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ユキくんとミオさん

 言うまでもないことだけれども、この都市では、魔法は使えない。



          ◆◇◆



 静粛な雰囲気が空気を満たしている。

 暖かな感触が緩やかに体を締め付ける。

 変化はなく、どこまでも続いていく緩やかな感覚は、私の全身に染み入るような安堵をもたらしていた。


 自分が目を覚ましていることには気づいていた。

 普段起きる時間をわずかばかりだが過ぎてしまっていることも、なんとなくわかっている。

 けれども布団があまりにも暖かくて心地がよいから、私はどうしてもそこから抜け出て、朝の静謐な冷気に肌をさらす気にはなれなかったのだ。

 微睡みの奥へしがみつくように、思考は安寧を求めている。安寧に漂う思考を、暖かな布団と静かな空気も後押ししている。このまま眠り続けることを、なんとなく許されたような気分になって、私は目を閉じ続けている。


 もう少しこのままで。

 このままでいたい。

 あと少し、あとちょっと。


 けれどもいつまでもこのままでいることはできない。

 私の奥に潜む活力は、安寧の靄を吹き払い、意識を急速に覚醒へと促そうとする。


 ああ、余計なことを!

 もっと寝ていたいのに。

 まだ眠っていたいのに!


 けれども、若い活力に満ちた体は、それを許さない。

 早く起きて朝の光を全身に浴びたい。体を思いっきり動かしたい。

 脳と体の相反する命令に、私は次第に焦りにも似た、むず痒い感覚に全身が囚われていくことに気づいた。

 体が疼く。

 わかる。もう、程なく、体が眠りに耐えられなくなる。

 暖かな安寧に耐えられなくなり、冷たくも厳しい、現実を求めるようになる。


 ――暖かさよりも冷たさを求めるなんて、被虐体質なのだろうか。


 などと馬鹿な思考が浮かび上がってきて、つまりこの思考を『馬鹿な思考』と片付けられる程度には覚醒しているのだなと納得し――私は、諦めた。


 起きよう。


 のっそりと布団から這い出すと、冷たい空気が全身を包んだ。

 一瞬の緊張の後、すぐに弛緩する。


「は……ふぅ」


 小さくため息が零れる。

 九月も末。残暑もようやく通り過ぎ、朝晩の冷気が身に刺さるように感じられる頃。まだまだ暑く感じる日も多いとはいえ、寒さも無視出来なくなってきた。朝、布団から抜き出ただけで、身が引き締まるように思う。

 ベッドからずり落ちるように床へと転がり、周囲の冷気に体が慣れるのを待つ。ほんの数秒、ゆっくりと体を起こして大きくのびをする。


「う、んー……」


 鼻から息を抜くように目を閉じたまま両腕を後ろにそらす。短く頭を震わせて、まぶたに力を込める。

 そして、目を開ける。

 淡いグリーンの光に照らされた、少し暗い室内。いつもの私の部屋。

 腕を下ろし、息を吐くと、ようやく頭が正常に働き出したことを感じた。

 今日はいつになく、起きるのが億劫だった。

 朝の冷気、時間的余裕。眠り続ける理由はいくつも思い当たるけれども、それは昨日も、一昨日も同じこと。重度の眠りを欲するほど体が疲れている訳でもない。けれども今朝は、いつも以上に眠りの誘惑を断ち難かった。

 なぜだろう?

 大したことではないと思いながらも、疑問を消すことはできなかった。昨日までと今日の違いを考えながら、首を傾げる。

 辺りは静かだ。私の朝は早い。日課となっている早朝ランニングのため、少なくとも学校に向けて家を出る二時間前には目を覚ます。今日は昨日までより暗いように思う。ほとんど意識しない動作で机の上の眼鏡を取り、掛ける。枕元の目覚まし時計を眺めてみれば、六時をわずかに回ったばかり。いつもとほぼ時間は変わらない。パジャマを脱いで、ジャージに着替え、緑のカーテンを開ける。

 カーテンの向こう、窓の奥の世界は白かった。

 結露しているのかな、と初めは思った。


「……何これ」


 つぶやきつつ窓を開けるが、その向こうもやはり白かった。

 霧だ。

 深い霧が庭を覆い、世界を満たしていた。

 私は一瞬、茫然として立ち尽くす。

 見事な霧、と言って良かった。

 霧は、広い庭を完全に埋め尽くし、周囲の物質の輪郭をすべて曖昧にしている。離れの道場。表にある神社。道場から母屋へと続く石畳の小道。脇にある古びた井戸。裏手にある雑木林。それらすべてが霧に浸され、見慣れたはずの風景がどこか幻想的な――悪く言えば異質ささえ感じさせられるものへと変貌を遂げていた。

