Ⅰ-2 サンフラワー
セントラルApの敷地は広く、洗練された都会の空気と調和している。
空の青さが懐かしく感じるのは、7日も部屋から出なかったせいだ。
とにかく早急に、このApの精密な見取図を入手しなければ。
どこに扉があるのか。どの通路が外へ続いているのか。詳細が頭に入っていないと困る。
今は『venom』の動向を窺って、守りに徹するべきだ。
こちらの動きに不審を抱けば、奴らは容赦なく攻撃してくるだろう。
致死と隣り合わせの着水は、無事成功した。誰も殺していない。誰からも責められていない。不利益はないはずだ。
なのに、心の底でわだかまっている感情を捌けない。
本当は、悔しくて怒りたいのか。
乗客乗員を危険に晒されたことよりも、こいつの操縦機なら容易く墜とせると見下げられたことに。
柊は案内板を見つめた。
――レジデンス(居住館)ってこれだよね……?
外観は、5階建てのマナーハウスといった感じだ。
前方にセキュリティゲートがある。受け取っていたIDで解錠し、中に入る。
館内は洒落た雰囲気で、エントランスも華やかだ。
顔を上げると、吹き抜けの天窓から空が見えた。
「場違いなところに来ちゃったね」
無音のフロアは、皆が通学した後の学生寮に似ている。本当に静かで、取り残された気配が少し。
エレベータで上昇し、これから暮らす『5F-010』を探している途中。
進行方向の壁際に、座り込んでいる人影を見つけた。
家出した女子学生のようにも見えるが、あの子もセントラルApのクルーなのか。
あちらも気づいたようで、不意に目が合った。
黒い髪の異性だ。まったくチョコっぽくなくて羨ましい。
彼女は立ち上がり、指を小さく曲げて手招きをしている。
横分けのロングヘアに、無地のワンピース。装いは大人びているが、おそらく年下だろう。
何が可笑しいのか、彼女は口元を綻ばせながら、勢いをつけて右足のサンダルを飛ばしてきた。
「えっ」
避けようもなく、スーツケースに命中。
到着早々、謎の少女にからかわれている。猛烈に延長休暇を申請したくなった。
イチゴオレと同じ色の履きものを拾い上げて持って行くと、彼女は短く「ありがと」と言って足に戻した。
「部屋を探してるんだけど……。このフロア5階だよね。010号室ってどこ?」
「ここです。わたしの後ろの扉」彼女はドアノブに手を掛けて振り返った。面差しは素朴だが、印象のよい綺麗な顔をしている。「あなた、柊でしょ?」
そうだよ、と頷く。「でも偽物かも」
「周りの人から何て呼ばれてるの?」
「普通に柊とか、ラギとか」
「偽物の方は?」
「ラ偽」
「可愛い。ラギって呼んでも?」
「いいよ」声が掠れ始めている。緊張なのか。それとも救難症状なのか。
「シャイなのね。……反応面白くて中毒になりそう」
まずい展開だ。ほんの短い遣り取りで、主導的な立ち位置を占拠された。
公式の場でいじられたり、からかいのサンドバッグにされたりする未来しか見えない。
「どうしたの? 怖がって震えてるの?」
日頃、泣きそうな子どもを相手にしているのか、言い方にぬくもりがあってやさしい。黙っていると、女子にしかできない仕草で腕を掴んできた。
「大丈夫。……だと思う」
「もしかして、社会不安障害とか、そういう病気? それとも単に恥ずかしがりなの?」
「診断は君に任せるよ……」
精神医学にはまっているのだろうか。すべての問いかけが、巧妙な心理テストに思えてくる。
「あ、忘れてた」彼女はポケットに手を突っ込み、ビジネスカードを差し出してきた。所属や連絡先の書かれたあれだ。
受け取ると、厚口の紙片が体温であたたかくなっている。
「CAのカレンよ。よろしく!」
・
『5F-010』。
与えられた部屋が、予想以上の快適さで驚いた。
陽当たり良好。大きなベッドに、包容力のあるクロゼット。天井の遠いリビング。
ひとりと一匹で使うには広すぎて、ゆとりを持て余しそうだ。
カレンは『日が暮れたらエントランスに来て』と言い置いてどこかへ行ってしまった。
今夜、セントラルApを案内してくれるのだろうか。
この先、人懐こい彼女とどう接していくべきか悩ましい。
あのドリーミィなサンダルを履いたまま、遠慮も躊躇もせず、こちらの心に踏み込んで来るつもりだろう。
女子という生命体が理解できなくて、すでに防御が隙だらけだ。
――でも……。
不時着の話をしなかったのは、彼女なりの配慮かもしれない。
ひと通り部屋を回り、フードストアで買い占めたEゼリーを冷蔵庫に押し込んだ。
カフスとラペルをバッグから出してソファに座らせる。
――あの子にも紹介した方がいいよね。悲鳴上げたりするかもしれないけど。
毛の色はたぶん、グレイッシュブルー。奇形だからか、子猫のまま成長が止まったらしく、平均より身体が小さい。
こちらから見て、左の顔がカフス。
「あれ、逆かな?」
右の、いつも目を閉じている方がラペル。
「……どっちだっけ」
着水の衝撃で忘れてしまったようだ。
未来のアクシデントは予測不可能だけれど、何かに書いておけばよかったと、今さら後悔している。
・
「機長、コード019です! 直ちに着陸場所を探してください……!」
019は殺人。客席で誰か殺されたのか。
浅い眠りの中で、機内が新たな緊張に包まれている。
――えっ。でもさっき、エンジン爆破されて墜落したよね。また飛んでる……?
