立ち止まる。通路側の座席に幼い子どもがいた。土気色になって項垂れている。

「治療のために、ベッドが空くのをずっと待ってたのよ。やっと、……やっと、順番が、来たのに」

 母親は嗚咽を漏らして泣き崩れた。

 この辺りで名高い医療機関。セントラル記念メディカルセンターか。

「最寄りの着陸ポイントに降ろせるよう力を尽くします」

 管制に急病人がいると伝えれば、優先的にエリアを確保してくれるはずだ。

「もう間に合わないわ」

 直ちに動いても無理なのか。まだ諦めたくない。

「この飛行機にさえ乗らなければ」

「お願いします。どうか希望を……」

 視界の端で、子どもの頭がぐらりとかしいだ。

 衝撃で言葉が出ない。身体の表面が冷たく痺れるような痛切。

 母親の嘆きが天井に突き刺さる。

 罪悪感に攫われ、何も言えずに立ち尽くしていると、蹲って泣いていた母親が顔を上げた。

「あんたのせいよ……」

 掴みかかられた勢いに抗えず、硬い通路に押し倒された。

「この人殺しッ!」

 滅茶苦茶にいたぶられ、夢の中なのに意識が乖離していく。

 けれど、コクピットに戻ってこの機を降ろさなければ。

 ふと、転がる紙コップが指先に掠った。機首が下がっている。勝手に降下しているのか。

 急速に窓の外が翳った。刹那、耳を覆いたくなる轟音とともに、他機の翼が客席へ刺し込まれる。

 瞬く間に機体の上半分が吹き飛んだ。

 ――だめだ、墜落する……!

