第94話 新世界への扉
フランシス・ドレイクの帰還から遅れること1ヶ月余り――
6月の終わり、ジョン・ホーキンズが戻ってきた。
奇跡的な帰還への喜びも束の間、ホーキンズからもたらされた報告は、耳を覆うほどに悲惨なものだった。
サン・ホアン・デ・ウルアからの脱出後、水と食糧の極端な不足から、ホーキンズの船ミニオン号に乗船していた100人ばかりが、メキシコの沿岸に上陸することを嘆願した。
だが、ウォルシンガムが手に入れたスペイン当局の情報では、その内の多数が栄養不足で死亡し、また生き残った者も捕えられ、異端審問にかけられた。
1人のプロテスタントの船員などは、信仰を捨てなかったため焼き殺したと、はっきりと報告されていた。
だが、ミニオン号に留まった乗員も幸運ではなかった。
餓えと疲労から次々と死に襲われ、船には累々と腐乱死体が転がった。
イングランド南海岸沖で哨戒船に保護された時、彼の船は沈没寸前にまで破損し、船内には死の空気が充満していたという。
生き残り、ホーキンズと共にイングランドの地を踏めたのは、僅か14人だった。
この陰惨な事件は、私たちに、そしてイングランド国民に衝撃と影を落とした。
「分かったのは、スペインがもはや、公平な取引を交わすに値しない国であるということだ」
惨い結果に沈む枢密院会議の場で、ドン・マルティンの騙し打ちに激怒するノーサンプトン侯爵が、厳しく非難した。
「初めから、財宝を返す必要などなかった!」
例の、宝物船漂着事件を蒸し返してくる。
ノーサンプトン侯爵は、初めから財宝の返却には強い反対を表明していた。そして、今回のホーキンズの航海の支援者の1人でもあるため、憤りもひとしおだろう。
今となっては、スペイン大使デ・スペの早とちりにより、アルバ公の誤解を生んで、財宝返却の道を閉ざされたというのは、結果的には良かったのかもしれない。
これで、ノコノコ護衛付きで財宝を返してあげた矢先に、紳士協定を破って女王の艦隊が壊滅させられたなどと聞けば、目も当てられないところだった。
まぁ、スペインとの関係悪化に宝物船の件が一役買っているので、どちらが先か、という話なのだが。
たらればが無意味な以上、現状を受け止めるしかないのが現実だ。
彼らの話を俯いて聞いていた私は、ふいに顔を上げ、セシルに問うた。
「ドレイクは?」
「部屋にこもっています」
「暴れ出さなかっただけ、あの男にも理性はあったようだ」
セシルの回答に付け足されたロバートの感想は、多くの人間が心配していたことだったが、私は別の感想を抱いた。
「そう……きっと、復讐の為に力を溜めているのね」
「…………」
呟いた私を、セシルが無言で見つめてくるのを感じたが、あえて反応はせずに会議を続行する。
「ホーキンズを死なせてはなりません。残りも14名も、治療に全力を尽くして。後の処遇は、私の方で決めます。女王は決して悪いようにはしないと伝え、彼らに生きる希望を持たせてやって下さい」
「御意」
彼らの船乗りとしての経験と無念の思いは買ってやりたかったし、再び活かせる道を斡旋してやりたかった。
その1つの選択肢として、私は彼らの回復度合いと技量を見て、復帰後に英国海軍の再建に携わらせることを考えていた。
いずれスペインと雌雄を決することになった時、彼らの復讐心は、きっと勝利への原動力となる。
枢密院会議が終わった後、私は足早に、懸念の対象だった男の部屋を訪ねた。
「ドレイク……」
寝台に腰掛けていた青年は、怪我で動けない間の慰みにと、私が与えた地球儀を膝に抱えていた。
「女王様」
こちらを向いたドレイクには、いつもより覇気がない。
だが、心配していたよりは、落ち着いているように見えた。……その内側までは、分からないが。
「ホーキンズは、王室付きの侍医たちを総出で治療にあたらせてるわ。すぐには無理かもしれないけど、きっと、また海に出れるようになるわ」
「そりゃそうだろ。ジョンが、海に出ないで生きいけるわけねーんだから」
当たり前のように言い切ったドレイクの口調はぶっきらぼうで、無理をしている感じがしたが、私は何も言わずにベッドの傍らに寄った。
私の方を見もせずに、くるくると膝の上の地球儀を回すドレイクの隣に立ち、同じようにその小さな世界を見下ろす。
この時期の世界地図は、まだ想像で描かれている部分も多く、あいまいな境界線や白紙の部分もたくさんあったが、ちゃんと日本も書き込まれていた。
「……今回の俺たちの航路」
ポツリと呟き、ドレイクはヨーロッパ西岸から西アフリカ沿岸、大西洋を渡りカリブ海に到達し、西インド諸島を回ってブリテン島へ帰ってくる道程を指でなぞった。
「まだこんなにあるんだな、行ってないとこ」
それは、地球儀全体の4分の1にも満たない範囲だ。
「そうねぇ」
彼のテンションに合わせて静かに呟き、私は手を伸ばして地球儀を半回転させた。
「私はココと、ココと、ココに行ったことがあるから、私の勝ちね」
アジアと、アメリカと、ヨーロッパを指す。
「はぁ? 嘘つくなよ女王様。それとも本の中でってことか?」
「ふふん、どうでしょう」
曖昧にはぐらかす。
信じないのが分かってるから言ってみただけだが、ドレイクが冗談交じりに会話を続けた。
「じゃあ質問。ここってどんな国?」
迷わず指をさされたのは――
「……日本……?」
「そ、黄金郷。ここ、1回行ってみたいんだよなー」
「…………」
虚を突かれ、黙り込んでしまった私の反応をどう受け取ったのか、ドレイクが意地の悪い笑みを見せる。
「女王様、行ったことあるんだろ?」
「あるわよ、勿論」
「へぇ」
すぐに胸を張って言い返すと、興味深そうな相槌が打たれる。
「そうねぇ、国土は狭いけど、山が多くて、水が豊かで、清潔な国よ」
「おお、それっぽい」
「……今より貧富の差が少なくて、疫病がほとんどなくて、戦争がなくて、王様がいるけど、貴族はいなくて」
1つずつ思い出しながら、現状と比較して分かりやすい差を羅列していく。
「人は自由に信仰を選べて、女性も社会に進出して……」
褒めすぎか?