 同時に気づく。

 今朝は静かだ。あまりにも静かだった。朝日と共に歌い出す、鳥の声すら聞こえない。裏庭の奥に広がる林の、木々の囁きすらも、霧に溶けて消えてしまったかのようだった。

 私は毎朝するように、庭へ出る。

 けれども頭の中は困惑に包まれていた。

 外に出ると、霧はそれほど深く感じられなかった。

 ぼんやりとだが、庭全体を見渡すことはできる。表の神社の鳥居も、見ることができた。

 体にまとわりつく湿気は、確実に冬の気配を纏っている。ジャージで全身を覆っているとはいえ、一走りして帰ってきた頃にはどうなっているかわからない。きっと全身べっとりと濡れてしまうだろう。水気を吸ったジャージが普段以上の負担を体に課すに違いない。水気が体の熱を奪い去り、風邪を引いてしまうかもしれない。

 実際に動き始める前から、そんなネガティブな想像が頭を浸し、日課を進めることに二の足を踏んでしまう。


「――未央」


 戸惑い庭先で突っ立っていると、背後から声を掛けられた。

 振り向くまでもない。よく知った、父の声。見ると、道場の方からぼんやりとした長身の人影が近づいてくるのがわかった。


「お父さん?」

「これからかい? 今日はやめておいた方が良い」


 父も当然、私の日課を知っている。だから、早朝ランニングのことを言っているのは、考えるまでもなく明らかだった。


「……どうして?」


 父の言葉の行方がわからず、問い掛ける。父はすぐには答えず、ゆっくりと歩いてきた。一定のリズムを刻み、砂を擦る音が響いてくる。痩せぎすな長身の輪郭がゆっくりと浮かび上がってくる。身につけているのは紺の胴着。ゆったりした輪郭が、父の姿をいつも以上に大きく見せていた。右手に竹箒を持っているのは、庭の掃除をしていたからなのだろう。箒の先を地に着けないように、やや右腕を曲げ、確りと握りしめていた。


「この霧だ。前も見えず、危ないだろう」


 私の前で立ち止まり、父は辺りを見回しながら言った。


「この程度の霧なんて……」


 反射的に反抗の言葉を漏らすが、不意に、父の言葉の意味に思い当たった。

 私の家は。

 正確には、私の家や神社や古武術道場を含んだこの土地は、上弦の住宅街からはやや高台に当たる丘の上にある。

 家の裏には林が広がっているが、高台の土地はわりと広く、空気の留まりにくい地形になっている。故に流れる風は常に強め。本来、霧が溜まりにくい土地のはずなのだ。その土地これだけの霧が出ているのだ。下の住宅街は、どんなことになっているのだろう。


「鳥居から下を見なさい」


 言われるままに私は駆けて、鳥居のそばまで行く。鳥居の間から下の住宅街へと続く長い階段を除いた瞬間、息を呑んだ。

 真っ白の海に、灰色の階段が飲み込まれていた。本当に真っ白。丘の上も十二分に白いが、住宅街の様子はその比ではない。どこを見ても真っ白で、屋根一つ見えやしなかった。

 古くからある神社の階段は、安全性よりも効率を重視してか、やや急に感じられる。一寸先ほども見えづらいこの視界では、階段を下りることにすら危険を感じられた。

 茫然としていると、いつの間にやら父が隣に来ていた。


「最近は、何かと物騒だしな。家で大人しくしてなさい」


 そう言って、父は手に持った竹箒をなぜかくるりと宙で一回転させて、傘の方を天に向けて肩に担いだ。

 意味のわからない動作に、私は目を瞬かせる。

 何をやってるんだろう。

 箒じゃなくて、竹刀や木刀だったら様になる行為だけれども。

 そんな私の疑問の視線を感じたのだろう。父は意外そうに、口を開いた。


「聞いてないか? ここ最近、霧の中に出るという怪異の話を」


 いや、私の疑問は、あなたの動作に対してであって、台詞にではないですから。

 反射的にツッコミを入れそうになり、私はどうにか言葉を抑える。

 無理矢理言葉を収めたため、妙な表情になってしまったのは間違いない。私の表情をどう読み取ったのか、父はうなずくと、霧の中の怪異について、説明を始めた。


「ここ半年くらいだな。霧の中に巨大な化け物の影を見ただとか、霧の中を歩いていたら気づくと全然知らない場所へと移動していたとか……深刻な被害は、今までの所幸いにして起きていないようだけれども…………本当に知らないのか? 若者の間では結構広まっているという話なのだがな」


 だから知っているってば。

 それどころか、普通の人と比べて、深く関わっている方だとも思う。

 正確には今年の春、三月頃から起こり始めた現象だ。

 私がそれを、現実的なものとして捉えたのは、四月に入ってから。

 一番の親友と呼べる、一人の少年が深く関わって、それに巻き込まれる形で、私もその存在を知るようになった。あくまでも、部外者としてだけれども。

 現実的な脅威をも呼び起こす幻を構築する現象。

 光花市は、それを『特殊現象』と、何の捻りもない言葉で定義して、密かに対策する組織を作り上げている。

 必ず霧を伴って現れる怪異。それと戦う人々。特殊現象対策課。私の親友、時坂悠木は、そこでアルバイトをしている。


「うん、聞いたことがある。初美とかと、よく話してるし」


 けれども色々知っている言葉は心に納めて、私は別の友人の名前を出して、何食わぬ顔で話を治めにかかった。けれども、霧の怪異なんて、一般的には単なる都市伝説というか、噂の域を出ていない現象のはずだった。父としても、霧の怪異に実質的な脅威があるとは考えていないのだろう。ただ霧に関する最もホットな話題として、提示したにすぎないのだ。