 過激な振動。崩壊寸前の機体。上空へ向かう風の強さで髪が千切れそうだ。

 雲が遠ざかっていく。あまりの速度に怯えて目を瞑ろうとしたそのとき、視界に赤い霧が舞っていることに気がついた。

 馬乗りになって殴りつけてきた子どもの母親が、傍らに横たわっている。

 助け起こそうとして息を呑んだ。

 ――肩から上がない。

 ああ、と声が漏れた。

 接触した翼にスライスされ、胸から下だけになった乗客の身体。座席に虚ろな半身を残したまま、皆死んでいる。

 青空へと吹き上がる147名分の血煙。

 墜落を控えた今、生きているのは、通路に倒れていた自分だけだった。



 汗っぽくなった身体が重い。

 ふらつきながら居住館レジデンスの屋上へ向かうと、空と柵しかない空間にカレンがいた。

 狙撃の合図を待っているのか、それとも音楽を聴いているのか、耳の辺りから細いコードが伸びている。

 変わらず元気そうで羨ましい。

 陽気に当てられて眠くなってしまったのだろう。閉じた目蓋が少しも動かない。

 フェンスひとつ分の距離を置いて座ったにも関わらず、風が吹くたび、彼女の髪からラベンダーの香りが漂ってくる。その効能が、また誰も救えなかった胸の痛みに作用した。

 これ以上の悲しみを積んだら飛べなくなりそうだ。

 罰でも警告でも構わないから、悪夢の意図を教えてほしいと切に思った。

 あの脅迫めいたカードは再び届くのだろうか。

 わからないことばかりで失神したくなる。

 時計を置いてきてしまったけれど、そろそろ朝の便が出発するらしい。

 知らないパイロットの操縦機が、視界を斜めに飛び去っていく。


「ラギ?」

 驚いて隣を見ると、カレンがこちらを覗き込んでいた。

「どうしたの? もしかして、眠寂ねむさびしくなってわたしのこと探してたの?」

 彼女は、予約なしで現れた新顔さえも、豊かな愛情で包み込めるセラピストだった。

 本当は左からそっと抱き締めてほしかったけれど、伝える勇気が2ポイント足りない。

「実は……」と言いかけた台詞を遮断する。恥ずかしくなって、ニットパーカのフードを被った。先刻の夢はZジャンルすぎて打ち明けられない。

「何?」彼女は先を促すように首を傾げた。

「暗殺してるの見つかりそうになって逃げて来たんだ……」

 カレンは目を丸くする。

「危なかったわね!」

 忘れていたが、彼女は悪乗りのエキスパートだ。

「言ってくれたら協力したのに」

「……君も仲間だったのか」

「そうよ」

 隔絶された屋上に、黒と赤の綺麗な世界が広がっている。

「こんなところで会えるなんて。嬉しいよ」

 彼女はディオンから、記録機のフォトンを買って来てくれと頼まれたが、外の空気を吸いたくなって寄り道したらしい。

「ねえ、あなたは何が好き?」カレンがミステリアスな指で、淡く色づいた唇を触る。

「武器? ナイフかな」

 ジョークの延長で口にしたのに、想像すると生々しくて眩暈がした。

「本当は向いてなくて、泣きながらいつも吐いてる。人間が怖いんだ」

 彼女は怪訝な瞳で、こちらの頭から足の先までを難しく観察している。

「ひと仕事終えたあと、紙パックのミルクとか飲んでるでしょ。大きくなりすぎよ。わたしの見立てでは絶対吐いてない」

 白状してフェンスに寄りかかると、カレンがヒヨコのような歩みで距離を詰めてきた。

「ラギ。髪の毛くっついてる。濡れてるの……?」

 汗か涙か判断がつかなくて困っているようだ。

「どこ?」

「自殺するときピストルで撃つところ」



 ヤスパーははなを連れて、大学のカフェテリアを訪れた。

 食事の次は、図書棟で点字の本を借りる。いつの間にかルーティン化した、心やすらぐ休日のルート。

「ここの生パスタ最高よねっ」と、花は軽やかに語尾を切った。微糖に近い声で、少年のような喋り方をする。仕事のときはもう少し甘やかだ。

 逆にカレンはレディライクというか、ほのかに余韻を残す話し方が好みらしい。

 午後の講義が始まっているので、学生の数は疎らだ。窓側のテーブルも空いている。

 今日の花は、CAの制服に合わせた髪飾りをつけておらず、ほどよく大学の雰囲気に溶け込んでいる。

「ぼくの作ったやつだめだった? けっこう美味しいはずなんだけどな」在学中からリスペクトしているオムライスにスプーンを挿し込む。

「あの変な油分さえ入ってなかったら、もっと好きになれたと思う」

「革命のアルガンオイルだね?」

『メンズ料理教室』で磨いた技を生かしきれなかったようだ。

「カロリー高すぎっ」彼女は眉を寄せて笑った。「制服のボタン留まらなくなったらクビなのに!」

 残念だが、オイルは封印すると決めた。花を失うわけにはいかないからだ。

 因みに、機内の困り事の大半は、彼女に相談すると上手くいく。

「そういえば、昨日のフライト素敵だったわね。ラギのサインほしくなっちゃった」

