Ⅴ-1 レグホーン
空調管理室での出来事を知り、柊は冷えた指先を握る。
――まだ『venom』の犯行と決まったわけじゃない……。
けれど動悸が治まらず、ディナーの席で危うく意識を失いかけた。
発熱用の冷たいあれが剥がれそうで額を押さえると、物憂い文学生のようなポーズになった。
現在、円卓を囲んで、少ない情報をもとに陪審員風のディスカッションが展開されている。
隣席のカレンは変わりないが、やはり風邪っぽいのか、制服のブラウスに重ねて厚手のカーディガンを羽織っていた。
緊迫した空気の中、彼女はからかいの欠片を探すような目をして、ときおりこちらを窺っている。
仲間が無事で、Apの職員に死者も出ていないので気が緩んだのだろう。
カレンの屈託のない笑顔につられて、微弱に笑い返してしまった。
アンダー路のエピソードは内密に願いたい。
聴取から戻ったセーラとディオンは、平常心の鑑のようだ。
ふたりによると、Apの警備が駆けつけたときには、室内から襲撃者の姿が消えていたという。だが、館外へ逃げたと思われる血痕が見つかり、セントラルのポリスが範囲を拡げて黒衣の人物を捜索している。
刺されていた男性スタッフは一命を取り留めた。
空調管理室への侵入には彼のIDが使用されており、これまでに複数の説が浮上している。
外部犯が職員を通路で襲い、IDカード強奪のため、ナイフで攻撃。発見を遅らせる目的で、人気のない空調管理室に引きずり込んだ。その直後、不審な物音を聴いたセーラが様子を見に行き、犯人と対面。これがひとつめ。
次は内部犯説。
残って仕事をしていたスタッフに、犯行時刻、不自然に席を外していた者はいない。それについてはポリスが調査済みだ。
しかし構造上、帰宅したように装いながら、館内に潜んでいることも可能ではある。その場合、犯人側に何らかのアクシデントが起こり、口封じに男性スタッフを刺したと思われる。
線は薄いが、最後は、加害者と被害者が協力関係にあったというケース。仲間割れをしたのか、最初から死なない程度に刺すシナリオだったのかはわからない。どちらにしても、偶然現れたセーラの行動によっては、犯人側の逃走経路を塞がれる怖れがあり、彼女を殺害するしかなかった。
皆で推測を混ぜ合わせれば、他の見方も出てくるだろう。
――入館のIDは……?
関係者以外は、あの館の扉を開けられない。『staff only』の区域だ。
黒衣の人物が内部の者でなければ、誰かが手引きして、猟奇犯をセキュリティエリアに入れたのか。
正体も目的も明かされず、不可解な点が多すぎる。
――僕を殺したいなら、フライトのスケジュール調べて待ち伏せるとか、ライフルで狙撃するとか、手軽にできそうだけど。……まさか。
過去の傷が疼き、再び機体が狙われているのではないかと胸がざわめく。
搭乗者が自分ひとりなら受けて立つが、乗客乗員を危険に晒す覚悟はしたくない。
「ラギのこと、私たち言ってないから」とセーラ。
今回の出来事と『old blue - 0075』の墜落未遂については、関係を持たせずにおいてくれたらしい。
「あいつらも怪しいぜ。『venom』に情報抜かれてんじゃねえのか」
ディオンはおそらく、シティ・セスナの警察を敵視している。言葉の端に因縁めいたものを感じた。
今回の捜査にエドガーが加わっているかを訊けていないが、勤務中に顔を合わせても他人のふりをするという取り決めなので話は後だ。
この先、悪い予感が現実になれば、武器の携行令が出るだろう。
パイロットもCAも、所属Apの保安員だ。
いざというときは戦闘に加勢しなければならない。
但し攻め込まれた場合、ほぼすべての行為で正当防衛が認められる。
敵を何人殺しても捕まることはない。
むしろ、エアポートを守るために身を投じた自己犠牲と戦果を、高く評価される。
味方の増強は諦めるべきだ。リスクが大きい。
たとえ外部に助けを求めても、あちら側に『venom』が潜伏していたらすべて終わりだ。
エドガーでさえ、警察内部の人間を信用していない。
事態が収束し、安全が確保されるまでの長い持久戦。
セスナの中枢であるこの街から、少しでも早く、悲鳴と血溜まりが排されることを願った。
そのうち、いろいろなものを疑うことに疲れ果てて、自分の胸の裡が嫌になるだろう。
――でも……。
小さな頃から人を信じろと責められ続けてきたけれど、無条件に何もかもを受け入れる適当さは、誰も大切にしていないこととイコールではないのか。
不意のアナウンスで会話が一時中断した。
警察職員と思われる人物が、スピーカー越しに途中経過を報告している。
冒頭からぞっとする内容だ。
黒衣の男は未だ発見されていない。館内にいるのか、外へ逃走したのかも断定できていない。
犯人のものと思われていた血痕は、人間ではなく、動物の血だと判明。
――……っ!?
