第95話 メアリーの手紙3
その日から、この大計画は水面下で密やかに――だが可及的速やかに展開された。
イングランド艦隊を率いマゼラン海峡を通過し、太平洋に乗り出す――このあまりに大それた計画は、知られればたちまち、新大陸の交易を独占したいスペインの妨害に遭うことが分かり切っていた。
そのため、本当の目的は乗組員達にすら知らせず、目的地を偽って出航準備を進めることが決定した。
計画の核心部については、ごく一部の者たちだけの最高機密となった。
その動きの中心で私が忙しくしている頃、またメアリーからポツポツと手紙が届くようになった。
正直、忙しくて返事も書かずに流し読みすることが多かったのだが、ここのところ、どうにも手紙の内容に変調をきたしていた。
『恋がしたい』
おいおい何が起こった。
手紙を開いた途端、冒頭から無視できない内容が目に止まる。
夕方、疲れていた私は晩餐まで休息を取りたくて、1度寝室に引っ込んだのだが、タイミング良く侍女から手渡された手紙に、自然とベッドではなく机に向かった。
『お兄様もついに素敵な人見つけて結婚しちゃったし、メートランドも今、メアリーAに求婚してんのよ! あのインテリが、話聞いてると結構激しいの! この前、メアリーCも結婚したし、みんな幸せそうでずるい』
ちなみにメアリーAとかCとかは彼女の取り巻きの4人のメアリーのことだが、私に分かりやすいよう記号を使っているだけで、リアルでそう呼んでいるわけではない……と思う、多分。
モレー伯、メートランド、4人のメアリー……マリコにとって最も近しい人間たちが、どうにも結婚ラッシュであるらしい。
己が政略結婚で殺伐とした婚約話を持ち込まれている中、周囲が色恋づいているというのは、なかなかにキツイ。
私も同じ立場だったら心がすさみそうだ。
女王は持ち上げられるのが仕事みたいなところもあるが、実際の恋愛となると、立場上制限がかかるので、なかなか自由は利かない。
21世紀で、誰からも強制されてないのに干物をしていた私からすれば、それも通常運転だが、マリコのような恋愛に生き甲斐を感じてそうな女の子なら、なかなかつらい環境だろう。
……いやまぁ、私だって、結果的に干物になってただけで、進んで干物道を極めようとしていたわけでもないんだけど。
男の王の性豪ぶりは武勇伝になるが、女王や王妃には貞淑を求めるのがこの時代だ。
そのくせ、結婚しなかったらしなかったらで、女として何か欠如しているくらいの勢いで文句を言われるのだから、随分と都合のいい女性像である。
『恋がしたい!!』
マリコの叫び声が、遠いスコットランドから聞こえてきそうだ。
「恋なぁ……」
呟き、読み終わったメアリーの手紙を折りたたむ。
私もしたいなぁ……
なんて言ったら、ダメだろうか。
そんな疑問は、白い封筒と一緒に、鍵付きの引き出しへと放り込んだ。
~その頃、秘密枢密院は……
「これはこれはレスター伯」
「む、セシル……」
廊下で鉢合い、にこやかな笑顔で声をかけてきた主席国務大臣に、守馬頭はやや警戒したように立ち止まった。
「そういえば、スウェーデン王がメアリー・スチュアートに秋波を送り始めたようですよ」
ビクリ、と分かりやすく身体を強ばらせるロバートには気付いた素振りも見せず、セシルは世間話のように続けた。
「シャトラールの事件があって以降、スコットランドの廷臣達も、あの女王がこれ以上軽はずみなことをしでかして、値を下げてしまわぬうちに嫁がせようと、夫選びに真剣になっているようです。ですが困ったことに、メアリーが依然スペイン王との結婚に関心を寄せており、モレー伯も利を感じたようで、こちらの意向を無視して、密かにスペインとの交渉を再開したとの情報が……」
「それがどうしたというんだ!」
じわじわと外堀を埋めてくる圧力に耐えきれず、ロバートが叫ぶ。
だが、そんなロバートに対しても、セシルは笑顔だ。
「イングランド政府としても、メアリーの婚約者について、具体的な候補者を立てねばならぬ時期です。私も散々頭を悩まして考え抜いた結果、やはりここはレスター伯が適任ではないかと……」
「そ、そのようなことを、陛下が許すはずが……」