「そうだね。だったら今日は止めておく」


 言いながら私は考えた。

 この霧は、その霧なのだろうか。

 特殊現象に伴う霧。

 今までその二つを絡めて考えてこなかったのは、寝起きで頭が回っていなかったからだろうか?

 ともあれ私は、鳥居に背を向け、母屋へと戻っていく。時間が大分余ってしまった。朝食まで、何をしよう。普段は町内を軽く一周、四〇分ほど走った後、シャワーを浴びて朝食を食べる。そうすれば、学校へ行くのにちょうど良い時間になる。余裕は一時間半ほど。何かみたいテレビがある訳でもなく、学校の予習など、やる柄ではない。どちらかと言えば、ランニングが出来なくなった分、何か他で代用できること――つまり、体を動かすことがしたい。けれどもこの霧の中で出来ることなど、ほとんどない。思いつかない。困ったなと、小さくつぶやいた。

 その声が聞こえた訳でもなかったのだろう。

 ――いや、今朝は普段以上に静かだから、やはり聞こえたのだろうか?

 父が遠慮を多分に含んだ声で、提案してきた。


「体を動かし足りないんだったら、道場へ来てみないか?」


 思ってもみない言葉に、私は勢いよく振り向いた。


「いいの!?」

「ああ、たまには良いだろう」


 うなずく父の表情は、霧に隠れてよくわからない。けれども、言葉は確かに許可を与えるものだった。

 珍しい。どういう風の吹き回しだろう。

 私の家は、代々古くから古武術を伝えている。詳しいことはあまり知らない。父が、私に関わらせようとはしなかったからだ。幼い頃――小学校の三年生頃までは、そうでもなかった。父も――何より、祖父が、熱心になって、私に九石流古武術の基礎を教え込もうとしていた。父と母の間に子供は私一人しかいなかった。祖父の息子は父一人で、他に血縁はいない。だから仕方がない、ということもあったのだろう。特に祖父は、私を男の子のように扱って。そして私も、自分自身を男の子だと、時々勘違いしているような所があった。

 状況が変わったのは、小学校の三年になってからだ。

 夏頃だったか、秋頃だったか、詳しい時期は覚えていないのだけれども、ある変化が、私の身に起きた。

 視力が落ち始めたのだ。原因らしい原因は、今も思い当たらない。父も母も、特に視力が悪いということもなかったので、遺伝とも違うのだろう。古武術の訓練で、何度か頭を打ったことも――私はよく覚えていないが――あったらしいから、ひょっとするとそれが一因となっていたのかもしれない。

 今となっては、どうでも良いことだ。

 しばらく病院へと通うようになったが視力の減衰を止めることはできず、生活に眼鏡が必須となった頃。眼鏡を掛けた私を見て、父は私が武術に関わることを禁止した。

 当然だろう。眼鏡をしたまま、武術をするのは危険すぎる。ましてやコンタクトレンズなどは以ての外だ。私の、体の安全を考えるならば、武術を続けるなどという選択肢は存在しなかった。

 私もまた、古武術の習得に深い執着があった訳でもなかったから、特に気落ちすることもなく止めることができた。けれども、日常となっていた運動を止めることはできず、高校生になった今も、毎朝ランニングを続けている。


 ――後で聞いた話がある。

 当時の私の耳には届かないように、両親や祖父が気を遣ってくれていたのだろう。

 九石流古武術が無くなってしまうことについて、祖父は最期まで抵抗を示し、そのことで父と度々口論になったという。最期まで。祖父は、三年前に他界した。特に重い病気になることもなく、静かな最期だったのだが、きっと色々と心残りはあったのだろう。


 たとえ話をすれば。

 あの頃、もし私が祖父の希望を知っていたならば、古武術を続けていただろうか?

