Ⅵ-6 スカイブルー
――カレンを頼むって言われても……。
柊は壁に額を預け、動揺が鎮まるのを待った。
このままではきっと、まともに歩くことすらできず、ゲート04へ辿り着けない。
「これ、どうぞ。緊急事態だからいただいてもいいわよね」
グラスを手にしたカレンが悪戯っぽく笑っている。すっきりと晴れやかで、これから先、何が起きても受け入れるという表情だ。
可憐さを水のように湛えた白い顔。
光の輪が真っ直ぐに流れ落ちる黒い髪。
不覚すぎる。
旧友の妹だと、知らされるまで気づかなかった。
――僕が鈍いのか。花が鋭いのか。
彼女が、救助に来たエドガーに直接「カレンとあなた、双子の兄妹に見えるくらいよく似ていますね」と言ったようだ。
その遣り取りをエドガーから聞かされた。
ふたりは似ているだろうか。色素の濃淡。話し方。笑顔の雰囲気。
――カレンに、君のお兄さんのことEDって呼んでるよ、なんて言えるはずない……。
これを機に、学生時代のバンド強制参加については不問にしようと思う。
けれど、ステージに立たされ、望まない注目を浴びて失神するくらいなら、地下室の拷問の方が絶対にましだ。
エドガーとの通話を終えたセルラをポケットに仕舞う。
「ラギ、何か困ってるの?」
「そんなことないよ」
前髪が少し汗っぽくなったせいか、動揺が強調されやすいようだ。
飲みものを受け取る際、図らずも手が触れてしまった。
果物の香りを吸い込みながらグラスに口をつける。
ようやく現実に戻り、無人のカフェに身を隠していたことを思い出した。
ディオンとセーラは無事だろうか。先刻の通信で救助を待つと告げられたが、何か不測の事態が起こったのかもしれない。
その後、ヤスパーと花の状況を報せるために連絡したが応答がなかった。
やはり、少しでも早く人質とともに離陸し、待機部隊をAp内に入れるべきだ。
――だけど。
カレンを連れてゲート04へ行くことを躊躇している。
彼女の身を危険に晒したくない。セントラルApの仲間であり、友人の妹だ。
今、極限の緊張の中で、運命を懸けた決断を迫られている。
「通路、静かね」
ドアのガラス越しに様子を窺っていたカレンが囁く。
内に秘めた愛情は陽だまりのように、ひた向きなやさしさは見習いナースのように見え、なんて可愛らしい生命体なのだろうと思った。
離れていると心配で仕方がない。だからここに残しては行かない。
歯車が噛み合うように導かれ、後ろからカレンの髪に唇を寄せた。
「ラギ?」
桜の花びらを風に託すような微笑い方をして、彼女は照れた仕草で頬へ手を遣る。
「ごめん、気にしないで」
カレンは何度か睫毛を上下させ、至近距離からこちらの心理を覗こうとしている。
そうされるとくすぐったくて、眠る寸前みたいに力が抜ける。
これが最後の夜になるかもしれないけれど、不思議と心は凪いでいた。
生きていればいつか思い出に。死んでしまったら無彩色の世界に取り込まれる。どちらも悪くはない。
「行こうか」
銃を握り、彼女の背後からドアを押す。
・
ゲート04に至る通路の惨状は、虐殺跡地の地獄を連想させた。
壁も床も、錆びた匂いのくすんだ赤が滲み、そこにばらけた死体が折り重なっていて、元の色がわからない有様だ。
敵の帽子を数えて死者数を見積もるしかない。
呼吸を抑え、目を背けながらも、ディオンの勇断と射撃の腕に感謝した。
気配を殺し、件の出発ゲートから中を窺う。
明かりが消されていて、奥の様子は不明。
人質を見張っている『venom』の数も不明だ。
しかし微かな物音は聴こえる。
「僕が先に行く。失敗したら、そのときは君の考えで行動してほしい」
今、パイロットとして許されない禁忌を口にしようとしている。その後ろめたさから逃れたくて、左の手の平で翼の徽章を覆い隠した。そして小さな声で、乗客のことは諦めて身の安全を優先するようにと告げる。
「ラギ……」
カレンは戸惑った様子で瞳を震わせていたが、彼女が何か言う前に足を踏み入れた。
これがきっと最後の戦いだ。秩序のない穢れた時間をこの手で終わらせる。
ウェイティングルームへ続く通路の壁に身を寄せ、広く視線を巡らせた。
花から得た情報の通りだ。
薄暗い空間に座り込んでいる人質。
それを牽制する『venom』。現在は3名か。
こちらの存在には気づかれていない。
鼓動の激しさが手首から先に伝わり、銃口が不自然な刻みで弱く跳ねている。
一撃で仕留められる箇所を狙わなければ。
敵は複数。追撃の余裕はない。
急き立てるリミットに突き動かされ、銃を握った腕を真っ直ぐに伸ばした。
もう後戻りはできない。
延長線上に、今まさに重なり合おうとしているふたつの頭部。
