第90話 ドレイクの帰還
玉座の前に跪いたドレイクの姿は、まさに満身創痍という表現が相応しかった。
左腕は骨折しているらしく包帯でおざなりに吊っており、今は右拳を床につけて、顔を伏せている。
血の滲む包帯で覆われた身体からは、それでもなお、慰めの言葉をかけるのも躊躇うほどの気迫が発せられていて、私達は固唾を呑んで彼の言葉を待った。
「――我々の船団は、プリマス港を出航後、当初の予定通りカナリア諸島を通過し、西アフリカ沿岸を目指しました。途中、ヴェルデ岬でポルトガルの攻撃を受けましたが、これを拿捕し、西インド諸島へと同行させました。我々は52日間かけて小アンティル諸島のドミニカに達し、食糧を得るためベネズエラ沖の小島マルガリタへと向かいました」
はっきりとした声でドレイクが伝えてくる報告を、一言一句聞き逃さぬよう、食い入るように耳を傾ける。
「新大陸へと到達した俺は、ホーキンズ船長の命を受け、1隻の船を率いてリオ・デ・ラ・アチャへ先行し、交渉しましたが、過去の取引の実績を無視して貿易を拒否されたため、戦火を交え、街を占領することに成功しました。ここでは和議を結び、利を得ましたが、次に向かったサンタ・マルタでは、より平和的な方法で無血降伏と貿易許可を得、十分な成功を収めました」
彼の報告は、途中まで順風満帆にいっていた航海を誇るような響きがあったが、1度言葉を切った後、屈辱に耐えるように奥歯を噛み締めた。
「……そこで食糧も尽きてきたので、西カリブ海からフロリダ海峡を経て帰路につこうとしたのですが、激しい嵐に見舞われ、やむなく航路を変更して、ベラクルスのサン・ホアン・デ・ウルアに着港しました」
サン・ホアン・デ・ウルアは、メキシコのベラクルス港付近の島に建設された要塞で、今は、事実上のベラクルス港となっているらしい。
私がドレイクが戻る前に聞いたのは、そのサン・ホアン・デ・ウルアでスペイン艦隊の強襲を受け、彼らが壊滅したという報告だけだ。
「サン・ホアン・デ・ウルアは、スペイン本国へメキシコから採掘した銀を出港する主要な港……一悶着ある可能性がありましたが、幸運なことに、彼らは俺たちの船をスペイン本国の船団の一部と勘違いして、平和的に迎え入れてくれました。我々はその幸運が続くうちに、船を修繕して食料を供給し、すぐにでも発とうと考えていました。ところが――」
いよいよ事の真相に迫る語り口に、私は玉座から身を乗り出した。
「出航の準備が整う前に、彼らが本来待っていたスペイン船団が到着してしまった」
最悪な鉢合わせだ。
「我々は、そのスペイン船団に乗船していた、新しいメキシコ副王ドン・マルティン・エンリケと交渉し、約束を取り交わしました。こちらが彼らの入港を妨害しない代わりに、我々の船や船員には危害を加えないと――俺たちはそれを信じて、互いに人質を交換し、食糧補給と船体の修復を続けることを決めた。だが……」
そこで言葉を切ったドレイクの鮮やかな碧眼が、憎悪に燃え上がった。
「初めからドン・マルティンは、約束を守る気なんかなかった……!」
吐き捨て、拳で床を殴りつけたドレイクが、血が滲むような声を絞り出した。
「……こちらに送られてきた人質はわら人形でした。奴はベラクルスに最強の軍隊を派遣するように命じて、武装させた兵士を乗船させないという約束も反故にして、俺たちの船団を強襲してきた!」
完全な騙し討ちだ。
「すぐに4隻が沈められ、残ったのは俺とホーキンズの船だけでした。その上、天候が悪化し、嵐で視界も失ってしまった……ホーキンズの船とはぐれた俺は、傷ついた船員を乗せて命からがら、独自に帰路につきました……ホーキンズの船が、どうなったは分かりません。これ以上、あの場所にいたら、俺の船まで沈められていた!」
そう言いながらも、かろうじて動かせる右手で、自らの顔を掴んだドレイクの両眼からは、涙が迸った。
それまで、努めて抑揚を殺していた声に波が生まれ、17歳の若者の激情が顔を出す。
「もしかしたら、ホーキンズの船はとっくに沈められていたのかもしれない……けど、もし、あの場で、まだ俺の船を探して、助けを待っていたとしたら……俺は、ジョンを置き去りに……!」
流れる涙を隠すように顔を覆い、懊悩するドレイクは、尊敬する従兄を見捨てた自分を責め苛んでいた。
満身創痍の姿で、背中を丸めて跪くドレイクに、私はたまらず玉座を立ち、駆け寄って肩を抱いた。
「ドレイク……! 自分を責めないで、ドレイク」
彼が、どれだけ従兄のジョン・ホーキンズを敬愛していたかは知っている。
互いに消息すら不透明な状況で、ギリギリまでホーキンズの船を探し続け、船員の命を優先して本国に舵を切ったドレイクの決断は、どれだけ良心の痛みが伴うものだったろう。
「あなたは、あなたに出来る最大限のことをしました。あなたは、あなたの力の及ぶ限り、船員を守って、船を守って、故郷へと帰ってきた……それは間違ってない。絶対に、間違ってないわ」
この状況で、船員65名を生存させ、連れ帰って来たのは奇跡に近い。
1つ判断を誤れば、嵐によって海の藻屑になるか、スペイン船に拿捕され異端審問の火刑に処せられた状況で、彼が自分に託された船員を守って帰ってきたことを、誰が責められるだろうか。
だが、彼は自分を責めていた。
「あなたのしたことは間違っていない……人事を尽くして天命を待つのです。ジョン・ホーキンズはきっと帰ってくる。祈りましょう、ドレイク」
「女王様……」
虚ろに呟いたドレイクの手が、縋るように私の肩にかかる。
掴んできた手は震えていて、痛いほどに力を込められたが、私は何も言わず、彼の方から手を離すのを待った。
「ドン・マルティン……」
震えが収まり、その手が離された時、ドレイクは俯いたまま、低く唸るような声でその名を呼んだ。
「絶対に忘れない……紳士協定がどんなものか、知らしめてやる……」
そこに、底知れぬ憎悪と呪詛を感じ、死線をくぐり抜けたこの青年の中に、生涯消えぬ傷が刻みつけられたのだと悟る。
「……女王様! 俺にもう1度チャンスを下さい!」
そして、顔を上げた青年の目には、強い決意の炎があった。
「今度こそ成功させます。俺は、この屈辱を絶対に忘れない。必ずや、スペインの鼻をあかしてやります! 今すぐにでも、船を……うぐっ……!」
「ドレイク……!」
身を乗り出したドレイクが、激痛に顔を歪めてうずくまるのを、私は慌てて支えた。
港からここまで、ろくに治療も受けずに馬を飛ばしてきたらしいが、無茶苦茶だ。
興奮する彼を落ち着かせるように背中を撫で、言い聞かせる。
「ええ。私もこの裏切りを、絶対に忘れません」
彼は恐れている。
見捨てられることを恐れ、必死に虚勢を張る若者の努力が見ていて辛く、私は何とか安心させようと、小さくうずくまる大きな身体を抱きしめた。
「フランシス・ドレイク。私はあなたの成功を、この世界で最も強く信じている者です。あなたに必ず機会を与えると約束します――紳士として、淑女として。……だから、お願い……今はどうか、身体を休めて」
包帯まみれの身体で慟哭する姿はあまりに痛々しく、私は懇願した。




