Ⅵ-2 ヘイゼル
――マニュアル、出てきてくれ。
薄暗い室内。壁に取りつけられたモニタ群は休眠している。
柊は、片っ端からファイルロッカーを捜索した。
映像記録室へ辿り着いたものの、機材の扱い方がわからない。
「ラギ、これだわ!」
分厚いファイルを抱えたカレンが駆け寄って来る。
彼女はそれを側のデスクに置いた。そして、勝手に拝借したらしい付箋とマーカーを並べる。
「ありがとう。助かるよ」
参考書みたいにいくつか印をつけ、マニュアルを片手にメインコンピュータへ移動する。
書かれている通りに電源を点けた。
――動か、ない……。
辛すぎて笑顔になりかけたが、一瞬の間を空け、小さな光が灯り始める。
「上手くいったわね!」
壁面を覆うモニタのすべてに映像が入った。案の定、ターミナル内のセキュリティカメラは機能している。
カレンが僅かに身を乗り出し、画面を見つめながら言う。
「上2列が、3階から展望フロアまで。その下の6列はターミナルの1階と2階だわ。……切り替えないと他のエリアは映らないみたいね。調べてみましょう」
彼女は真剣な指でマニュアルを捲り始める。
期待していたが、人質の姿は映し出されていなかった。閑散とした通路やロビーに用はない。
とにかく今は、ゲート04のウェイティングルームがどうなっているかを知りたい。
急げ早くと感情が先走る。
奴らは殺しに躊躇がない。先刻の虐殺跡を見て思い知らされた。こちらが反撃を試みれば『venom』は沸き立ち、人質にさえ容赦はしないだろう。
親切なマニュアルに助けられ、基本的な操作の手順は把握できた。
ゲート04内部のカメラにアクセスしようと顔を上げた刹那、モニタのひとつに不審な人影が。
2Fの通路だ。『venom』と思われる帽子の者たちに、CAの制服を着た人物が連行されている。
見覚えのある後ろ姿。
「あっ」
画面越しの状況を受け止めきれず、音を立てて全身の血が降下していく。
「花……っ」カレンが口元を覆い、震える声で呟いた。「ラギ、花がっ!」
敵は彼女をどこへ連れて行くつもりなのか。
――まさか、見せしめに……。
ここから走れば間に合うだろうか。
冷静な判断などできるはずがない。
花を救出しなければ。彼女を殺されるわけにはいかない。
隣でカレンが、弾かれたように扉の方へ顔を向けた。
「足音が聴こえる……。誰か来るわ!」
この場を遣り過ごさなければデッドエンドだ。
入り組んだ専門区域にまで偵察が来るとは思っていなかった。
機材の電源を落とし、カレンの腕を引いてデスクの陰に身を隠す。
少しずつ、けれど確実に追い詰められている。
「花を、どうするつもりかしら」
泣き出しそうなカレンが混線し、複雑なフラストレーションと絡み合っているように見えた。
銃を握る彼女の手が、退行する暗闇の中で、これ以上ないくらいに白く色を失っている。
――だけど、ここで反撃するのはまずい。
こちらが『venom』を死に至らしめたと伝達されれば、花は確実に殺されるだろう。
報復への熱意が規格外だ。
見つかってしまったら、大人しく捕まるしかないのか。それでも花が無傷で解放される保証はない。
趣味の悪い駆け引き。
招待された側が不利なのは、仕方がないとわかっているけれど。
・
エレベータの到着を待つ間、花は傀儡のようなふたりの男に話しかけてみた。
「展望フロアに何かあるの?」
大方、高所から周囲の状況を視察するつもりだろう。
セントラルApの占拠は、すでに周知の事実だ。ポリスは特殊部隊と連携し、おそらく今も突入の機会を窺っている。万が一にも狙撃されないよう、『venom』は牽制の意味で人質をパーティに加えたらしい。
奴らは初め、私服姿の少女に目をつけたが、自分を連れて行くようにと、CAの魅力的な存在感をアピールした。
乗客を傷つけられずに済んだので、結果はこれでよかったと思う。
ゲート04を出た辺りで奪われかけたセルラは、近くのダストボックスに放り込んでしまった。連絡手段を断たれたが、敵の手に渡るよりはましだ。
「あたし、疲れたから休んでいいかしら。どうせくだらない用事でしょ? 急ぐ必要ないじゃない」
無作法な振る舞いの封印を解き、壁際に屈み込んで敵を見上げる。