現実はそれほど理想的な社会ではなかったかもしれないが、事実だけを羅列してみると、そういうことになるのだろう。
「いいことばかりじゃないけど、こうやって考えると、少しずつ良くなってるのかしら……」
いずれフランス市民革命によって絶対王政が終焉を迎え、ナポレオンの台頭によって全ヨーロッパに近代化の波が広がる。
その頃には、私が守っている――私が正しく守ることが出来れば――イギリスは絶頂期を迎えるだろう。
「女王様……?」
不思議そうなドレイクの声が耳を通り抜ける。
なんだろう。
少し懐かしくなってしまった?
それもある。が、同時に、ふと虚しさが襲った。
私もドレイクも、その未来へ続く大きな歴史の流れを作る、駒の1つなのだと思うと――
「……ドレイク、何がしたい?」
「え……?」
「あなたのやりたいことをやらせてあげる」
そういう聞き方をしたのは、今、私たちが、ちゃんと自分の意志で動いているのだと、確信したかったからかもしれない。
誰かの手によって動かされる駒ではなく、自分の意志でこの道を歩んでいるのだと。
「――復讐したい」
答えたドレイクの声は落ち着いていたが、私を見つめる深い海色の目には、暗い情念の灯が灯っていた。
「あいつらに目に物を見せてやりたい。この海はあいつらだけのものじゃねぇんだってことを、知らしめてやりたい」
言い募るごとに声は力を増していき、ドレイクの右手が、私の腕を掴んだ。
「女王様――俺、太平洋を渡りたい」
「……!」
それは……
「俺がパナマ地峡で探索を続けていた時、原住民の案内を受けて、ある場所に行ったんだ」
「ある場所?」
「熱帯の密林の奥深くだ。山の尾根まで来た時に、見張り用の木のてっぺんに登れば、全てを見渡せると言われた」
真っ直ぐ見つめてくるドレイクの言葉に惹き込まれ、私は息を飲んで彼の話を聞いた。
「俺が見たのは、2つの海だった。北の海――カリブ海と、南の大きな海――太平洋だ」
「太平洋……」
爛々と輝く青い瞳の向こうに、大海原が見えるようだった。
「初めて太平洋を見た。ぞっとする程青くて、果てしなかった。あの海を、俺は命を賭けて、このイングランドの船で渡りたいと思った」
やっぱり、彼は太平洋に魅入られる運命にあるのだろうか。
それは、抗えないほどの魔力となって、彼を歴史に残る偉業へと導くのだろうか。
半世紀前、マゼランの艦隊が初めて世界周航を成し遂げて以来、誰も達成していない、その偉業へと。
「世界の海を踏破する。誰も知らない未知の土地に、スペイン人すら立ったことのない場所に、アンタの名前とイングランドの国旗を掲げたい。教皇の名前もフィリペの名前もないところに、最初に」
「私の……?」
力強く言い切った言葉に聞き返す。
「あの海を見た時、真っ先にアンタに見せたいと思った。けど、それは出来ないから……アンタの名前を、俺が刻んでくる」
迷いのない言葉に胸が詰まる。
「それが俺の忠心――俺の本気度だって言ったら……アンタ信じるか?」
「……信じるわ」
信じる、というしかない。
それ以外に言葉が出なくて、頷くとドレイクが破顔した。
「帰ってきたら、もう2度とガキ扱いすんなよ?」
「約束する」
子供っぽい笑顔でそう言われると、自然と笑みが浮かんだ。
その笑みを1度消し、私はドレイクから数歩離れ、改めて向き直った。
「ドレイク、膝をつきなさい」
命じると、彼は何も言わずに地球儀を寝台の上に置き、私の目の前に跪いた。
凛と声を張り、見下ろした相手に毅然と命令する。
「フランシス・ドレイク、あなたに、2度目の航海の許可を与えます。英国の旗の下、新世界への道を切り拓くのです」
「――御意」
忠誠を求めて差し出した右手を、ドレイクは迷わず握り締め、食らいつくように指輪に口づけた。
いつまでも離そうとしない男の姿を見下ろしながら、私は、大いなる歴史の流れの持つ力を、背中に感じていた。