 いや、それはないだろう。

 視力が悪いという事実は、変えられない。

 そしてそれは、武術をやる上で、この上ない欠点となる。

 武術をやるために、視力回復の努力くらいはしたかもしれない。

 しかしその手段として、確実性のあるものを私は知らない。レーシック手術なんかも、当時はほとんど知られていなかったし。たとえ当時の私がその存在を知っていたとしても、小学生の身では、受けることは適わなかっただろう。

 そもそも私の元々古武術に対する興味は、それほど大きくはなかったし、熱意もなかった。それは幼い頃から繰り返してきた、ただの日課のようなもの。好きだとか、嫌いだとか思う以前に、当たり前にそこにあった存在だった。感情が伴わないから、ある日突然それを取り上げられたとしても、ああそうなのかと、無感動に納得するだけだった。喪失感も開放感もなかった。古武術の存在は、私にとってそれほど大きな存在じゃなかった。体を動かすことは好きだけれども、たぶん、そんなに才能もない。つまり、たとえ視力のことがなかったとしても、最終的には祖父の希望通りにはならなかっただろうと、思うのだ。

 そのことは今でも――普段表面に出てくることはないが、私たち家族の、しこりとなって残っている。



          ◆◇◆



 意外と覚えているものだ。

 九石流古武術から離れてもう七年……だろうか。一通りの型の練習と軽い組み手を、私はほとんど滞ることなく済ませた。眼鏡を掛けたまま。

 当然組み手の時の顔面攻撃は禁止。父に多分の制限を強いるものだったが、そんなの当然ハンデにはならない。


「……思ったよりも動いてるな」


 父も、やや感心したように言葉を吐いた。私は荒い息を吐きながらも、微笑む。

 純粋に嬉しい。

 そして私自身でも、驚いている。

 私がかつて受けたものは基礎訓練がほとんどだったけれども、それは今でも私の中で、ちゃんと息づいているのだった。


「うん……ありがとう」


 お礼の言葉。

 自分で口にしておきながら、何のお礼なのか、わからなかった。受け取った父も、わからなかったのだろう。妙に困惑した表情をしている。

 息を整えて、胴着に着いた埃を払う。時刻は七時を回っている。今日はここまで。早くシャワーを浴びて、身支度を調えないと、学校に遅刻してしまう。

 そうして道場から出ようとした時、父の遠慮がちな声が背後から響いてきた。


「あーその、なんだ……」


 言い出しづらいことがあるのだろう。いきなり父が、道場へ誘ったのにも、何か理由があると気づいていた。今更私に、九石流を教えようとか、そんな気持ちはないのだろうけれども。


「なあに?」

「……ほら、未央の友達がいるだろう?」


 そりゃあいる。

 多くはないけれども、仲の良い友達。すぐに何人かの名前が思い浮かぶ。何を当たり前のことを言っているのだろうか。

 不審の視線を向けると、父は慌てたように言葉を継ぎ足した。


「いや、ほら、彼だよ。ボーイフレンド」


 ボーイフレンドと言われて思い浮かぶ顔は一人しかいない。


「……ユキのこと?」


 時坂悠木。正確には「ユウキ」だが、親しい者は皆「ユキ」と呼ぶ。

 私の親友。そして色んな意味で、ちょっと変わった、普通の男の子だ。

 彼と私は仲が良い。あまりにも仲が良すぎて、周囲に在らぬ誤解を招くほどだった。少し鬱陶しくて、恥ずかしい誤解。初めは解こうと試みたこともあったけれども、今ではわりと諦めて、放置している。


「そう、その彼……時坂くんだっけ? 彼に、遠慮せずに遊びに来るよう、伝えてくれないか?」

「う、ん? いいけど?」


 何を言いたいのか、よく理解できない。父の表情は何かを抑えているようなしかめっ面になっていた。

 ユキは何度か家に来たことがあり、その時に一度、父とも顔を合わせている。けれども、もう二ヶ月くらい前の話。ユキと父が顔を合わせたのは、たぶん過去にその一度だけ。それも挨拶くらいで碌に話もしていないはずだ。そんなユキに、父が一体何の用なのだろう。まったく思い当たらない。そもそも、そんな出会いとも言えない出会いなのに、よく名前を覚えていたものだ。ユキは、どちらかと言えば大人しそうで害のなさそうな、目立たない容姿をしている。時折、女の子の格好をさせたくなるほど可愛らしく見えることもあるが、人の印象にはあまり残りにくい。だからあの日のユキが特別父の目に留まったとは、考えにくい。それとも、よく覚えていないけれども、あの日のユキは、何か目立つような変な格好をしてたっけ?

 ――と、そこまで思考が進んだところで、私は不意に思い出した。


「あ、そっか」


 ぽんと、手を打つ。

 ユキが父の目に留まるなんて、当たり前のことじゃないか。

 年頃の娘が初めて連れてきた異性の友人なのだ。男親としては気が気じゃないのだろう。

 あの日は初美とか、他にも友達が沢山来ていたけれども、男の友達はユキ一人だけだった、ような記憶がある。

 あの男は誰なのか? 娘とは親しいのか? どんな関係なんだ?