「不満そうね。演技でも、怯えたりしてあげた方が喜んでいただけたかしら。……最初に指示を出さなかったあなたたちが悪いのよ」
帽子に隠された敵の目が鋭利な光を帯びたのがわかった。
――単純ね。
さりげなく階数表示を確認する。エレベータが到着するまでに、あまり猶予がない。
「立て」と青年風の低い声。
「嫌よ。疲れたって言ったじゃない。聞こえなかった?」
予測した通り、乱暴に腕を掴み上げられたので、視線で蔑みながら振り払った。
「卑怯な罪人のくせに、気安く触らないで!」
殴られると確信した瞬間、わざと唇を噛んだ。
「ッ!?」
衝撃の後を追うように、熱を持った痛みが内側から突き抜ける。
「…………、気が済んだ? 生意気な女を思い切り殴って……」
口の端から零れた血が、首を伝って襟元のスカーフに染みていく。
「やだ、大変だわ。制服汚すと叱られるのに」
血液を拭った指を握り合わせ、眉を寄せる。
「ねえ、ハンカチ持ってない?」
ノーリアクションだ。差し出されると逆に困る。
こうするしかないわね、と息を吐いて、べたついた指先を観葉植物の葉に擦りつけた。
自然さを装うため、壁にも同じことをする。
「殺人現場みたい。新しいアートよ」
エレベータの扉が開く。
「歩け。早くしろ」
「無理。あなたが殴ったせいだって自分で気づいて」
ふらついたふりをして、もう一度壁に身を寄せた。
「貧血で倒れそう。……最悪」
「黙れッ!」
「命令する前に謝って」
目の不自由な方への案内を横目で確認し、血のついた指先で触れる。
本命はこちらだ。
『S O S T O P』。
これで伝わるだろうか。
他の誰が見ても、内容と意図を読み解かれることはないはずだ。
――意外と役に立つじゃない。
ジャックされる直前、異変に気づいて機内のベッドルームに避難させた点字フレンドは今、どこにいるのか。いつも一緒にいた副作用で、姿が見えないと不安になる。
――ヤスパー、無事なの……?
・
いざというときは撃つしかない。
柊は、デスクの陰から敵の動向を窺う。
規則的な靴音が嫌なタイミングで止まった。この部屋だ。中を調べるつもりか。
しかし室内へは、IDがなければ入れない。
――ここで静かにしてれば見つ、ッ!!
油断を嘲笑う発砲音。一瞬でドアの強化ガラスが吹き飛んだ。
小銃ではない。見なくてもわかる。奴が手にしているのはショットガンかライフルだ。
重い振動の余韻。
緊張が、痺れのように全身を縛る。
僅かにでも判断を誤れば、ふたりともここで死ぬことになるだろう。
カレンは耳を塞いで肩を震わせている。
――彼女だけでも……。
敵は、床に散ったドアの破片を踏みながら、映像記録室を偵察し始めた。
このまま見つかるのか。
殺される覚悟と殺す覚悟を決めなければならない。
初めて抗戦の意志で銃のセーフティを外した。
――自分とお別れする準備はできてるけど、でも……。
カレンの横顔を見た途端、彼女を裏切るような真似はできないと思った。
ダブルではなくシングルバインドだ。
不意にデジタルな雑音が響き、手を伸ばせば届く距離で『venom』が立ち止まる。
気づかれるのを怖れて、吸った酸素を吐き出すことができない。
ノイズとともに、通信機器から『7人いたはずだ』と音声が聞こえた。
自分たちを捜しているのかと錯覚したが、フライトメンバーは6人。何かがおかしい。
カレンも不自然に感じたようだ。
音を立てずに視線を交わす。
「どこに逃げたんだ、ポリのルーザー共。必ず見つけ出してリーダーに引き渡せ」
血の檻に囚われた怖ろしい光景が浮かぶ。
通路の奥で死んでいたのは5人。
あの警察部隊に、ふたり生き残りがいるということか。
男はさらりと辺りを見回し、通路へ戻って行った。
奴が口ずさんでいるのか、悲しいレクイエムのような歌が暗い館内に漂っている。
いつ引き返してくるかわからない以上、もうコンピュータは起動できない。モニタ計画は続行不可能だ。
「カレン、ケガは?」声を潜めて問いかける。
ドアのガラス片が広範囲に散っていて、床は危険だ。
「してないわ。ラギも平気?」
浅く頷いた。
胸を打つ激しい鼓動が鎮静していく。一応、意識の消失は免れた。
――あの『ドサッ』ていう失神音……。
あれで自滅しなくて本当によかった。
