Ⅵ-3 マロウ
あれからどれくらい経っただろう。
時計は冷淡な中立主義者なので信用できない。
冷えた身体を気力で支え、セーラは周囲に視線を巡らせた。
ターミナル1Fの職員用ロッカールーム。
捕えられたのは、パイロットと通訳。その他、総合案内、搭乗カウンターの担当が数名。
帽子を深く被り、バンダナで顔を隠した見張りの男3人が今も、長銃でこちらを牽制している。
『venom』の侵入から占拠までが速かった。
――こんなことになるなんて……。
避難の際、逃げ遅れた人がいないか見回っている最中に捕まった。
混乱に乗じて館外へ連れ出そうとしてくれたディオンに逆らい、スタッフの責務を説いて巡回に加わったのは自分だ。
――優等生ぶって……、何なのよ私。
傍らに座り込んでいるディオンは、押し黙って自分の指を見つめている。
字が下手なことを気に病んでいるのか、散々後回しにしたのち、不機嫌全開でフライト誌を書いているときと同じ顔だ。
離陸準備に入っていたはずの花とヤスパーは、ゲート04のウェイティングルームで人質にされているのだろうか。状況的に、何事もなくApの外へ出られたとは思えない。
――カレンとラギは……。
問い合わせに答えられるよう、離着陸のリストを占拠直前まで確認していたが、柊の操縦機はこちらの滑走路に降りていない。
カレンと一緒に無事でいてくれることを願った。
hspの研究団体に攫われそうな生命体だけれど、柊は腕の立つパイロットであり、カレンも客室乗務とは別に大切な使命を持っている。
――私たちがだめでも、みんなが生きていてくれれば……。
膝に薄く残った事故の傷跡を見て、自分は今日ここで死ぬかもしれないという現実を胸に刻んだ。あのとき救ってくれた人には申し訳ないけれど、悪い方へ血が流れても後悔はしない。
肌を刺す静寂の中、敵のトランシーヴに通信が入った。
内容が微かに漏れ聞こえてくる。
『展望フロアに向かうエレベータでふたり殺られた』
「ポリの生き残りか」
話が読めない。何が起きたのだろう。
『いや、おそらく同行させたCAだ。ナイフか何かを隠し持ってた。……警戒しろ。見かけで油断するな。殺しのプロだ』
「は?」
『眠ってるみたいに見えるんだ。死体がきれいで気味が悪い』
「本当に死んでるのか?」
『ああ。疑うなら見に来いよ。今から女を捜索する。暇なら加勢しろ』
「了解」
端の方で退屈そうにしていた帽子が名乗り出て、ロッカールームを後にした。
敵は減ったが、それが逆に不安をかき立てる。もう、厳重な見張りは必要ないということだ。
音もなく空気が変わった。報復による死の連鎖が始まるのだろう。
会話に出ていたCAというのは花の可能性が高いが、殺したのは彼女ではないと直感した。いつもふんわりと可愛らしくしていて、アサシン要素も皆無。だから通信相手は、外見で油断するなと警告したのではないか。
ディオンも同じことを思ったらしい。顔を伏せ気味にし、低い声で呟く。
「殺ったのはたぶん、ヤスパーだ」
身近すぎる名前を聞いて胸が軋んだ。
「ここで反撃のチャンスを待つ。俺が動いたら、おまえは他の奴らを連れてロッカーの裏に隠れろ」
敵に気取られないよう小さく頷いた。反逆の意志を固めなければ、自分たちがどうなるかは想像がつく。
近くにいた『venom』がこちらに向き直った。
「残念だが、おまえらを一匹ずつ殺す」
銃口が左右にゆっくりと弧を描く。品のないルーレットだ。
「そこの女。立て」
ブロンドと少女。どちらかの特徴で自分が真っ先に選ばれると思ったが、敵が指名したのは別の女性だった。
乱暴な歩幅で距離を詰め、怯える総合案内に照準を合わせる。
男の人差し指がトリガーに添えられた刹那、思わず顔を伏せた。
「やめろッ!!」
立ち上がるのと同時に駆け出し、ディオンが敵に掴みかかった。
『venom』の背がロッカーに叩きつけられ、荒々しい衝撃音が炸裂する。
「きゃあッ!」
「セーラ、行けッ!」
弾かれたように身体が動き、倒れ込んだ女性の腕を引きながら、ロッカーの裏に人質全員を誘導した。
立て続けに起こる発砲音。
撃ち抜かれた天井から白い破片が降り注ぐ。
バンダナの抵抗に遭い、ディオンが苦戦している。
「あっ」
鏡に映った『venom』の姿を見て戦慄した。敵はもうひとりいる。今まさに、仲間と揉み合っているパイロットの頭を狙い撃とうとしている。
――このままじゃディオンが……っ!