 きっと頭の中に色々な疑問が浮かんだろうが、あの時父は、特に何も聞いては来なかった。けれども、今ここでユキの名前が出てくるということは、後で私に気づかれないように、こっそりとユキのリサーチをしたのだろう。主に、娘との関係について。

 誰に何と訊いたのかわからないが、私とユキの関係を捉えて、多くの者が答える文句は、なんとなく想像がつく。


「娘さんと時坂悠木くんは、極めて親しい関係です。家族を除けば、お互いに最も近しいと意識し合っている異性でしょう」


 応じる者によってその文面の形容は様々だろうが、おおよそ、そのような答えが返ってくるだろう。

 だから、父が誤解しても不思議はない。

 父以外でも、誰が誤解したって、不思議はない。

 言葉にするのは恥ずかしくて、言えないけれども。

 それらの言葉に対して、私が言えることは一つだ。


「うん、まあ、間違いじゃないと思うよ?」


 きっとユキも違う言葉で同じ意味のものを返してくれるだろう。

 それらの言葉に対して、父が出した結論は想像に難くない。

 娘と時坂某とやらは、高校生らしい健全な男女のお付き合いをしている仲なのだ。ならば、親としては寛大に受け入れてやろう。

 ということは、今の父の行動は『寛大な親』としての度量を娘に見せる、一種のポーズなのだ。

 そう言えばここしばらく、父とはあまり会話をしていなかったように思う。私としては特に意識しての事じゃなかった。だから偶々時間が合わない等の、本当にただの偶然だったのだろうと思う。

 父娘のコミュニケーション不足から来る不和。年頃の娘の持つ、年長の異性に対する嫌悪感。それはどこにでもある、大人になるための通過儀礼の一種なのだろうと、私は思う。私は、私自身の性格を『少し変わっている』と自己分析していて、こんな私が世間一般の少女のように、父に嫌悪を抱くようになるとは思えなかった。けれども父からしてみれば、ここしばらくの娘との関係は危機感を抱くのに十分なものだったのかもしれない。


「なるほどなるほど」


 そう考えると今朝からの父の変な態度もうなずける。

 何が切っ掛けでやろうと思い立ったのか知らないけれども、娘に理解を示そうと、緊張していたのだろう。だから柄にもなく普段にない行動をして、普段にない許可を下したのだ。

 我が父ながら、なんと可愛らしい。

 私は声を抑えて小さな笑い声を漏らす。


「お、おい。何か考えているのか知らないが……」

「ううん。いいよ、お父様。ユキに伝えとくね」

「あ、ああ。まあ、いいが……それより急ぎなさい。早くしないと朝食の時間が無くなるぞ」

「はーい」


 私はなんだか嬉しくなって、飛ぶような気分で道場を出た。

 庭はまだ霧に包まれていた。

 白い霧。

 この霧が普通の霧か、怪異の霧か知らないけれども。

 ユキは今、霧の中にいるのだろうか?

 ふと、思った。



          ◆◇◆



「ああ、あの寝てる人」


 時坂悠木を訊ねた時、一番返ってくる可能性の高い言葉が、これだ。

 彼を見かけると、おおよそ、寝ている。

 学校では休憩中だろうが授業中だろうがかまわず寝ている。

 お昼休みはさすがに弁当を食べているが、食べ終わったらすぐに寝ている。食べている間も、どこかぼんやりしてて半目なので、ひょっとすると寝ながら食べているのかもしれない。と、私は思う。

 この前男子の体育の授業を見学したら、ゴールポストにもたれ掛かりながら寝ていた。サッカーの授業。ゴールキーパーぐらいしか、置いておけるポジションがなかったのだろう。部活はしていない。完全なる帰宅部。以前、家に帰って普段何をしているのか聞いてみると「寝てる」という、至極簡潔な答えが返ってきた。ならば夜更かししているのかと問えば「夜? 寝てるよ? 夜寝ずにいつ寝るんだ?」ととても不思議そうに聞き返された。まるで自分が人並み以上に寝ていることを、自覚していないかのような台詞だった。


 もちろん、自覚していない訳がないので、その台詞は、ユキ流の、一種のジョークだったのだろう。つまらない。

 以前はここまでひどくなかったように思う。


 ……いや、つまらないジョークの話ではなくて、もちろん睡眠癖のことだ。


 高校に入学した春、その頃からよく寝ていることには変わりなかったが、まだ普通に起きて授業を受けている姿も記憶にある。

 他のクラスメイトたちと一緒に、放課後遊びに出た記憶もあるし、テスト前には勉強会をして、お互い教え合った記憶もある。

 いつからかユキは、寝る時間が長くなっていった。

 次第に皆と遊びに出ることもなくなり、いつ見てもどこでも寝ている。

 寝ている割には学校の成績は学年でも上位の位置をキープし続けていたので、いつしか注意する教師もいなくなった。

 いくら何でも寝すぎだ。

 何かの病気かもしれないと、一度無理矢理病院へ連れて行ったこともある。

 けれど返ってきた答えは「全くの健康体でどこにも悪いところはありません」とのことだった。

 到底信じられる結果ではなかったが、医者の出した結論に、素人の私は何も口を挟むことはできない。ただ寝続けているという結果を除けば、ユキ当人の様子に何かしら変化が訪れる兆しもなく、普通に日常生活を送っているようだった。