そのような展開になれば、巻き添えになったカレンも心が壊れるだろう。
それより、花の行方が気懸かりだ。ゲート04の人質についても、まだ一切の情報が得られていない。
悔しさは残るが、ここを諦めて、一旦シークレットパッセージへ戻るべきだ。作戦と行動を立て直したい。
「カレン、行こう」
「待って」
彼女は胸のポケットからセルラを取り出した。小さな光が点滅している。
液晶画面を見て、カレンが目を丸くした。
「ヤスパーだわ……!」
・
これは明らかに、制限時間ありのミッションだ。
ヤスパーは手の甲で額の汗を拭う。
「わかった。ありがと。カレンもラギも気をつけて」
仲間の生存を知って安堵した反動なのか、通話を切った途端に心細くなる。
無音の館内は不気味としか言いようがなく、ギャレーから持ち出した機内食用のナイフを、気がつけばメスと同じ形で握っていた。
『LIMIT』とラベルのついた瓶の底で焦る自分に、多量の砂が注ぎ込まれている。
――けっこうピンチだよね……。
離陸直前のフライト機は敵の支配下。乗員乗客が人質として、現在も身柄を拘束されている。考えたくはないけれど、すでに犠牲者が出てしまったかもしれない。
パイロット用に特別配合された責任が重く圧しかかる。
柊とカレンは話ができたが、ディオンとセーラの消息は不明のままだ。
この先、フライトメンバー全員で無事に合流できるのだろうか。
ゲート04占拠の後、見張りの包囲をかい潜り、コクピットから機外へ降りた。すぐに連絡したが、花のセルラは応答がなく、縋るような想いでカレンに転信した。
彼女と柊が、映像記録室で遠隔的敵情視察を試みていたと聞いて驚いている。管制の指示で他のApへ向かい、本来セントラルには戻っていないはずだ。
詳しいことは謎だが、あのピュアなふたりまでもが、この館内で死の危険に晒されている。
賭け事はよくないけれど、『柊の責任感が仇となった』に、ビジネスクラスのチケットと稀少な葡萄酒を1本。
先ほどカレンから、花は『venom』に連れて行かれたことが直ちに伝言された。しかし、出発ロビー付近の通路を歩いていたという以外に情報はない。
花を殺さないでくれと切に願う。
ときおり発揮される彼女の判断は機械より速い。
サイレンが鳴り響く混乱の中、仮眠用のベッドルームに押し込まれた。
フライト中の乗員しか使用せず、一見してわかりにくい位置にあるので、敵の目が届かないと読んだのだろう。
『安全が確認されるまで絶対に出て来ないで』と命じられ、返事をする間もなく花が扉を閉めた。
結果、ひとりだけ逃げおおせてしまった。
今もまだ、着陸ポイントの見えない事態に混乱している。
仲間と乗客。どちらを失くしても日常へは戻れない。自然治癒も、時間による解決も幻想だ。
あれほど人の生死に胸を締めつけられ、顔を覆って後ずさっていた自分が、怖ろしい力を得て走り出そうとしている。
――このナイフ一本で戦うしかない。
生命を断ち切ることのできる箇所。深さ。角度。
かつて医学生として習得したそのすべてを、鮮やかに蘇らせる。
花の救出に取りかかるまでは、敵との遭遇を避けるべきだ。
連戦には耐えられないだろう。確実に殺られる。
――ぼくに何かあったらみんなショック受けるよね。あのフレンドリーなヤスパーが死ぬなんて……、みたいな。
置かれている状況が危なすぎて笑えない。
ゲート04近くの細い通路に潜み、呼吸を整えながら周囲を窺った。
遠くに巡回と思しき敵の背中がちらつく。
しかし花は見当たらない。
行く先を決めかねて視線を巡らせた刹那、視野の端に動くものを捉えた。
「えっ……」
通り過ぎた意識を戻す。
エレベータの階数表示パネルが、信号のように白く光を発していた。
上へ向かっている。
最上の展望フロアが14階。ここは2階だ。
目を凝らすと、エレベータ付近の壁に黒ずんだ染みが浮かんでいることに気づいた。
駆け寄って確かめると、やはり血液だ。まだ乾いていない。
花が傷を負わされたのか。
パニックになりかけたとき、呼び出しボタン横に取りつけられた点字プレートに目が留まった。
いくつかに血の跡がある。花が残したものに間違いないだろう。
血糊のせいで点の位置がよく見えない。なので、指先で読み取った。
――『SO STOP』……?