カフスとラペルの姿が脳裏を過ぎり、思考が停止した。
説明を省き、部屋に戻るとだけ伝えて席を立つ。
全員一致で具合が悪いと解釈されたらしく、カレンがつき添いを申し出た。
受難体質と虚弱体質の抱き合わせみたいな奴だと、若干引かれているかもしれない。
・
「ラギ、走ると身体に障るわ」
「急いでるんだ」
「吐きそうなの?」
正中線で真っ二つに切り裂かれたカフスとラペルの断面を想像し、歪んだ眩暈に襲われた。
「今は大丈夫だけど、結果次第ではショックで死ぬかも。放っておいていいからね」
拐され、無残に殺されていたとしたら立ち直れそうにない。孤独に敗けて、可哀想な猫を拾って育てた自分を許さず、何度も痛みを与え続けるだろう。
カードキーで自室の扉を開け、彼女より先に駆け込んだ。
「はぁ……、はぁ……っ」
ひと通り検めたが、侵入された形跡はない。
昼間と同じ単調な部屋だ。
突き動かされるように慌ただしく、カフスとラペルの姿を探した。
「……ラギ?」と背後から不安げな声。
「この部屋のどこかにネコがいるはずなんだけど」
短すぎる言葉で、カレンは事態を察してくれたらしい。
「了解。わたしも手伝うわ」
カフスとラペルはベッドの下で見つかった。
何かされた様子もなく、普段通りだ。
慣れないカレンに緊張しているのか、奥の方から出て来ない。来客があるといつもそうだ。
表向きは遠慮しているが、カフスとラペルの姿を見たがっているように感じたので、彼女を静かに招き寄せた。
もう一度ベッドカバーを持ち上げ、床との隙間から覗くよう促す。
カレンは何度か目を瞬いた。
「リトルツインズね」
胴がひとつしかない双子の猫を彼女に抱いてみてほしかったけれど、今日は難しそうだ。
「かわいいわ。ラギに懐いてる?」
「それなりに」
どちらがカフスで、どちらがラペルなのか思い出せないことを告げると、カレンが納得したように瞳を輝かせた。「顔、そっくりだものね。小さなキャットたちが無事でよかったわ」
安心した途端、何だか眠くなって、今なら落ち込んだり、切なくなったりせずに寝てしまえそうだ。
解熱剤と鎮痛剤のサクリファイスODのせいかもしれない。
ベッドに横たわると、カレンが寝具を整えながら口の中に体温計を突っ込んできた。
間もなく詳しい温度が暴かれる。
彼女は安静にしていれば大丈夫と言うけれど、どうなのだろう。
「昨日の夜、目が覚めたときにね、この世界で墜落事故が起きませんようにって祈ったのよ。流れ星みたいな光の線が見えたから」
夢の中にまで加護があったのか。
流星になりすました未確認のあいつだとしても感謝しなければ。
「久しぶりによく眠れたよ。……ありがとう」
・
そろそろ指読書をやめてシャワーを浴びようか迷っていたところに、花が訪ねてきた。
ヤスパーは慌ててライトを点ける。暗い部屋に微かな月明かりが届いていたけれど、このままでは幻想的すぎて距離を置かれそうだ。
現れた彼女は、ストリートミュージシャンを女っぽく纏めたようなファッションをしていた。デニムのスカートから覗く脚が、洒落たブーツに収まっている。CAの制服よりサバイバル向きだ。
花の第一声は「暇だったらどこか行かない?」。
逃避行だろうか。
もう深夜に近い時刻なので、目的地の選択肢が少ない。
馴染みのエキセントリックなパブなら早朝まで開いているけれど。
「いいよ。行こう。……素敵な服に着替えてくるからちょっと待ってて」
片目を閉じると、花は試すような笑みを浮かべてドア枠に寄りかかった。
その仕草が色っぽくて、昼間とは違う革新的なムードだ。
髪も顔立ちも甘やかな印象だが、発言は凛としていて、すべての物事に綺麗な折り目をつけたがる。
念のため、アルコール摂取前に柊の部屋に寄ってみた。
ナースになりきったカレンが楽しげに看病してくれていて、花と夜遊びに行くことを話すと明るく送り出された。何かあったら、たとえば柊が仕事を辞めたいと言い出したりした場合は連絡をくれるという。
「これで不安事項はなくなったね」
辿り着いた店は適度に賑わっていて、気に入っている奥の席が空いていた。
ダークな空間に飛び交うライトとリズム。
心配事を抑圧するのに好ましい環境だ。
このシティも、Apも自分も、明日や明後日はどうなっているかわからない。その胸の沈みを、少しの間だけ基準値に戻したかった。
花もきっと同じだろう。似ていないようで、心模様がどこか似ている。
「まだ本は無理だけど」
細かな点を読み取るように、彼女はメニューの文字を指でなぞった。
「数字と短い単語をいくつか覚えたの。目隠しされてもエレベータは普段通り動かせるわ」