 ……どこが普通か。


 この日も学校に行き、我らが一年三組の教室に入ると、朝の喧噪にまったく囚われることなく、窓際前から三番目の自分の席で、いつものように机に顔を突っ伏して寝ているユキがいた。

 何人かのクラスメイトと挨拶を交わし、自分の席――窓から二列目、前から三番目、つまりユキの隣の席――に向かう。

 椅子が床を擦る音が思いの外大きく響いた。椅子に座ろうとしてふと視線を感じた。見ると、椅子を引く音で目を覚ましたのか、ユキが首だけをあげて、私を見ていた。


「……おはよー」


 間延びした声は、可愛らしく耳に響いた。


「おはよ」


 短く返答すると、ユキは再び机に突っ伏して、寝息を立て始めた。何が嬉しいのか、その表情は妙に緩んでいる。微睡みの中、何か、良い夢を、見ているのだろうか。


「……夢、ね」


 小さくつぶやいて、ユキから視線を外し、私は自分の席に着いた。

 ユキと夢の組み合わせに、少しだけ、複雑な思いが浮かぶ。けれども「夢を見ることは誰にも止められない」なんて、どこかで誰かが言ったことのあるような記憶の隅に引っかかる標語が浮かんできて、私は色々諦める。そう、色々。


「未央ちゃんおはよー!」


 明朗な声が、私を呼ぶ。見ると、亜麻色のボリューム豊かな髪の小柄な少女が満面の笑みで手を振っていた。どこか子犬を思わせるような人懐っこい動作で駆けてきて、飛び込むように未央の前の席に着地する。着席ではない。着地だ。


「ねーねー未央ちゃん。今日、すっごい霧だったね! もう、ミストって感じだよ!」

「意味わからないよ、初美」


 私は笑顔で、言葉を返す。


「えーえー? だって、霧だよ、霧っ! ミステリアスなミステリーのミストがミスティックでミスチルなんだよ」

「似た英単語を並べてるだけでしょ? しかも最後は英単語ですらないし」


 不可解な謎の霧が神秘主義者のMr.Childrenなのか。

 不可解なのは初美の頭の中身だと思う。


「えー? 未央ちゃんってば、クール。超クール。クーリッシュ。クーリングオフ?」

「……私はどこに返品されるの?」


 首を傾げながら言われても、正しい返答など出来ようもない。


「ええー? んー?」


 自分の言葉の意味も、私の返答の意味も、何もわかっていないのだろう。

 本当に、ただ適当に、記憶の隅のどこかに転がっている似たような単語を拾い上げて口に出しただけなのだ。きっと、彼女の言葉に意味はない。

 軽く息を吐くと、初美はしばらく首を傾げていたが、やがて納得したように頷くと私に顔を近づけて来た。内緒話でもするのだろうかと思っていると案の定、口元に手を当ててこそこそと、冗談めかした風に言葉を紡いだ。


「ところで奥さん、聞きましたか?」

「……何を?」


 胡乱げな目で見やると悪戯っぽい表情で口元をにやけさせる。


「あの時坂悠木くんが隣のクラスの牧さんに告られたって話」


 横に動く初美の視線を追えば窓際のユキは机に突っ伏したまま小揺るぎもしていなかった。いくら小声とはいえ、隣の席だ。初美の声も聞こえてるんじゃないかなと思うのだが、どうなのだろうか。

 少し迷って、けれども聞こえてようと聞こえてなかろうと、どちらにしろ私の答えは変わらない。


「知ってる……というか、先週、牧さんに教えてもらった。『時坂くんに告白するけど、良い?』って感じに」


 そっか、牧さん、本当に告白したんだ。

 少し困ったように初美へ笑みを返して嘆息する。

 一週間くらい前だったか、私は一年二組の牧美香子という少女に呼び出されて、ユキへの告白を予告された。


 さてこういう時、どういう顔をすれば良いのかわからない。

 そういう時に、どういう顔をすれば良かったのかなんて、今をもってしてもさっぱりわからない。

 ユキと私は親友だけれども、本当に、ただの親友なんだけれども、周囲の者は誰も信じていない。

 私たちの関係を見ると、誰もが口を揃えて言う。


「付き合ってるんでしょう?」


 私もユキも、それを普通に否定するのだけれども、周囲の誰よりも親しい私たちの間柄に、その否定は強い説得力を持たない。

 私たちの仲はとても良くて、ただのクラスメイトと呼ぶには親密すぎて、どう見たって好き合っているようにしか見えない。

 そう見えてしまう現状を、私もユキも否定できず、だからと言ってお互いの関係を変えるつもりもなかった。ユキと親友で行くという意志は、はじめは意識などしていなかったものの、様々な出来事を得て決意と呼べるほど強固なものとなっている。だから私は、気恥ずかしい誤解を否定仕切れずとも、ユキから離れることはなく、一緒にいる。互いにさほど社交的ではない性格が、また私たちの回答の説得力を削いでいく。誰がどう見たって私とユキは常に一緒にいるし、親しくって、互いに好き合っているのだ。うん、客観的に見れば、これが恋人でなくてなんだというのだろう。そんな自覚は、一応持っている。だからこそ牧さんも、私にわざわざ予告してくれたのだし。