「えっ」破壊された心の翼から燃料が流れ出しそうだ。

「冗談に決まってるじゃないっ」

 悪い天使になりかかっている花が、デザートのベリーを差し出して言う。

「ヤスパー、これあげるから落ち込まないで。病巣みたいで苦手なの」そして小さな桜が開花するように微笑んだ。「あなたの操縦も好きよ!」


 遠くの空が翳っている。

 午後の便は、風向きの関係で滑走路が変更になりそうだ。

 助手席の花は、先ほど借りた本を開いて点をなぞっている。

「だめだわ、半分くらいしか読めない。あー、もういやっ」

「そのうち慣れるよ」

「あなたはどこで覚えたの? 今日こそは聞き出したいわ。見えるのにこれ読める人、あなたひとりしか知らないのよ」

「花、君も点字フレンズじゃん。見えるのに読める人がふたりになったね」

 隣から視線を戻した刹那、反射的にブレーキを踏む。

 目の前の交差点で、突然レスQの車が横転した。

 犠牲になった消火栓から水が溢れている。

 追突か。予期せぬクラッシュだ。

 ――でも今の、偶然じゃない気がする……。

 それを裏づけるように、タイヤの軋みを上げ、黒い車体が遠ざかっていく。

 ほんの一瞬だが、ナンバープレートがついているはずの位置に、白いペイントらしきものが見えた。

「痛っ」と、か細い声が耳を掠める。

 花が指から血を流していた。急ブレーキの衝撃で本の角が刺さったようだ。

「うわっ。ごめん、いきなり停まったから……」

 幸い後続車はいない。一旦降りて、助手席のドアを開ける。

 ダッシュボードから手当ての道具を出し、消毒液のボトルを傾けた。

「何するのよっ、沁みるじゃない!」

 花は涙目になって怒っているけれど、突き放す威力はささやかだ。

「力なさすぎだね。こんなんじゃヤスパーは倒せないよ。ほら、少しでいいから大人しくしてくださいね」

 包帯を巻きながら事故現場を一瞥すると、すでに数名の救助隊が駆けつけていた。

「あなた、何者なの?」不意打ちのスパイ疑惑。台詞のニュアンスが映画のシーンと似ていて笑いそうになった。

「普通のヤスパーだよ」

「手際がいいのね。医大の人みたい」彼女は白く巻かれた指をぎこちなく動かした。「処置の仕方、どこで習ったの?」

「医学書かな」

「そんなの嘘」

 もっと不誠実な点に触れたくて閃きを待っていると、こちらへ近づいて来るレスQ隊員の姿を捉えた。

 ――ぼくたちは急いでここを離れないといけないね。

 隊員に無事だと伝え、運転席へ引き返す。

 油断した背後に声を掛けられて戦慄した。「……失礼ですが、医学長のご子息では……?」

NoNeiNem

 ナチュラルに微笑わらって片目を瞑る。

「人違いだと思いますよ!」


 ――花にケガさせちゃったけど、あの不気味な事故に巻き込まれなかったことが不幸中の幸いだね。

 横倒しになったレスQの車体。おそらく重体の傷病者を乗せて、セントラル記念メディカルセンターへ向かっていたはずだ。悪戯だとしたら、あまりに遠慮がなさすぎる。

 そして、逃走車後部の意味深なペイント。レ点のようにも見えたけれど、もしかするとあれは、アルファベットの『V』だったのではないか。



 日が暮れてから、寒気が悪い予感に変わり、現実とリンクしそうで緊張が解けない。

 上着の袖を伸ばして、冷えた指を包んでみる。ニットの網目から小指が飛び出した。これもたぶん、よくない兆しだ。

 招かれたディナーの席で、柊は初めて真正面からセーラを見た。

 カレンがキャンドルを調達してくると言って席を離れたので、彼女とふたりきりになってしまった。主宰の花も来ていない。

「通訳のセーラです。よろしくお願いします」

 切り揃えた前髪のせいか、妙に少女っぽくて危険な雰囲気だ。

「本当はセアラのような発音ですが、セーラと呼んでください」

 館内アナウンスと同じ声。

 彼女との相性は不明だけれど、あまり心を開かない人物像に、うっすらと親愛の情を抱いた。

「僕はラギで構わないから。外国の言葉で変なニックネームつけてもいいよ。いじられキャラなんだ」

 セーラは返事に控えめな笑顔を添えた。新メンバーへの、一度きりのスペシャルサービスだろう。

「あの……」

「はい?」

「答えなくてもいいんだけど、その顔、どうしたの?」

 口の端が青く痣になっていて、殴られたような痕跡がある。

「大丈夫です。ディオンが何かしたわけではありません」

「俺がどうかしたのか」絶妙すぎるタイミングで本人が現れた。

 振り返ったセーラを見て、ディオンは眉を顰める。

「誰にやられた」

 彼女は視線を逸らせて呟く。「そんなこと追及したって意味ないわ」

「言え!」

 彼は、出て行こうとするセーラの腕を掴んで引き止めた。

「久しぶりに通学したら囲まれてやられたの。課題は全部再提出。みんな私のこと殺したいくらいきらいなのよ。……これでいいでしょ。放して。部屋に帰って朝までにレポート書き直すわ」