不自然な文に首を傾げる。
次の瞬間、撃ち抜かれるような衝撃に戦慄した。
――『SOS(助けて) TOP(最上階)』だ。
頭に直接アルコールを流し込まれたみたいに、理想的な現実と、拒絶したい現実の境界線が霞んでいる。
だから今、制服の上着で指紋が削れるほど汗を拭いて、食事用の素敵なナイフを握り直した。
やがてエレベータが最上階のひとつ前で停まり、扉が隙間を空ける。
何者かが、引き攣れた声で「誰だ」と呟いた。この期に及んで不審者扱いとは。
――ここ、ぼくたちの職場なんだけどね。
今だ。
ドアが開き切るのを待たずに攻め込む。
花の姿を認め、素早く利き腕側の男を刺した。
寸分の狂いなく、狙った骨の継ぎ目にナイフが埋もれる。
死線を越えた敵の身体が壁に当たり、鈍い振動で箱が揺れる。
花が短く悲鳴を上げた。
僅かにも止まらず、こちらに銃を向けたもうひとりを刺す。
「彼女は返して貰う。ぼくの機の乗務員だ」
あらゆるものに見離され、『venom』の男は壊れた操り人形のように頽れた。
それを見下ろし、肩で荒く息をする。
攻撃は、このふた手間で終わりだ。朝のヘアセットより少ないモーション。
血に濡れたナイフが微かに震え、手の中で急速に冷えていく。
「どうしよう。困ったな」
人を、殺してしまった。
靴に触れるほど近くで、帽子とバンダナの男がふたり死んでいる。
時間を操れたらと思うけれど、このシーンを繰り返しても、花を取り戻すために必ずまた同じことをする。結末はこれで、終着点はここだ。
もう、戻れないところまで来てしまった。
罪にならないと言われても、自分の心がそれを許さない。
受け入れるには長い時間が必要だろう。永遠に拒み続けるという手段もある。
でも結局は人殺しだ。
再会の喜びが、犯した罪の意識に侵食されていく。
後ろめたくて花の顔を見ることができない。
「ヤスパー……」
不意に眩暈がして呼吸を止めた。
「ねえ、ヤスパー!」
引きずられるようにして、エレベータから連れ出された。
意味もなく振り返る。
箱の鏡に映った自分は返り血すら浴びず、いつもと同じ、遊び心を加えた余裕っぽい顔をしている。
けれどこれから先は、ナチュラルな心で人を愛せない予感がして胸が塞いだ。
この苦しさから逃れる術はあるのだろうか。
身体が千切れそうだ。
薄明りが射す無人のレストランフロア。
背後で扉が閉まり、敵の死体を乗せたエレベータが動き出す。
「あなたの方が心配だわ。大丈夫?」
真正面から両腕を掴まれ、何度か呼びかけられて我に返った。
「もちろん。新しいヒーローが鏡の中にいてびっくりしたよ」
制服の着こなしには自信があるが、さすがにパイロットとの兼業はきついだろう。フライト中に事件が起こらないよう、悪の勢力をコントロールしなければならない。
やがて視界に輪郭が戻り、目の前の現実と重なった。
真下へ線を引くように、彼女の唇から暗い赤が伝っている。
「花、すごい血だね。平気……?」
「少しの間、青年コミックの世界に召喚されてたみたい。ご覧の通り、女子でも手加減なしよ」
彼女は大人っぽく笑い、こちらの胸に身体を預けてきた。
こういうとき、期待に応えないと酷く怒られる。
穢れた手だと知りながら、可愛い頭をふわりと包み込んだ。
「女の子殴るなんて……。もっといたぶってやればよかったね」
冗談やめて、と花は通常モードだ。
「前に言ったっけ。ぼく、小さい頃からティアーズ・ロス症候群なんだ。泣きたくても全然涙出ない……。意外と病んでるからやさしくしてほしいな」
「仕方ないわね。あの悪魔憑きみたいなお姉さんたちが原因なのね?」
彼女はこちらの背に手を回し、宥めるようにゆっくりと叩き始める。
花の瞳には、酷く傷ついたヤスパー(自分)が映っているらしかった。
今、一番見たくないものがそれだ。専門医も覗くなと止めるだろう。
疲労を感じ、少し眠りたくなったので目を伏せる。
「助けに来てくれてありがとう。……今回のことはあたしの方に責任があるから、殺しのダメージは3対2で分け合いましょう。あいつらのせいなのに、何だか後味悪いわね」
こちらの心情を察して、彼女なりに一生懸命慰めてくれているのが痛いほど伝わる。
「花。3対2って、ローカロリーパンケーキの分け方と同じじゃない?」
朝食の明るい風景が浮かぶ。
上手く繕えなかった表情を見せたくなくて、花のすべてをきつく引き寄せた。
「非常階段駆け上がって消耗してるんだ。だから今日は、ぼくが全部いただくよ……」
Ⅵ-2 end.