矛盾を感じて目蓋を開けると、室内がひっそりと黄昏ていた。
休憩するつもりが、いつの間にか眠っていたらしい。
「おはよう!」
すぐ側から、無邪気な笑い声が聞こえる。雲も霧もない晴れやかな心が透けて見えそうだ。
「大丈夫? 銃で撃たれたみたいに苦しんでたけど」
「ああ、……夢のせいかな。見かけによらずロマンチストなんだ。乗客の美人を救出してた。座席で潰れかけてたから……」
「映画っぽいシーンね!」
明らかにテンションが上がっている。血飛沫が主役のZジャンルに踏み込もうとしているのだろうか。だとしたら、墜落間際に夢を代わってほしい。死傷者が2000人を突破していて精神が保ちそうにない。
「もっと寝ててよかったのに。続き、どうなるか知りたかったわ」
救いのないエンドで気が引けるが、機体が滅茶苦茶になって皆死ぬ。
生存者を探すため、非常用ライトを手に客席を進むと、タワービルの屋上から地面に叩きつけたような死体が、内壁の至るところにぶちまけられている。
緊急着陸は失敗。崩壊する機体。生存者は皆無。
コクピットの自分だけが生き残っている。その歪んだ奇跡こそが悪夢だ。
先ほどから不自然に身体が熱い。
ふと視線を遣ると、絶対に自分のものではないと断言できる、ピンク色の布に包まれていた。微かにシャンプーの匂いがする。
「そのフリース、2枚あるから貸してあげる」
部屋から持って来てくれたらしい。
ベッドの中に入らず、カバーの上で寝落ちしたのか。記憶が曖昧だ。
「遊びに行きましょう。着替えたらエントランスに来て」
「この格好じゃだめなの?」Ap内に立ち入るので、制服で来いという意味か。きっと今頃、スーツケースの奥で皺になっている。
「だめっていうか、もう少しふざけた感じのTシャツとかないかしら。シンプルすぎてちょっと……。あ、でも大丈夫! 待ってて!」
カレンは軽やかに部屋を出て行った。
静まり返る室内。
隠れていたカフスとラペルが、チェストの陰から顔を覗かせる。
目的地はApではないらしい。
いつの間にか滑走路が変更され、昨日までとは違う何かが始まっている。
たとえ馴染めなくても、そこから飛ぶしかない。
――大切なのは、全フライトを無事に終えること。そして、『venom』の侵攻を食い止めること。
このふたつだ。
・
市街地までは、アンダー路を使った。人口の多いシティに敷設され始めている、高速ロードの地下版だ。
車に乗り込んでから、何だか元気がないなと思い始めた頃、カレンが口を開いた。
「わたし……」
コヨーテをはねた、と彼女は言った。
先日、郊外の路を走っていたときの出来事らしい。
悲しい事故だ。
あまり好かれていない生きものだとしても、命を奪ったと思うと、申し訳なくて胸が塞ぐのだろう。
――僕は明日の挨拶のことを考えるたびに気道が塞がりかけてるけどね……。
彼女は俯き、口元に手を遣った。
「もしかしたら、わたしのせいで死んじゃったかもって、ずっと気になってて……」
こちらは、ヤスパーという人物から借りたTシャツの血痕と、デニムの穴がずっと気になっている。
「君のせいじゃないよ」
話の流れで、轢き殺したとばかり思っていたが、コヨーテの生死は不明だった。
その後、衝突した野生のあいつが、木立の中に弾き飛ばされたところまでストーリーが進行した。
「わたし、運転向いてないみたい。次は何を轢くんだろうって不安になるの」
一瞬、怯えた子どものように、彼女がこちらへ視線を向けたのがわかった。
一角獣にチップ2枚、などと言ったら大変なことになりそうだ。
「ラギ。ジェントルな運転ね。操縦の方も期待してるわ。……明日、あなたの機に乗ると思う」
「二度めは墜とすかも。奇跡は一度だけっていうから」
「墜落が怖かったら、客室に乗務したりしないわ。ライセンス取るの大変だったのよ」
カレンは笑い出した。この笑顔を、乗客とクルーが必要としているのだろう。
「わたしもたぶん、あなたと同じ。空と機内のムードが大好き」
君はいろんなものを愛せるんだね、と声に出しかけて口を噤んだ。
たとえばいつか、組織との交戦で彼女が死んだとしたら、寂しさを覆うために、スケジュールをフライトで埋め尽くしたりするのかもしれない。
人の内部は天候以上に、移ろいやすくて複雑だ。
何を感じて、自分がどう壊れていくのかを、予め知ることができない。先読み不可の秘密構造。
「わたしは大したことないけど、わたしのCA仲間はみんな可愛くてきれいよ。あなたにも紹介するわね!」
助手席のカレンには、社交に纏わる独自のガイドラインがあるのだろう。人の記憶の中に自分の分身を置いていくような、開けたセンスで生きている。
相対するプリズムとグレー。
交わる兆しがない。
だから、感覚の差異を難しく考えすぎて、彼女の明るさから逃げたくなる。
「わたし、チョコとマシュマロ両方持ってるの。ラギにマシュマロをあげる」
人と距離を置きたくて作ったバリケードを、今すぐ甘いフレーバーで溶かされそうだ。
カレンが、次の路を左折するよう指で示した。
「好きじゃなかったら教えてちょうだい。……知らなかったでしょ。わたしたちは、パイロットの好みを覚えるのが得意なのです!」
小さく微笑み、彼女の手からマシュマロを受け取った。
「せっかくだからいただくよ」
光の射さないアンダー路。暗がりで見つけた晴れ間が、尊くて眩い。
Ⅰ-2 end.




