Ⅴ-2 レイヴン
早朝、エドガーからの連絡で目を覚ました。
柊は震えるセルラを引き寄せ、ベッドの中で応答する。
「……はい」
猟奇的に叱られた後、釈然としないまま返事をしたときと同じ言い方になってしまった。
「EDだよね……?」
視界が少しずつクリアになる。
カーテンの閉じた部屋は涼しげで、やさしく絵本を読んでくれていたカレンも、ボランティアナースをやめて自室へ帰ったようだ。寝顔に女子を惹きつける要素が欠けていたので捨てられたのかもしれない。
『ああ、そっち大丈夫か?』
徹夜っぽいニヒルボイスだ。
学生時代に彼がよく口ずさんでいた、塑性の歪みに光を灯す歌を思い出す。
「お蔭さまで無事だよ」
こちらもあまり寝ていない。
間を置かず、昨夜の騒動に話題を移した。
計画的に署に残ったので、彼は今回、Apの捜査に加わっていないという。
ふと会話が立ち止まり、エドガーが他の何かを切り出そうとしているのを察した。
「言いにくいこと? 遠慮しなくていいよ」
自宅から掛けていると前置きしながらも、彼は秘密を伝言するように声を潜める。
『気になる資料を見つけた』
「もしかして『venom』の……?」
『そうだ』
警察の不祥事に纏わるものなので、隙を見て、証拠と追加の手がかりを探すと彼は続けた。
『オレの勘が当たってれば、これが「venom」の始まりかもしれない』
・
ディオンは白紙のページにペン先を置いた。
パイロットとCAその他に割り当てられた、ターミナル上階の『room-5』でフライト誌を書いている。
――通常運行かよ。
昨日の事件など、取るに足らない些事扱いだ。
ポリスが無能なせいで犯人の行方が掴めず、何ひとつ解決していない。
一夜明けた今は、セントラル署の連中が控えめに巡回しているだけだ。
黒衣のサイコに手錠を掛ければ、多くの裏が明らかになるだろう。
そいつの経歴。
そいつと連絡を取り合っていた者。
そいつが出入りしていた場所。そこで接触した人間。
その他にもいろいろな闇が。
Ap側は、ターミナルやフライト機の事故で騒ぎが起こることを怖れている。
朝の会議には出席したが、乗客への情報開示案は上の圧力で棄却されたらしい。
――隠匿するなら、いつも通り飛ぶしかないよな。
要約すると、黒衣の人物のことは警戒しつつ、忘れたふりをしろという流れだ。
奴が出頭でもしない限り、進展は望めない。
――つーか内部犯なのか……?
そうだとしたら、すでに職員の制服を着てApのどこかで勤務しているはずだ。
敵の正体がわからない以上、複数の協力者が潜んでいる危険もある。
安全で快適なフライトは幻想だ。
市民に包み隠さずすべてを明かし、死にたくないなら乗るなと告げるべきではないか。
柊が海上着水を成功させたことで、航空機への信頼が高まっている。
けれど必ず上手くいく保証などない。失敗すれば大半が死ぬだろう。
この状況下で初めて、預かる命の数を重荷に感じた。
整備士も、乗務員も、管制の職員も信じることができない。だから、猜疑と疑惑に憑りつかれて気が立っているのだろうか。
それとも墜落報道の際、欠陥のあるパイロットだったと蔑まれることを怖れているのか。
――どっちも地獄だよな。
考えるだけ無駄だ。二重螺旋を上りきれるほど余裕がない。
「よし、終了」
書き終えた誌面にペンを放る。
『男の文字練!』の成果か、多少は字がましになっていた。
「おまえ、さっきから何やってんだよ」
セーラは紙袋の中身をテーブルに出し、置き場所に悩んでいる様子だ。
ひとりで行動するなときつく言ったのはこちらなので、休憩時間を見計らって『room-5』に連れて来た。
「終わったならディオンも一緒に考えて」
パッケージに入ったままのナイフとトランシーヴの収容先が決まらないらしい。
「物騒だな。報復殺人か?」
空調管理室での出来事を許せないのなら、復讐に手を貸してやろうと思った。
「そんなことしないわよ。……ここにも武器になるようなもの、置いておいた方がいいと思って。念のため」
セーラは真剣な面持ちで室内を見回している。
