Ⅱ-1 モーヴ
柊は窓枠に凭れて、死と隣り合わせの自分について結論を出した。
――尊くもない命を抱え込むのはやめよう。僕は生まれて来るべきじゃなかった。
手紙の返事も早々に書き終えてしまい、昨日のフライトのことばかり考えている。
操縦機は、最強にスタイリッシュな『sky performer-1091』。現代の滑走路から、少し先の未来へ飛び立つような、新感覚の青が身体に沁みた。
先輩風を吹かせたりせず、すべてを任せてくれたディオンにも感謝したい。
『venom』の存在を忘れるくらい、コクピットから眺める空に呑まれていた。
・
「ん……?」
メイズ化した意識の奥で、口の中に何かが侵入していることに気がついた。
蛇行する列車みたいに動いている。非常にアグレッシブだ。
こちらは妙な寒気に襲われていて、手足の感覚も鈍い。
ふと、どこかで見た挿管の映像が重なって、突発性の呼吸困難で死ぬのかなと思った。
けれど、たとえこれが、あたたかい場所を狙った悪戯でも許せそうだ。
幼い頃、高熱で生死を彷徨っていると、両親が笑顔で夜の社交界へ出掛けて行った。ひとりきりで心細かったので、同じ部屋に誰かいてくれるだけでも有り難い。
やがて、突っ込まれていた細いものが撤退していく。こいつは助ける価値がないと見放されたのだろうか。
「セーフね……!」
カレンの声だ。
「取り出すのがあと少し遅かったら、カプセルの外壁がやられて致命傷だったわよ」
クリニックを拒んで悪化した者たちへの常套句を、絶妙にアレンジしている。
身に覚えがありすぎて頬が熱くなった。
痛くても、苦しくても、限界まで我慢することをやめられない。乾いた呪詛に操られている。
胸が潰れそうになってきたので、ゆっくりと目を開けた。
――記憶が改竄されてなければ……。
カプセルを口に押し込んだのは間違いない。それから水のボトルを持って寝室に戻り、硬いキャップに苦戦しているうちにベッドへ倒れ込んだ。
「訪ねてきたら、キャンディ誤飲した子どもみたいに咳き込んでて驚いたわ」
その場面はフィルムが残っていない。飲んだのは、自殺候補生から熱く支持されているあれではなく、ただのビタミンだ。
「見殺しにするか迷ったと思うけど、救ってくれてありがとう。今日のフライトも任せて」
カレンはナースっぽく頷いた。
「それより、さっき寝てたでしょ? 夢は? 何か見た? この間の続きとか」
不意に視界が揺れた。薄らいでいた悪夢が、一瞬で鮮やかになる。
「……レーダーが機能しなくなって」衝突寸前に他機を避けたら、真っ白な雪山に突っ込んだ。「貨物室の扉開けて防寒具探そうとしたんだけど、上手くいかなくて」
「乗客乗員は?」カレンが眉を曇らせた。
「凍って死んでた。僕が遅かったせいで」
架空の環境とはいえ、寒さそのものに恐怖を感じたのは初めてだった。殺しの道具を使うことなく、白雪が多くの命を奪っていく。
目覚めず、あのまま夢の中にいたら、自分も別の結末を迎えていたのだろうか。
カレンは、悪天候で捜索が中止になったときのような表情だ。
「フライトの後、何となく微笑んでたから、いい兆候だと思って期待してたのに」
「ごめん。路線変更が、簡単にはできなくて……」
「大丈夫。知ってるわ」
さすがCAだ。
乗員同士でセンチメンタルなジョークを分け合った。
「入学式の前の日、カプセル12個飲んだら真っ暗になって眠れたんだ。夢も見ないで」
「ビタミンじゃないでしょ?」
「青い箱のやつ」
彼女は、こちらの傷跡を労わるように一度目を閉じ、口元を綻ばせた。
「死ねなかったあなたが、あの機に乗り合わせたみんなを救ったのね」
カレンがやさしいのは、そういう使命のもとに生まれて来た女の子だからだ。本人はたぶん気づいていない。
「可愛い髪。普通のチョコと同じ色」
頭を撫でられると、どういう顔をするべきなのかわからなくて隠れたくなる。
なので、寝具に顔を埋めて、照れ(テレ)ポーテーションを試みた。
まだ口の中に、指の生々しい感触が残っている。気まずさと恥ずかしさがプロペラのように回って、60℃くらいの風を作り出していた。
この先、何があってもカレンを忘れられなくなる。これは確定事項なのか。
本日のフライトは昼過ぎだ。