咄嗟に落ちていたスプレー缶を拾い、鏡に向かって思い切り投げつけた。
敵の注意が逸れた一瞬。ディオンが奪い取った銃でガラス塗れになった遠方の男を撃ち、目の前の『venom』を殴りつけて昏倒させた。
敵は床に伏せたまま動かない。おそらく死んでいる。
肩を上下させ、彼は袖口で額の汗を拭った。
「おまえらの見下げた遊びにつき合ってらんねえよ。いい加減にしてくれッ」
侮蔑の台詞を吐き捨て、開きかけのロッカーを横殴りに叩く。
ディオンは自由になったドアから通路を覗いた。
「おい、今のうちに逃げろ! パッセージの12番ドアがすぐ側だ!」
捕えられていた職員たちが一斉に走り出す。
彼は、鏡の欠片と銃弾で無数の傷を負った第1戦闘不能者からも武器を盗り、それをこちらに寄越してきた。
「私、こんなの撃てない……!」
「いいから持ってろ! 行くぞ!」
アスファルトを打ち放したシークレットパッセージは硬く冷ややかで、夜の薄いネイビーと同調しつつあった。
先に逃げ込んだ者たちはどこかに身を隠したようだ。
「怪我、しなかった?」
「無傷に決まってるだろ。あんなのに敗けるかよ」
彼は視線を前に据えたまま、不良っぽく言い捨てた。
足元の補助照明を頼りにウェポンロッカーへ進む。
IDで扉を開けると、弾箱の隙間に立てられた紙片が目に留まった。
ペンライトの光を向けてみる。
「カレンのメモだわ」
ディオンは苦く息を吐いた。
「あいつらも、何で戻って来たんだ」
ふと気がついてセルラを取り出す。
確認してみると、複数の履歴が残っていた。
しかし、慌ててかけ直したが応答がない。カレンも柊もだ。
次に発信した花のセルラはコール音が鳴るけれど、ヤスパーの方はおそらく電源が切れている。
「誰にも繋がらないわ」
安全な場所にいるなら応答があるはずだ。
殺されたのではないかと、不安に口を塞がれそうになる。
確実な方法で呼びかけ、直ちに無事を知りたいが、館内アナウンスは使えない。
「セーラ。銃を持ち替えろ」
「えっ、これは?」目線で肩に掛けた『venom』のライフルを示す。
「置いて行け。身軽な方がいい」
このパッセージも、いつ侵入されるかわからない。ディオンもそれを懸念しているのだろう。
IDカードと、登録された人物認証データがなければ開かないが、あちらが猟奇的な手段で攻めてくれば『venom』を防ぎきれない。
「私のせい? 私が死を引き寄せてるのかしら……。パパもママも死んでしまったし、事故から庇ってくれた人まで……」
「偶然だろ」
おまえが生き残ったことに意味があるはずだ、と彼は気怠い余韻を残して目蓋を伏せた。
「理由は秘密?」
「そうだ」
「奴らの趣味で多国語のアナウンスが必要になるとか? この中にいる人間ではたぶん、私にしかできないから」
生存の理由は仕事のためということで落ち着いた。
『可哀想に……』は、いろいろな形のものを充分いただいたので、これからは誰かに『君に任せてよかった』と言って貰いたかったのかもしれない。
Apで働くことが決まったとき、自分の仕事を一生懸命やると心に決めた。
あの頃と変わらず、前へ踏み出した足は、どんな困難にも掬われないと信じたかった。
「ディオン。次は私も協力するわ。一緒に殺りましょう」
今は誰かの助けになることを目標とすべきだ。曖昧なままでは行動を見失う。
――もしこの件が外部に漏れたとしたら。