「俺が手を貸したやつもか」

「そうよ。全部って言ったじゃない」

 ディオンは今にも復讐者に生まれ変わりそうな目をして侮蔑の言葉を吐き捨てた。

 生徒だけでなく、教員もいじめに加担しているのか。

 現在進行形で標的に選ばれがちな自分が、セーラの痛みに引き寄せられている。

 彼女を助けたいと思った。

「その課題ってタイプでもいいの?」さすがに少女と同じ字は書けない。

「……はい」意図をはかりかねている仕草でセーラが頷いた。

「僕でよければ手伝うよ。無駄にずっと勉強してたから」

「ナイスアシストだ、ラギ」ディオンは、戦地へ向かう兵士のような面持ちでセーラを見下ろす。「俺たちに任せとけ。家庭教師のサイン入れてやるから安心しろ」


 やがて居住館地下の空きホールに手料理が運び込まれ、フライトメンバーとのディナーが終了した。

「それじゃあ男子、頑張って!」とカレン。

 セーラは自分でやると最後まで主張していたが、相当疲弊しているらしく、課題のリストと学習アイテムをディオンに渡したあと、申し訳なさげに挨拶をして私室へ戻って行った。

 花が差し入れてくれた紅茶を飲みながら、課題の割り振りを決める。

 静かな地下階。キャンドルの炎が揺れ動く円卓。

 3人の操縦士が、教本を広げて初等部の課題に取り掛かろうとしている。

「手伝わせて悪いな」

「いいよ。セーラ可哀想じゃん」ヤスパーはこの流れを面白がっているようだ。

「ラギもすまない」

「いや、やることなかったから逆に有り難いっていうか……」

 実のところ胸中では、これで今夜は眠らなくて済むと安堵していた。

 だが、追い詰められている仲間を助けたいと思ったのも本心だ。

 セーラは殴られた顔のまま、明日も通訳の仕事をするのだろう。味方がいるということが伝わって、彼女の傷が癒えるよう願った。


「ぼくね、昼間事故に巻き込まれそうになったんだよね」

「黙れヤスパー。時間がない。手を動かせ」

「もう無理。眠くて幻覚見えそう。……ラギの頭見てるとホットミルクにチョコ入れて飲みたくなる。ロビーのジュース機にないかな。絶対ないね……」

 6本灯っていたキャンドルのうち、半数が命を落とした。この時刻だと、おそらく夜が明けている。

 戦いが終盤に差しかかった頃、パジャマ姿のセーラが訪ねてきた。

「私のせいでごめんなさい」

「うるせえ、修羅場なんだよ! 部屋戻って寝ろ!」

 彼女は緊迫した何かを感じ取ったのか、静かに引き返して行った。

 再び沈黙の中に、ペンとタイプの細やかなノイズが刻まれる。

 長針が一巡した辺りで、ディオンが万年筆を紙束の上に放った。

「よし、終わったぜ」

 仕上がった課題に家庭教師のサインをして、出身大学のスタンプを押せば完成だ。


 ヤスパーとディオンに、墜落の夢を見たことはないかと問いかけたい衝動に駆られたが、胸にとどめておくことにした。

 時間が、流星のように過ぎていく。

 自分たちは時の流れを生きるよう仕組まれていて、誰ひとりその、不可逆なルールから逃れることができない。

 なので叶うなら、迷いのない心でフライトを楽しみたいと思った。

 機内はこちらの守備領域。戦う覚悟はできている。

 ポケットの中のライセンスが、自分に配られた1枚きりのカードだ。

 制服に着替えたらきっと、待ち望んでいた最高の夢が目を覚ますだろう。



                                  Ⅱ-2 end.


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