「未央ちゃん、どう答えたの?」

「ん……『どうぞ』って応えた」


 困ったように私は歪んだ笑みを初美に向ける。

 さっきまでからかうような調子だった初美の表情は、少し呆れたように、仕方がないと言った風に、困った風に、少し面白くない風に変化した。

 牧さんへ返した言葉に挑発の意図はなかった。

 けれども牧さんの望みをユキが受け入れることはないと――その確信だけは持っていた。

 私にとっては何でもない、当たり前の、感情の余地が入ることのない、ただの事実から出てきた言葉。

 だけど、口では何と言おうとも、私とユキを恋人同士だと思っている初美には、この言葉はどのように聞こえただろう?

 内心の動揺を抑えて強がりを言っている――もちろん、全然そんなことないのだけれども――それどころか、ユキの友人としては、ユキに本当に好きな人ができた時には、邪魔にならないように少し距離を置こうなんて、そんなことも当然と考えているんだけれども――そのように、聞こえてるんじゃないだろうか?

 最も私は、ユキに好きな人ができるなんてこれっぽっちも思っていないし、だから牧さんがどう行動しようとも、最終的な結果は変わらないんだと確信していた。

 それに、牧さんの結果は訊かずともわかっていた。

 初美は初めからからかい口調だった。それは、いつも口でユキに対する恋心を否定する私に対して動揺を誘うための言葉だったのだろう。

 ゆえにそれは、初美から見てユキに恋する私――繰り返し言うが、実際には違う――にとってのネガティブな結果ではなく、からかいのネタ程度で済む話ということで。つまりユキは、牧美香子を振ったのだろう。

 初美は少し腹を立てているようだった。ぷっくりと頬を膨らませて、少なくとも、そのように見えるポーズをしていた。


「もう、未央ちゃんったら、その態度はいただけないよ!」

「……『いただけない?』」


 何なんだその表現は、と思う。

 たぶん、感心しないってことだろうとは思うけれども。

 私も一応、今の私の態度が、ユキに恋する一少女としての態度としては失格だろうとは思う。私はそんなんじゃないので、失格も何もそれは初美の勘違いなのだけれども。


「牧さんに言われた時もそうだけど、ちゃんと怒らなきゃ!」

「んーと『ユキは私のものだから、告白しないで』って?」

「そ、そうよっ!」


 嘆息気味に言うと初美はなぜだか少し怯えたように声を返してきた。

 私はそれを見てますます息を吐く。

 わりと私に近い初美ですら、コレなのだ。

 私とユキが恋人でないなんて、信じていないクラスメイトなんてどこにもいないだろう。

 そろそろ諦めなきゃ……というよりも受け入れなきゃいけないかもしれない。

 ユキが私の恋人――のように見えるという事実を。

 受け入れてしまえば初美のようなお節介も減るだろうし、ちゃんと恋人っぽいことをしていれば、ユキが誰かに告白されて、それを断って、その度に私が巻き込まれるなんて事件もなくなるかもしれない。

 どうしよう、ユキ。そろそろ提案があるんだけどどうかしら? そろそろ私たち、付き合ってみない?

 そんなセリフが頭の中に思い浮かんで、けれどもまったく気持ちの乗らない言葉には苦笑しか浮かんでこない。

 さてはて、ユキはどう答えるだろう――と窓際の席へと視線を向ける。

 さっきまで机に突っ伏していたはずのユキは、珍しくも顔を起こしていて少し困ったように私たちを見ていた。


「……どうしたの?」


 起きてるなんて珍しいねと、言外に乗せて尋ねてみる。


「んーと、さすがに話題が話題だから起きてた」

「ええええっ! 聞かれてたっ!」


 初美が大げさなほど驚いて飛び跳ねた。

 いや、そりゃあ聞こえるだろう。

 隣の席で、私たちは特に声をひそめていたわけじゃない。私は兎も角、初美の声は高くて響くし、何しろ題材が他人の恋話だ。色々と思春期学生である私たちにとって、興味を惹かざるを得ない話題だ。ユキでなくともクラスの中で何人も聞き耳を立てていることに私は気付いていた。

 初美のリアクションは大げさに過ぎていて、演技なのか本気で気付いていなかったのか、どうにも判断に迷う所だけれども。けれども私の知る限り、初美はわりと演技ができない性格だ。色々な意味で。なのでたぶん、本気で訊かれていないと思っていたんだろう。間の抜けた話だけれども。