頭を動かすたび、ブロンドの長い髪が陽の光を反射する。眩しくて鬱陶しい。
「目につきやすいエリアはだめよね。困ったわ」
あごに手を遣り、ゆっくりと歩くシルエットは探偵にそっくりだ。
しかし、おそらく眠れなかったのだろう。晴れ空とは逆に顔色が沈んでいる。
こちらはソファに座り、予備の武器と通信機を過剰包装から救い出した。
セーラを一瞥する。
「低い位置にしとけ」
「どうして?」
「這ってても届くだろ。それ使う状況考えろ」
彼女は振り返り、先に言ってという顔をして、曖昧に微笑んだ。
「……そうよね。怪我で立てなくても大丈夫なところにするわ」
・
居住館の屋上で風に当たっていると、セルラに着信があった。
セントラル署のダークなポリス、エドガーの再登場だ。
『venom』に迫る何かを掴んだのだろうか。
肌の内側に鋭く緊張が走った。
思いきり胸を叩いて、逸る鼓動を止めてしまいたい。
「ハロー」
『ラギ。今いいか?』
「OK。……僕も飛べるか試したくて、屋上のフェンス乗り越えてる最中だけどね」
『おい』
「ごめん、冗談だって」
彼は細く息を吐いて続けた。
『このシティにいくつかあった寄宿施設、憶えてるだろ』
薄れた記憶が戻るのを待った。
浮上する名前。
「……『aid』のこと?」
そのような名称の施設が存在していたはずだ。
帰る場所のない青少年や、医療施設から追い出された、身寄りのない子どもなどが集められていると聞いた。
けれど、新生ワクチンの強制投与が問題になり、しばらく前に閉鎖されている。
『それだ』と彼は素っ気なく肯定した。『オレは「venom」の始まり、……結成のルーツを知るべきだと思った。だから、過去に起きた、チーム、組織、集団の事件をメインに手がかりがないか探した』
彼の行動力と、単独での危うい捜査に敬礼したい。
『「aid」が機能してた頃、入所してた奴らが、何度かセントラルでも事件を起こしてる。……ニュースにならない程度の、ジュース機持ち去りとか、スプレーで落書きとかだ』
非行の延長という印象で、殺戮をゲーム化するほどの狂気は感じられない。
エドガーは、夜のシティで起きていたそれらの悪戯が、ある日を境に消えたと言う。
やはり『aid』の閉鎖が理由なのか。
――それをきっかけに、かつての非行グループが『venom』として再誕した……?
シナリオは繋がる。
しかし謎だ。施設を失ったからといって、その怒りが放火や爆破の無差別殺人へ向かうだろうか。
『奴らの調書が残ってるんだ。……自分たちは惨めな境遇につけ込まれて、人体実験に使われてる。きっと先は長くない。だから少し悪いことをして気分を晴らしてる。人に危害を加えるつもりはない。……そういう内容だった』
セルラ越しに紙を捲る音がする。
沈黙の後、殺す必要はなかった、と彼は呟いた。
『警察が、あいつらの仲間を捕まえて殺したんだ』
記録には、取り調べ中の事故により、と書かれているらしい。
「状況は」
『秘密だってよ』
詳細はどこにも記されていないと、彼は吐き捨てるように言った。
『ふたりも署内で死ぬわけないだろ』
不自然だ。警察が行き過ぎた罰を与えて虐げたとしか考えられない。
結果、死刑になるほどの悪事を働いてはいない『aid』の青少年が死んだ。
過去の許されざる出来事。
真っ黒な隠蔽工作。
そして、彼の奥深くに在る静かな正義。
エドガーはきっと、手元の資料を眺めながら、複雑な感情を遣り過ごせずに苦しんでいる。
――僕のせいだ。
旧友を巻き込んでしまったことを、心の底から後悔している。
もう、何も言わずに通話を終えてほしかった。
『その後からだ。「venom」の活動が激化したのは』
・
――ED、無事だといいけど……。
『aid』の件を隠蔽した警察職員が、おそらくまだセントラル署にいる。
エドガーはスパイ映画の主人公のように冷静だったけれど、大丈夫なのだろうか。
署内に『venom』と繋がりを持つ人物が紛れ込んでいるかもしれない。
「考え事?」