何者かに捕えられ、案内役を強要されているシーンなのか。
「そのうち何でも読めるようになるよ。難しかったら訊いて。ぼくらは点字フレンズだからね」
運ばれてきたカクテルに、揃って口をつけた。
次のフライトは翌日の夕方なので、急性アルコール中毒で搬送されたりしない限りは無罪だ。
ふと思い出した妖しい童話を聞いてほしくて、独自のアレンジを加えてみた。
「ぼくには、年の離れた双子の姉がふた組いてね。……4人の姉はみんな、生まれつき光のない世界で生きる運命だった」
花は、グラスの中に取り残されたチェリーを食べている。「それで?」
「幼い頃から両親に、ひとりだけ目が見えることは内緒にするようにって厳しく言いつけられてたんだ。姉たちが寮から帰って来ると、2階は昼間でもカーテンが閉まってて、ちょっと異質な雰囲気だった。……姉さんたちは僕にやさしかったけど、本当のことがばれたら、あの黒い杖で打ち殺されるような気がして内心いつも怯えてた」
「逃げられないの? あなたは見えてるのに」
「いや、無理だったと思う。家の構造も、どこに何が置いてあるのかも、姉たちの方がぼくよりずっと詳しかった。走ったら足音で追跡されるし……。ひとりになりたくて、地下の壊れた洗濯機の陰に隠れてたときもすぐに気づかれた」
「ホラー映画の敵みたいね」
花は、寒気を感じたように左右の手を握り合わせた。
「ある日、うっかりしてて、リビングのテーブルにペンを置き忘れたんだ。姉さんたちは散歩に出掛けたと思ってたんだけど、気配を消して家に残ってた。4人で弟を驚かせようとしてたみたい」
「そして、ペンが見つかったのね」
苦く頷いた。
「罵られながら杖で何度も叩かれて、気がつくと地下の洗濯機の中に押し込まれてた。両目を血だらけの包帯に覆われて……」
花が眉を寄せる。
「顔の横に手紙が置いてあって、手探りでそれを読んだ」
「メッセージは何て?」
「『ひとりだけ、は許さない』って……」
「怖すぎるわね」
「少年だったぼくはあの家を抜け出して、伯父のところへ行った。事情を話して匿って貰ったんだ。……姉たちは今も、ぼくのことを探してると思う。ひとりだけ外の世界に逃げたから」
ノンフィクションだったら多少は同情してあげるけど、と花が言った。
「あなた、兄弟姉妹いないでしょ」
彼女はテーブルの上で腕を組み、困り顔のまま頬を膨らませた。
「ヤスパー、いい加減にして。悪魔憑きみたいなお姉さん、4人とも夢に出てきそう……」
夜の色をした風が、街の底を通り抜けていく。
何の気紛れなのか、帰路でふと、セントラルで生まれ育ったことを話した。
「でも帰ろうと思ったとき、自分の生家じゃなくてApの居住館が浮かぶよ」
「あたしも。……パパとママは心配してるかもしれないけど、こういう生き方もいいと思うの。毎日いろんなことがあって面白いわ」
花もApが好きみたいだ。
もう、戦うしかないだろう。
『venom』の侵攻は、おそらくスケジュールに組み込まれている。
ふらりと立ち寄った公園は貸し切りで、誰の姿もない。
遊具を囲う鉄のハードルに浅く腰かけた。
「先に言っておくけど、君がパートナーでよかったよ」
「そう? 光栄ですわ」
花はよくわからない高貴な登場人物になりきっている。
「突然どうしたの? 自殺するつもり?」
「いや、今のところ予定はないけど」
言い終えた瞬間、過ちに気づく。小さな声で死にたいと呟くべきだった。きっと皆に内緒で、少しだけやさしくしてくれただろう。
目の前を歩き回る彼女の手を摑まえた。
「顔にキスしてもいい?」
「だめ」
即答だ。断られる原因を探すしかない。
「けっこう前の話で申し訳ないんだけど、……服切り裂いたこと、怒ってる?」
「あたしは『あんなことされて怒らない人がいるの?』って訊き返したいわ。ファスナーに髪絡んだから助け求めただけなのに」
押し倒してハサミで裁断はさすがにまずかった。
「ごめん」
「許さない」
「償いはするよ。何でも言って」
俯いて反省していると、頭の先が花の胸の下辺りに掠った。
どうせ叱られるなら、甘えてみるのも悪くないだろう。
心が満たされなくて命が尽きそうだ。
「ねえ、首は?」
「嫌」
「手も?」
一瞬、南西から夜風が吹き、周囲が無音の闇に包まれた。
「仕方ないわね。譲歩してあげましょう」
彼女の唇が少し困ったように、やわらかな曲線を描いている。
「……あなたのフライト好きなの。忘れないで」
「憶えておくよ」
外気と同じ温度になった花の手を引き寄せて、そっと唇を押し当てる。
未来に何が起こっても、この街の今と、遠い日の思い出を失いたくなかった。
Ⅴ-1 end.