 初美を見ると、顔色を青くしてユキを見ていた。聞かれては拙いことを聞かれてしまい、怯えているということなのだろうけれども、それはさすがに迂闊すぎないだろうか。それとも初美は机に突っ伏して眠っているユキの姿が見えていなかったとでも言うのだろうか。なんとなくそれで正解そうだなと思う私の心の人物評に、初美に対する呆れポイントを「1」追加。


「それで、ユキは牧さんをどうしたの?」


 真っ青になっている初美からはそれ以上話を聞けないと思い、尋ねる私は、実はさほど興味はなかった。

 結論は初めからわかっている。聞かなくても良いことだとは思うのだけれども、なんとなく言葉にして明確にしておくべきだと思った。


「うん、断ったよ」

「……そっか」


 相槌以上の返答を、私は持たない。

 私はそれに感想を言う立場にはない。

 ユキと親友になると決めてから、ユキと私の、お互いの立ち位置を明確に定めてから、私たちは幾つもの事象を協議し合ってきた。

 これはその協議の範囲内にある出来事。

 想定の範囲内だ。

 だからとっくの昔に感想は述べたし、結論も出ている。

 ユキにとってもそれはそうで、だからユキは頷いて、小さく欠伸をした。目を擦り、どこか可愛らしい仕草で、机に伏してそのまま寝息を立て始める。

 霧のせいで家を早めに出たこともあり、始業までにはまだまだ余裕がある。一眠りするユキを見て、何だか私まで少し眠たくなってくるように感じる。


「え? えええっ? み、未央ちゃんはそれでいいの? そんだけでいいの? もっと色々と聞きたいことがあるんじゃないの?」


 なぜか焦ったように初美が聞いてきて、私は戸惑う。

 あれ? 恋人的な存在としては、彼氏に対してこういう場合もっと色々と聞くべきなのだろうか?

 私は、もし自分が好きな人が誰かに告白されていて、その話を耳にしたとして――という風に、想定して自分がどう行動するだろうかと考えてみた。

 ああ、そうだ。喩え告白の結果、断ったと知っていたとしても、その告白を聞いてどう感じたとか、少しでも心が揺るがなかったかとか、うん、きっととても気になるし、信用信頼とは別の次元の話としてきっと、気が気ではないだろう。

 でも私は、ユキの親友である私は、その時ユキがどう感じたかなんて、わかっている。わかってしまっている。

 一番大きな感情は罪悪感だろう。もちろんそれだけではなくて、もっと色々と複雑な感情が入り交じっているだろうけれども、だいたいそんなもんだと、容易に想像がつく。私はそれを客観的な感情として見ていられるのだ。

 私は少し笑う。


「大丈夫よ、初美。ユキのことはよく知ってるし、信用しているもの」


 自信満々って感じに言い放ってみると、初美はどこかホッとしたように息を吐いた。

 私とユキの絆が崩れないことを確認して、安心したのだろう。

 それでユキの告白に関する話題は終わって、後は今朝の濃い過ぎる霧のこととか、霧にまつわる怪異的な噂話とか、昨日見たドラマの話だとか、どうでも良いような普通のどこにでもあるような雑談へとシフトしていく。


 雑談をしながら私は思う。


 そう、ユキが誰かの告白を受け入れるなんてことは、ない。ありえない。

 それを私は知っている。

 私という存在があるから――というわけではない。それは絶対にない。

 たとえ告白をしたのが私であっても、ユキはそれを受け入れることはしない。

 条件を付ければどうかはわからないけれども、少なくとも本気で、本心から相手の気持ちを受け入れるようなことはない。

 天地がひっくり返ってもありえない――とは言わない。

 何せ実際に世界は滅んでしまうなんて事実もこの世界にはありえるから。ついこの前、百年ほど前に、ちょっと。

 だからさすがにそれくらいのことが起きると、何かがどうにかなって、ユキが誰かと恋人同士になることも微粒子レベルで存在していたりなんかしちゃったりもするかもしれない。

 でも少なくとも、親友である私に対して、事前に協議を持ちかけてくれるだろうと――信頼している。

 だってもしユキに「恋人」と呼ばれるような人が出来てしまったら、異性の友人である私は当然その「彼女」さんの嫉視の対象になるだろうし、それを避けるためにはきっとユキからは距離を置かないといけないだろうし。


 そんなことを考えていたからだろうか。

 その日の放課後「ちょっと話がある」と言うユキに、空き教室に連れ込まれ、何の脈絡もなく放たれた言葉を、私は咄嗟に理解することができなかった。


「あのさ、ミオ、悪いんだけど……」


 全然悪いと思っていないような表情で、相変わらずどこか眠そうで、なんとなく可愛らしくも感じられる動作でユキは言ったのだ。


「椚木莉乃さんと付き合うことになったから、距離を置いてくれない?」


 私はまず始めに思った。


「え? 誰それ?」


 伏線も何も無く唐突に現れた登場人物がすべてをオチを持って行ってしまったような、何とも締まらない脱力感を覚えて、私はこくりと首を傾げるのだった。


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