フライトまで余裕があったので、カレンとカフェに来ていることを忘れていた。
「ごめん、ぼんやりしちゃって」
いいのよ、と彼女は温和な笑顔だ。
ざわめく胸の裡とは裏腹に、つられてまた笑い返してしまった。
「眠れなかったの?」
「そんなことないよ。……昨日の絵本、続きも読んでくれたら嬉しいな」
「ええ、今夜にでも」
カレンがとても喜んでいるように見えた。好きな物語だったのかもしれない。
「ラギが黙ってるからわたし、触角のこと考えてたの」
「触覚?」何かに目覚めたのだろうか。
「ラギにつけたらかわいいと思って」
カレンは人差し指を立て、両手を頭に遣った。
触った感じではなく、触手と同列のあれだ。
「わかったよ。頑張って生やしてみる」
退屈な奴だと思われたくなくて、つい悪乗りしてしまった。
どちらかというとメタモルフォーゼより、記憶を失くして別人になりかけたりする方が向いている気がするけれど。
「できなかったら耳でもOKよ」
頭の上で左右の指を開き、カレンは微笑みながら首を傾げる。
何の動物だろう。コヨーテでないことは確かだ。
「僕はネコかアルパカにしようかな。可愛がって貰えるといいけど」
「いつも不安なのね。先天性なの?」
素直に頷いてみた。
「手の施しようがない心配性だって医者が……。髪の色も完璧にチョコだし、本当にだめだね」
「でも、姿が綺麗だわ。わたしの好きな顔よ」
カレンの黒目がちな瞳に伺察されて、身動きがとれない。
「僕が恥ずかしがってるの見て楽しもうとしてるね」
「ええ、そうよ。……あなたが社交的な自信家だったら、わたしはたぶん、あなたに興味を持たない」
彼女は寂しげに視線を外した。
「フライトが終わったら覚醒するつもりだったけど、いいのかな。このままで」
「もちろん。君のせいじゃないよっていう台詞、気に入ってるもの」
カレンは、立ち直ろうとしている小さな女の子みたいに口元を綻ばせ、あどけない仕草で淡い色の唇を触った。
「ラギ、わたしのケーキ半分あげる」
最高に平和な日常のひととき。
大事にしたくても留めておけないところが、時間と同じで少し切ない。
・
心配していたフライトも滞りなく、行きは順調。このまま帰りの機をセントラルApに降ろせば終了だ。
懸念していた機体への細工は行われていないだろう。
着陸へ向けて体制を整えようと意識を高めた刹那、管制から通信が入った。
すぐに応答する。
嫌な予感だ。
遠い地上で張り詰めた声が繰り返している。
『セントラルApが、覆面の集団に占拠された』
急速に爪の先が凍てついていく。
最悪の事態だ。
怖れていた惨劇が、予想より早く幕を開けてしまった。
ただ、それだけのことだけれど。
『着陸の滑走路は第1Apに確保。安全に留意し、そちらへ向かえ』
動揺の振り幅が大きく、立ち上がる気力すらない。
しかし取り急ぎ、乗客に着陸地点の変更を伝えなければ。
冷静になれない自分が、冷静になろうとしている自分に大切な何かを教えたがっている。
挫けずにパイロットの務めを果たすべきだ。
事実を知らせれば、混乱は避けられないだろう。
隣で副操縦士も青褪めている。
ヤスパーと花。ディオンとセーラは無事なのか。真実を今、知りたかった。
見方を変えれば空の上は、完全無欠に隔絶された孤独な世界だ。
覚悟を決め、怯える手でアナウンスのボタンを押す。
この、緊張を誘う開始音。喋る前から声が掠れているのがわかる。
だが、もう仕方がない。現実からは逃れられない。
夜が始まろうとしている。
『当機は定刻通りセントラルエアポートに着陸する予定でしたが、ターミナルが占拠されたとの連絡が入り、急遽第1エアポートに変更となりました。直ちに進路を修正し、第1エアポートに降ろします。到着予定時刻を2分ほど超過することを、どうかお許しください。この度は、順路に乱れが生じてしまい、お詫びの言葉もございません……。シティ・キアサ発「sky paletter - 4177」にお乗りいただきました皆さまへ、深く感謝申し上げます。……操縦士の柊がお伝え致しました』
Ⅴ-2 end.