「わたし、ターミナルのカフェに行きたいの。本来の目的はそれだったのよ。誘う予定のラギが冷たくなってなくてよかった」
カレンが元気に一日の始まりを楽しんでいる。
不審なカードのことは、黙っていた方がよさそうだ。何も知らなければ、彼女たちはこちら側に入らなくて済む。
――標的は、……死ぬのは、僕ひとりで充分だ。
・
ディオンは、空の瓶に水を注ぎ、万年筆の先を洗った。
午前の『男の文字練!』を終えて部屋に戻ったばかりだ。
――何で俺が。
講座のコンセプトを思い出すたびうんざりする。知性と魅力をほのめかす筆跡は、本当に必要なのか。
――読めればいいだろ、ふざけんな。
フライト誌の文字が乱れていると上から指摘があり、仕方なく時間を見つけて通っている。
パイロットが直筆で記入することが義務づけられているので、タイプの方が速くても、必ず手書きしなければならない。とにかく面倒だ。
やさぐれた気分でカーテンを閉め、ソファに寝転がった。
意図せず、間近で見ていた柊の操縦を、頭の中で再生している。
ひっそりと転属してきた『old blue-0075』のパイロット。
テンションを冷静に保つ、几帳面なフライトだった。
不時着の間際も、正しさに縋って『対アクシデントマニュアル』を開くような未熟さは見せなかっただろう。
本能的に軋轢を怖れているのか、控えめで大人しく、機内放送の声も掠れ気味だ。
けれど、目線と腕の動きは驚くほど、緻密な自信に溢れていた。
柊はきっと、空にしかない何かで満たされようとしている。
――俺はだめだな。
何を得ても虚ろな気分だ。突破口がいつになっても見つからない。
気に入っているはずの仕事を、生き甲斐だと言い切れない自分が、酷く醒めた存在に感じた。
昼の休憩が半ば過ぎても、セーラが顔を見せない。
怪訝に思っていると、遠慮がちにドアを叩く音が聴こえた。
――いい加減、勝手に入れよ。
カードキーのスペアを持っているはずだ。
ソファから動かず、入室するよう促した。我ながら乱暴な物言いだ。
彼女は扉を開けて、そっと近づいて来る。
「何か用か」
「今日のフライト、夜でしょ? 食べるもの持ってきたけど」
視界の端で、セーラが紙袋を掲げるような仕草をする。
この部屋に、不運な孤児がふたり揃った。
片方は、態度と筆跡の悪い男。
――つまり俺だ。
もう一方は、長い金髪の子女。無表情で佇んでいるときの面差しは、捨てられた人形そっくりだ。
「これ、ずっとほしかったの。アルバム作ろうと思って」
嫌な予感がして横目で見ると、セーラの手に小さな記録機、フォトンが収まっていた。
大人の女が選びそうな、くすんだパープル。ピンクやオレンジなど、もっとましな色があっただろう。しかし不思議と、物憂げなセーラの肖像に馴染んでいた。
「撮るなよ」
「どうして?」
「理由は必要ない。やめろ」
無意識に上体を起こしていた。
「俺にレンズを向けるな……!」
「1枚くらい、いいじゃない」
彼女はモニタを覗き、不慣れな指でシャッターを押した。
白い閃光。
気に障る撮影音。
呼び覚まされた古いニュース。
「ディオン、少し笑っ」
反射より速く、華奢な身体を突き飛ばしていた。
下手な字しか書けない手が、今はもう、醜い罪に汚れている。
怯えるセーラの瞳。
短い悲鳴で、その残像がふつりと途切れた。
宙を舞ったデジタルな紫は、テーブルに激突して重傷。
セーラはカーペットの上で、横倒しになったまま動かない。
急速に自分のした仕打ちが怖ろしくなり、腕を掴んで立たせようとした。
「……すまない」
彼女は何も言わずひとりで立ち上がり、散らばった破片を拾い始めた。
怒っているのか、それとも傷ついているのか。あるいはその両方なのか。備考と補足がなければ判断できない。
自分には、同じものをターミナルの店で買って来る、だから許してくれと、言葉で伝える回路が欠けている。
何度も、普段より多く息を吸ってみた。
だがそれに、自分の声を乗せることができない。
意識不明のフォトンをハンカチに包み、セーラはそれを胸に抱えた。
今、彼女の真っ直ぐな視線に感情を読まれている。
罪の意識を見透かしてくれたらと思わずにはいられなかった。
「いいのよ。私の方こそ……」
少女という複雑な生きものが、目の前で悲しげに微笑んでいる。