手前の男がこちらを向いた刹那、2度トリガーを引いた。
破壊的な炸裂音。
体幹に響く痺れ。
人質の悲鳴。
闇に舞う血飛沫。
すぐに3人めへ照準を切り替える。
だが、避ける間もなく撃ち返され、指1本分頭から逸れた位置に穴が開いた。
「おい、貴様。動くな。逆らえば人質は皆殺しだ」
互いに銃を向けたまま、帽子の男が挑発的に問いかけてくる。
「おまえが柊か」
「そうだ。……乗客を解放してくれ。人質なら僕ひとりで構わないだろう」
突如、不穏な気配を感じて振り返る。
「カレン……!」
潜んでいた4人めの『venom』が、カレンにナイフを突きつけながらこちらへ歩いて来る。
氷より冷えた汗が背中を滑り落ちていく。
「ごめんなさい……」彼女は涙を浮かべ、今にも血を流しそうな唇で言った。「ラギ。わたしがどうなっても降伏しないで」
余計な口を利くな、と敵がカレンの頬を刃先で叩く。
「要求は何だ」
「おまえが人質を殺せ。今度こそ最後のフライトだ。指示したタイミングで街中に墜落させろ。断ればこの女、死ぬより酷い目に遭うぞ」
人質のざわめきが耳に刺さる。
カレンが強い瞳で首を横に振った。
完全に窮地だ。
「乗客の命を奪う必要はない。僕を好きなように殺してくれ。……それに、彼女は君たちの仲間に危害を加えていない。偶然同行していただけの乗務員だ」
「そうですか。機内へどうぞ。ミスター柊」
仕留められなかった3人めに腕を引かれた瞬間、カレンが寂しげに眉を寄せ、港から誰かを見送るように切なく笑った。
直後、袖の中に隠していたナイフで傍らの男を刺す。
「ラギ、避けて!」
空間を揺さぶる銃声。
反応するより早く、隣の『venom』が虚を掴み、磁力で引き寄せられるように真後ろへ倒れた。見開かれた両目の縁。そこから吐き出される黒ずんだ人血。
――僕を助けようとして撃ったのか……。
カレンの清い手に、頼りなく握り締められた銃。
硝煙が、限りある上空へ向けて細く立ち上っている。
彼女は苦しげに息を継ぎ、絶命間際の男を見下ろして言った。
「どうしてこのシティの人々が、あなたたちに殺されなければならないの? 答えて」
男は声にならない何かを発していたが、彼女がそれを受け取った様子はない。
「カレン……」
差し伸べた手とすれ違うように、彼女の方からこちらの胸に顔を押し当て、腕を回してきた。
「わたしが殺したのね」
自分に言い聞かせるような、あるいは罪を刻みつけるような声の振動。
「君のせいじゃないよ。……絶対に違う。止めは僕が」
片腕をカレンの薄い背中に添えたまま、胸にナイフを突き立てて喘ぐ『venom』を撃った。
着弾した胴が僅かに跳ね、血溜まりを拡げながら停止する。
「ラギっ」
カレンが腕に力を込めたのを感じて、胸がとても苦しくなる。
自分という存在が必要とされるのは、これが最初で最後かもしれない。
「急いで離陸しよう。君が殺されなくて本当によかった」
乗客を機内へ導くカレンを視界の端に捉えながら、『venom』の側を歩き過ぎようとした。
ふと足を止める。
銃弾を受けて仰臥したバンダナの男が、虚空を見つめて細々と口元を動かした。
「リーダーは、……まだ、死んで、いない」
そのリーダーと呼ばれる人物を捜し出して殺せというのか。それとも『venom』を蘇らせ、再びこのシティに罠を仕掛けるという意味か。
訊くだけ無駄だろう。
選択を間違えなければ未来があったはずの若者たち。彼らは加害者であり、見方を変えれば犠牲者でもある。
何人死んだだろう。警察の無慈悲な仕打ちが切っ掛けで、多くの人々の運命が捻れてしまったのは事実だ。
「『aid』の事件は気の毒だった」
だが、Ap襲撃を許すことは決してない。機体に細工をした過去も含めて絶対に許さない。
敵に背を向け、搭乗口の様子を窺った。
カレンが乗客に見せる笑顔。
見慣れていたはずなのに、自分とは異なる温度で世界を愛する彼女を遠く感じた。
呼べばきっと、『どうしたの?』と首を傾げながら、迷子を励ますみたいに制服の袖を触ってくれるけれど。
乗客の姿が見えなくなったのを確認し、目を閉じかけた『venom』へ向けてトリガーを引く。
殺意ではなく、罪と罰を求めて撃った。
責められたがっている自分のために手を下した。
笑っているのか、泣きたいのか、もう何もわからない。
結局強い人間にはなれなかった。
やがて、這い進んでくる鮮血の領地が、革靴の先を撫でて進路を変える。どこへ向かっても、この建物からは逃れられないだろう。
隣り合う生と死。
それぞれのポリシー。
最悪の結末は回避できた。
これでカレンは人殺しにならない。
・
シティ・セスナの長い夜が終わろうとしている。