なんだかんだ言いつつも女王は自分を好きなはず、と絶対的な自信を持っているロバートの主張を、セシルが打ち砕く。
「陛下も『推薦状くらいは書いてやる』と仰っておられましたし」
「嘘だ!」
これについては、大分前に冗談ぽく言っていただけだが、決して嘘ではない。
慈悲深い女王がここにいれば、きっと同情を誘えるであろう慌てふためき方をしながら、ロバートが提案した。
「そ、そうだ、ダーンリー卿はどうだ! あの方なら俺よりよほど血統に申し分なく、なかなかの美男子だ!」
完全に身代わりにされた男の名を、セシルは一考した。
「ダーンリー卿ですか……」
とっさに、その名前が彼の口から飛び出した理由は察しがつく。
ダーンリー卿ヘンリー・スチュアートは、外国の求婚者に対抗する、エリザベス女王の結婚相手として、今最も注目されている男だった。
要するに、自分が見合いから逃げるついでに、ライバルを減らそうという算段だ。
この男は、そういうところだけ妙に計算高い。
ダーンリー卿は、17歳という若さではあるが、長身で、中性的な顔立ちの美男子だ。洗練された王侯としての物腰を持ち、外見だけを見れば、彼らの女王が好みそうなタイプではあった。
スチュアートの名が示すように、父方の系譜を遡れば、スコットランド王ジェームズ2世の血を引く貴族であり、同時に、母親がイングランド王ヘンリー7世の孫にあたるという、歴としたイングランド王位継承権保持者である。
ノーフォーク公爵の後、国内の婚約者候補としては最も有望視されており、とりわけ彼の母親が野心家で、若い息子の尻を叩いて女王に求婚するよう差し向けていた。
この時のために、母マーガレット・ダグラスは、息子の将来性に賭けて念入りな教育を施しており、乗馬、狩り、ダンス、演奏、詩作といった、宮廷貴族が求められるあらゆる所作に秀でたダーンリー卿は、間違いなく、宮廷第一級のプリンスだった。
だが、ノーフォーク公爵の一件以来、女王は国内で婚約者候補になり得る人間を出来るだけ近づけないようにしており、そのような努力も虚しく、これといった成果は上がっていない。
女王がどこまで気付いているかは定かではないが……セシルの見立てでは、ダーンリー卿は、彼らの女王の夫には、『すこぶるそぐわない男』だ。
セシルも常々、あの男を女王と添わせることだけは避けたいと考えていた。スコットランドにやっかい払いできるならそれも良かったが、押し付け先がスコットランド女王というのは、いささか相手が悪い。
王位継承権保持者同士の結婚は継承権を強める上、彼は国教会に帰依しているものの、実際はカトリックに傾倒していることは有名だった。
「ダーンリー卿……なるほど、彼を早々に女王の婚約者候補から外すために、結婚を推進するというのは良い案です。が、相手がメアリーでは適当ではありません。おそらく陛下も反対されるでしょう」
「そうか、精霊殿がそう言われるならそうなのだろう。残念だが別の手を考えよう」
「…………」
あっさり引いて去っていこうとするロバートの背に、セシルが不審な目を投げかける。
「レスター伯、あまりよからぬことを考えぬよう」
「ぎくぅ」
分かりやすく肩を揺らした背中に忠告する。
「貴方は謀略には向かない男です」
基本的に、自分と女王のことしか考えていない男だ。
また、目先のことに捕らわれやすいため、安直な行動に出て足をすくわれやすい。
敵に回すと簡単だが、味方にすると若干面倒くさい男である。
……もっともそんな人間でも、自分のことしか考えない人間よりは、遙かにマシだという現実もあるのだが。
例えば、ダーンリー卿のような。
「……まったく悪い虫が多くて困る」
そそくさと去っていくロバートの背の高い後ろ姿を見送り、セシルは小さく嘆息した。
宮廷第一級のプリンスを背後で操るのは、息子の出世に余念のない狡猾な母親だ。
ダーンリー卿自身、イングランド女王の婚約者としての外面的な条件は十分に備えている。
表立って反対する要素が乏しい以上、裏から手を回していく他はない。
野心渦巻く魑魅魍魎の謀略から、正しき女王を守るのも、女王の精霊たる者の使命だった。