涙が零れ落ちる寸前なのに、唇だけは、やさしい輪郭を保とうとしているように見えた。
「セーラ、泣いているのか。……機械は俺が」
彼女は首を横に振る。そして、人差し指を白い頬に押し当てて、ぎこちなく笑った。
「泣いてません……。にっこりですよ」
・
柊は、危ういところで旧友エドガーとの約束を思い出し、居住館を後にした。
カフェの紅茶で幸せになったカレンとは、フライト時刻まで別行動。
彼女は部屋で映画を観たがっていた。より強い刺激を求めて、血量の多い作品に手を出したのだろう。感想を聞くのが怖い。
待ち合わせたセントラルパークで、すぐにエドガーの姿を見つけた。
仕事のユニフォームを観察してみたかったが、彼も私服だ。
「やっと来たな、ラギ」
吸血鬼に似た黒い髪。非対称なピアスの穴。好物はアップルパイ。
中等部で出会った頃から変わらず、独特な存在感に包まれている。
「おせーよ」の言い方も修正なしだ。
いつも不真面目に洒落込んでいるが、高等部時代、映画館でナイフを振り回していた猟奇犯と戦って、シティから表彰されている。そして長らく、偏屈で美しい生徒会の議長とつき合っていた。
「遅刻はしてないよ。ジャストだけど」
腕時計を指差すと、彼は不服そうに口の端を上げた。
「先に殺られたかと思ったじゃねえか。心配させんな」
彼は現在、シティ・セスナでポリスの職に就いている。
偶然にも、勤務地がともにセントラルエリアになった。ずっとセルラで遣り取りしていたが、これからは仕事の合間に索敵会議だ。どちらかが死なない限り。
「カフスとラペルに会いたかった?」
「連れて来なかったのか」
「ベッドの下で寝てたから」彼に紹介するのは次の機会にしようと思った。
樹木に囲まれた公園は、自由な風に守られている。誘われるままスポーツの授業を抜け出して、バンドの練習を始めたときのように。
墜落未遂の詳細を告げた唯一の人物がエドガーだ。
不透明な状況下、こちらはAp、彼はポリス署で、内密に『venom』の動向を探っている。
「おい、ラギ。どうだ。新しい職場は」
「何とかやっていけそう」
見られたくなくても、喋りたくなくても、フライトのために努力するよう、自分に言い聞かせている。
「緊張しすぎて壊れかけてるけど」
「オレの方はやばい。駆け落ちした妹が帰って来ない……」
次に会う頃には、エドガーの喪失病が深刻になって、胸の辺りが破れているかもしれない。
その後、セントラルで起きた、ホテル放火事件についての情報を受け取った。
準備と逃走が秀逸で、目的や、ターゲットとなった人物も不明。
集団。無差別。
あれも『venom』の犯行なのか。
――そうだとしたら。
シティ・セスナはすでに浸食されている。
チームの人間関係など、些細なことを不安がっている場合ではない。
今後も、自分の操縦機を常に警戒しなければならない状況だ。いつどこで何が起こるかわからない。
忘れかけていたが、エドガーに件のカードを渡す。
「これ、手紙の中に混ざってたんだけど」
何度考えても、差出人は『venom』の線が特濃だ。
「えっ、計算間違ってんじゃん。でも一応、脅迫、だよな。数字自体に意味があるのか?」
「元のメンバーが5人で、そこに僕が加わったから……」
「そっか」彼は難しい顔をしてカードを眺めている。「内部事情に随分詳しいな。気をつけろよ」
「フライトチームの仲間は大丈夫だと思う。僕の印象だけど」
メンバー同士が親密で、相手のことをよく知っている環境。住居も同じフロア。
『venom』の活動を行っていたら、誰かが奇妙な足取りに気づくはずだ。
自分の中で、愛着に近い心理が働いている。快く迎え入れてくれた人たちを疑いたくない。
やがてエドガーは、セルラのレンズをカードに向けて動画を撮り、現物をこちらの手に返してきた。
「一応持ってろ」
「OK。ベッドの隣に飾っておくよ」
話がひと区切りついたところで、寄りかかっていた樹から身体を離した。
「そろそろ行かないと。フライト前にやることが山積みで」
本当は早く飛びたくて堪らないのに、何だか気恥ずかしくて素直になれない。旧いつき合いなので、ほぼ間違いなく見抜かれているけれど。
「……あのさ、ED」
「その呼び方やめろって言っただろ! まだバンドのこと怒ってんのかよっ」
当然だ。
Ⅱ-1 end.