呼び名はセーラではなく人殺しになり、荒みきった初等部生活を余儀なくされるが、通訳をクビにならなければ卒業まで耐えられそうだ。
「やめとけ。おまえは大人しくしてろ。無駄な殺生に関わるな」
「平気よ。悲しむ家族いないもの」と微笑んでみた。
本当の言葉を口にした途端、強がっているシルエットと素の感情が真っ二つになって、きっとどちらも消滅する。心の死は肉体の死より低温で切ない。
「ああ、俺もだ」
ディオンは唇をあまり動かさず、瓦礫の隙間から這い出すような声で言った。
隠していた感傷の輪が、どこかで深く重なり合う。
それと同時に、彼が死んだら自分は、孤児よりも孤独な存在になるだろうと思った。
カレンの残したメモを手に取り、余白に記録をつける。
『ディオン セーラ 19:72』
セルラの不通に備え、武器と一緒にトランシーヴを持って行くことにした。
こちらを一瞥し、ディオンが歩き出す。
おそらく2Fの出発ロビー。ゲート04エリアに向かうつもりだ。
ふたりきりで、犠牲を出さずに人質のすべてを救出できるとは思えなかった。パートナーシップで切り抜けられる状況ではない。
「セーラ。置いてくぞ」
それは困る。
「待って」と大きな背中を呼び止めた。
ポケットからヘアゴムを出して髪を纏め上げる。
厳しく立ち向かわなければならないことが多すぎて、どうせ砕けるのなら、今日でも遠い日でも変わらない気がした。
「この色、暗いところで変に目立つでしょ? 結ぶの手伝って」
彼は鬱陶しげな足運びで戻って来る。
「ツインテールにしろ。そういう嗜好の奴だったら見逃してくれるかもしれないぜ」
ディオンが、眉の端を上げて笑っているのがうっすらと見えた。
完全にからかわれている。ここはきちんと主張すべきだ。
「ペドフィリアの手心になんて興味ないわ。三つ編みにするから口出さないでっ」
・
柊はカレンの腕を引き、手近な会議室に駆け込んだ。
巡回が嫌な位置にいて、思うようにパッセージへ戻れない。
『venom』の動きが忙しくなり、全方位からスリルの風が吹き迫ってくる。
デスクと椅子が並ぶ室内を見回し、死角になる場所を探した。
壁際に置かれた給水器の陰に寄り添い、ひっそりと屈み込む。
神秘の輝きを秘めた黒い髪が肩に触れ、誰にも言えないファンタジーに溺れた。
カレンが折り畳み式のマップを広げる。
「ここから出て右に進めば、階段を上がって3階のドアからパッセージに入れるわ」
「わかった。……だめなら迂回するか、別のルートを考えよう」
目を閉じると息をするのが面倒になって、感染するほど側に死の気配を感じた。
隔絶されたこのセントラルApに朝は来るのか。
ジャックの報せを受けてからずっと、高濃度の緊張状態を保ち続けている。
なのになぜか、流れ出すような速さで身体が弛緩していく感覚があり、誰かが助け起こしてくれなければ立ち上がることすらできなくなりそうだ。
軟弱ですぐに不具合を起こすウィークポイントを、ピストルで撃って正気に戻したい。
「……えっ」
予告なしで手の平を重ねられ、彼女を見た。真剣な瞳が何かを訴えかけてくる。
睫毛の揺れ方から推測すると、若干ディープな内容だ。
「ラギ。また思い詰めてるのね? ……わたしのこと、無理に助けようとしなくていいのよ。覚悟できてるもの。だから、こんなところで犠牲にならないで」