生き残りの『venom』も、空の上までは追って来ないだろう。
柊は『sky performer - 5211』のコクピットでカレンを待った。
乗務員は彼女ひとりだが、通常通り機内サービスを行うという。
離陸直後、管制から各部隊突入の報せを受けた。
その際、館外放送で的確な情報がアナウンスされたと聞いて、セーラの職業意識に心からの敬意を表した。
また全員でセントラルApへ戻れると信じたい。
仲間が生きていることが一番の希望であり、救いでもある。
コクピットに帰って来たカレンに訊ねてみた。
「CAも素敵だけど、パイロットに興味ない?」
「もちろんあるわよ」
暗くならないよう、気を遣ってくれているのかもしれないが、彼女は明るい笑顔で元気そうだ。
和やかなムードに絆されて、死戦を切り抜けたばかりだということを忘れそうになる。
「招待したかったんだ。隣座ってよ」
副操縦士の席が空いている。
「いいのかしら。嬉しい」
彼女は乗務員の制服のまま右に着席した。
洗い立ての毛布に包まれているような安堵感。
着陸まで、広くはないコクピットにふたりきりだ。
「空、近いのね」
カレンは瞳をきらめかせ、ウィンドウ越しの鮮やかな世界に魅入っている。
「僕は最初、少し怖かったよ」
「もう平気なの?」
彼女はからかうように口元を綻ばせた。レパートリーの中でも特別に好きな表情だ。
「飛んでるときの方が落ち着くくらいには」
「操縦席からこんなに綺麗な空が見られるなんて夢みたいね」
その言葉でふと、魘されていた悪夢を思い出す。
決別のチャンスなのかもしれない。
計器を確認しながら心を繙いてみると、傷口から溢れ出る怖れを素直に受け止められる気がした。
あれはきっと、夢を叶えすぎてはいけない、幸せになりすぎてはいけないという、無意識の恐怖が創り出した幻影だ。
大切なものを掴むとすぐに、手の平から光が消えてしまう。その予感に囚われていた。そして悲しい感触だけが内側に残る。
ときおり陽が射したとしてもそれは偶然で、自分の行く先には冷たい荒野が待ち受けていると頑なに思い続けていた。
――僕は、セントラルApの寂しくない毎日から転落することが怖くて堪らなかった。
生々しい墜落も死もすべて、警告のために映し出された虚構のフィルムだ。
だから、この機を無事に着陸させることで悪い夢を終わりにしたい。
・
カレンは柊の横顔を見つめた。
目元に重なる淡い陰影。
秘密を抱えた静かな美しさ。
側に立つと、背丈の大きな身体で守って貰える気がして、自分が女の子だということが最高に嬉しくなる。
――もしも今夜、Apで死ぬ運命だったとしたら……。
柊に抱き起こされたまま、涙に濡れる彼の顔を血だらけの手で引き寄せて、唇を重ねてみたかった。
誰にも内緒で、柊の長い指に髪を梳かれているところを想像すると、甘く煮詰めたシロップみたいに胸が熱くなる。
ときどき頬杖をついて眠そうにしている姿を離れた場所から眺めていた。
控えめに、さりげなく、男らしい腕で庇ってくれたことにありがとうと言いたい。
そして、アンダー路浸水の日の出来事をいつまでも忘れないでほしい。
本人はあまり気に入っていないみたいだけれど、チョコっぽい色味が内面と同じニュアンスを添えていて、柊が兄のような黒い髪でなくてよかったと思う。
彼方で地平線が輝き始めた。
繊細な光のライン。
まっさらな朝が、すぐそこまで来ている。
「わたし、ラギに言ってないことがあるの」
「何?」
「あなたにあげた薬、憶えてる?」
彼はぎこちなく頷いた。
「あれ、実はロマンティックなおまじないに使ったの」
「えっ」
何だか恥ずかしくなって、手の平で顔を覆う。
次の瞬間。操縦をオートに切り替えた柊に抱き寄せられ、空が見えなくなった。
彼が、誰も傷つかないよう、歪んだ痛みを引き受けたがっているのを知っている。
――ラギは悪い人になれない。
彼は細く静かに息を吸っている。衣服越しに、酸素とやさしさを必要としている尊い命を感じた。
「初めて会った日から、あなたのことがかわいくて好きだった」
少し掠れていたけれど、僕も君のことが好きだと確かに聞こえた。
・
カレンを失わずに済んだのは二度めの奇跡だ。
寄り添うと、そこにあたたかい身体があって、永遠に消えないと覚悟していた憂いが薄い雲のように溶けていく。
着陸へ向かう高度のように、やがてゼロになるのだろうか。
透き通った外気。
果てのない青。
ずっとあの色になりたかった。
コクピットから、触れることのできない空に光を探すけれど、大切なものはいつも、そっと握り込んだ手の中に。
Ⅵ-6 end.
Have a nice flight, thank you...!