「僕だけ生き残ったら廃人になるよ。それでも?」
冗談だと思われたのだろう。緊迫感が途切れたのか、カレンはいつにも増してジョークなムードを求めているようだ。悪戯な光を集め、今にも何か閃きそうな目をしている。
「わたしの予想では、無気力状態になってもラギは、操縦がしたくてApに現れるはず。制服に着替えるの忘れないように気をつけて」
廃人というより飛行中毒だ。
「君も乗ってくれる? 寂しくてひとりじゃ飛べないんだ」
依存をほのめかす高度な台詞に進出してしまい、口元がぎこちなく綻ぶ。
カレンも笑い始めた。
「ええ、もちろん。わたしに任せて」
魔法か何かで生き返ってくれるらしい。最高のサービスだ。
彼女はふと内ポケットに手を遣り、小さなケースを取り出した。
「おなかすいてるでしょ? ラギにキャンディをあげようと思って」
立ち込める闇の下で、カレンの手に載った小さな粒が星に見える。
彼女は何度もケースを振った。
いくつかあるフレーバーを平等に出したいようだ。
『venom』の接近を警戒しながら待っていると、ついに出揃ったキャンディを、ひとつずつ口の中に押し込まれた。
「CAなのに、ナースみたいな気分になるの、どうしてかしら」
「僕が患者っぽいからだと思うよ」
「ラギ。わたしを誘ってるのね?」
彼女はココアにマシュマロを浮かべたときのように微笑んでいる。
唇の先にあたたかい指の感触が残っていて、未来の集中力に酷く影響しそうだ。
「元気になった?」とカレンがやさしい声で問いかけてくる。
効果の程は不明だが、礼を言って頷いた。
キャンディの投与を無駄にしないためにも、新たな力を得た主人公を見習って、元気そうに敵と戦わなければならない。
・
柊は静かに過去を振り返った。
何事も、先送りにするほど深みに嵌る。
アグレッシブに敵を斃していくという戦略もあるが、こちらのせいで、人質や仲間を標的にされるのは避けたい。
今後の計画を纏めようと手帳を開いた。
胸ポケットの中でペンライトを点ける。
「日記を書くの? わたし、かわいいペン持ってるわよ」
差し出されたそれを受け取った。体温が移って36℃くらいになっている。
「ありがとう……。何かいい方法ないかなと思って」
この状況では、外部からの助けは期待できない。
人質の身に危険が及ぶのも時間の問題だ。その前に動き出さなければ。
躊躇いを切り捨て、短所を行動でカバーする。このApのパイロットであることとは別に、ひとりの人間としてやるべきことがあるはずだ。
浮かんだ考えをひたすらに書き留めてみる。
――……だめか。
どれも上手くいかない気配が漂っているのはなぜだろう。このままでは『venom』のシナリオに呑み込まれる。
突然カレンが、慌ただしく周囲を見回す仕草にはっとした。
「ラギ! 近くの階で火災のサイレンが鳴ってるわ!」
「まさかっ」
Apごと葬るつもりか。
――ゲート04から敵を排除できれば、人質を空に逃がせる。……でも。
焦燥の上に立つ計画は、番号を何度振り直しても、1から順には並ばない。
予測不可能なアクシデントは予測可能だ。
とにかく、やるしかない。
必要なのは守戦ではなく攻戦の意志。
人質を救出し、『venom』の侵攻を食い止める。
ヤスパー、花、ディオン、セーラ。
全員の生存を確認次第、このプランを仲間に伝える。
Ⅵ-3 end.




